未来への追憶 第五話 - 05

* * *


 レイは一度拠点の自分の部屋に戻って私服に着替えると、SGAの本部を経由して外へ出た。本部のだだっ広いエントランスの先にある自動ドアを抜けたとき、ちょうどエントランスの脇にある地下駐車場の入り口から数台の車が滑り出てきた。黒い車の列はレイの横を通り過ぎて左折し、前方の大通りを走る車の流れに合流する。確か、あれは現在調査部が使用している車種だな、などと考えながら、レイは本部の建物前のロータリーを横切った。
 歩きながら、行く手に高くそびえるビル郡のさらに上空を見上げる。青く澄み切った空には小さな雲がいくつか浮かんでいるだけだった。
 別段はっきりとした予定があったわけではないが、レイはまず、現在の事件を担当する前に暮らしていた家へ足を向けた。以前に健二を連れて訪れたナイトクラブ『ラ・スパツィオ』もその建物内に持つ複合施設だ。その中にある集合住宅の一室で、レイの部屋は賃貸借契約を結んで借りているものだったが、SGAからは家賃の七割に相当する住宅手当を支給されているため、ほとんど使っていない今でも契約は継続している。以前住んでいた家を残しておくことで、阿久津賢士に現在の居場所を特定されにくくするという目的もあった。
 何基ものエレベーターが並ぶホールに到着すると、居住エリア用のエレベーターが下りてくるのを待ってから、まっすぐに自分の部屋がある二十二階へ向かう。このフロアは単身者用の部屋しか無いため、昼間のこの時間帯は皆仕事に出かけているのか、絨毯の敷かれた共用廊下は静まり返っていて、人の気配は無かった。
 生体認証でドアのロックを解除する。部屋の中に入ると、途端にむっとこもった空気に全身を覆われて息苦しくなり、レイは顔をしかめた。おまけに、天気が良く気温も高いせいで、室内はかなり暑くなっている。
 窓を開けて久しぶりの換気をし、長く活躍の機会を与えられていなかった清掃ロボットを稼動させて、部屋の掃除に取り掛かった。掃除といっても、床の塵を取ったり窓を拭いたりするのはロボットの役目で、レイの仕事はいらなくなった物を整理して処分したりするのが主だ。さして広くもない1DKの部屋なので、キッチンやバスルームを含めても、掃除は一時間ほどで終わった。
 次にどうするか考えるためにも、コーヒーを入れて休憩していくことにする。ちょっと部屋の外に出れば、エレベーターで十階ほど上下に移動するだけで、ほっと一息つけそうなカフェなどいくらでも見つかる。だが、内装に凝った洒落た店に人で入り、ゆっくりと茶を楽しむことに興味が持てないレイにとっては、自分で入れたインスタントコーヒーで簡単にのどを潤し、カフェインで頭をすっきりさせるだけで充分だった。
 窓辺に置いたベッドに腰を下ろし、二十二階からの眺め――とはいえ、周囲にひしめく高層ビル群のせいでたいした眺めでもないのだが、拠点の窓から見る景色とはまた違った魅力はある――を楽しむ。次いで、積もった埃が除かれたことと換気の効果で、爽やかな空気に満たされている気のする部屋を見回してみた。
 わずか一年ほど前までは最もくつろげる場所であったはずの自分の部屋も、SGAの拠点で過ごす日々が続く今ではどこかよそよそしく、馴染みの薄い場所にさえ感じる。
 阿久津賢士の事件を担当するようになって以来、ここにいるとどうしても昔を思い出すせいか、つい寂寥感に襲われそうになるのが常だった。職場や外で誰かと一緒にいるときはそんなことはないのに、今もこうしていると、日差しの足りない部屋の隅から滲み出た哀愁がひたひたと侵食してくるようで、感傷的な気分に陥りそうになる。浮上しかけたそんな気持ちごと飲み下すように、レイは残ったコーヒーを一気にのどに流し込んだ。
 マグカップを片付けると、夏物の衣類など、必要なものを何点か鞄に詰めて再び街に出かけた。目的も無く、通りをぶらぶらと歩く。平日だが、やはり街の中心部は人が多い。洋服やジュエリーのブランド店、飲食店など様々な店が並ぶ歩道は、友達同士おしゃべりをしながら、時折楽しそうな笑い声を立てて歩く若者、ウインドウショッピングをする人々、そして彼らに付き従うロボットなどで溢れていた。レイも左右で賑わう華やかな店舗に何気なく目をやりながら、ゆったりとした足取りで通りを進んだ。
 思えばこのところ、仕事が忙しくてちゃんとした休日らしい休日はあまり取れていなかったし、オフのときも健二がいることから、結局はほとんど拠点にいることが多く、こんな風に一人で時間を過ごしたのは久しぶりだった。
 昔ながらのアーケード商店街の入り口がある辺りに差し掛かったとき、ふと前方の小さな店が目に留まった。ショッピングモールや、家庭用ロボットの量販店――派手な看板とBGMで通行人の関心を引いている――に気を取られていれば見落としてしまいそうな、実に小ぢんまりとした店だ。客席と呼べるようなスペースは無いに等しい狭い店内には人間の店員が一人立っていて、機械ではなく、人の手で作ったクレープを販売している珍しい店だった。
 それを認識するや、不意に記憶のふたが開き、かつての光景が押し寄せるかのような勢いでレイのまぶたの裏によみがえってきた。
 あれは、歩道沿いの桜並木が街を薄紅色に彩っていた春だった。今日と同じようにこの道を歩いていたとき、レイは着ていたトレーナーの袖を軽く引っ張られて足を止めたのだった。

「レイ」

 ふわふわとした綿雲のような、柔らかい響きの声に名を呼ばれて振り返ると、そこにはシンディー・オルコットのはにかんだような笑顔があった。そのときの彼女が、ライムグリーンのカットソーに白のロングスカートという服装だったことまでよく覚えている。淡い色合いに、自然にウェーブがかった長い赤毛がよく映えていた。

「あれ、食べたい」

 言いながら、彼女は通り過ぎたばかりの背後の店の一つを指差していた。それが、今、レイの目の前にある小さなクレープ屋だった。

「クレープ。食べたい」シンディーは幼子を思わせもする、たどたどしい調子で繰り返した。「一緒に食べよう」

 そのとき、シンディーとは反対側――レイの右隣にいたのが日向虎太郎だった。彼も少し遅れて立ち止まると、レイと同じくシンディーの指先が示す方向を目で辿った。
 記憶の映像は徐々に鮮明になり、今やレイの脳裏にありありと浮かんでいる。

「むう、甘味か……」

 ハーフリムの眼鏡をかけていた虎太郎が、もともと細い目をさらに細め、妙に芝居じみた口調で唸る様子もはっきりと思い出された。

「俺は辛党なのだが……しかし、シンディーのためなら」

 普段は必要以上によく通る大きな声で話すくせに、最後の「シンディーのためなら」の部分だけ、消え入りそうな小さな声だった。彼のまっすぐに伸びた長髪が風になびいたとき、レイのものと同じピンクのリボンが、毛先に近い位置でその髪を束ねているのが見えた。
 あのときは、レイがシンディーにクレープを買ってやったのだった。そして、虎太郎とともに自分の分も購入した。
 三人は生クリームやフルーツがたっぷり挟まれたクレープを食べながら、また肩を並べて歩道を歩いた。

「ううむ、やはり甘いな」

 虎太郎はあまり得意でないらしい洋菓子の甘さに四苦八苦して、何度かしかめ面になりながらクレープを頬張っていた。だが、レイやシンディーと同じものを食べること自体は楽しんでいたように思う。そんな彼の口の端にクリームがついているのを見て、シンディーが笑っていた。
 友達は他にも大勢いたが、レイとって心から親友と呼べるほどの存在は彼らだけだったかもしれない。
 過去を思い出すうち、いつの間にか歩道の真ん中で立ち止まっていたことに気がついたレイは、再び歩きだした。クレープ屋の前を通り過ぎ、さらに先へ進む。足を動かすにつれて、次々と変化していく周りの景色は確かに目には映っているのに、視界からの情報は頭を素通りするかのように入ってこない。レイの意識は未だ、追想のイメージの中にあった。
 虎太郎は独特の堅苦しいしゃべり方ゆえに、初対面ではとっつきにくさを感じさせはするかもしれないが、親友の贔屓目を差し引いても、決して人に不快な印象を与えるタイプではない。生真面目で融通が利かないところはあったが、極端な真面目さと素直さが空回りした結果、どこか抜けている面も持ち合わせていた。本人はふざけているわけではないのに、その言動や行動が周囲の笑いを誘って場を和ませることも度々あり、そんなところに好感が持てた。
 そして、彼は色恋事に関しては非常に奥手で初心だった。彼がシンディーに恋心を寄せていたことは傍から見ていても容易にわかるほどだったが、本人は遠まわしに好意を表す言葉さえはっきりと口にできない、そんな男だった。
 だが、限りなく不器用ではあっても、虎太郎のシンディーに対する気持ちが一途で真剣なものであることは、彼の一番近くにいたレイが、誰よりもよく理解していた。
 適当に歩いていると、それほど大きくない交差点までやって来た。歩行者用の信号は赤だ。向かいの通りに渡るために信号が替わるのを待つことにしたが、特にそちらを目指す理由があったわけでもないので、なんとなく横断歩道から少し下がったところで足を止めた。
 道路を挟んだ向かいには公園が見える。平日だからか子供の姿はあまり無く、散歩をしている人がちらほらといる程度だった。くっきりとした明るい緑に色づいた芝生が、日光をまばゆく照り返している。
 この公園にも、三人でよく訪れた。若い三人には金銭的な余裕もあまり無く、毎度飲食店で金を使うわけにもいかなかったので、共に暇を潰すのには丁度いい場所だったのだ。
 シンディーから虎太郎と揃いのリボンをもらったのも、確かこの公園だった気がする。あれはいつだったか。正確な時期の記憶はすでにぼやけていたが、レイと虎太郎がSGAに入ったばかりの頃だったのは覚えている。おそらく、いつものように三人で木陰に集まって、他愛のない無駄話に興じていたときだっただろう。

「はい、これ」

 突然、彼女は期待の滲んだ微笑を浮かべながら、レイと虎太郎に向かって両手を差し出してきたのだ。彼女の手のひらには、淡いピンク色をしたリボンが二本乗っていた。
 レイも虎太郎も、彼女の唐突な行動の意味をすぐには掴めずに、目をぱちくりさせていたはずだ。レイはシンディーの手にあるリボンと、彼女の顔を交互に見た。

「くれるのか?」

 ようやく彼女の意図を察してたずねると、シンディーは「うん、あげる」とうなずいて、満面ににこりと笑みを広げた。

「レイも虎太郎も、二人とも、髪の毛長いから」
「ああ、髪に結ぶためにくれんのか。確かに、うっとうしいよな」

 言いつつ、レイはシンディーの手からリボンを一本つまみ上げた。虎太郎もそれに続き、遠慮がちに手を伸ばすと、もう一本のリボンを壊れ物を扱うようにそっと指先で持ち上げ、自分の手のひらの上に移動させた。
 あの頃のレイと虎太郎は、仕事やスポーツをするとき以外は長髪をひとまとめに結わえておらず、そのまま背中に垂らしていた。

「綺麗なリボンだな。これ、どうしたんだ?」レイは、わずかに光沢のある細いリボンを眺めながら聞いた。
「家にあったの。たぶん、前にアマンダと一緒に、買ったやつ」
「そっか。でも、俺がつけてたら変じゃねえかな? 俺みたいな男がピンクのリボンってのは、さすがにちょっと恥ずかしいぜ」

 実際に照れくさかったため、シンディーを傷つけないよう気遣いながらも、正直に自分の感想を告げてみた。

「いや、俺はうれしい。すごくうれしいぞ、シンディー」

 間髪入れずに、虎太郎がレイの語尾に被せるような勢いで言った。彼は大真面目な顔でシンディーを見つめ、わずかに頬を上気させながら、ひどく仰々しい調子で続けた。

「その……ありがたい。これは大切に使わせてもらおう」

 虎太郎は物が何であれ、シンディーからプレゼントをもらったという事実に感動を覚えるほどうれしかったようだ。学生時代からの付き合いであるのに、レイたち三人はそれまで、お互いにプレゼントを贈り合うというようなことは特に無かった。誰かの誕生日のときなども、いつもより奮発し、多少豪華な食事を囲んで祝うくらいだったので、そのためもあるのかもしれない。
 その様子が微笑ましくも、態度が大げさなせいでおかしくもあり、レイはくすりと笑いが洩れてしまうのを堪えきれなかった。幸い、シンディーと、彼女がくれたリボンに全神経が注がれていたらしい虎太郎には気づかれなかったようだったが。
 レイも自分の感情などはさておき、虎太郎にならって感謝の気持ちを伝えることにした。

「もちろん、俺もうれしいぜ。ありがとな、シンディー」

 二人から礼を言われた彼女は心底うれしそうに、にこにことしていた。
 そのときからずっと、レイも虎太郎も、シンディーからもらったリボンを髪に結んでいる。最初はやはり恥ずかしかったし、他の友達や同僚にからかわれたこともあったが、毎朝、必ずリボンを髪に結んで家を出ることが、気づかぬうちに当たり前になっていた。いつしかこのリボンが、自分たちの繋がりを示す象徴のようにさえなっていたような気がする。
 シンディーは喧騒に満ちた商業施設や飲み屋よりも、優しく穏やかな時間が流れているこの公園で過ごす方を好んでいた。彼女は、さえずりながら木から木へと羽ばたく小鳥を楽しそうに目で追い、時にはシロツメクサの上を飛んで寄ってきた蝶に喜び、自分の手で羽を休ませようとするように、その細い指を伸ばした。
 彼女はどこまでも純粋で、いつもあどけない表情で柔らかに微笑みかけながら、小首をかしげてレイや虎太郎の話に耳を傾けていた。彼女の子供のような仕草は、一人の女性としての魅力をとうに持ち合わせている外見には明らかに不釣り合いだった。
 虎太郎はそんな彼女が可愛くて堪らないようだったが、レイは彼女に恋をしていたわけではない。触れ方や力加減を少し間違えるだけで、ガラス細工のように儚く壊れそうな彼女のことを、放っておけなかった。日常生活の中に潜むささやかな脅威や悪意から、無垢な心を汚すすべてのものから、誰かが彼女を守らなくてはならない。そして、その役目を果たすのはきっと自分なのだと、レイは思っていた。虎太郎ではなく、自分なのだ。
 レイにとってシンディーは、まるで幼い妹のような存在だったといえる。そして、シンディーがいることによって、レイと虎太郎の友情はより深く、強固なものとなっていた。
 今も、レイの髪には彼女がくれたリボンが結ばれている。今となってはとても大切なものとなった、可憐なピンクのリボン。彼女と虎太郎を無事に助け出すまで、これは絶対に手放すことができない。
 そのとき、間近からの「おい」という声とともに肩を掴まれ、はっと我に返った。回想は唐突に途切れて消え去った。レイは、肩に置かれた相手の手を振り払うような勢いで振り向いた。
 レイのすぐ横に立っていたのは劉だった。よく見知った相手の姿に安堵するが、同時に戸惑いを感じる。いつの間にこんなに近づいてきていたのだろう。レイが思わず「びっくりした」と口に出してしまうと、劉は手を離しながらおかしそうに笑った。

「悪い悪い、何回も呼んでるのに全然気づかないからさ」
「そうだったんすか?」
「ああ。すごい近くで声かけてるのにまったく聞こえてないみたいだったけど、どうしたんだよ?」
「すいません、ちょっと考え事してました。……劉さんはなんでここに? 仕事中っすか?」

 今度はレイの方がたずねながら、改めて劉とその周囲を見回した。彼は、調査部が任務の際に着用する黒のスーツを着ている。一見したところ誰かと一緒ではないようで、一人でレイの目の前に立っていた。
 しかし、劉は向かいの通りを指差して言った。

「調査の任務だよ。僕の担当じゃないけど、調査部に依頼が来てる別の事件の関係で、そこの旅行代理店にちょっと用があってな。たいした仕事じゃないから、今年の春から入った後輩に任せることになるんだけど、まだ慣れてないからさ。その前にいろいろ教えなくちゃいけないんだ」

 レイは劉が指差した方向に目をやった。なるほど、確かに調査部と思しき男女が数人、道路を挟んだ斜め向かいにある小さな旅行代理店の店先に立っているのが見える。
 劉は「で、その役目を僕が頼まれたってわけだよ」と付け足した。

「どこの部署も人手不足っすね」
「ああ。まったくだ」

 劉は大げさに肩をすくめてみせたものの、強く不満に思っているようには見えない。

「俺が昼過ぎに本部を出るとき、ちょうど調査部の車も街に出て行くところを見ましたよ」
「昼過ぎだったらたぶん、僕たちの車だな。レイは今日はオフだったんだな」
「はい。午前中のミーティングだけ参加しましたけどね」

 今日の拠点でのミーティングには、劉は参加していなかった。

「そう言えばさ、さっき――」

 声のトーンを高くして何かを言いかけた彼は、しかし、なぜか途中で口をつぐんでしまった。視線もわずかにレイからずらしている。いったい、どうしたというのだろう。
 彼の鋭い目は、レイの背後を見ているように思えた。怪訝に思い、レイもその視線を追うように後ろを振り返ってみたが、そこには通りを行き交う大勢の人々の姿があるだけで、特に目を引くような気になるものは見当たらなかった。

「どうしたんすか?」レイは顔を前に戻して聞いた。
「いや、なんでもない」

 わずかな間があった後、そう返ってきた。レイは首をひねる。
 一瞬、何かを見間違えでもしたのだろうか? 先ほどの彼の表情は、明らかに何かを見つけたときのものだった。劉にとって気を取られるものが、レイの背後にあったことは確かだろう。それも、おそらく重要なものだ。それなら、レイに隠すわけは何なのか。もしかすると、彼の仕事――阿久津賢士の事件以外の調査も彼は手伝っていることがあるが、そちらの事件の情報なら、基本的にその事件の捜査担当者以外には詳しく話すことはできない――に関することかもしれない、とレイは思った。もしそうであるならば、ここでしつこく聞くのははばかられる。
 もう一度自身の背後と周囲を確認してもやはり何も見つけられなかったため、レイはひとまず彼の言葉を素直に受け取った振りをして、ついさっき彼が口にしかけていた話の続きの方を促すことにした。

「今、何か言おうとしてましたよね」
「あれ、そうだったっけ? なんだったかなあ。たぶん、たいしたことじゃないから別にいいよ」

 明るい笑顔を浮かべ、いかにも適当そうに言ってのける能天気な様子はいつもの彼であるのに、そこでも何か違和感を感じた。

「それより、今からどっか行くのか?」

 もやもやとするものを言葉としてまとめる前に話題を変えられてしまい、そのことについて考えることも、直接問いただすこともできなくなってしまう。

「せっかくの休みだから飲みにでも行こうと思ったんですけど、あいにく友達とは都合が合わなくて。チームのメンバーもみんな今日は遅くまで仕事ですから、どうしようかと思ってたとこっす。たぶん、もう少しぶらぶらしたら早めに拠点に戻ると思います」

 苦笑を交えつつ答えているうちに、胸に引っかかっていたような疑問は薄れていく。

「SGAに入ってからは、学生のときの友達とかとは予定が合いづらくなって、なかなか会えなくなりましたね。今の事件を担当するようになってからは、全然です」
「最近は特に忙しいからな。ここのところ、僕ともしばらく一緒に飲みに行ってないよな」劉は考えるように言ったあと、にっと笑って、寄りかかるように再びレイの肩に手を乗せた。「今日は遅くなりそうだから無理だけど、また仕事の後にでも付き合えよ」
「もちろんですよ。おごってくれるんすか?」
「それは無いな」

 即座に、わざとらしい真顔を作って否定される。

「いや、おかしいでしょ! 部署は違っても先輩なんですし、給料も俺とは比べ物にならないくらい貰ってるんですから、たまにはいいじゃないっすか」

 レイも彼の冗談に乗って笑いながら、突っ込みを入れる。

「しょうがないなあ。気が向いたら、そのうちな。なーんて……おっと、そろそろ仕事に戻らないと」
「あ、そうっすね。お疲れ様です」
「ああ。じゃあな」

 劉は一度ひらりと軽く右手を振ると、車の流れの止まった道路を渡って旅行代理店の方へと戻っていった。レイはその細い背中を見送った。先ほどの違和感については、どうしても気になるのならば、また後日聞いてみればいいだろう。
 自分の部屋を出る前から暗く翳りかけていた気持ちは、いつの間にか晴れていた。
 思い返せば劉の言った通り、最近は捜査チームのメンバーと飲みに行くことも減っていた。阿久津賢士の犯行は激化していたし、ついこの間までは重大な作戦の前だったのだから当然だ。しかし、このまま阿久津賢士の逮捕に近づいていけば、また皆と酒を酌み交わしながら気楽に笑い合える日常が戻ってくる。作戦の第一段階はすでに成功しているのだ。
 すべてを終えたあとのことや、健二のタイムスリップについてはまだどうなるかわからないが、健二のこともまた、バーやクラブに遊びに連れて行ってやりたいとレイは思った。何もかもに馴染みの無い世界で一人不安に苛まれ、心から落ち着くときなど無いであろう彼は、レイにとっては見慣れたこの時代の店や技術を目にして感動を覚え、とても楽しんでいたようだった。例え街に連れ出すことが無理でも、拠点に全員が集まれば、健二も交えて事件の解決を祝うことはできる。いや、事件が解決したのなら、健二だって堂々と外に出ることが可能になるのではないか。そして、その頃にはきっと、またかつてのように虎太郎やシンディーとも――
 そんな想像を巡らせるうちに、レイの口元は知らずほころんでいた。自分たちは今、近くで待ち受けている明るい未来に向かって歩んでいるのだ。暗い気持ちになどなっている場合ではない。想像が現実となるときまで、まだあと少し、しっかりとがんばらなくてはならない。
 レイは希望を胸に、活気溢れる街中をもうしばらく散策するため、とっくに青信号に切り替わっていた横断歩道を足早に渡り始めた。


* * *


 前回の事件に関するミーティングからさらに数日が過ぎたが、拠点での穏やかな日常に未だ変化は無かった。
 健二は昼食を終えたあと、リビングのソファに座って、今ほどレイから渡されたばかりの資料を見ていた。状況が少し落ち着いたことで、ようやく阿久津賢士のプライベートな部分について知ることのできそうな資料が無いかたずねる機会があり、数冊の雑誌を渡されたのだ。雑誌の中に阿久津賢士のインタビュー記事が載っていると説明したレイは、それらを健二に手渡しながら、「こんなもんしかねえから、参考になるかはわかんねえけど」とすまなそうに言い添えた。
 食事はレイとゆかりとアマンダの三人と一緒にとったが、彼らはすぐには本部や自分の部屋へは戻らず、少し離れたダイニングテーブルの方に集まって話をしていた。
 さっそく読み進めた雑誌の内容は、医療の分野などで、人体に機器を埋め込む治療法を取り入れることの必要性について、阿久津賢士が語っているインタビュー。そして、今後すぐに実用化されるであろう新型のロボットや、人間に限りなく近いアンドロイドの開発など、彼の――阿久津コーポレーションの持つ技術について紹介されている記事。それらはこれまでに見せてもらった資料と大差の無い内容で、健二はいささかがっかりした。彼の詳しい生い立ちや家族関係、性格などについて知ることはできない。SGAが再度集めた資料でもここまで情報が得られないのは、さすがに不自然にさえ思えるほどだ。
 ふと、廊下に人の気配がして顔を上げると、ちょうど入り口から劉が入ってきたところだった。彼は「やあ」と軽く健二に挨拶すると、SGAメンバーの誰かに用があるのか、健二が挨拶を返す間も無くソファの横を通り過ぎ、レイたちのいるダイニングテーブルの方へ足早に歩いていった。
 仕事の話なら邪魔をしてはならないと思い、健二は彼らの交わす会話を聞きながら、また雑誌の文字を目で追うことにした。

「あれ、劉さん。またサボりっすか?」

 レイがふざけた調子で言うのが背後から聞こえた。

「違うって。まあ、捜査部にいる方が居心地が良いのは確かだけど」
「そうなの?」アマンダが少し不思議そうにたずねている。
「ああ。部署ごとにだいぶ雰囲気が違うからな」
「劉先輩ったら。別に、調査部もそんなに悪いところじゃなかったじゃないですか」声に笑いを滲ませながら、ゆかりが言う。「確かに、ちょっと硬い雰囲気はありますけど」
「だろ? そこが苦手なんだよ。あの部屋にずっといると、息が詰まりそうになるっていうか……」

 大げさに嘆くような声音からは、どこまで冗談なのかが掴みにくい。

「調査部は他の部署より、重大な機密情報や個人情報を扱う機会が多いですから、硬い雰囲気はそういった影響もあるのかもしれませんね」
「まあ、それもあるな。それに、調査のためにそういうデータを見るときって、部署内で閲覧の申請を出したりとか、面倒な手続きが必要だろ? 調査以外の目的でデータを使おうとしたりする奴がいないかチェックするためだけど、そのせいで、どうしても同僚の行動をお互いに監視しなくちゃいけないようなところも多少あるし。それでピリピリするっていうのもあるかもな」

 そこで、ふと思い出したというように、アマンダが「あ、そっかあ」と声を上げた。

「そう言えば、ゆかりは元々調査部だったんだよね」
「ええ。そんなに長い期間じゃなかったけれど」
「入ってきたばかりの頃は、僕が仕事を教えてたんだ」

 そう言った劉の声は、心なしか得意げだった。

「ふふふ、そうでしたね」

 ゆかりが以前は調査部に所属していたというのは、健二は初めて耳にする話だった。だから彼女だけ、劉のことを今でも「先輩」と呼んでいるのだろうか、と健二はぼんやりと思った。
 視線こそ今も開いた雑誌のページに注いだままだったが、健二の意識はほぼ完全に、後ろから聞こえてくる会話の方に向いていた。

「ところで、レイにちょっと聞きたいことがあって寄ったんだけど」

 突然、真面目な声になった劉が切り出した。

「俺にっすか?」
「ああ。この男に見覚えは無いか?」

 彼はレイに向かってたずねながら、何か写真などの資料を見せていると察せられた。

「いや……」レイは少し考えるような間を置いてから答えた。「たぶん、無いと思うんすけど……この人がどうかしたんすか?」

 健二は好奇心に打ち勝てず、そのときにはすでにソファの上で体をひねり、背後を振り返っていた。やはり、劉がホログラムディスプレイを空中に投影しており、皆がそれを囲むようにして立っている。ディスプレイには何が映っているのか、手前にいるレイやゆかりの背中に阻まれ、ここからではよく見えない。
 健二は立ち上がると、ゆっくりとそちらに近づいていった。

「いや、まだ僕の気のせいって可能性もあるんだけど、実はさ――」

 体を傾けてレイとゆかりの背後からそっと覗いてみると、証明写真のようなバストアップの人物写真と、文字のデータがその横に並んで大きく表示されているのが見えた。
 写真の人物の顔を視界に捉えた瞬間、健二は自分の目を疑った。反射的に思わず「あー! この人!」と、大声を上げてしまう。全員の視線が一気に健二に集まった。

「知ってるのか?」

 劉が驚いたように目を見開いている。彼の手元のホログラムディスプレイ、そこに表示されていた写真に写っていた人物は、以前レイと訪れたバーで健二に話しかけてきたあの男だったのだ。

「この人、前にレイが外に連れて行ってくれたとき、バーで俺に話しかけてきた人ですよ!」

 健二は衝撃と興奮のあまり、写真を指差しながら訴えるように叫んだ。

「なんだって?」途端に、レイが顔色を変える。「マジかよ?」
「ああ」

 健二は強くうなずくと、さらに近寄ってレイとゆかりの間に入ることで彼らの輪に加わり、もう一度じっくりと写真を眺めた。間違いない。あの男だ。
 際立った特徴の無い、平凡な顔立ちをした東洋人の男。年齢は二十代半ばから後半くらいの間だろうか。あのときも間近で見た一重まぶたの目は、涼やかながらも冷たい印象を受ける。薄幸そうとも表現できるような、どこか影を感じさせる雰囲気だ。あのときは店内が暗かったので気がつかなかったが、右目の下に泣きぼくろがある。

「バーで話しかけられたって、どういうことだよ?」今度は劉が訝しげにたずねる番だった。
「六月の初めに、レイが『ラ・スパツィオ』っていうバーに連れて行ってくれたとき、少しの間レイと離れて一人になった時間があって――」

 健二が話しながらレイを見ると、彼が補足を入れた。

「俺が、アンチ・テクニシズムの不穏な活動について何か知ってそうな二人組を見つけて、話を聞きに行ってた間です」
「レイが戻ってくるまで、俺はバーのカウンター席で待ってたんですけど、そのとき、俺の隣に座って声をかけてきた人がいたんです」

 健二はそのときの出来事と、黒づくめの男――目の前の写真の人物と話した内容を説明した。

「おいおい、そんなことがあったならすぐに言ってくれよ! そしたらそのとき調べられたのに」
「すみません。そこまでたいした話をしたわけでもなかったので、つい、緊張していたせいで俺が疑わしく感じてしまっただけなのかもしれないと考えてしまって……」

 あのときは極度の警戒心が初対面の男を実際以上に不審に見せているのかと思ったが、レイのことを尾行していたとなれば、これはもう怪しい人物以外の何者でもない。
 劉だけでなく、同じくこの件を初めて聞いたらしいゆかりやアマンダも衝撃を受けているのが、その表情からうかがえた。

「すいません……ボスには報告したんですが」レイの方も素直に謝った。

 確かにクレイグには報告し、念のためにレイがあの日の入店者履歴を調べもした。だが、特に犯罪歴のあるような人物やデータに不自然な点のある人物はいなかったことで、しばらく様子を見るということになったのだ。何より、あのときはアンチ・テクニシズムの集会のことがあったため、そちらに時間をかける余裕が無かった。それで、ゆかりたち他のチームメンバーへの報告も成されないままになってしまっていたのだろう。

「あの頃は文芸交流センターに潜入する作戦の準備で手一杯だったし、そのあとも今度は事件の処理とかいろいろあって、みんな忙しかったものね」

 それらの事情に納得したように、ゆかりが一人うんうん、とうなずきながら言った。

「で、この男は何者なんすか?」と、レイが改めて劉にたずねる。
「桜木聖也。二十八歳。独身。都内在住で、職業は中学校の教師」

 表示されている資料に記されたデータを読み上げたあと、劉は顔を上げてまっすぐにレイを見据え、続けた。

「この男が、君の後をつけてるところを見たんだ」
「俺の後を?」レイが目をしばたたく。
「ああ。気がつかなかったのか?」
「はい、まったく……いつっすか?」
「ほら、この間僕が別の仕事の調査で外に出てたとき、街中で偶然会っただろ? あのときだよ」
「あのときって、歩道でほんのちょっと話しただけですよね? よく、この男が俺の後をつけてるってわかりましたね。マジで俺を尾行してたんすか?」
「実は、交差点のところで声をかける前にも一度、君を見かけたんだよ。旅行代理店に向かう途中で車を停めて待機してるときがあったんだけど、それが君の家があるビルの近くで、ちょうどビルに入っていくところを見たんだ。そのとき、君の少し後ろから歩いてきてたこの男も、続いてビルに入るのを見た」
「マジっすか! 全然気づかなかったというか……意識してなかったです」
「あの辺りは人通りが少なかったから記憶に残ってただけで、僕もその時点では特に気になったわけじゃないんだけど、そのあと交差点の近くで話してるときも、同じ男が少し離れた建物の影に立って、こっちを見てるのに気がついたんだ」
「もしかして、俺の後ろを見てたと思ったのはそれだったんですか?」

 劉がうなずく。当然、横で聞いている健二は彼らの言う状況を直接見ていたわけではないので想像を巡らせるしかないが、話の流れで大体は理解できた。

「僕と目が合ったら、相手は急に身を翻して去っていった。こっちを警戒してるような目つきだったし、その行動が怪しいと思ったんだ。もちろん、それだけでレイの後をつけてたと断言できるわけじゃないから、ほとんど勘なんだけどな」
「でも、前に健二が会ったことあるっていうなら、レイのことを尾行してたのはほんとっぽいよね」

 アマンダが言い、皆が同意を示して首を縦に振った。

「だとすると、たぶん尾行をやり慣れてない素人だと思う。実際、職業は教師だし」
「この人も阿久津賢士の関係者なんですかね?」

 誰に問いかけるべきか決めかね、健二がその場にいる全員を見回すように視線を動かしながら疑問を口に出すと、劉がうなずいた。

「ああ。レイに心当たりがあるわけじゃないなら、ただの中学の教師がSGAの捜査員であるレイを尾行する理由なんて無いだろうから、このタイミングならまずそう見て間違いないと思うけど」
「じゃあ、俺に話しかけてきたのも、最初から俺のことを探るつもりで……」

 健二は状況を整理しようと考えながらも、自分がとんでもない過ちを犯したのではないかと不安になってきた。しかし、神妙な面持ちのゆかりが落ち着いた口調で口を挟んだ。

「でも、阿久津賢士は私たちが研究所での作戦を決行するまで、健二くんの存在を知らなかった。もちろん、彼の言い分を信じるのなら、の話だけれど」
「そうすると、こいつは健二と会ったっていうときも、最初はレイの方を尾行していたんだろうな。それで、たまたま一緒にいた健二に声をかけるタイミングがあったから、レイやSGAについて何か情報が得られないかと思って近づいてきたのかもしれない」

 顎に手を当てながら、劉がゆかりの言葉を引き継いだ。それから、彼は健二に目を向け、射抜くような真剣なまなざしでじっと見つめてきた。

「本当にこの男だったんだな?」
「はい、間違いないと思います」

 健二はやや緊張しながらも、確信を持って答えた。

「レイについて聞かれたり、拠点のことを話すようなことは無かったんだよな?」
「はい。本当に、当たり障りの無い世間話のような会話に相づちを打ったり、うまくしゃべれたかは自信が無いんですが、いろいろごまかしながら適当に答えていただけで……あ、俺の名前は聞かれましたけど、とっさにSGAが用意してくれた偽の個人認証カードのことを思い出して、そこに登録されてる安達健一っていう名前の方を名乗りました」
「へえ、やるじゃん健二!」

 アマンダが感心したような声を上げた。特別に褒められるようなことでもないと思った健二は、アマンダに向けて微笑を浮かべつつ「そんなことは……」と否定しかけたが、それを劉がさえぎった。

「いや、でもそれはほんとにナイスだったと思う」
「ああ、そのおかげで阿久津賢士に健二のことを知らせる時期や場所を、こっちに不利にならないようコントロールすることにも成功したんだからな。さすがに健二がそのとき“阿久津”って名乗ってたら、あのじいさんが何か勘づいてた可能性は高えし」

 レイも笑みを浮かべて同調する。それはまさにその通りだと思った健二は、深くうなずいた。そして、再び目の前に表示されている男の写真を見つめて、次に傍らに立つレイを見上げた。

「やっぱり、この人も洗脳されてたのかな?」

 レイは「どうだろうな……」と顔を曇らせた。その呟きを最後に、皆しばし、思案顔で押し黙ってしまう。少ししてから、レイがその沈黙を破った。

「とにかく、この男のことは早急にもっと詳しく調べなきゃいけないっすね」
「このあとすぐにボスに報告して、もう一度最近の監視カメラの映像で足取りを追えないか、検索をかけてみる。行動パターンとかもわかるかもしれないしな。あと、『ラ・スパツィオ』の入店者記録も改めて確認しておくよ」

 レイと劉は目を合わせてうなずき合った。

「とりあえず、これから外を移動するときは誰かに後をつけられたりしてないか、気をつけといた方がいい」
「不用意に出歩かないことっすね」
「こいつの他にも阿久津賢士がSGAを調べさせるために使ってる人間がいるかもしれないから、近づいてくる奴にも要注意だな」
「私たちも気をつけます」

 心配げに眉を寄せながら、ゆかりが言った。

「それにしても、確証というか、この桜木って男が俺を尾行してる確かな証拠は無かったのに、よく調査の許可が下りましたね。どうやって申請したんですか?」

 先ほどまでの緊張感は消え去り、いつもの明るいトーンの声に戻ったレイが、劉に顔を向けて言った。

「そこは適当に、事件に関係のありそうな人物ってことで」
「もし何の関係も無い一般人だったらどうするつもりだったんすか?」
「そのときはそっと無かったことにしておきたいけど……バレたら怒られるだろうな」

 二人が笑う声を聞きながら、健二は再び、ホログラムディスプレイが映し出している資料を見た。写真の中の男を見つめ、彼とバーで話したときのことを思い返すうちに、健二は胸にかすかな不安が漂ってくるのを感じていた。



>> To be continued.



ずいぶん長くお待たせしてしまってすみません!

ようやく、レイ・虎太郎・シンディーの元親友三人組の関係や過去について、少し触れられるところまでやってきました!
そして、バーで接触してきた男の正体もわかりました。

今回はほとんどがかなり前から詳しく考えていた場面や展開で、戦闘描写も無かったにも関わらず、なぜかすごく書くのが難しかったです…特に回想シーン!
まあ、書くのが難しいというのはいつも言っているような気もしますが(笑)
自分の状態などの理由もありますが、小説を書き慣れていなかった「第一話」の最初の方を除けば、おそらく今までで一番書くのに時間がかかったと思います(一ヵ月半以上です)

同時に、また前回以上の長さにもなってしまってるんですけどね(笑)
現在は一話を六分割で統一していますが、あまりにも一回の文字数が多すぎて(なかなか完成しないことから)私のモチベーションが途中で下がってくるので、「第六話」以降は一話を何分割にするかは固定にせず、だいたい今の半分くらいの長さまで書いたら切りの良いところで区切る形式に変更しようと考えています。
また、次回の06更新時に詳しくお知らせします。

とにかく、今回も無事に更新できて良かったです!
読んでくださった方、本当にありがとうございました!!
四苦八苦しながらもがんばっています(今後もがんばっていきます)ので、少しでも楽しんでいただけていましたら幸いです。

読者数の参考にしたいので、小説を読んでくださった方は各記事の拍手ボタンを押していただけますと助かります。
もちろん強制ではありませんので、気が向いたらで構いません!


未来への追憶 第五話 - 04

 日向虎太郎とシンディー・オルコットは、その場にいる大勢の視線を受けながら、建物の少し前まで進み出てきて足を止めた。
 レイの胸に、二人の命が無事だったという安堵感と久しぶりの再開ゆえの懐かしさ、そして恐怖が同時に込み上げてくる。
 虎太郎の切れ長のつり目は、冷たく鋭い眼光をこちらに向けているものの、顔はまったくと言っていいほどの無表情だった。ベールに顔を囲まれ、うつむき気味に立っているシンディーの方は、よく見るとうっすらと微笑を浮かべている。しかし、目だけは不自然に虚ろだ。

「お姉ちゃん!」

 アマンダがひどくショックを受けたような甲高い声で叫んだが、シンディーは妹の声に何の反応も示さない。
 やはり、SGAが予想していた通り、虎太郎とシンディーも洗脳を受けているのは間違いない。
 いつの間にか、フランツとかおるは道を空けるように左右に分かれていた。その後ろに、虎太郎とシンディーが佇んでいる。今、レイたちの目の前に、阿久津賢士に拉致された被害者が全員そろっていた。

「クレイグさん……」

 武装隊員の一人が、不安げにクレイグに呼びかけた。
 被害者であり、敵でもあるフランツたちは、まだ誰も武器を構えていない。一見、かおるやシンディーは武器を所持してすらいないように見えるが、虎太郎の袴の腰帯には、日本刀の鞘のようなものが差されているのが確認できた。フランツにだってまだナイフがあるし、彼らの背後の研究所に戻りさえすれば、他にもたくさんの武器があるだろう。
 まさか今日、虎太郎やシンディーまで姿を見せるとは思っていなかった。健二の存在なくして阿久津賢士に立ち向かうのは、これまで通りSGAにとってあまりにも不利となるため、この場で被害者の救出を試みるという選択肢は無い。しかし、虎太郎たちの身体能力がフランツやかおると同等かは定かでないが、いくらSGA側の人員が増加されたとはいえ、一度にこの人数を相手にすれば勝算が見込めないどころか、無事に撤退することも難しいかもしれない。
 レイも不安を覚え、横目でクレイグの顔をうかがった。研究所を睨みつけるようにして押し黙っていたクレイグは、しばらく沈黙を保った後、口を開いた。

「ここで争うつもりか?」阿久津賢士に向かって、険しさを帯びた声音でたずねる。
「いいや」すぐに阿久津賢士の声が答えたが、彼は間を空けてさらに続けた。「まあ、それは君たち次第、とも言えるが」

 クレイグの眉間に刻まれたしわが深くなる。

「我々の目的は先ほど話したのと変わりない。お前に話があって来ただけだ。そちらが手出しをしない限りは、こちらも何もする気は無い。少なくとも、今日のところはな」
「では、君たちの言う、その話とやらを聞かせてくれないか」

 阿久津賢士は相変わらずのんびりとした調子でそう返してきたが、SGAが単なる説得のために来たのでないことは信じる気になったようだ。

「さっきも言った通り、伝えるべきことを話し終えたら我々はここを立ち去る。お互い、今夜はもうこれ以上、戦闘へ発展するような行いはしない――そう、約束してくれ」

 クレイグは一言一言を丁寧に発音するように、落ち着いたトーンでゆっくりと言った。
 今度は、返答が返ってくるまでに時間があった。濃い緊張感が漂う中、敵側の面々はこちらに視線を注いだまま、銅像のようにじっと動かない。かおるだけは時折、飽きたように姿勢を変え、ゲートの縁に体をもたせかけたり腕を組んだりしていた。
 ゆうに数分は過ぎたのではないかと思うような長い静寂を挟んで、阿久津賢士の低い声が響いた。

「わかった。約束しよう」

 レイは唾を飲み込んだ。阿久津賢士がSGAの要求を承諾した。もちろん、彼の言葉が無条件に信ずるに値しないものであることは明らかなので油断はできないが、これで自分たちの目的を果たすことができる。こう着状態だった状況が、自分たちと阿久津コーポレーションの輪に健二が加わることで、ついに変わるときが来るかもしれない。
 クレイグは通信機のマイクをオンにしようと、左耳に装着しているイヤホンと一体型の機器に手をやったが、そこでまたわずかに迷うような間があった。研究所の方に据えた目は、最後の様子見をしているようにも思える。

「待機二班」やがて、クレイグは通信を繋いで言った。「研究所の前へ」


* * *


 車は建物の合間の暗い通りを流れるように進んでいく。健二は後部座席で前のめりになり、ひざの上で両手を握りしめていた。
 いよいよ、自分の出番がやってきた。胸の辺りがざわざわとうごめくような感覚で落ち着かない。のどは渇ききり、拳を作る手のひらは異常なほどの量の汗で濡れていた。
 前の席から、健二とは初対面である犯罪捜査部の職員が振り返った。

「いいですか、どんなときでも必ず、私たちやクレイグさんの指示に従ってください」

 もしかしたら、以前に健二が独断で行動してしまったことをクレイグから聞いて知っているのかもしれないが、彼は強く念を押した。

「はい」健二はうなずきながら、やっとのことでかすれた声を絞り出した。

 研究所の正面に待機している仲間のSGAの背後に出られるよう、車は一度後退しつつ最初に待機していた地点へ戻り、さらに南へ移動してから大通りを目指している。先ほどクレイグが指示を出したため、本部から到着した武装部隊の応援チームも、健二たちの車の後ろから少し距離を空けてついてきていた。
 実際にスピードはそれほど出てはいないのだろうが、健二は自分を乗せた車が研究所へ向かって走るのが、やけにゆっくりに感じられた。
 大通りに出ると、阿久津コーポレーションの巨大な研究所が目の前に現れる。先ほどは闇に沈んでいた敷地内に照明が灯り、研究所の周りだけが明るく浮かび上がっている。夜の町の中で、そこだけが異空間のようだった。
 車は歩道に乗り上げながら、通りを塞ぐSGAの車を避けてその右側に出ると、二台の車の横で停車した。

「車から降りて、私の後ろへ。様子を見ながら慎重に進め」

 通信機の向こうから、クレイグの命じる声がする。
 健二は、SGAの本部を出る前にゆかりに渡されていた小さな器具をスラックスのポケットから取り出し、右手でしっかりと握った。

「絶対に私たちから離れないでください」

 車を降りる直前、またもや武装部隊の隊員の一人に言われ、健二は言葉の意味を理解する余裕も持てないままに、首を縦に振った。
 犯罪捜査部の男を一人車に残し、健二と武装隊員たちはともに車の外に出た。研究所の周囲に何人もの人間が集まっているが、人数の割りに外は静かだった。そして、ビリビリと肌に感じられるほど、辺りの空気が張り詰めているのがわかる。
 この時代に来てからは現実離れしたことばかり目にしているが、それでも研究所とその周囲だけは切り取られた夢の中の世界のような、異様な雰囲気だ。向かい合って立ついくつもの人影や、やたらに明るい照明のせいもあるのか、映画の撮影でもしているかのような錯覚を覚える。自分はさながら、今からその舞台へと足を踏み入れる主役にでもなったような気分だった。

「行きましょう」先ほど車内で声をかけてきた隊員に小声で促される。

 健二は三人の武装隊員に周りを囲まれるようにして、眼前で自分を待ち受けている光景に向かい、一歩、二歩とゆっくりと歩みを進めた。逆光で正面ゲートの周辺に立っている人々の顔は見えづらかったが、何人もの視線を浴びているのが感じられる。とっくに興奮状態を極めていた体から、なおもアドレナリンが放出される。
 前へ進むために動かしているはずの手足はふわふわとしていて、他人のもののように感覚が無い。まるで体が自分の意思とは関係無く、勝手に動いているかのようだった。
 正面ゲートの前に立っているSGAメンバーのところまで近づくと、こちらに背中を向けて一列に並んでいる、レイやクレイグたちの姿が見分けられた。隣を歩いていた隊員に手振りで指示され、健二は彼らが立つ位置からいくらか下がった場所で立ち止まった。
 体を傾けて健二の様子を確認していたらしいクレイグが、研究所に向きなおる。

「彼を呼び寄せたのはお前なのか?」

 クレイグが研究所の方に向かって問いかけるのが、彼の背中越しに聞こえた。

「お前には、この男が誰かわかるだろう?」

 健二を手で示しながら、クレイグが質問を重ねる。健二は緊張のあまり頭のどこかが麻痺でもしたかのように、未だ現実感を持てずにそれを聞いていた。

「いや、わからんな。私が呼んだとはどういうことだ」

 冷淡さが伝わるような、温かみの無い老齢の男の声――阿久津賢士の声だ。その声に、まだ記憶に新しい様々なイメージや感情が脳裏によみがえり、健二はぞっとした。
 次に、クレイグは少し間を取ってから、すべてを阿久津賢士に知らせるための決定的な事柄を口にした。

「彼を、この時代にタイムスリップさせたということだ」
「タイムスリップだと? 何を馬鹿な……」阿久津賢士が鼻で笑った。

 健二はそこで再び歩を進め、クレイグの斜め後ろまで近づいた。健二の姿を覆い隠すように落ちていたレイやクレイグの陰から出たため、外灯によって顔が明るく照らされる。大きく息を吸ってから、健二は乾いた唇を動かした。

「俺は――阿久津健二といいます」

 顔も見えない相手に向かって告げる。てっきり頼りなく震えてしまうだろうと思っていた自分の声は、思いの外しっかりしていた。

「あなたの……曽祖父にあたる人間です」

 一拍置いてからそう続けると、周りを流れる空気が凍りつき、場の緊迫感が高まった。

「何だと」阿久津賢士の声色が硬く変化した。
「俺は、一ヵ月半ほど前の五月十二日、この2148年にやって来たんです。133年前の、2015年から」

 一気に言って口を閉じると、自分の声が途切れた途端、辺りがひどく静まり返っているように思えた。沈黙が続く。
 距離が縮まったことで、今はフランツやかおるが無感動にこちらを見つめているのもはっきりと見て取れた。

「もちろん、私たちもタイムスリップなどにわかには信じられなかったが、DNA鑑定などで詳しく調べていくと、タイムスリップという超常現象が現実に起こったことを受け入れるしかない結果が出た」

 クレイグはそう補足したあと、「これがその証拠だ」と言って健二に目を向けた。
 それが目での合図だと理解した健二は、スーツのジャケットとシャツの左袖のボタンを外し、ひじの上まで捲り上げた。次いで、右手に握り込んでいた器具を左腕に持っていく。
 事前に何度も使い方を練習したその器具は、緊急の検査などが必要な際に医師免許等を持っていないSGA職員でも使用できる、血液を採取するための道具だ。健二がタイムスリップして来た直後、ゆかりが健二の血を採るのにも使っていた物だった。
 汗で濡れた手のひらでは、器具がすべって上手く扱えないのではないかと心配していたが、不思議と汗はずいぶん引いており、今は肌の表面が軽く湿っている程度だった。
 練習通り左腕をまっすぐに伸ばし、器具の先端をひじの内側に当てる。チクリとした痛みが柔らかい皮膚を襲った。それに耐えて器具をそのまま腕に押し当てていると、半透明の筒の中に血液が溜まっていくのが見える。筒の中の血が一定の量に達すると、皮膚を刺している針が自動で腕から抜けるので、健二はそれを待ってから腕に当てた器具を離した。筒状の容器になっている部分を器具から取り外し、さらに一歩前へ踏み出す。そして、敵から視線を外さないように注意しながらかがみ込むと、研究所に向け、自身の血が入った筒を勢いをつけて転がした。健二の手を離れた細長い筒が、コロコロという小さな音とともに地面を転がっていく。


* * *


 阿久津賢士は、椅子の上で大きく身を乗り出していた。体を支えるため、肘掛けを強く掴んだ両手が激しく震えている。
 正面のディスプレイに映る濃紺のスーツを着た若い男が、カメラを通してではなく実際にすぐ目の前に立って、自分を見つめているように感じられた。
 SGAのマーカス・クレイグが話し始めたときは、いったいどんな奇妙な作戦を考えたのだと、半ばあざけるような気持ちだった。スーツ姿の男が車から降りてきたときも、最初は本当に誰かわからなかった。
 ところが、数歩前に出てきて光を受けた彼の顔を見た途端、驚きに心臓がドクンと脈打った。

「以前、レイモンド・ストレイスと一緒にいるところを見かけた男です」

 賢士のいるモニタールームに繋がっている通信機の一つから、部下の一人である男の声が知らせてきた。だが、その静かな声は今の賢士の耳には入らない。
 スーツを着た東洋人の男の顔は確かに、何度も――いや、何度もどころではない、いつもいつも見つめ続けていた写真に写っていた、若い頃の曽祖父の顔だった。顔くらいなら、日本中を探せば瓜二つの人間が存在するかもしれないし、もとより整形手術などでいくらでも変えられる。
 しかし、賢士の中に切ない郷愁を呼び起こす彼の目が、その可能性を否定した。懐かしく温かい祖母の目が、彼の目に重なる。力強い芯を秘めながら、優しい光にあふれた目。
 わざわざDNA鑑定などで調べなくてもわかる。SGAに連れられてやって来たあの人物は、阿久津コーポレーションの創設者であり、賢士の曽祖父でもある、阿久津健二本人なのだ。正常な感覚を持っていれば信じがたいことだったし、論理的に説明できるような根拠など無い。それにも関わらず、賢士はまるで頭上で強烈な光が閃き、脳天を雷で打たれたかのような衝撃とともに、そう確信した。次の瞬間、今度は興奮が体を突き抜けるような勢いで湧き上がってくる。

「奇跡だ……」

 耳に届いた自分の声を聞いて、賢士は自分が頭の中の呟きを無意識に声に出していたことに気がついた。
 賢士に寄り添うように椅子のすぐ脇に立っている少女を見上げると、彼女もグレーに近い薄い青の瞳に賢士を映していた。賢士が震えの収まらないしわだらけの手を差し伸べると、少女の方も手を差し出してくる。彼は繊細な壊れ物を扱うように、その小さな手をそっと包み込んだ。祖母が死んでからはずっと、彼女の存在が賢士の心のよりどころとなっている。

「これで、すべてがそろった。……いよいよだ、ハンナ」

 少女に向けてささやくように言った声には、明らかな高揚の色が滲んでいた。
 まさか彼が、このタイミングで自分の前に現れるなんて。彼と自分が出会うことは、本来なら絶対にあり得ないことだった。それなのに、タイムスリップという超自然的な現象によって、それが可能となった。これは自分のために起こった奇跡としか思えなかった。
 やはり、自分のやっていることは正しいのだ。見えない力が、自分に味方をしている。
 賢士は、衝撃が次第に打ち震えるような強い感動へと変化していくのを感じながら、少女の手を握る老いた左手にわずかに力を込めた。


* * *


 健二の血を入れた筒は、速度を落としながらもまっすぐに転がっていく。フランツが、自分の足元まできて止まりかけた筒を拾い上げた。
 健二はその様子を固唾を飲んで見守っていた。
 阿久津賢士は未だ黙ったままだ。彼がこのことを――健二の存在と、自分の祖先がタイムスリップして過去からやって来たという話を、どう受け止めたのかわからない。

「DNAの検査装置くらいは研究所にあるんだろう。その血を使い、今私が言ったことを、自分で調べて確かめてくれ」しばらくして、クレイグが再び口を開いた。「彼は現在、我々の方で極秘に保護している。最初に発見されたのが、SGAの所有する敷地内だったからな」

 彼は相手の反応をうかがうように一旦言葉を切ったが、阿久津賢士は何も言わなかった。

「初めはお前が差し向けたスパイではないかと疑ったが……この件に関して、お前は本当に関与していないんだな?」
「ああ」

 ようやく、賢士の短い答えが返ってきた。感情も、考えも読めない声だ。
 だが健二は、先ほどの賢士の驚きは本当ではないかという気がした。彼の態度には嘘も演技も無く、たった今初めて健二の存在を知ったのだ。漠然とではあるが、健二は直感的にそう思った。

「なにぶん前例がないため、彼の扱いを今後どうするかはまだ決まっていない。ただ、こんな状況でも、阿久津健二と血縁関係にあるお前には知らせておくべきだと思ったんだ」クレイグは慎重に言葉を継いだ。「処置が決定すればまた改めて話し合うことになると思うが、当面はSGAの方で保護を続けるつもりだ」
「ああ」

 やはり阿久津賢士の反応は鈍い。相手がどう出るか予想ができずに警戒を強めたためか、下ろしたままの麻酔銃を固く握りしめているクレイグの全身の筋肉に力がこもるのが、後ろにいる健二にもわかった。
 SGA側がしばし黙って待っていても、阿久津賢士はこれ以上しゃべりそうにない。かと言って、約束を反故にして今すぐ攻撃を仕掛けてくるつもりであるようにも見えなかった。

「我々の話は以上だ。約束を守ってくれ」クレイグが気迫を込めた強い声で言った。
「そうだな」

 賢士の返事を合図とするかのように、正面ゲートの奥に立っていた見知らぬ男女がくるりと踵を返した。顔での判別はできないが、車で待機していたときに聞いていた通信での報告から推測するに、おそらく日向虎太郎とシンディー・オルコットだ。
 彼らが研究所の建物に入ると、ゲートの横開きの扉がスライドし始めた。フランツとかおるもこちらに向けた注意はそらさず、一歩ずつ後ずさってゲートの内側へ戻ってゆく。

「礼を言おう」

 ゲートが閉まる直前、最後にそう言った阿久津賢士の声が、扉の間をすり抜けてきた。そして、金属が触れ合う鈍い音を一つ響かせ、ゲートは再び閉ざされる。同時に、街灯だけを残してすべての照明が消え、急に現実世界に引き戻されたような感覚を覚える。あとに残ったのは静けさだけだった。
 しかしその静けさは長くは続かず、次の瞬間にはもう、通信でお互いにやり取りをするSGA職員や武装隊員たちの声が、イヤホンから次々に流れ始めた。研究所の方を向いて固まっていた人の群れも動きだす。
 ふと、健二の前に立つレイの姿が目に留まった。彼はひととき、研究所を見つめたまま立ち尽くしていた。その横顔は寂しげで、どこか怒っているようにも見える。彼にとって虎太郎とシンディーはとても大切な存在だったようだ。敵の一員となった親友を見て、何も感じないわけがない。彼の複雑な心境は容易に察せられた。
 レイに声をかけるべきか迷ったが、そのとき背後がざわついているのに気がつき、健二の意識はそちらへ向いた。振り返ると、いつの間にか応援チームの車も健二の乗ってきた車両のそばに停まっており、背後には思っていたよりも大勢の武装隊員たちがいた。それぞれ周囲に目を配ったり、通信で報告をしたり、車を発進させる準備をしたりしている。彼らに歩み寄ったクレイグが何か言っている。
 終わったのだ。作戦の第一段階は無事に成功した。そう理解して体の力がいくらか抜けると、どっと疲れが出たのか頭がぼんやりとしてきた。
 健二は動き回る武装部隊に向けていた視線を、何気なく上方にずらした。大通りの向こうに立ち並ぶ建物の上端と、弱い星の光が点在する漆黒の空が視界に入り――ぎょっとして思わず呼吸が止まった。大通りと交わる正面の道路沿い、大通りから二つ奥のビルの屋上に、何かがいたのだ。
 人影のようにも見えるそれは、黒いフード付きのローブを纏っていた。足元まである長いローブがかすかな風にそよいでいる。遠目だったが、頭をすっぽりと覆うフードの下で、白く月光を反射する顔がちらりと見えた。
 そのシルエットとその顔――身の毛がよだつ骸骨の顔は、イラストなどでよく目にする西洋の死神の姿そのものだった。

「あ、あれ……!」

 健二は思わず、ビルの上の影を指差して叫んだ。その声に反応して皆が一斉に振り返り、健二の人差し指が指し示す方向を仰ぎ見る。しかし、そのときにはすでに不気味な黒い影はさっと身を翻し、闇にまぎれ込むように姿を消した後だった。

「どうしたんだよ?」何も見つけられなかったレイが、訝しげに眉を寄せた顔を健二に向けてたずねてくる。
「あ、あそこのビルの屋上に今、死神みたいなものが……」
「し、死神!?」

 健二が見たものを正直に伝えると、レイは頓狂な声を上げ、たった今健二が指差した方角に再度目をやった。彼はそのまま軽く笑みを受かべてみせたが、その口元は引きつっている。

「し、死神なんて……んなもん、マジでいるわけねえだろ? 健二の見間違えじゃねえのか?」
「そ、そうだよな……」

 タイムスリップが非現実的であるのと同様、創作物や伝説の中の死神は実在しないという一般的な常識も、2015年と変わらないようだ。

「レイ、もしかして怖いのか?」

 左耳のイヤホンから劉のからかうような声がして、会話に加わってきた。

「そりゃ、怖いっすよ!」レイはむきになったように声を張り上げたあと、「俺、お化けとかそういうの駄目なんすから……」と、弱々しく付け足す。寒いどころか蒸し暑く感じるくらいの気温であるのに、肩をすぼめた彼は、ロングコートに包まれた両腕をさすっている。そこにはさっきまでの思いつめたような様子は無く、すでにいつものレイに戻っていた。
 死神はお化けとは違うのではないか、と思いながら、健二はもう一度ビルの上を見た。

「今監視カメラの映像で確認してるけど、その辺りには怪しいものは何も映ってないみたいだけどな。まあ、ちょうどカメラの死角にいたのかもしれないけど」

 レイを冷やかしながらも、任務は真面目にこなしているらしい劉の声が聞こえてくる。彼の言う通り、もはやビルの上には死神――本当にそんなものがいたとすればだが――の影も形も見当たらなければ、周辺で何かが動くような気配すらも無かった。急に健二も寒気に襲われ、身震いをする。
 本当に見間違えただけならそれに越したことは無いのだが、そうでないなら気味が悪いし、目撃したものが死の象徴とも言える存在だけに、不吉で嫌な感じだ。

「早く車に戻るんだ」

 健二がビルを見上げたままなかなか動こうとしないため、クレイグが周囲に目を走らせながら言った。

「はい」健二の代わりにレイが答える。彼に「行くぞ」と背中を押されて、健二はレイたちが乗ってきた大型の車の方に向かった。帰りは捜査チームの面々と同じ車に乗ることになっている。

「念のため、ビルの付近を調べますか?」ゆかりがクレイグにたずねる声が聞こえた。
「いや、今ここに残っていれば、阿久津賢士に約束を違えているとも思われかねない。そうなると危険だ」
「そうですね」

 クレイグは武装部隊の一人の名を呼び、彼のもとに駆け寄った隊員に言った。「熱源感知器で、ビルの外から周辺に人がいないかだけを調べてくれ」

 健二とレイが車に乗ると、続いてアマンダをつれたゆかり、そしてジャン、最後にクレイグが乗り込んできた。

「もし誰かいたんだとしたら、屋上にある出入り口から建物の中に入ったのか? にしては、隠れんのが速えけど……」健二の向かいに座ったレイが、ぶつぶつと独り言のように呟いた。
「なんだったんだろうね」アマンダも横で首を傾げている。
「どうせ見間違いだろ」

 ジャンが心底馬鹿にした声で吐き捨てるように言ったが、今回は珍しくレイも彼と同意見のようで、誰も何も言い返さなかった。
 ジャンの運転で車は発進し、武装部隊の車も一台、その後ろに貼りつくようについてくる。車が大通りをUターンして、商工業地区をまっすぐに伸びる道に入ったとき、通信で武装部隊からの報告があった。

「クレイグさん、先ほどのビルやその付近には誰もいないようです」
「わかった。すぐに引き上げろ」

 そう応答してから、クレイグは前部座席で体をひねり、健二と目を合わせた。

「そういうことだが……明日以降、また綿密な調査をしてみよう」

 健二は声を出さずにうなずくことで返事をした。
 死神らしき影が屋上に立っていたビルの横を車が通りすぎるとき、健二は窓越しに頭上を見上げてみた。しかし、やはりビルの上には何もいない。
 車は徐々に走る速度を上げ、阿久津コーポレーションの研究所はどんどん遠ざかっていく。今も、背後にかすかに見えている研究所の明かりは消えたままだ。誰かが追いかけてくるような気配も無い。研究所から離れるにつれ、胸の中の安心感が膨らみ、緊張が解けたことで疲労感が募っていく。作戦は無事にやり遂げられたのだと、改めて実感した。
 だが、車が本部に戻り、それから地下トンネルを通って無事に拠点に帰り着くまで、高ぶった気持ちはずっと体を満たしたままだった。


 朝の気配を感じて目を開けると、カーテンを通して柔らかい光が部屋に差し込んでいた。視界に映っているのは現在の自分の部屋として馴染みつつある、健二にあてがわれた拠点の一室だ。枕元のホログラムの時計を表示させると、時刻は六時を少し過ぎたところだった。アラームをセットした時間よりはいささか早いが、起床にはちょうど良い時間だったし、すでに頭はすっきりと覚醒していた。
 健二はベッドの上で上体を起こした。この部屋にもともとあった質の高い寝具を使っているのに、体は強張っていて、上半身をひねるとあちこちが軋むように痛んだ。爽やかな朝だというのに、思わず顔をしかめてしまう。ベッドに腰かけたまま一度大きく伸びをしてから、健二は立ち上がって窓辺に寄った。
 カーテンを開けると、眼下の庭を囲む塀と、その向こうに道路を挟んで立つ戸建ての家などが見える。高級住宅地なのかこの辺りの家はすべて大きく、立派な造りをしていた。前の道には人や車の通りも無く静かで、小鳥のさえずりだけが聞こえている。家々の屋根の上には雲の少ない薄い青色の空が広がっていた。気持ちの良い晴れで、昼間は暑くなりそうだ。鳥が一羽、目の前の窓枠のすぐ向こうを横切っていく。
 今日もこれまでと変わらない、平和な朝だ。健二は胸をなでおろし、外の景色を眺めながら深呼吸をした。
 阿久津コーポレーションの研究所に行ってから、すでに三日が経っていた。SGA本部でも拠点でも警戒を続けていたし、健二も敵が拠点に攻め入ってくるのではないかと怯えていたが、今のところそういったことは何も起きていない。あの日以降に発生した事件の現場にも阿久津賢士の仲間は現れていない。クレイグによれば、賢士からのメッセージと思われるようなものもどこにも届いておらず、特に変わったことも無いそうだ。
 だが健二は、フランツやかおるが拠点にやって来て、平穏が引き裂かれる夢を毎日のように見た。凄惨な戦闘が行われ、最後には彼らの手が自分に向かって伸ばされるのだ。窓の外を見ていた数分の間に忘れてしまったが、今日もそんな夢を見ていたような気がする。目覚めたばかりなのに、体が緊張して疲労を感じるのはきっとそのせいだ。
 健二は身支度をして軽く朝食を済ませたあと、拠点の会議室で行われたミーティングに出席した。内容は主に、二十五日の作戦決行中、研究所の近くに現れたという若者のグループについての報告だった。彼らに詳しく話を聞いたところ、彼らはアンチ・テクニシズムのメンバーというわけではなく、その真似事をしていただけらしい。自分たちの憂さ晴らしと楽しみのために、阿久津コーポレーションとSGAが対峙していたことも、あの地域に立ち入り禁止の命令が出されていたことも知らず、単なる思いつきで研究所の塀に落書きをしようと企てていたということだ。若者の一人が研究所付近の商工業地区にある会社の社長の息子で、夕方前から定休日だった会社の地下倉庫に仲間とともに忍び込み、酒を飲みながら身をひそめているうちに眠ってしまった。そして、深夜になって外へ出たところ、フランツに見つかって襲われたというわけだった。

「まったく、人騒がせっつーかなんつーか……」

 ほとんど空になった食器を前にして、フォークとナイフを置いたレイが嘆くように言った。
 ミーティングが終わったあと、ゆかりとジャン、クレイグはすぐに本部へ帰ったが、レイとアマンダは拠点に残り、久しぶりに健二も交えた三人で拠点のダイニングテーブルを囲んでいた。今日の昼食は洒落たカフェで出てくるメニューのような、キッシュとサラダとスコーンが皿にきれいに盛りつけられたものだった。

「でも、助かってよかったよね」

 いつものようにレイの隣に座るアマンダも、食事の手を止めて言う。

「ああ、そりゃそうだ。あいつら助けられたのはアマンダのおかげでもあるしな」レイはそう言ってにっと笑ったあと、神妙な表情を作った。「けど、もうあんな無茶すんなよ?」
「うん」

 アマンダは若者を助けるために大きな活躍をしたらしかったが、研究所へ行った日の翌日、彼女はクレイグに呼び出されて厳しく叱責されたと言っていた。健二はそのときの状況を直接見ていたわけではなく、通信機から聞こえる音声でアマンダに何かあったことを知れた程度で、詳しい状況は何もわからなかった。しかし、ナイフを持った彼女が無謀にもフランツに向かっていった、という話をあとから聞いて、その様子を想像しただけで背筋が寒くなった。クレイグでなくとも怒るのは当然だろう。健二は、自身もこの時代に来て初めて外へ出たとき、レイたちの指示を無視して勝手に車から降り、クレイグに注意を受けたことを思い出した。
 アマンダがフォークをサラダに伸ばして会話が途切れたので、健二はその間に気になっていることをレイに聞いてみることにした。

「その不良グループみたいな若者に、洗脳された人たちと戦ってるところを見られたんだよな? 噂とかで広められたりとか、そういうことは大丈夫なのかな。彼らはもう帰したのかい?」
「いや、まだだ。その件もどうにかしなきゃいけねえ――つまり、あの日見たことは絶対口外しねえってなんとか約束させなきゃならねえし、他のテクノロジー開発系の企業の建物にも落書きされる事件が何件か起きてっからよ、どこまでがあいつらのやったことなのかとかも、一応もっと詳しく聞かなきゃいけねえし。すぐには帰せそうにねえよ。……ったく、ほんと面倒なことになったぜ」レイはうんざりしたように溜め息をついた。
「でも、作戦を開始する前に、研究所の付近に人が残ってないかは確認したんだよな? SGAの武装部隊の人とかでも、誰かがいるのに気がつかないなんてこともあるんだな」
「俺もなんでだって困惑したけど、まさか地下の奥の方に隠れてる奴がいるなんて思いもしなかったんだろうな。地下への入り口はロックされてたっつってたし。熱源感知センサーとかにもある程度近づかねえと引っかからねえし、どっちみち絶対に正確なもんでもねえしな。まあ、全員無事だったから良かったけど……次からはもっと念入りに調べなきゃいけねえってことだ。最近はこういう事件ってあんま無かったからさ、たぶんまだ慣れてねえ隊員もいたんだろうな」
「なるほど……単純なミスみたいなものだったのか」

 レイはコップに注がれていた水を一口飲んでのどを潤してから、また話を再開した。

「まあ、健二が死神を見たっつービルとその周りの建物の方は、次の日にちゃんと隅々までじっくり調べたみてえだけど。それでも、何かがいた痕跡とか、変なもんとかは何も見つかってねえらしいけどな」
「やっぱり、俺の気のせいだったのか……」健二は腑に落ちないながらも呟いた。
「きっとそうだぜ。神経も疲れてただろうし」

 すぐさま肯定したレイの顔はわずかに曇っていた。よほど死神の存在を恐れているようだ。
 だがレイの言う通り、極度の緊張状態にあったのは確かなので、本当に何かの影などを一瞬見間違えただけなのかもしれない。このことは忘れようと、健二は心の中で自分に言い聞かせた。

「そう言えばレイ、今日休みって言ってなかった?」

 健二とレイが話している間に、サラダを少しと小さなスコーンを一つ食べ終えたアマンダが、ふと思い出したといった様子でレイに顔を向けた。

「ああ、そうだぜ。けど、なかなかみんなの都合が合う日がねえからよ、今日は俺が午前中のミーティングだけ参加することにしたんだ。今からはオフだけどな」
「大変だな」

 健二は感じたことを素直に口に出していた。健二も元いた2015年で働いていたときは、残業や休日出勤は何度も経験していたが、それでもSGAの仕事は本当にハードで、誰にでもできることではないといつも思う。常に不規則な勤務で事件が起こればすぐに対応しなければならず、今のように特殊な事件を担当していれば、任務外で危険な目に遭う可能性があることも考慮しなければならない。しかも、少なくともレイやクレイグたちはそれを当然のようにやってのけているのだ。

「別に、たいしたことねえよ」

 レイは笑顔で言うと、再びナイフとフォークを取り上げ、皿に残っていたキッシュを食べ始めた。フォークを口に運びながら、ちらりと上目遣いでアマンダに目をやる。

「アマンダはこのあと本部か?」
「うん。ゆかりが今までに行方不明の届け出があった人たちのリストをチェックするから、それを手伝うんだ」

 タルト生地の最後の一欠片を食べ終えると、レイは席を立った。椅子の背もたれでしわになりかけていた制服の上着を、ばさりと肩に掛ける。

「んじゃ、俺ちょっと出てくるわ」
「いってらっしゃい!」

 アマンダが手を振る。近くに控えていたロボットが、さっそく空いた食器を片付けようと寄ってきた。
 健二はリビングダイニングを出て行くレイの後ろ姿を見送った。彼の頭の後ろで、長い髪とともに、それをまとめる淡いピンク色のリボンが揺れていた。



>> To be continued.



9月中に載せられたらいいなあと思っていましたが、ギリギリ無理でした…!;
読んでくださった方、ありがとうございます!!

今回はだいぶ前から書きたかったシーンが詰まった回でした。
そして、今回こそは短めに収まりそうかなと思っていたのに、結局(最近の)標準よりちょっと長いくらいに…(笑)

最近は一回の文字量が多くなっている関係で更新に一ヶ月前後の間が空いてしまっていますが、
いつも待ってくださっている方がいらっしゃいましたら、本当にありがとうございます!m(*_ _)m
前回以前の記事に拍手を下さった方もありがとうございました!とてもうれしいです。

この頃みらつい雑記の方も更新停滞気味ですが、あちらにもまたおもしろいネタを書けるようにがんばりますね!

読者数の参考にしたいので、小説を読んでくださった方は各記事の拍手ボタンを押していただけますと助かります。
もちろん強制ではありませんので、気が向いたらで構いません!


【今頃】HAPPY SUMMER【10/1追記】

happysummer.jpg

本当は暑中見舞いにする予定の絵でした。
残暑見舞いどころか季節はすでに秋だというのに、こんな夏真っ盛りみたいな絵を載せてしまってすみません(笑)

最初はラフのような感じで簡単に仕上げるつもりが、気がついたらがっつり描いていました。

ずいぶん遅れてしまいましたが、だいぶ前に構図等も思いついていてどうっしても描きたい絵だったので、
ちゃんと描き上げることができて良かったです!

【私信】
暑中見舞い交換をご提案くださったSさん、ありがとうございました!(*´▽`)
Sさんのオープンカーに乗ったグラサンボス、最高にカッコよかったです!!///
萌えさせていただきながら、お礼が遅くなってしまってすみません…!
本当にありがとうございます!楽しかったです!^^*


happysummer_up.jpg

顔のアップです。

“気の抜けたボス”というリクエストを頂いて描いたのですが、ちゃんとリクエストに添えていますでしょうか?
ボスの気の抜けたところってなかなか難しく、いろいろ考えた末にこんな感じになりました!
いつもと違う雰囲気のボスが描けて新鮮でした(*´`)

今年の夏は諸事情で本編小説を進めるのに精一杯になってしまい、あまり絵が描けませんでしたが、
最後に夏らしい絵が描けたので(もう夏終わってますがw)満足です!

「第五話 - 03」をさっそく読んでくださった方もありがとうございます!!
長いのに読んでいただけてとてもうれしいです!続きもがんばりますね!


■10/1 追記

今回は嵜山弓さんにイラストの交換をご提案いただいたことが、
暑中見舞いのオフっぽいボスの絵を描かせていただくきっかけとなりました。

許可を頂きましたので、嵜山さんに描いていただいたボスもこちらに掲載させていただきます!
(上記の私信は許可を頂く前だったため、一応イニシャルでの表記とさせていただいていました)

treasure_sakiyamasan02.jpg

クールな大人の男の色気満載で素敵すぎます!!グラサン…!(*´д`)

嵜山さんには以前もボスを描いていただいたことがあったのですが、
存在感がありながらも繊細なタッチのイラストで、どちらのボスもむちゃくちゃカッコいいです!
ご本人がおっしゃっていた通り、今回のボスはちょっと若い感じですね♥( *´艸`)

改めまして、本当にありがとうございました!
二度もボスを描いていただけてすごくうれしかったです!(*´-`)

未来への追憶 第五話 - 03

 皆が息を詰めて見守る中、ゲートは口を大きく開き、それにつれて塀の内側が徐々に露になった。だが、敷地内も暗闇に包まれているため、肉眼ではよく見えない。レイは目を細め、身を乗り出すようにして前方に目を凝らした。
 確かに、ゲートから少し離れたところに人影が一つあった。フランツだ。丁度、正面ゲートに一番近い建物と、ゲートの中間辺りの場所に立っている。両手は体の脇に下ろしていて、武器を構えている様子ではない。
 すばやく目線を動かして車内のディスプレイを見ると、劉が本部から送ってきている監視カメラの映像とともに、フランツの姿も映っていた。そこには、偵察用ロボットによって捉えられ、拡大されたフランツの顔の表情までもが、はっきりと映し出されている。阿久津賢士の側からすれば、敵に本拠地へと乗り込まれる寸前とも言える状況であるはずのに、焦りや恐怖を感じている様子でもなければ、怒りを湛えている風でもない。相変わらず、緊張さえをも感じさせない、作り物のような冷たい無表情だ。彼はこれまでと同じく、豊かな金髪を後ろに撫でつけ、舞台や映画の衣装のような中世風の服に身を包んでいた。

「研究所の正面ゲートが開いた。フランツの姿を確認した」

 通信機で作戦に参加する全員に向かって報せたあと、クレイグはそのまま通信を切らずに「劉」と呼びかけた。

「今、屋外に出てきたのはフランツ一人か?」
「はい。こちらで確認できる範囲ではそうです」

 わかった、と短く答えると、クレイグは一度通信の接続をオフにした。それからしばし、フロントガラス越しに小さく見えている実際の像とカメラ映像の両方とで、フランツを観察する。レイもジャンもゆかりも、おそらくはレイの後ろにいるアマンダも、全員がフランツを注視していた。車内を張り詰めた空気が流れる。
 建物の入り口のガラス戸からは、明かりの消えた屋内が見えた。闇を背にした透明の自動ドアは、陰鬱な水槽のように見える。その前に佇んでいるフランツは身動き一つしない。SGAが研究所にやって来た理由がわからないため、SGAが次の行動に出るのを待っているのだろう。ここまでは望んだ通りの展開だった。
 こちらが動かない以上、フランツも動く気配を見せないと充分に判断できた頃、クレイグが前部座席から後ろを振り返った。無言で車内にいる全員の顔を順に見回し、目を合わせていく。アイコンタクトを受けたジャンとゆかりが目で応えるのが、レイにもわかった。鋭い光を宿したクレイグのダークブラウンの瞳と視線が合ったとき、レイもその目を強く見つめ、深くうなずきを返した。

「これより、阿久津賢士への接触を開始する」

 顔を前に戻したクレイグは再び通信を繋ぐと、静かな声で告げた。車内を満たす緊張感が急激に増す。
 ついで、クレイグは車体の外側に備えつけられたスピーカーから声を発信するため、マイクのスイッチを入れた。

「SGAのマーカス・クレイグだ」

 彼はマイクに顔を近づけて簡単にそう名乗った後、「阿久津賢士に用がある」とだけ伝え、相手の返事を待った。このまま反応が無ければ先を続け、早々に自分たちがここへ来た目的を明かすしかない。しかし、そうはならなかった。
 ややあって返ってきた返答はフランツの口から発せられたものではなく、彼が身につけているであろうスピーカーを通して聞こえてくる、阿久津賢士のあの声だった。

「私は君たちと進んで敵対するつもりはない、と言ったはずだが」

 感情を知的な上品さで覆い隠し、異様なほどの落ち着きと余裕を漂わせている。テーブルを囲んで茶でも飲みながら、旧知の友のうっかりをどこかおもしろ半分に指摘している老紳士。ついそんな光景が目に浮かんでしまうような、穏やかな口調だ。
 クレイグはすぐには答えなかった。

「我々も敵対しに来たつもりはない。話をしに来た。お前に話したいことがある」

 少し間を置いてから口を開いた彼は、阿久津賢士のペースに合わせるように、ゆっくりとした声で言った。毅然としてはいるが、相手を威圧するような調子にはならないよう、余計な力は込められていない。外の音を拾って伝えてくる車内のスピーカーからも、窓ガラスの向こうからも、増幅された音声が聞こえていた。
 また無言が続いた。その無機質な無言の間は、戸惑いや逡巡といった感情から生まれたものではないことが伝わってくるようだ。阿久津賢士がクレイグの言った“話”について、訝しんでいるわけでもなければ、なんの期待も興味も持っていないことを表しているように感じられる。SGAは自分に犯罪行為を止めさせるため、説得や非難の言葉を並べ立てに来たのだろうと思っているのかもしれない。
 もし彼がそう判断した場合、どのような行動に出るだろうかと、レイはフランツとその周囲に向けた注意を保ったまま考えを巡らせた。これまでにフランツたちと対峙したときのことを思えば、SGAであるレイたちのことをいきなり殺害しようとしてくることはないだろうと思いつつも、考えの読めない相手だけに行動も予測できない。
 阿久津賢士の返事を待たず、クレイグの声が再び静寂を破った。

「そちらが手出しをしなければ、私たちも決して攻撃を仕掛けたりはしない」

 以前に阿久津賢士が投げてきた言葉をそのままを返すかのように言い切る。そして、クレイグは首をひねると再度、後部座席の方を振り向いた。その目がほんの一瞬、しかしまっすぐに、レイの目を捉える。レイに対する二度目の合図だ。今度はレイがうなずく間もなく、クレイグはボタンを押して自分の座席の横のドアを開き、車外へ降りた。レイも狭い座席の間を通って車内の一番後ろまで移動し、バックドアを開いて固い地面に降り立つ。
 外に出ると、むっとした生暖かい空気に包まれた。昼間よりはずいぶん涼しくはなっているが、空調の効いている車内と比べると不快感を感じるほどの暑さではある。
 クレイグは車の右側に立ち、レイは左側に立った。持っていた拳銃型の麻酔銃は、車の後ろを回り込む際にホルスターに収めていた。まずは、こちらに戦う意思が無いことを示すのが重要だった。それでも後ろの車では武装部隊の隊員たちが、何かあればすぐさま飛び出せるように腰を浮かせ、麻酔銃を構えて待機しているはずだ。

「すでにわかっているとは思うが、正面から対立して無駄に騒ぎを大きくするようなことは、私たちも望んではいない」

 離れた場所に立つフランツに、そしてその向こうにいる阿久津賢士に届くように、クレイグが声を張った。しん、と静まり返った夜の空気の中に、彼の低い声が響き渡る。

「お前も、阿久津コーポレーションが汚されることは本望ではないんだろう」クレイグは続けた。「それはこちらにとっても同じだ。阿久津コーポレーションを失うことは、今の日本の社会や経済全体に大きな損害を与えることになる。お前の認識している通りだ。だからこそ警察ではなく、SGAが動いている。この件はSGAと阿久津コーポレーションの間で、なるべくひそかに解決したい。とは言え、もちろんお前の行いを見て見ぬ振りをするつもりはないが……しかし、今日はお前を逮捕しにきたわけでも、説得しにきたわけでもない」

 あらかじめ用意していた台詞をとうとうと述べるクレイグの声が、レイの鼓膜を震わせる。
 フランツはまだ動かない。車の側方や背後など、周辺の監視は車に残っているチームのメンバーや武装隊員、そして本部の劉が担当してくれている。レイはフランツだけに意識を集中させた。
 やがて、フランツがゆったりとした足取りで進み出てきた。レイとクレイグは身構え、レイは腰元にある麻酔銃に手を伸ばしかけた。だが、フランツの方はレッグホルスターの拳銃を抜くそぶりも、隠し持っているであろうナイフを取り出すそぶりも見せず、ただ歩いてくる。正面ゲートを通り抜けて外へ出てきた彼は、ゲートのそばに一つある外灯の下で足を止めた。明かりの輪の中に立った彼の全身が、くっきりと浮かび上がる。艶やかな金髪や、上着の鮮やかな濃赤色が強い光に照らされ、闇に沈んだ景色の中で、彼だけが明るい色彩を放っているように見えた。

「それでは、なんのために訪ねてきた?」

 先ほどまでよりもずっと近い距離から、阿久津賢士の声が問いかけてくる。
 それに答える前に、クレイグも相手に警戒心を与えない緩慢な動きで、車の前まで歩み出た。レイもそれにならって前に出ると、クレイグから数歩下がったところで立ち止まった。両者の距離がさらに縮まる。

「まず、お前にいくつか確認したいことがある。それから、伝えるべきことだ」クレイグは話を再開した。「その上で、今後さらに話し合いたい事柄もあるが、今日のところは必要なことだけを伝えて、我々は一旦引き上げる。それ以上のアクションを起こす気は無い。それに納得してもらえるというのなら――」
「ボス!」

 そのとき、耳元から劉の声が割り込んできた。クレイグは反射的に言葉を切り、レイは劉の切迫した声にはっとした。

「どうした」クレイグの声が硬くなる。
「西の商工業地区に人影が。大通りから2ブロック先、ヤガタ電子のビルの前です」
「何だと」

 瞬時にクレイグの声色が変わった。いつもは感情の起伏があまり感じられない彼の声に、驚きの色がはっきりと表れている。

「おそらく、一般人です」

 その単語を聞いた途端、レイは頭を殴られたかのような衝撃を受けた。訳がわからず、一瞬頭が真っ白になる。レイだけでなく、通信で報告を聞いた全員がそうだっただろう。
 なぜ、一般人が今、ここにいるのだ? 五日前から通知を出し、昨夜午後十時から交通を遮断して、研究所から半径一キロの範囲を立ち入り禁止とし、誰も残っていないことも確認したはずではなかったのか。現在も研究所へ通じる道はどこも武装部隊が固めているのに、いったいどうやって――
 レイとクレイグが動けないでいたのはほんのわずかな間だったが、その短い間に目の前のフランツが動いた。影がぱっと揺らいだかと思ったときには、すでに二人の前を飛ぶような速さで離れ、レイの横をすり抜けていた。レイは慌てて振り返り、フランツの後ろ姿を目で追う。彼が向かったのは、研究所正面の大通りを越えた先にある西側の地区――ヤガタ電子も含め、オフィスビルや工場が並んでいる方面だ。

「待機三班、至急ヤガタ電子の前に向かい、一般人を保護しろ」

 即座に、ヤガタ電子に一番近いポイントで待機していた武装部隊のチームに、クレイグが通信で指示を出した。それとほぼ同時に自らも地面を蹴り、フランツの向かった方向へと駆け出す。レイもその背中を追った。レイの判断を良しとしたらしく、クレイグは何も言わなかった。
 数区画先くらいまでの距離ならば、わざわざ車に戻って移動するよりも、直接追いかけた方がいい。それに何より、全員が研究所の前を離れるわけにはいかない。

「クレイグだ。こちらでフランツを追う。ベルティエと支援班は一旦大通りまで戻れ」

 走りながら、クレイグはまた通信機を使い、激しい呼吸の合間で一息に命じた。

「わかった」
「支援班、了解」

 間を空けず、ジャンの声と、ジャンたちの後ろについている車に乗る、武装部隊の男の声が続いた。
 車の通りの無い広い道路を横切り、街灯に照らされた夜の歩道を駆け抜ける。レイとクレイグは、通り沿いのビルや工場の前を次々に通りすぎた。
 一ヶ月前、医療研究所では追いかけてくるフランツから必死に逃げていたが、今回はレイが追う側だ。今は恐怖心よりも、怒りと焦燥感の方が勝っていた。フランツは何をするつもりなのか。一般人が巻き込まれることだけはなんとしても防ぎたい。間に合ってくれ。レイはひたすらに祈りを込め、一心不乱に走った。
 フランツの背中はどんどん遠ざかり、小さくなっていく。距離が空くほどに彼の姿は闇に呑まれて見えづらくなったが、前を走るクレイグは少しの迷いも見せずに進んでいた。おそらく、頭にはこの辺りの地図がしっかりと入っており、それも頼りにしているのだろう。地図を事前に何度も確認したのはレイも同じだったが、それでもレイの方は時折、手首の通信機で表示させているマップにちらちらと目をやり、劉が知らせてきた位置を確かめた。
 ほどなくして、前方から喧騒が聞こえてきた。通りの先、二つ目の曲がり角の辺りに人が集まっている。フランツの姿もあった。先に到着した武装隊員たちがフランツの前に壁を築くように並んでおり、その後ろに五、六人ほどの若者がいる。皆、まだ十代だろうか。少女も二人いる。
 劉に報告を受けたときから、一般人と思しき人間というのは実は阿久津賢士側の囮なのではないかという疑いもあったのだが、心底から怯えきった彼らの様子は、間違いなく普通の一般市民であることを証明していた。なぜ彼らがここにいるのかはわからないが、今はそれどころではない。
 健二を乗せた車が待機している位置からもそう離れていない場所だ。レイとクレイグは、集団から七メートルほど離れたところで足を止めた。

「待機二班、北側に移動しろ。徐行で少しずつ、数十メートルほどでいい。研究所にはそれ以上近づくな」

 フランツに聞こえないよう、クレイグがトーンを落とした声で言うのが左耳のイヤホンを通して聞こえてきた。健二を連れているチームに向けた指示だ。
 フランツは武装部隊と向かい合う形で、じっと立っていた。彼にはなぜ、若者がここにいることがわかったのだろうか。劉からの通信はSGAにしか聞こえていないはずだ。仮定としても無理があるが、クレイグの発言からおよその内容を推測したのだとしても、正確な場所まではわかるはずがない。
 突如、フランツがすでに右手に持っていた拳銃を構え、武装部隊に向けて発砲した。夜空をつんざくような、若い女の悲鳴が響き渡る。一発は列の中央にいた隊員の腕に当たり、もう一発はその横にいた隊員の手から麻酔銃を弾き飛ばした。二人の隊員がよろめき、武装部隊の壁が崩れる。そこを狙い、フランツが武装隊員の後ろで身を縮こまらせている若者に銃を向けた。
 彼は罪も無い若者を殺すつもりなのだ。文芸交流センターでアンチ・テクニシズムの人々を殺したように。

「止めろ!」

 レイは思わず叫び、咄嗟に腰のホルスターから麻酔銃を抜いて構えていた。フランツの背中に照準を合わせる。しかし、引き金を引こうとしたところで指が止まった。
 今日、阿久津コーポレーションの研究所に来たのは、阿久津賢士と話し、健二の存在を彼に知らせることが目的だ。ここでフランツとSGAが戦闘になれば、その目的は果たせなくなるかもしれない。やむを得ない場合以外は、麻酔銃を撃ったり、攻撃したりすることは禁じられていた。
 目の前の状況は、まさにその“やむを得ないとき”に思えるが――

「一般人の保護を最優先にしろ」

 横目でクレイグをうかがうと、彼は言った。

「はい」

 汗ばむ手で改めて麻酔銃を構えなおしたが、レイが撃つとほぼ同時に、フランツは身を翻した。ダートは当たらなかった。
 クレイグの許可を受けた武装隊員たちも、フランツに向けてライフル型の麻酔銃を撃ち始める。フランツは、およそ人間とは思えない例の素早い身のこなしでダートをかわしていたが、数が多いためか避け切れず、何本かのダートは彼の服や靴をかすめた。
 現状の把握もままならず、パニック状態に陥った若者からまた悲鳴が上がる。何人かは堪らず通りの奥へ逃げようとした。その際、若者の一人――派手な髪色と服装をした少年の手から何かが落ち、地面を転がった。危険物ではないかと、レイは少年たちの足元を離れていく物体に注意を向けたが、どうやらそれは、発光塗料が噴射される画材道具のようだ。スラム街の近辺以外で見かける頻度はそれほど多くはないが、時には、街中の塀やシャッターなどに低俗な落書きを残すのにも使用されるものだ。
 こんな時間に出歩いていたことや外見の雰囲気からしても、普通に考えれば彼らは大方、自分たちのフラストレーションをどこかにぶつけようと企んでいた不良グループだろう。
 フランツは続けざまに放たれるSGAのダートを避けながら後退し、ヤガタ電子のビルの横の路地に身を隠した。
 レイはクレイグとともに、武装部隊と若者に走り寄った。武装部隊の隊員たちは、散り散りになりかけた若者を一ヶ所に集めようとしている。

「大丈夫か!」

 声をかけながら近づいていくと、ふと、スプレーを持っていたのとは別の少年が着ているTシャツの文字が目に入った。
“I'M AGAINST TECHNOLOGY THAT BLASPHEME NATURE.”
 書き殴ったような力強いフォントを使用して大文字で記されたその言葉は、これまでアンチ・テクニシズムのデモの際などに、人々の服やプラカードの上で何度も目にしたものだった。この少年少女たちもアンチ・テクニシズムのメンバーということなのか。
 銃声が鳴り、銃弾がレイの背後の建物の外壁を穿った。フランツが再び建物の影から躍り出てくる。

「一般人を逃がせ!」クレイグが叫んだ。

 武装部隊が若者を囲み、通りを西に向かって走るよう促そうとしたが、手を取り合っていた一組の男女が、武装部隊が誘導する方向とは逆――研究所の方に向かって逃げ出した。

「違う! そっちは――」

 言いかけたところで銃弾が肩をかすめ、レイはひやりとして息を呑んだ。フランツが二発、三発と続けて撃ってくる。弾はレイや武装隊員からわずかにそれた位置に飛んできた。牽制のつもりなのか、わざと外した場所に撃っているようではあったが、SGAは身動きが取れなくなる。
 このまま押してくるつもりかと思ったのだが、フランツはSGAの態勢が崩れた隙に攻撃を止め、研究所方面へ逃げた二人の男女を追うように駆け出した。不意を突かれた上にとても追いつけるような速さではなく、レイたちはまたもや反応できなかった。しかし、慌しい一連の動きからも、フランツにもどこか人間的な必死さがうかがえるようにも思える。

「ベルティエ」クレイグが通信機に向かって呼びかけた。「そちらに一般人二人が逃げた。若い男女だ。フランツがそれを追っている。支援班とともに対応してくれ」

 早口で命じると、次に、負傷者の怪我の具合を確認したり、若者たちを落ち着かせながらも、未だ用心深く周囲に気を配っている武装部隊に声をかける。

「車に戻って、西側の道路封鎖地点まで後退しろ。本部に応援を頼んで、負傷者と保護した一般人を本部まで搬送するんだ」
「阿久津の研究所方面へ逃げた二人は――」
「こちらで対処する」

 最後に、クレイグはレイを振り返った。

「私たちも研究所へ戻るぞ」
「はい!」

 暑さと緊張からとめどなく滲み出してくる汗が、レイのこめかみや額を伝い、滴り落ちていく。長い前髪が濡れて顔に貼りついていた。息が上がっている。レイは振り払うような動作で乱暴に、顔を流れる汗を腕でぬぐった。
 二人は、ぽつぽつと等間隔に並ぶ街頭の光だけが浮かび上がる夜の町を、たった今来たばかりの道を引き返すため、再び走り出した。


* * *


 ジャンはクレイグからの指示を受け、車の外に出て待機していた。車は武装部隊の車両とともに、大通りを塞ぐような形で停めてある。ゆかりも車から降りてくる。車内からの支援や運転を担当する者を除き、武装部隊の隊員たちも外に出てこれから待ち受けている事態に備え、体の前で麻酔銃を構えている。
 ジャンは乱暴な口調で武装部隊に指示を出した。

「一般人二人が逃げてきたら、フランツを牽制してる間に何人かでそっちの車に乗せろ」
「はい」

 ゆかりは車の横に立ち、開いたままの研究所の正面ゲートの方を見つめていた。
 今、捜査チームの車に残っているのはアマンダだけだ。今回から彼女も作戦に同行することにはなったものの、戦闘には参加できない。それなら連れてこなければいい、とジャンは思う。支援の任務もまだ満足に行えないのだし、余計なリスクが増えるだけだ。クレイグにも一度はそう意見したのだが、聞き入れられなかった。
 ジャンは武装隊員たちとともに、大通りの西側の小さな工場やオフィスビルが固まっている地区に目を向け、若者とフランツがやって来るのを待ち構えていた。
 先ほど、銃声が何発か続いてからはまた静寂が戻っていたが、いくらもしないうちに、通信が繋がる際の小さなノイズがそれを破った。そんなかすかな音が、静けさの中でやけに大きく聞こえた。

「研究所の敷地内に和泉かおるが――」
「ああ?」

 劉の早口の報告に、ジャンは彼の言葉を最後まで聞かずに遮り、研究所を振り返った。同時に、金属が何かとぶつかるような固い音がし、頭上の偵察用ロボットが空中でぐらついて大きく下降する。

「うわっ」繋がったままの通信から、劉が慌てた声を上げるのが聞こえた。

 ロボットはそのまま地面に衝突するかと思ったが、どうにか落下は免れ、バランスを取り戻すと研究所から距離を取った。

「趣味悪いですよ。一方的に覗き見するなんて」

 どうやって登ったのか、正面ゲートからいくらか右にそれた塀の上に、和泉かおるが座っていた。車と一緒に偵察用ロボットもいくらか後退させていたため、音も無く現れたかおるに、本部で監視していた劉も気がつくのが遅れたのだろう。辺りの暗さもあってか、ゲートの先に注意を向けていたゆかりも気づかなかったようだ。
 かおるは足を組み、にやにやとした笑みを浮かべてこちらを見下ろしている。彼が何かを投げ、SGAの偵察用ロボットに命中させたらしかった。

「かおる……!」
「かおる、止めるんだ」

 ゆかりが何か言いかけたが、かおるを諌める声がそれをさえぎった。阿久津賢士だ。彼の声は、今も周囲の空気を伝わり、ジャンの耳にも届いている。フランツはそばにいないので、おそらくかおるの白衣にもフランツのものと同じ、小型のスピーカーが取り付けられているのだろう。

「そのようなことは必要無い」
「ごめんなさーい、マスター」かおるはわざとらしく肩をすくめた。芝居じみた大げさな声色を作り、さも申し訳無さそうに言う。「うろちょろしてるのがうっとうしくて、つい」

 かおるを制したということは、やはり阿久津賢士はあくまで、SGAには進んで攻撃するつもりはないということか。

「なぜ、無関係な一般人を殺そうとするの?」ゆかりが声を上げた。「彼らは、あなたたちを攻撃したわけじゃないでしょう? 今すぐ、フランツに一般人を狙うのを止めさせて! 私たちはあなたに話があって来たのよ!」

 かおるを通して阿久津賢士に訴えるが、阿久津賢士は答えない。
 ジャンはかおるを気にしながら、ビルの立ち並ぶ商工業地区にちらりと視線を移した。ちょうど、ビルの合間から、通りをこちらへ向かって駆けてくる人影が見えてきた。クレイグが言っていた一般人の若者二人に間違いない。
 ジャンは思い通りに進まない状況に苛立ちが募り、舌を鳴らした。すぐに、彼らを追うフランツの姿も現れる。フランツに狙われている一般人の保護と和泉かおるの相手、両方を同時にこなせというのか。

「くそっ!」

 ジャンは毒づきながら、もう一度かおるを仰ぎ見た。彼は塀の上に腰かけたまま、傍観しているかのように、暢気な表情でこちらを眺めている。ぱっと見たところ武器を持っている様子ではないが、一つか二つは隠し持っている可能性が高い。
 彼は、フランツの応援のために出てきたのだろうか。若者たちが近づいてきたら、フランツと一緒に彼らを殺すつもりなのか。今のところ、かおるの態度は静観を決め込むつもりのようにも見えるが、突然行動を起こすことも充分に考えられるため、彼の存在を無視するわけには到底いかない。だが、今はフランツに追われている一般人の保護を最優先にしなければならない。

「三人、ここに残れ。こっちからは絶対手出しすんじゃねえぞ。向こうが攻撃してきたら、麻酔銃を使いながら退け。無理に当てようとはしなくていい」

 武装部隊にそう言うと、次にジャンはゆかりに目を向けた。

「ゆかり、頼む」

 託すように、力を込めてそれだけ言った。本当はゆかりをかおるのそばに置いていきたくはないが、仕方が無い。フランツを追わせるよりは、こちらの指揮を執ってもらった方が良い。
 そんなジャンたちのやり取りを、かおるは相変わらず楽しそうな、しかしなんとなく気だるそうな、生気の足りない笑みを浮かべて高みから見物している。
 横目でジャンに視線を向けたゆかりは、強い意志を秘めた眼差しを寄越し、しっかりとうなずいた。彼女の目と、背筋の伸びた小さな背中は、わかっているわ、とジャンに告げていた。
 それを見届けてから、ジャンは死に物狂いで走っている若者と、肉食獣のように彼らを追っているフランツの元へ向かった。武装部隊は命令通り、研究所の前に三人を残し、あとの四名がジャンについてくる。
 固く手を握り合った二人の若者はまっすぐ研究所を目指さず、左に大きくカーブを描くように大通りを移動し、研究所前の歩道を正面ゲートのある側とは反対方向へと走っていく。研究所の塀沿いに、北側へ逃げるつもりなのだろう。
 フランツは先回りをするように、大通りを挟んだ反対側の歩道を走っていた。若者との距離は見る間に縮まっていく。ジャンたちの方も、両者に迫りつつあった。
 やにわに、フランツが走る速度を落としたかと思うと、走りながら右腕を上げ、銃口を大通りの向かい側――二人の若者に向けた。少女と少年のどちらを狙っているのかはわからないが、文芸交流センターのときなどの一発必中の銃撃の様子を見るに、彼はおそらく外さないだろう。ジャンは足を止めて麻酔銃を構え、フランツに照準を合わせたが、それより早くフランツが引き金を引いていた。けたたましい銃声が空気を貫く。
 だが、少年も少女も死ななかった。フランツが引き金を引いたとき、少女が足をもつれさせて転んだのだ。それに引きずられるように、手を繋いでいた少年の方も体勢を崩して膝をついた。そのおかげで奇跡的にタイミングが合い、銃弾は彼らをそれた。
 フランツが二発目を撃つ前に、ジャンは若者との間に割り込むように、フランツの前に立ちはだかる。すかさず麻酔銃を撃ったが、当然のようにかわされた。薄いブルーの瞳がジャンを射抜く。フランツは標的を素早く若者からジャンに変え、発砲してきた。当然ジャンには防ぐことなどできず、銃弾がジャンの持つ麻酔銃に当たる。幸い手はかすらなかったが、銃は宙を飛んで離れたところに落ちた。さらに、少し地面を滑ってから止まる。
 フランツは、ジャンに続いて麻酔銃を撃ち放っていた武装隊員たちにも次々と銃口を向けた。同じように銃弾に弾かれ、彼らの手から麻酔銃が奪われる。一人は手に弾が当たったようで、短く悲鳴を上げた。
 フランツは武器を失ったSGAを置いて、うずくまったままの若者に近づいていく。
 ジャンは研究所前に残ったメンバーに応援を頼もうと振り返ったが、フランツを追っているうちに正面ゲートからだいぶ離れたところまで来ていた。遠い。今から彼らを呼んでも間に合わない。
 ジャンの視界には、すべてがスローモードで再生されている映像のように映っていた。少年が、少女をかばうように前に出る。フランツは銃を構えながら歩み寄ると、少年の眉間の辺りに狙いを定める。少年が先に撃たれる。そう思ったが、寸前で少女が飛び出した。守るように大きく手を広げて少年に抱きつきながら、フランツを見上げ、「止めて!」と悲痛な声で叫ぶ。
 そのときだった。突然、強いショックでも受けたかのように、フランツが硬直した。今度は映像が一時停止でもしたかのように、完全に固まっている。
 ジャンは自分の目がおかしくなったのかとさえ思ったが、体は考えるよりも先に動いていた。フランツに向かって猛然と走り出すと、その勢いを緩めないまま、渾身の力を込めてフランツに体当たりをした。ぶつかった衝撃がジャンの全身を襲う。
 フランツはすぐに反撃してくるだろうと思っていたが、予想に反し、彼は直前で反応することも、体勢を立て直そうとすることもなかった。拍子抜けするほど容易にふっ飛ばされたフランツの体はまともに地面に打ち当たり、地面を数度転がる。力の抜けきったようなその様は、電源の切れたアンドロイドのようだ。彼の持っていた拳銃は、彼から数メートル離れたところに落ちていた。敵から武器を遠ざけるべく、武装部隊の隊員が一人、拳銃を拾いに駆けつけるのが目の端に見えた。
 突然、どうしたというのだろうか。フランツの様子があまりにも不可解で、ジャンは戸惑った。フランツは打ち捨てられた人形のごとく、うつ伏せの状態で倒れたまま、まるで死んだようにぴくりとも動かない。どちらにせよ、今のジャンの攻撃で大きなダメージを負った可能性もある。
 何が起こったのかはわからないが、SGAにとってチャンスであることには違いなかった。ジャンは座り込んだままの男女に向きなおった。

「おい、立つんだ! さっさと逃げろ!」

 車を停めている方向を指差し、声を荒らげる。若者二人は恐怖のあまり放心したように、見開いた目で茫然とジャンを見上げていたが、やがてふらふらと立ち上がった。おぼつかない足取りながらも、ジャンが示した方向に進もうとする。急いでジャンたちに走り寄ってきた武装隊員に向かい、連れて行け、と声を張り上げようとした、そのときだった。

「邪魔だ」

 怒気をはらんだ低音が、真後ろ――後頭部の間近から聞こえ、ぞっと首筋が粟立った。慌てて体を反転させようとしたが、そのときにはすでに襟首を掴まれた後だった。そのまますさまじい力で後ろに引っ張られ、周囲の景色が後ろから前へ流れる。体が地面の上を飛んでいたかと思うと、あっという間に固いアスファルトに背中がぶつかり、一瞬呼吸が止まった。ぐっ、と呻きがもれる。反射的につぶった目を開くと、かすむ視界にフランツの背中が映っていた。彼に投げ飛ばされたのだと理解するのに、数秒の時間を要した。
 たった今まで、気絶でもしたのかと思うような状態だったのに、もう動けるようになったのか。ジャンは痛みを堪えながら上体を起こした。武装部隊の隊員たちがジャンの名前を呼んでいる。
 フランツはまた二人の若者に接近していた。右手には拳銃ではなく、ナイフが握られている。しかし、よく見ると彼の動きはいつもよりぎこちない。やはりダメージは負っているようだ。
 そばにいた二人の隊員が少年と少女の肩を押してフランツから遠ざけようとしたが、フランツはさっと間合いを詰めて一人目の隊員を蹴り飛ばすと、もう一人の隊員が突き出した拳を難なく避け、彼の服を掴んで地面に叩きつけた。一度若者に背を向けたフランツは、背後で麻酔銃を構えていた三人目の隊員に数歩で迫り、その手をナイフで切り裂いた。麻酔銃が隊員の手からこぼれ落ち、直前に撃たれたダートはまったく見当違いの方向に飛んでいく。反撃もままならず、片手でフランツに放り投げられた隊員の体は、地面に落ちた麻酔銃を拾おうとしていた別の隊員にぶつかる。わずか十秒にも満たない間にそれらの行動をやってのけたフランツは、再び若者に向きなおった。
 ジャンは立ち上がろうとしたが、体を動かした途端、全身を強い痛みが襲った。手足は麻痺でもしたように力が入らない。逃げろ! とジャンは声にならない叫びを上げたが、若者二人は怯えきった様子でじりじりと後ずさるだけで、踵を返して走り出そうとさえしない。フランツの冷たい瞳に捕らえられ、足がすくんでしまって動けないのだ。
 フランツを麻酔銃で狙おうにも、その麻酔銃はジャンの手から遠く離れた場所に転がったままだ。今、手元にある武器はショルダーホルスターに収められた、通常の弾丸が込められた拳銃だけだった。この銃を使うしかないか。そんな思いが脳裏を過ったが、それが許されないことくらいは、ジャンもよく理解していた。
 威嚇射撃だけなら大丈夫かもしれない。だが、今の焦点の定まらない視界では、射撃の腕に自信のあるジャンでも、狙った場所に正確に弾を撃てるかわからない。
 フランツがナイフを振り上げる。駄目だ、もう成す術が無い。悔しさで噛みしめた歯が、ギリリと鳴る。今度こそ、彼らはフランツに殺される。ジャンは目の前が暗くなるように感じた。


* * *


 暗い部屋の中、正面の壁の前には壁一面を覆い尽くすほどの数多のディスプレイが並び、それぞれが研究所の周囲の様子を映し出している。彼は、ゆったりとした座り心地の良い椅子に腰を下ろし、様々な大きさをしたディスプレイを眺めていた。
 部屋の電気は消えているが、ディスプレイが発する青みがかった光が彼の座る椅子の辺りまであふれ、まるで淡いスポットライトにでも照らされているかのようだ。暑苦しくまとわりつくような間接照明の明かりなどよりも、彼にとってはこの光の方がよほど心が落ち着く。
 ディスプレイに映る光景は目まぐるしく変わり、激しい動きを見せていた。部下として使っている者の一人であるフランツが、研究所の方へ逃げてきた若者二人を追い詰めている。ところが、銃を構えたところで突然、フランツが硬直したように動きを止めた。すかさず、SGAの大柄な男――ジャン・ベルティエが体当たりを仕掛けるのが監視カメラのレンズ越しに見えたが、フランツはそれを避けようともしなかった。フランツの服に装着したカメラと繋がっている二台のディスプレイの映像が大きく乱れた。
 思わず舌打ちが出た。あの男はまたミスを犯した。やはり調整が上手くいっていないのだ。

「役立たずが」

 低い、ぼそりとした呟きがもれる。椅子の肘掛けを包む指に力が入る。一時、苛立ちに心を支配されたが、荒れた海が凪いで潮がすっと引いていくように、感情の波はすぐに静まった。
 そんなことはすべて些細なことだ。ただの若者を何人か始末し損ねたところで、今さらたいした問題にはならない。もともと計画に含まれていたことでもないのだ。
 しかし、どんな策略を思いついたのかは知らないが、研究所まで出向いてきたSGAについてはそうはいかなかった。今まで自分が積み上げてきたすべてが、こんなところで無に帰すような自体になることだけは避けねばならない。
 椅子の傍らには少女が立っている。先ほどから何も言わない彼女が、自分を見守っているのが感じられた。彼女が黙ってじっとしていたなら、他の人間には、たとえそばにいても彼女の気配を感じることはできないだろうが、彼にだけはわかる。姿を見ずとも、彼には彼女の鼓動の音までもが聞こえてくるようだった。
 彼はふう、と静かに息を吐き出した。仕方が無い。どのみち、遅かれ早かれ実行しようと思っていたことだ。多少、最初の計画とは異なってしまったが、小さな予定の狂いはすでに何度も生じている。行き着くところが同じならばそれで構わない。それに、フランツとかおるだけに頼るのもそろそろ限界ということなのだろう。
 彼の背後、椅子から幾分離れた暗がりの中に、二つの人影が並んでいた。彼――阿久津賢士は前を向いたまま、人形のようにずっと身じろぎさえせず控えていた男と女に指示を出した。


* * *


「アマンダ、駄目だ!」

 レイとクレイグが大通りまで辿り着いたのと、イヤホンから劉の叫ぶ声が聞こえてきたのはほぼ同時だった。真っ先に視界に飛び込んできたのは、車で待機していたはずのアマンダが大通りを走っている姿だ。
 予想外の光景に、レイは動揺を禁じ得なかった。彼女がまっすぐ向かう先に視線を転じると、そこにはフランツと、ヤガタ電子のビルの前から逃げてきた二人の若者がいる。その周囲に倒れているのはSGAの人間だ。
 アマンダは正面ゲートとフランツたちのいる場所までの間の、ちょうど中程で立ち止まった。

「止めろー!」

 ただただ必死であることが窺える叫びを上げながら麻酔銃を構え、アマンダは通りの先で背を向けているフランツに向けてダートを撃ち放つ。しかし、まだ射撃訓練の経験すら少ないアマンダの撃ったダートは、狙ったはずのフランツから大きく外れて飛んでいった。
 今にも若者に振り下ろそうとするように、高く右腕を上げていたフランツはその手を下ろし、アマンダの方に体を向けた。次の瞬間、彼は右手に持っていたらしきナイフを彼女に投げつけた。街灯の光を反射して閃きながら、ナイフが闇を切り裂くように飛んでいく。その様子を目の当たりにしていたレイが、危ない! と声を上げる間もなく、金属音が耳を突き刺した。
 ナイフがアマンダの持つ麻酔銃に命中したのだ。アマンダがよろめく。頭上に投げ出された銃が空中で回転しながら、アマンダの数メートル後方に落下した。

「アマンダ!」

 レイは心臓が凍りつくような心地だった。クレイグとともにアマンダのもとへ駆けつけるべく、あまりの衝撃に止まってしまっていた足を再び動かす。
 フランツの投げたナイフの方は、硬い音を響かせて二度ほど弾んでから、アマンダの足元からそう離れていない位置に転がっていた。唯一の武器が手元に無くなって焦ったのか、周りを見回したアマンダは、そのナイフを拾った。
 それを見たフランツがさっと身をかがめたかと思うと、自らの左足のブーツに隠し持っていたもう一本のナイフを引き抜く。

「止めるんだ、アマンダ!」

 通信の向こうで、劉が珍しく冷静さを欠いた声で叫び続けている。
 フランツが動いたと思うと、一気にアマンダの前まで移動していた。おそらくほとんど反射的に、アマンダがナイフを突き出す。それを、フランツも自分の持つナイフで受ける。一歩下がりながら、アマンダが前方の空気を薙ぐように、またナイフを振るった。フランツは今度もそれを軽々と受けながら、前へ踏み出す。アマンダがさらに後ずさる。
 フランツはアマンダの決死の攻撃をものともせず、涼しい顔で容易く防いではいるが、彼から殺気は感じられない。SGAは本気で攻撃しないという阿久津賢士の意向は変わっていないようだ。しかし、このままやり合っていればどうなるかわからない。現に、アマンダが三度目の攻撃を繰り出したとき、フランツの目に力がこもった気がした。
 レイとクレイグは程よい距離まで近づけたところで、フランツにダートを浴びせ始めた。体の向きを変えながら、フランツはナイフでダートの一本を打ち落とし、飛び退って続けざまに飛んでくるダートから逃れた。
 先ほどまで倒れていた武装隊員の一人も加勢に加わる。フランツは少しずつアマンダから離れていった。ここで攻勢をかけたいところだったが、レイやクレイグの麻酔銃に装填されたダートはもう残り少ないため、慎重に撃つ必要がある。
 そこで、右側――正面ゲートのある方向からもダートが飛んできた。小さな矢はナイフを持ったフランツの手をかすめ、大きく退いたフランツはそのまま正面ゲートの方へ戻っていく。
 フランツと入れ替わるように、武装隊員を一人連れたゆかりが、アマンダの名を呼びながら駆けてきた。ダートを撃ったのはゆかりだった。正面ゲートのそばに姿を見せたかおるに動く様子が無いため、こちらの援護に回った方が良いと思ってやって来たらしい。彼女は、恐怖からか足元のふらついているアマンダの肩を支えた。

「アマンダ、大丈夫か!」レイもアマンダに走り寄る。
「う、うん」アマンダはもともと大きな目をさらに丸くして、呆けたようにレイを見上げながら、やけに力強くうなずいた。

「怪我は?」

 ゆかりがたずね、アマンダはまたうなずく。

「うん、大丈夫」

 クレイグも何か言いかけるように口を開いたが、その唇はなんの音も発さずに再びきつく引き結ばれた。代わりに周囲に目を配り、状況の確認を始める。今はアマンダの行動を叱責するよりも、この場への対処が先決だと判断したのだろう。
 先ほどレイたちに加勢してくれたのとは別の武装隊員が、負傷したらしく仰向けに倒れていたジャンを助け起こしたところだった。そして、残りの二人の隊員は、フランツがアマンダを相手にしていた間に若者を連れてレイたちの後ろを回り込み、武装部隊の車両に向かって移動していた。クレイグの指示で、レイたちも彼らを追って、再度正面ゲートの方へ向かう。
 自分たちの車を停めてある位置まで戻ってきたとき、先にヤガタ電子のビル前で一般人を保護していた武装部隊からの報告が入った。

「待機三班、道路封鎖地点までの移動、及び本部への応援要請、完了しました」
「よっしゃ!」

 レイは、数人の隊員に連れられて武装部隊の車に乗り込む若者の背中を見送りながら、無意識にそう声に出していた。胸中を満たしていく喜びと達成感を表すように、自然と右の拳を腰の辺りで握りしめている。
 アマンダの行動は危険極まりない無謀なものではあったが、幸い彼女は無事だったし、結果的に二人の若者を助けられた。怪我を負った仲間もいるが、命に関わるような重症ではない。巻き込まれた一般人も、全員救うことができた。上手くいったのは、作戦に参加する人員が増加したことも大きいだろう。
 文芸交流センターのときとは違う。これで、SGAは阿久津賢士に対抗できる。風向きが変わったのだ。そんな希望が、手を伸ばせばつかめそうな存在感を持って湧き上がってきた。
 レイは高揚しそうになる気持ちを一度抑えようと努めながら、気を引き締めなおして研究所を振り返った。まだ終わってはいないのだ。むしろ、本当の任務はこれからとも言えた。
 フランツは正面ゲートの前に戻り、最初に研究所から出てきたときと同じように、こちらを向いて立っている。そのときと異なるのは、彼の右手にナイフが握られていることだ。

「残念でしたねえ、フランツ」

 いつの間にかその横に立っていたかおるがからかうように声をかけたが、フランツはまっすぐ前を向いたまま、反応を示さなかった。だが、その顔つきは幾分険しいようにも、そしてこちらを見つめる瞳の鋭さは怒っているようにも見える。
 クレイグが研究所に近づいていき、フランツとかおるからは距離を置いて、ゲートの正面で立ち止まった。レイもそちらへ向かって歩を進めると、クレイグの横に並ぶ。それに続き、ゆかりとアマンダ、そして武装隊員の支えを振り払ったジャンも、同様にクレイグの周りに集まってきた。皆が、阿久津コーポレーションの研究所と向かい合って立つ。保護した若者と一緒に車へ戻った二人はいないが、その他の武装隊員たちも、捜査チームの後ろに集合する気配がした。レイのそばには偵察用ロボットも浮かんでいる。
 しばし、フランツとかおる、そしてSGAが真っ向から睨み合う形となった。

「どういうつもりだ」

 クレイグが静かに問いかけた。緊張感を増した彼の声は、今夜初めてフランツと顔を合わせたときよりもさらに低く、怒りが含まれているようにも聞こえる。

「先に手出しをしたのはそちらだろう」阿久津賢士の悠然とした声が答える。
「目の前で一般人が殺されそうになっていれば、見過ごすことはできない」

 そう返したあと、クレイグは探るように続けた。

「我々の前で一般人を攻撃するということは、進んで我々に敵対するということだ。SGAの方から攻撃せざるを得ない状況を作り、戦闘になるよう仕向けたのか?」
「違う」

 阿久津賢士は即座に否定した。

「私にも見過ごせないものはある、というだけのことだ」

 彼がそう言い終えたとき、なんの前触れもなく前方で無数の照明が灯り、夜空に白い光が広がった。正面ゲートのすぐ先にある建物の室内照明や、研究所の敷地内を照らす外灯が一斉に点いたのだ。正面ゲートの周りだけが、昼間のような明るさになる。暗闇に慣れた目を突き刺す強烈な光に、レイはまぶたを細めた。そうやって相手の目をくらませ、その隙に攻撃を仕掛けるのが狙いなのかと、レイは無理に光の中に目を凝らしたが、そうではなかった。
 フランツとかおるは依然として、正面ゲートの前から動かない。舞台に立つ役者のように目を引く立ち姿の二人の顔は、逆光で陰になっている。
 彼らの後ろにある、ついさっきまで電気の消えていた建物――その入り口の自動ドアより左側、離れた位置にあった大きな扉が、音を立てて開き始めた。そこにある扉のことなど、今までまったく気に留めていなかった。上下に開閉するタイプのそれは、荷物の搬入出を行う車両用の出入り口だろうか。
 扉の向こうもまばゆい光に溢れており、扉がゆっくりと開いていくごとに、中からこぼれ出る明かりが外の地面を照らす光と交じり合った。
 そして、建物の中には誰かがいた。扉から数歩空けて、両脚をまっすぐに伸ばして立った男が一人、そこからまた少し下がったところに女が一人立っている。
 扉が持ち上がるとともに、脚、上半身と、扉によって隠れていた二人の人間の姿が露になっていく。彼らの首の辺りまでが見えた時点ですでに、レイの心臓は頭に浮かんだ予感に早鐘を打ち始めていたが、二人の顔が完全に見えたとき、レイはとてつもない衝撃に見舞われて目をみはった。息が止まる。
 扉が完全に上がりきってから、男が一歩一歩踏みしめるような仰々しい身のこなしで進んでくる。男は古風な袴姿だった。彼の動きに合わせ、長髪がかすかに揺れる。その後ろに、付き従う影のようにひっそりと女がついていく。彼女の方はシスターが着る修道服のような丈の長いワンピースを着て、頭にはベールも被っていた。透き通るような白い肌と赤毛が、黒い衣服に映えている。
 レイの全身は寒気でもするように、小刻みに震え始めていた。見開いた目は、光の中から歩み出てくる二人の人物に釘付けになり、まばたきさえできない。
 見た瞬間、“彼ら”だと確信したのに、すぐに思考が勝手に働き、違うと思いなおした。非現実的で異様な二人の身なりは、レイの知っている彼らのイメージとは結びつかない。フランツやかおると同じく、仮装のようなその格好は滑稽ですらあるはずなのに、とても笑う気にはなれない。何より、冷ややかな目や感情の消えた表情は、本来の彼らの雰囲気とはあまりにも違いすぎていた。
 しかしそれでも、よく見知った馴染みのある顔立ちは見間違うはずがない。それは、間違いなく彼らの――レイの親友のものに他ならなかった。

「こ、虎太郎……シンディー……」

 かすれた呟きが、レイの唇からもれた。



>> To be continued.



雑記にてすごく長くなりそうと言っていた「第五話 - 03」ですが、やはりとてつもない長さになってしまいました…!
第三話辺りからの一回分の、1.5~2倍くらいの文字数です(笑)

読んでくださった方、本当にありがとうございます!!
戦闘シーンは動きが多いので、それだけでもどうしても描写が増えて長くなりがりですね。

今回はようやく虎太郎とシンディーが登場して、敵側メンバーもだいぶ出揃ってきました。
ここまでをどうしても03に入れたかったのです。
そして、初めての阿久津賢士視点のシーンもありましたが、今後、敵側の視点も少しずつ増えていくと思います。

今回は大変長らくお待たせしてしまって申し訳ありませんでした。
次回の04はこんなに長くはならないと思います(笑)

前回の記事等に拍手をくださった方もありがとうございました!

読者数の参考にしたいので、小説を読んでくださった方は各記事の拍手ボタンを押していただけますと助かります。
もちろん強制ではありませんので、気が向いたらで構いません!


未来への追憶 第五話 - 02

* * *


 狭い車内に閉じ込められてから、ずいぶん長い時間が経った。辺りは暗く、静まり返っている。エンジンをかけたまま歩道に寄せて駐車している車も、なんの音も発さずに沈黙している。聞こえてくるのは、誰かが体を動かしたときのごそごそという衣擦れの音と、片耳に装着したワイヤレスイヤホンが時折伝えてくる、通信機越しの声だけだ。
 阿久津健二はスーツの上着に包まれた左腕を軽く折り曲げると、自分の手首を見た。そこには、2015年で生活していたときから使っている腕時計が、この時代――2148年の携帯通信機とともに重ねづけされている。時刻は通信機でも確認できるため必要は無いのだが、この時計は自分が130年以上前の時代を生きていたことを証明する数少ない持ち物なので、お守り代わりとしてつけていたかったのだ。
 車内灯は点いていないので、歩道に沿って並ぶ街灯からの光と、前部座席や後部座席の周りに設置されたディスプレイの薄い明かりを頼りに、文字盤を確認する。針は一時十分を示していた。午後ではなく、午前一時過ぎ。深夜だ。
 もう数時間、こうしてじっと座っている。同じ姿勢でいるため体はひどく強張っているだろうし、精神的にも緊張が解けない状態が続いていたが、不思議と疲労感は感じなかった。
 健二の両脇には、頭や体を防護するためのヘルメットと特殊な衣服を身に着けた男たちが座っている。彼らはライフルのような武器を手にしていたが、健二が映画などで見慣れている通常のライフルとはずいぶん形状が異なっている。未来にやって来てからの一ヶ月半ほどの経験から、彼らの手にあるそれはおそらく麻酔銃ではないか、という推測は健二にもできるようになっていた。
 前の座席には健二の隣に座っている男たちと同じ、武装部隊の隊員が一人と、犯罪捜査部の職員が一人いる。全員、健二が初めて会った人物ばかりだった。誰も無駄口は叩かないし、健二に話しかけてもこない。
 車窓を見ると、明かりの消えたビルや工場が、こちらを見下ろすようにひっそりと建っていた。車を停めている場所から五十メートルほど先には、広い通りも見える。さらにその先、通りを隔てた夜の闇の向こうに目を凝らすと、守られるように塀に囲まれた建物の群れが、ぼんやりと浮かび上がっている。塀の内側には、大きな四角い建物がいくつも建っているようだ。窓が少なく、何の装飾も施されていない倉庫のような建築物が何棟も並んでいる様は殺風景で、冷たく近寄りがたい印象を受ける。その中で、塔のごとく高い建物が一棟だけ、周囲を監視するようにそびえ立っていた。

「健二くん、大丈夫?」

 不意に、左耳のイヤホンから藤原ゆかりの柔らかい声がした。突然呼びかけられて一瞬うろたえた健二は、シートの背もたれに軽く預けていた体を起こした。意味も無くイヤホンに手を添えながら、「はい、大丈夫です」と返す。周りが静かなせいで、自然と抑えた声になってしまった。
 マイクはイヤホン部分と一体になっているようだったが、あまりにも小型であるため、相手にちゃんと声が届いているのか不安になる。2015年にもこれと似たようなイヤホンマイクなどはあったが、健二は使ったことが無いので未だに慣れず、話しづらかった。

「緊張してるか?」今度はレイの声がする。その問いは健二に向けられたものだ。
「すごく緊張してるよ」
「まあ、そりゃそうだよな。作戦会議のときも言ったけど、無理だと判断したらすぐに撤退するし、あんま心配すんなよ。何かあったら、そこにいる武装部隊の奴らが逃がしてくれっから」
「ああ。みんなも気をつけて」健二は祈りを込めて言う。
「おう、サンキュ」

 レイの軽い返事を最後に、会話は途切れた。
 SGAは今まさに、重大で危険な作戦を展開しようとしているところだった。
 阿久津賢士の事件を担当する捜査チームのメンバーは今、健二の乗っている車から見える、塀に囲まれた建物の一帯――阿久津コーポレーションの研究所に向かっている。そして、健二は阿久津賢士の前に姿をさらし、自分が何者であるのかを自ら告げるべく、待機しているのだった。


 フランツによってアンチ・テクニシズムの人間が数十人も殺害されるという、残虐な事件が起こったあとも、拠点での生活は穏やかだった。現実にあんな出来事が起こったなんて、ましてや自分がそれを目撃したなど、到底信じられない。未来へのタイムスリップという非現実的な現象さえ、今では実際に起きたことだと受け止めている健二にも、あの事件だけは夢だったのではないかと思えるほどだ。
 レイから、ニュースではパーティーがアンチ・テクニシズムの集まりであったことは伏せ、犯行はテロ組織――SGAが作り上げた架空のものらしい――の一員によるものだと報道している、という話は聞いていた。だが、健二は相変わらずテレビやインターネットを見ることは許可されておらず、彼自身が直接ニュースを見たわけではないので、より実感が湧かないのかもしれない。
 拠点の廊下の窓からは、緑にあふれた中庭が見える。何日か前にひどく天気の荒れた夜があり、その際庭に出していたプランターを屋内に入れ忘れてしまっていたせいで、ゆかりの育てている花は大半が暴風で吹き飛ばされてしまった。それでも、無事だったいくつかの植物はまだ鮮やかな花を咲かせており、ゆったりとした時間の中でそれを眺めていると、この世界は平和そのもののように感じられた。
 その一方で、夜にベッドに横になって目を閉じると、あのとき目にした光景がふっとまぶたの裏に浮かび、なかなか寝つけないこともあった。惨たらしい方法で殺された男の死体や人々の悲鳴、銃声、ホールの床や壁に付着していた血。そういったものが思い出されたり、自分もあと少しで死んでいたかもしれない恐怖がよみがえってきて、時には悪夢を見て目覚めた。
 そして、何より忘れられないのは阿久津賢士の声だった。老いてはいても威厳の感じられる彼の声とその言葉だけは、夢の中の幻のようにぼやけることもなく、くっきりと健二の記憶に残っている。
 文芸交流センターで阿久津賢士の声を聞いて以来、健二は拠点で過ごす間、ほとんど彼のことを考えていた。2015年のことばかりを思い出して気持ちが沈むことは無くなった。
 拠点には常にチームのメンバーが誰か一人は必ずいたが、アマンダがSGAの一員となってからは、一人で時間を潰すことが増えた。これまで暇なときにそうしていたように、読書をしたり庭に出て外の空気を吸ったり、ストレッチをしてみたりしつつ、阿久津賢士と阿久津コーポレーションについて改めて調べた。資料は充実していなかったが、SGAから借りているPCに入っているデータや紙の冊子など、健二が確認できるものはすべて、隅々まで読み尽くした。
 だが、それらの資料を読んだところで、彼が何を考えて、あのような非道で残酷な犯罪を重ねているのかまったくわからない。
 健二、健二の両親、大好きだった祖母。そして、写真を見ただけでも、慈愛に満ちた温かい人柄が伝わってくるようだった健二の娘、阿久津留美。阿久津賢士の存在、悪意だけが、その誰とも繋がらない。なぜ、阿久津賢士は誤った道に進んでしまったのだろう。いったい何が、いつ、彼をそうさせたのか? 健二はまだ、自分のひ孫についてほとんど何も知らないままなのだと痛感する。
 レイやクレイグたちに、阿久津賢士の一個人としての人生や性格など、彼の人間的な部分についてもっと詳しく触れている資料や情報が無いか、聞いてみようと思った。
 阿久津賢士は2148年の日本を代表する大企業の、トップに立つ人間だ。それほどの地位を持つ有名人なのだから、彼の生い立ちの紹介やインタビューの記録など、きっと何かあるはずだ。そこから、彼の内面を探るヒントを得られないかと思ったのだ。
 しかし、捜査チームのメンバーは皆、事件の処理や捜査のために忙しく、なかなか話をする機会は持てなかった。健二は、一人で悶々と頭を悩ませる時間が続いた。何をどのように話せば、彼に言葉が届くのだろうか。
 その答えが出ないうちに、阿久津賢士と接触するチャンスがやってきた。
 健二は、午前中に彼を呼びに来たレイとアマンダとともに、SGAの本部に赴いた。この日に今後のための作戦会議が開かれることも、それに健二が参加する必要があることも、事前に聞かされていた。

「朗報だぜ」

 拠点の廊下を歩いているとき、レイは健二を振り返ってそう言った。このところ緊張した表情を見せることの多かった気がするレイだが、この日は見るからに生き生きとした明るい雰囲気をまとっているのが、前を歩く広い背中からも伝わってきた。
 健二がSGAの本部を訪れるのは、これで四度目だ。四度目ともなれば、車に乗って拠点から伸びる専用の地下トンネルを通るのにも、広大で活気に満ちた本部のセキュリティゲートで、身分確認のために個人認証カードを提示する行為にも、だんだん慣れてきた気がする。
 今回の会議が開かれたのは、これまで健二が入ったことのある会議室とは違う、もっと広々とした部屋だった。スクリーンやディスプレイも設置されているようだが、そこには何も映し出されていない。代わりに、部屋の中央に備えつけられた会議用のテーブルが青白い光を発していた。縦長の大きなテーブルの上には、ホログラムの画像や、文字がびっしりと書かれたデータ、3Dの地図のようなものなど、様々な資料が浮かび上がっている。
 暗い部屋に足を踏み入れた途端、健二は部屋の様子だけでなく、そこに漂う空気がいつもと違うことに気がついた。今までのようにただ張り詰めているというのではなく、どことなく陽のエネルギーが満ちているように感じる。
 会議に出席する顔ぶれは前回と同じく、レイやクレイグを初めとする犯罪捜査部の五人と調査部の劉、そして健二だ。テーブルの周りには椅子もあったが、広範囲に渡って投影されている資料を見やすいよう、全員、テーブルを囲むように立ったままだった。
 健二の側には、左腕だけ上着の袖に通さずに、肩に上着の片側をかけている格好の劉がいた。

「怪我、大丈夫ですか?」
「ああ、もう全然平気だから。もともとたいしたことなかったしな」

 数日ぶりに顔を合わせた劉に声をかけると、彼は楽天的な笑顔を見せた。その元気そうな様子に、健二はほっとする。

「上層部から、一連の事件が阿久津賢士の犯行だということを公に報道する必要性が認められた」

 会議が始まると、机を挟んで健二の正面に立っているクレイグが言った。

「だが、今すぐに公表しても、メリットはほとんど無い。被害をできるだけ抑えて阿久津賢士を逮捕するために、事件の公表を有効に活用できる時期や手順を考えなくてはいけない。今までのように受身的に事件が起こるのを待つのではなく、先手を打つような作戦を進めていくことが必要だ。その第一段階として、こちらから阿久津コーポレーションの研究所まで行く」

 健二の目が、驚きに見開かれる。

「大丈夫なんですか?」

 思わずそう口に出していた。幸い生意気な調子にはならず、純粋な心配のあまり聞いてしまった、ということが表れた声音になった。
 阿久津コーポレーションの施設は、いわば敵の本拠地のようなものだ。人間離れした身体能力を持つ阿久津賢士の“部下”も皆、そこにいるのだろうし、銃などの武器や戦闘用ロボットも豊富にそろえているかもしれない。相手はそれらを自在に扱い、万全の準備を整えてこちらを迎えられるということになる。前にクレイグ自身、研究所へ攻め入るのは難しいと言っていた。これまでSGAが彼らに対抗できなかったことから考えても、あまりにも危険ではないだろうか。

「確かに大きなリスクを伴う作戦ではあるが、事態が良くない方向へ進展している以上、何もせずにただ期を待ち続けているわけにはいかない。それに――」

 そこでクレイグの眉間に力が入り、わずかに表情が曇るのがわかった。

「テクノロジー開発を行っている企業などへのアンチ・テクニシズムの反発が、この間の事件以降、より激しくなっている。自分たちの団体のパーティーが襲われたことに刺激されたんだろう」
「いくら、被害に遭ったのがアンチ・テクニシズムのパーティーだったことを伏せて報道しても、実際に団体に所属している人たちにはわかってしまいますものね」

 悩ましさの滲んだ声で、ゆかりが言った。

「ああ。まさか、阿久津賢士の仕業であると気づいているわけではないだろうが……調査部や情報部が調べたところによれば、アンチ・テクニシズムの活動に反対する人間が企てたものではないか、とは思っているようだな」

 そう言いながら、クレイグがちらりと劉に目を向ける。劉が首を縦に振るのが、健二の視界の端に見えた。

「アンチ・テクニシズムの活動がますます過激化し、文芸交流センターのときと同じような事件が再び起こることを防ぐためにも、早めに動き始めたい」
「そうですね」

 クレイグの言葉に深く首肯しながら、ゆかりが神妙な声で言った。
 それには、健二も心の底から同感だった。過激な団体に所属していたとはいえ、罪を犯したわけでもない一般人が何十人も犠牲になるような事件など、もう二度と起こってほしくない。

「それと、今回より武装部隊を初め、作戦に参加する人員を増やしてもらえることとなった。チームメンバーではない特別犯罪捜査課などの職員にも、必要があれば、その都度臨時で作戦に加わってもらう」
「これでやっと、俺たちも攻めに出られるってことだ。今は健二っつー切り札もあるんだしよ」

 右手の親指を立て、レイが健二に笑いかけた。彼が「朗報だ」と喜んでいたのはこれが理由だったらしい。
 クレイグはレイの言葉に「ああ」と同意し、続ける。

「それに、施設の中まで入るわけではない。当然だろうが、阿久津コーポレーションの研究所は、非常に厳重な警備体制を取っているのが外から見てもわかる。以前も言ったように、そもそも簡単に入ることは不可能だ。我々が近くまでいけば、向こうはすぐに気づくだろう。阿久津賢士が、近づいてきた我々に対して何かしらの反応を示したところで、我々の方も次の行動に移る」

 そこで一息置いてから、クレイグは具体的な作戦についての説明を始めた。
 テーブルの上に小さな町を描き出している立体の地図は、都内の外れにある、小さなオフィスビルや工場が建つ地区のもののようだ。そして、その中心に、他の建物と少し離れて位置しているのが、阿久津コーポレーションの研究所だった。前にクレイグから聞いた、本部とは別に阿久津賢士が所有しているもので、一部の部下を除き、社員ですら入れないという例の施設だ。
 クレイグは研究所の場所や造りについて述べたあと、作戦当日の流れと、メンバーの配置や動きなどを、順に説明していった。
 健二は神経を集中させ、クレイグの話の一言一句に聞き入った。彼の言葉に沿って、自分が阿久津コーポレーションの研究所へ行き、SGAの指示通りに動いている様子を思い浮かべる。まるでこの瞬間、会議室の床ではなく、ホログラムによって形作られている通りに立ち、研究所を目の前にしているかのような臨場感を持って想像できた。緊張と一種の高揚感で、手のひらに汗がにじむ。

「作戦は六月二十五日に実行する。それまでは何度か会議を開き、必要があればそのときの状況に応じた細かい調整や、主に健二の動きを中心とした演習を行う」

 そう締めくくってから、クレイグは全員の顔をゆっくりと見回した。

「今回の作戦の一番の目的は、健二の存在を阿久津賢士に知らせることだ。阿久津賢士を逮捕したり、洗脳を施された彼の仲間を捕らえることではない」
「まずは、阿久津賢士の反応を見ることですね」

 ゆかりが言い、クレイグは彼女の方を見ながらうなずいた。

「そうだ。彼の出方を見ながら、こちらがより動きやすくなるように健二の存在を上手く使い、次の作戦を考える。そして、タイミングを見て事件を公表し、阿久津賢士の逮捕へと繋げる」

 クレイグの言う“健二の存在を上手く使う”とは、主に健二自身が以前に言った、健二を人質のようにして使い、相手との交渉に利用するというものだ。

「阿久津賢士に連れ去られた者のうち、公の場や我々の前に姿を現したのは和泉かおると、身元のわからない“フランツ”という名前の男だけだ。誰か一人を捕らえたとしても、別の被害者が阿久津賢士の手の届く範囲にいる状態では、それこそ人質として使われたり、危害を加えられたりするかもしれない」
「そうっすね」

 レイが相づちを打ったが、その声は以前のミーティングのときのように、暗く沈んだものではなかった。
 強制的に悪に加担させられている被害者全員を無傷で解放することも、阿久津賢士の事件の解決を目指す彼らの任務の中で、重要なポイントだ。特に、家族や友達など、近しい人間が捕らわれているレイやゆかり、アマンダにとっては尚更のことだろう。

「阿久津賢士に拉致された被害者が、今わかっている以外にもいるのかどうかは定かではないが、少なくとも現在、彼の元にいるのが確かな和泉かおる、日向虎太郎、シンディー・オルコット、そしてフランツが同時に集まる状況を作り出した上で、彼らの動きを一度に封じて保護し、阿久津賢士を逮捕するのが望ましい」

 ジャン以外の全員がうなずいて、クレイグの発言に無言で同意を示した。腕を組んで端に立っているジャンも、いつものごとく仏頂面ではあったが、別段険しい顔つきをしているわけでもなかったので、特に反論や気に入らないことがあるわけではなさそうだ。

「他に被害者がいないかどうかも、別の方面とかから、もっと調べてみた方がいいかもしれないっすね」
「東京周辺だけじゃなく、全国の行方不明者リストをもう一度調べなおすよ」

 レイの意見にはクレイグではなく、劉が答えた。
 そこで会議は一段落つき、クレイグがテーブルに設置されているらしいスイッチを操作して、室内の照明を点けた。頭上や壁に点ったオレンジがかった光が、室内にぼうっと広がっていく。テーブルの上のホログラムの資料などはそのままだったが、電気を点けただけでずいぶんと部屋の印象が変わった。室内が明るくなるとともに、どこか晴れやかな空気が会議室を覆っていくようだ。

「健二の存在を知れば、以前、健二自身が言ったように、おそらく阿久津賢士はこちらへの接触をはかってくるだろう。その場合、直接コンタクトを取ろうとしてくるか、我々を誘い出すためにわざと事件を起こす可能性が高い」

 会議の最後に、クレイグは再び口を開いた。

「もしくは、チャイムを押して訪ねてくるかっすね」

 ニヤリと笑みを浮かべながら、レイが軽口を叩く。ようやく自分たちの方から積極的に動けるときが来たことで希望が見え、朗らかな気分になっているのだろう。
 アマンダと劉はレイの冗談に笑ったが、クレイグやゆかりは緊張感のある面持ちのままだった。いつもならレイをぎろりと睨みつけるくらいのことはしそうなジャンも、テーブルの上の3Dマップから目を離さない。
 健二もやはり、不安な気持ちの方が強かった。

「ほんとに、拠点に阿久津賢士の仲間が来たりすることはないんでしょうか?」

 健二はクレイグにたずねた。あの平穏な拠点に、突如フランツやかおるが現れることを考えると、それだけで怖気立つようだった。

「無いとは言い切れない。拠点の場所が阿久津賢士に知られている可能性は限りなく低いが、念のため、本部と拠点の警戒は強くしておく必要があるだろう」

 クレイグの答えは健二を安心させるに足るものではなかったが、彼の言う通り監視や警護を強め、もしものときに備えて注意しておくしか方法は無いだろう。
 不安も、これから自分たちが挑むことへの恐怖心も消えることはない。それはおそらく、健二だけでなく皆が同じだろう。それでも、この日の会議には全体的に、活力がみなぎっているような、明るい勢いがあった。

「この作戦が上手くいけば、事件の解決にぐっと近づけるかもしれねえな」

 腰に手を当てていたレイが、片方の拳を強く握った。深い緑の瞳が輝いている。

「がんばろうね!」

 今回から他のチームメンバーとともに作戦へ参加するというアマンダが、明るい声を上げた。
 そんなレイやアマンダなど、周りの意気軒昂な雰囲気に引っ張られ、健二もわずかにではあるが前向きな気持ちと期待感を持って、会議室を後にすることができた。


 それが、健二の一週間前の記憶だ。そのとき、簡略化されて縮小された姿を、会議室のテーブルの上に浮かび上がらせていた阿久津コーポレーションの研究所。その実物が今、健二の目と鼻の先にある。
 車の後部座席の窓ガラスには、硬く心配げな表情をした健二の顔が、うっすらと映っていた。フロントガラス以外の窓は拠点の窓と同じく、車内から外の景色を見ることはできるが、反対に外からは中が見えない仕様となっている。
 周囲の通りを走る車は一台も無く、歩道を歩く人の影も無い。あらかじめ、SGAが監視システム――町の状況を常にSGAに知らせるためのカメラのことで、阿久津コーポレーションの研究所付近にも設置されているようだ――のメンテナンスを装い、この区間への夜間の立ち入りを禁止したのだ。研究所へ続く各通りでは、今も武装部隊の隊員と警備ロボットたちが、通行止めの表示を掲げて道をふさいでいる。
 クレイグが、健二の前の席に座っている武装隊員と通信で話しているのが聞こえていた。
 まず、クレイグたち捜査チームのメンバーが車で研究所に近づき、阿久津賢士に呼びかけて対話を試みる。健二が出て行って話をできそうな状況になれば、クレイグが連絡してくることになっている。連絡が来れば、健二も護衛のSGA職員や武装隊員と一緒に、車に乗ったまま研究所のすぐ前まで移動し、チームのメンバーと合流する。
 研究所の周りには健二の乗っている車以外にも、武装部隊の別チームの車が何台か、研究所を囲むように散らばっており、阿久津賢士と対するときに備えていた。

「健二、聞こえるか?」

 健二が車外の様子をうかがっていると、クレイグの声が今度は健二に呼びかけてきた。

「はい、聞こえます」
「これより、我々は正面入り口に接近する。君は私たちが連絡するまで、何があっても絶対にそこを動くな」
「はい」健二の緊張が急速に高まった。
「君が出てこられると判断した場合は、通信で指示を出す。君は、一緒にいるSGAの職員たちとともに、作戦に従え」

 いよいよ、このときがやって来た。健二のアイデア、提案をもとにした作戦を実行に移すときだ。阿久津賢士に顔を見せ、彼と――健二のひ孫と話すときだ。その作戦が成功すれば、もう隠れることはできない。

「わかりました」

 健二は気を引き締め、今一度決意を固めるように背筋を伸ばしながら、力強く答えた。


* * *


 夜空を背景にして、黒々とした影のように立ちはだかるその大きな建物が迫ってくるにつれ、レイは心臓の辺りが締まるような心地になり、麻酔銃を握る手に力がこもった。鼓動が速まり、全身の神経が研ぎ澄まされていくような感覚に襲われる。いつの間にか呼吸が浅くなっていたことに気がつく。鼻から大きく息を吸って呼吸を整えながら、レイは目の前に高くそびえる塀を睨みつけた。
 リアシートが対面となっている六人乗りの車には、レイの他にクレイグとジャン、ゆかり、アマンダの四人が乗っている。そのすぐ背後には、武装部隊の車がぴったりとついてきていた。どちらも防弾装甲仕様の車両だ。
 車は大通りを右折し、今や研究所の正面ゲートまで一直線に向かう私道に乗り入れている。一足先に研究所に接近していたSGAの偵察用ロボットが、空に浮かんでいた。車からは見ることのできない研究所内の動きを、チームメンバーに伝えるためだ。ロボットは本部からの遠隔操作が行われている。
 何者も通すまいと言わんばかりの高さと厚みを持った塀が、研究所の四方をぐるりと取り囲んでいる。偵察用ロボットなら上空を移動して中に入ることもできるのだが、さすがに今日は塀を越えることまではしない。あの高さなら、建物の死角となった範囲を除けば、敷地内もかなり先の方まで見渡せる。
 この塀のあちら側のどこかに、阿久津賢士がいるのだ。ついに、こんなにも彼に近づくときがやってきた。
 そして、あそこには――今、レイの眼前に見えている阿久津コーポレーションの研究所には――レイの親友だった虎太郎とシンディーもいるはずだった。そのことを思うと、今すぐあの塀の向こうに乗り込んで二人のもとへ駆けつけたい、という衝動が奔流のように込み上げてきて、突き動かされるままに車から飛び出しそうになる。
 一度感情があふれ出すと居ても立ってもいられなくなりそうなため、普段は意識的に抑えているが、レイの胸の中は二人の親友の無事を確認し、一刻も早く助け出したいという切実な願いでいっぱいだった。
 だが、親友も他の被害者たちも、今すぐに救うことはできない。今日、ここに来た目的はそれではない。まずは事前に立てた作戦通り、健二の存在を知らせなければ意味が無い。今、自分が無計画に飛び込んだところで、虎太郎もシンディーも助けられないことなど、最初からわかりきっていることだ。そう自分に言い聞かせ、奥歯を噛みしめて堪えた。
 レイの正面の席にはゆかりが座っている。レイは彼女に気づかれないよう、ちらりと目だけを動かしてそちらに視線をやった。彼女の小振りな顔は、半分ほどが手元の携帯機器が発する青みがかった光で照らされているだけなので、表情を読み取るのは難しかった。柳眉は苦しげにひそめられ、強張った目元や引き結ばれた口元にも悲しみが表れているようではあったが、冷静さを失っていたり、特別に取り乱したりしている風ではない。
 阿久津コーポレーションの研究所を前にして心を乱されるのは、レイだけではない。ゆかりも、そしてレイの後ろに座っているため様子はわからないが、アマンダも同じなのだ。
 自分がしっかりしなくてはいけない。そう思うと、体の奥からエネルギーが湧いてくるように感じた。
 つい先ほど、通信機で言葉を交わした健二の声を思い出す。暗くはなく、意を決したような力強さはあったものの、不安を感じていることもはっきりと伝わってくる声だった。
 レイ自身も、SGAの職員ではなく、ましてやこの時代の人間ですらない健二が、果たしてSGAとともに重大な作戦を成し遂げられるのかということについて、懸念が無いと言えば嘘になる。能力的な部分ではなく、彼の精神的な面の方を心配していた。
 だが、すべてが無事にSGAの計画と思惑通りに進んだときは、きっと立ち止まっていた事件解決への道を大きく一歩前進することとなり、そこからさらに道は開けていくだろう。そのことを思えば、暗闇に明るい光が差すようで、レイの気持ちは上向きになった。
 きっと大丈夫だ。なんとかなる。上手くいく。レイは繰り返し心の中で唱えた。
 現在、車は手動運転モードで走行しており、ハンドルを握っているのはジャンだ。ゆっくりと進んでいた車は、事前に決めていた通り、固く閉ざされているゲートの数メートル手前で停車した。後続する武装部隊の車も停まる。

「ここで、阿久津賢士が何らかのアクションを起こすまで待機する」

 前部座席に座るクレイグが、軽く後ろを振り向きながら言った。「はい」というレイとゆかりの返答が重なる。
 それからしばらくの間、何も起こらなかった。辺りには変わらず静けさが降りていて、頭上を旋回する偵察ロボットを除けば、動くものは何も無い。
 通信機からの報告や周囲のかすかな物音を聞き漏らさないよう耳を澄ませながら、全員が無言で待ち続けた。
 ジャンでさえが一言も発さず、口を閉ざし続けていた。怒っているような厳しい顔で研究所を見つめている彼に目を向けたとき、レイはふと、近頃はジャンが以前のように作戦に異を唱えたり、むやみにクレイグに噛みついたりすることがほとんど無くなったことに思い至った。健二を信頼して作戦に参加させることに関しても何も言わない。だが、それはジャン自身がチームのやり方に納得して意見を変えた結果というより、諦めからのものであるようにも思え、良い変化だとすんなり喜ぶことができない。
 思わずジャンのことに意識がそれてしまったレイは、渦巻き始めた思考を振り払うようにジャンから視線をそらし、研究所と周囲の動きに注意を戻した。ジャンのことは、また一度それとなくゆかりに聞いてみればいいだろう。一つ屋根の下で暮らしているチームメンバーにさえ心を開いていない彼も、ゆかりにだけは自分の胸中を打ち明けているかもしれない。
 緊迫した静寂が流れる。その状態で数十分が過ぎた頃、レイの中に、このまま沈黙だけが延々と続く可能性もあるのではないか? という考えが浮かんできた。緊張からずっと眉を寄せていたため、眉間が凝っている。レイは顎に手をやりつつ、再び大きく息を吐き出した。張り詰めていた神経の糸が緩みそうになる。
 ジャンが溜息をつき、わずかに腰を上げて座席に座りなおした。その顔つきは先ほどよりも険しさを増している。

「動きがありませんね」

 ゆかりが言った。ジャンが苛立ちを口にする前に先手を打って、彼のじれったさを和らげ、場の空気を無駄に悪くするのを防ぐ目的もあったのだろうか。
 言葉をかけられたクレイグは、研究所から目を離さずに「ああ」と答えただけだった。
 ゲートの両脇には二台の監視カメラが取り付けられており、侵入を企てる者を余すことなく映し出そうと、生き物のようなレンズがこちらを見下ろしているのがうかがえる。おそらく、阿久津賢士はSGAが正面ゲートのすぐ前まで来ていることには気づいているはずだ。いや、それ以前に幾筋か離れた通りで待機していたときからすでに、彼は自分の本拠地とも言うべき研究所ににじり寄ってくる敵の存在を知っていただろう。
 もしかすると、阿久津賢士はこちらの予想に反し、ここまで近づいてきた自分たちに対して無視を貫き通すのかもしれない。頭のどこかでは、そんなことはない、という予感を確かに感じていながらも、そのような憶測がレイの脳裏をよぎった。
 もちろん、数時間粘っても阿久津賢士が何の反応も示さなかった場合は、今日のところは一旦引き上げることとなっている。進展も得られないが、同時に危険な状態に陥ることも免れる。悔しがればいいのか、ほっとすればいいのか判断しがたい。
 だが、レイのそんな悩みは一瞬で吹き飛んだ。

「敷地内の一番手前の建物からフランツが出てきました」

 偵察用ロボットのカメラ映像を受信し、本部で監視の任務に就いている劉の硬い声が、通信機を通して告げてきた。その場にいる全員が息を呑み、身を固くしたのがわかった。
 クレイグが口を開いたのが見えたが、劉の報告に誰も何も問い返す間もなく、正面の重厚な金属のゲートが、ゆっくりと横にスライドして開き始めた。



>> To be continued.



読んでくださってありがとうございます!!
最近は一回の文字数が結構多くなっていますが、読んでいただけてうれしいですm(*_ _)m

第四話まで、SGAは阿久津賢士側に対してほとんど何もできない状況で、特に第四話は成す術も無く悲惨な事件も起こってしまいましたが、今回はようやくSGAが攻めに出る始まりの部分でした。
ここから今までとはだいぶ雰囲気の違う展開となり、第六話まで続いていく感じになると思います!

拍手等下さる方も、いつも本当にありがとうございます!^^*

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