Morning

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少し前(7月の初めくらい)から描き始めていたレイの絵がようやく完成しました!!
途中、PCが壊れかけたりとかいろいろあって、間が空いてしまっていたのです。

朝、出勤するために着替えをしているレイさん。
髪を下ろしているちょっと珍しい姿です。

「第五話 - 01」はレイがメインの回だったので、このタイミングで載せられてよかったです!( *´艸`)

未来への追憶 第五話 - 01

「あー、あっちい」

 レイモンド・ストレイス――レイは、額から流れ落ちてくる汗を手の甲で拭った。日差しから目を守るため、眼帯で覆われていない左目の上に手をかざして頭上を見やると、立ち並ぶビルの合間には雲一つ無い青空が広がっている。降りそそぐ太陽の光は、目の前のアスファルト舗装の道路や、そこを行き交う自動車の車体、通りに並ぶ建物の窓ガラスなど、至るところに反射している。
 梅雨に差しかかったことにより、連日雨に見舞われていたことが嘘のような、久しぶりの晴天だった。それに伴って気温も上昇し、レイが身に着けているSGAの犯罪捜査部の制服――まるで防寒用のロングコートのような黒の上着――は非常に暑苦しかった。体中からじわじわと汗が噴き出し、不快感がもたらされる。
 レイの隣や背後には彼の他にも、行く手をさえぎる片側二車線道路の前で信号待ちをしている歩行者が何人かいた。

「ねえ」

 隣から声をかけられて、レイはそちらに目をやった。

「この上着って、真夏の任務中でも絶対脱いじゃ駄目なの?」

 ほんの二週間ほど前にレイの後輩となったばかりのアマンダ・オルコットが、眼鏡の奥の大きな瞳でレイを見上げていた。そう問いかけてくる彼女も暑さを感じているのか、服の内側に少しでも涼しい空気を取り込もうとするかのように、レイと同じ制服の片側をつまんでぱたぱたと動かしている。彼女の手の動きに合わせ、丈の長い制服の裾がひらひらと揺らぐ。

「ああ」

 レイは、車両用の信号が黄色に変わる気配すら無いのを確認しながら答えた。

「もう聞いてると思うけど、この制服には防弾性能があるからな。別に、寒さを和らげるためだけに着てるってわけじゃねえし。もちろん、これ着てりゃ絶対助かるなんてこともねえけど、少しでも身を守れる可能性があるなら着てる方がいいだろ?」
「うん。自分がSGAに入る前は制服にそんな役割があるなんて全然知らなかったから、ちょっとびっくりだったよ」
「あと、こういう丈の長い、内ポケットがいっぱい付いてるような服は、銃とかいろんな機器を携帯すんのにも都合がいいしな」

 現に今もレイの制服の下には、弾丸の装填された通常の拳銃と麻酔銃が、それぞれホルスターに収められて隠されている。

「そっかあ。そうだよね」

 アマンダはすんなりと納得してうなずくと、諦めたようにコートから手を離した。

「移動中とかは脱いでる奴もいるけど……どっちにしろ外歩くときは長袖の方がいいんだし、制服着てようが着てまいが、あんま変わらねえってことにしとこうぜ」
「任務中に日傘持っとくわけにはいかないもんね」
「ああ。んなもん持ってたら邪魔くさくてしょうがねえ」

 年々きつくなる紫外線を直接肌に浴び続けることは、体に重大な悪影響を及ぼす可能性があるので、なるべくなら避けたい。

「でもまあ、本音を言うと俺も脱ぎてえよ」

 レイが人に聞かれてはまずい話でもするときのように声を抑えて付け足すと、アマンダはあはは、と明るく笑った。
 街中のビルの外壁に投影された巨大なホログラフィックスクリーンには、四日前の事件についての続報を伝えるニュース映像が映し出されている。
 六月十二日。都内にある文化施設――文芸交流センターにて、数人の男たちによる銃の乱射事件が起きた。それにより、施設内でパーティーに参加していた、調和共生党の竹下議員を含む三十七名が殺害された。警察は、犯人たちがテロ組織の一員であったことから、犯行は竹下を狙ったものであった可能性も高いと推測している。テロの明確な目的は依然として不明なままではあるが、昨夜、捜査に進展があったようだ。逮捕された男の一人が、犯行には関わったものの、いまだ逮捕には至っていなかったその他の仲間の情報を明かしたと、アナウンサーの淡々とした声が告げていた。
 しかし、それを眺める人々も無関心に通り過ぎる人々も、そして事件について報じるアナウンサーでさえも、テレビやインターネットが伝えるそれらの情報が、真実を隠すための偽りのものであるということは誰も知らない。
 車両用の信号機がようやく赤色を点し、わずかに遅れて歩行者側の信号が青に切り替わると、レイとアマンダは日光を照り返す白い横断歩道に足を踏み出した。
 二人は調査のために、東京都内にあるスラム街へ向かうところだった。五月に医療研究所を襲った犯行グループの男が話した、スラム街で殺人や強盗などの依頼を行っている人物がいるという件について、さらなる手がかりが得られるような目撃情報が無いか調べることが目的だ。
 こういった聞き込み調査をする場合、本来は調査部と行動する方が何かと都合がいいのだが、レイのチームの担当である劉俊毅はこの間の事件で負った怪我のことがあり、しばらく任務での外出は控えるようにと言われているのだ。最初は念のために四、五日は仕事を休んで安静にしているようにと言われたところを、彼は家にいても暇だからと、一日休んだだけですぐに通常の職務に復帰した。本人は外での調査も問題無くこなせると主張したが、レイたちの上司であるマーカス・クレイグが許可しなかった。
 そのため、チームのメンバーとなって日が浅いアマンダを、初めての本部外での任務に連れ出したのだ。
 レイとアマンダは横断歩道を渡り終えると、ビルの間の細い通路に入っていった。ここから先、街の様相は少し歩くだけでがらりと変わる。一つ、また一つとブロックを越えるごとに道は狭まり、建物はより小さく密集したものとなっていく。
 天気は変化していないはずなのに、スラム街に近づくにつれて、周囲全体が薄暗くなっていくように感じた。ひしめく建物の薄汚れた外壁や、手入されずに生い茂っている植え込みの木々がそう思わせるのかもしれない。人通りもあまり無かった。
 車は先ほどの大通りの近くの駐車場に停めて来た。スラム街には車を駐車できるような場所もあまり無いし、治安の悪さを考えると、少し離れるだけで車が傷つけられたり、盗まれたりする危険性もある。

「こっちの方って、全然来たことなかったよ」

 アマンダが、右に左にと辺りを見回しながら、ぽつりともらした。

「そりゃそうだ。今日は俺と一緒だからいいけどよ、危ねえからプライベートとかで絶対一人で来たりはすんなよ?」
「うん」

 そう答えたアマンダの声は、いつもの元気は鳴りをひそめた小さな音だった。自分たちが暮らしているエリアとは明らかに違う空気に、少なからず緊張しているのだろう。街から感じ取れる危険の臭いは、少し触れるだけで本能的な部分が察知する類のものだ。レイとて、スラム街には今までも捜査のために何度か来たことはあるが、普段意識せず通りを歩いているときのように、自然に気を張り詰めずに歩く、というわけにはいかない。スラム街の存在自体は国内にいるほとんどの人間が知っているだろうが、足を踏み入れることなど無いのが普通だ。ましてや、やむを得ない理由も無いのに進んで来たいと思う者はごく稀に違いなかった。
 やがて高層ビルは完全に姿を消し、小さな店舗や古い戸建ての家、表示ボードを見なければそれとわからないようなホテルや集合住宅風の建物が増え始める。
 その間を歩く途中、ふと、レイは視線を感じたような気がして振り返った。

「どうしたの?」

 突然後ろを向いて固まったレイを見て、アマンダが丸い目を不思議そうに瞬かせた。

「いや……」

 背後には、少し前にすれ違った男の小さな後ろ姿があるだけで、こちらを向いている人間は一人もいない。遠くのビルの合間に、大通りを車が通っているのが見える。
 一瞬、誰かに後をつけられているのか、もしくはSGAを嫌う何者かに狙われているのかと思った。絶大な権力を持つその他の組織と同じように、SGAを快く思わない者も多いのだ。こういった場所では特にその傾向が強かった。
 しかし、首をひねって考え込むうちにきっと気のせいだと思い直したレイは、また前を向いた。久しぶりにスラム街を訪れるせいで、神経がピリピリしているのだろう。

「なんか気配を感じたような気がしたんだけど、気のせいだったみてえだ」

 アマンダを心配させないよう、わざと明るく言う。景色を見ながら歩いていると、そのことはすぐに頭から消え去った。
 通りは一段と狭くなり、ついに歩道が無くなる。通りに並ぶ店の入り口を閉ざすシャッターや、敷地を区切る塀に所狭しと描かれた下品な落書きが、警察などの監視が行き届いていないことをうかがわせる。
 電信柱の下に、中身の詰まったゴミ袋がいくつかまとめて放り出されていた。路上にも、空きビンや紙くずや、風に舞うビニール袋といったゴミが散乱している。自動的に分別を行うゴミ箱も、そこに集められたゴミを回収しに来るロボットの存在も、ここには無い。
 そして、二人は“スラム街”と呼ばれる地区に到着した。現実には、明確にここからがスラム街だという線引きがなされているわけでも、フェンスがあるわけでもない。
 それでも、ここはスラム街だった。ここが普通の街とは違うことは、一目見ればわかる。

「日本じゃないみたい……」

 アマンダが歩調を緩めながら、呆けたような声で呟いた。
 ずいぶん昔から建っていると思しき建物ばかりで、ここだけ時代から取り残されているかのようだ。異次元に迷い込んでしまったかのようにも思える感覚に、不意にレイの胸に、健二もこの時代に来たときはこんな気持ちだったのだろうか、という考えが浮かんだ。
 街は汚く陰気な雰囲気が漂っており、見るからに不衛生だった。通りの歩く人の数はそれほど多くなく、お世辞にも身なりがいいとは言い難い者がほとんどだ。時折、彼らは遠くからレイとアマンダを物珍しげに見ていた。
 街中では、ロボットや電子機器はめったに見かけなかった。スラム街には日常生活にあって当たり前の便利な家庭用機器もそろっておらず、あったとしても古いタイプの物ばかりだ。ここの人々には、最新のロボットや機器を買う金が無いのだ。
 ここは、正確にはスラム街の入り口の方だ。通常の街との境に近いところでは、まだSGAが管理しているカメラで監視できる範囲も多いので、比較的安全だった。
 二人はさっそく調査を開始することにした。今日は夕方には本部に戻らなくてはならないので、時間はあまり無い。

「今日はまず、飲食店を中心に聞き込みしていくぞ」

 人目を気にする必要はあるものの、飲食店は人が集まったり、話をしたりするのに適した場所の一つと言えるだろう。店によっては、時には違法な取引などについての会話が交わされることもある。
 この辺りの地図は充実していないので簡易なものしかなかったが、飲食店の場所を確認するのには不都合が無さそうだった。

「アマンダは自分の携帯端末の録音筆記機能を使って、相手の名前とか話の内容とか、聞いたことを記録しといてくれ」
「わかった」

 最初に訪れたのは、二階建ての建物の屋外階段を上ったところにあるレストランだ。一階部分には別の店舗が入っているようだが、シャッターが閉まっている。
 レイは店に入って事情を説明し、店のオーナーに捜査への協力を願い出たが、忙しいから無理だとすげなく断られてしまった。個人経営の小さな店で、オーナーは料理人でもあった。従業員は他に一人しかいないようで、オーナーの代わりに話をできる人間もいないらしい。店内では数組の客が料理を待っている様子だ。仕事を手伝うロボットもいないので、エプロンをつけた若い男は、たった一人で客に水を出したり注文を取ったりするため、忙しなく動き回っている。
 レイとアマンダは仕方なく店の外に出た。見たところ、レストランは至って普通の、どちらかというと明るささえ感じる雰囲気で、とても犯罪グループが集まりそうな場所ではない。扉の前で、このまま二軒目に行くかどうかを考えた。店の客が何か知っている可能性もあるので、客にも話を聞く、という手もある。ちょうどそのとき、食事を終えた客が一人、店から出てきた。色あせてよれたシャツにぼさぼさの長髪をした中年の男だ。

「すみません、よろしいですか?」

 レイはIDファイルを表示させた端末を相手に向けながら呼びかけた。

「SGA犯罪捜査部、特別犯罪捜査課のレイモンド・ストレイスです。よければ、少し捜査にご協力いただきたいのですが」

 男は驚いたように目を見開いてレイを見たあと、好奇心を隠そうともしない不躾な視線で、レイの隣に立つアマンダをじろじろと眺め回した。
 瞬時にレイの表情が曇る。やはりアマンダを連れてくるのは早すぎたんじゃないか、という思いが脳裏をよぎった。だが、SGAの一員として働くのならば、いずれは危険な現場に出ることや、一般市民とのやり取りの中で不愉快な目に遭うことは避けられず、そういったことを早くから経験して慣れておくことは重要だと、クレイグは考えている。それが正しいことは、レイもよく承知していた。

「この辺りで強盗や殺人など、犯罪の依頼が行われているという情報があるのですが、そういった話について何か聞いたり、実際に依頼が行われているところを見たりしたことはありませんか?」

 心持ちアマンダの前へ出ながら、レイは男に問いかけた。
 男はそれにはなんの反応も示さず、聞いているのかいないのかもわからないぼんやりと濁った瞳で、相変わらずアマンダを観察している。やがて興味を失ったように目をそらした彼は「知らん」とぼそりと言い残し、階段をゆったりと下りていってしまった。

「あ! ちょ、ちょっと……」

 引き止めようとしたアマンダを、レイは「いや、いい」と制した。

「あの具合じゃ、話せそうなことは無さそうだ。次に行くぞ」

 しかし、数時間粘っても同じようなことが続いた。誰に声をかけても、話を切り出す前に断られるか、無視をされたりそっけなく「知らない」と言われるばかりだ。
 ここまできっぱりと拒絶されるのは、SGAとしては珍しい体験だった。大抵の人間はSGAに対して多かれ少なかれ恐れのようなものを抱いているため、内心はどうあれ、表面的には素直に従う。スラム街の人間は、恐れるものがあまりにも多すぎるのかもしれない。
 機械修理店のシャッターの前でたむろしていた少年たちにも、身元の確認とともに話を聞いてみた。医療研究所を襲った犯人の中には、少年から青年へと変化したばかり、といった年頃の者もいたからだ。
 だが、彼らも何も知らないようで、レイに失望と安堵を同時に抱かせた。彼らは皆日本国籍を持っていて、大きな犯罪歴も無いようだ。あまり恵まれない家庭に育ち、ただ、自分の居場所を切実に探しているだけの少年たちだった。
 すでに、だいぶスラム街の中心部に近づいてきている。

「どうすっかなあ」

 レイは腰に両手を当てると、さらに奥へと続く細い路地に目をやった。

「……もう少しだけ奥に行ってみるか」

 危険だろうか? しばし考えを巡らせた末、あと一、二本奥の通りくらいまでなら大丈夫だろうと判断したレイは、自分が先頭に立ち、小径を進み始めた。左右の通りの様子を見ながら歩を進め、二つ目の角で左に曲がる。この辺りまでが、護衛ロボットも武装部隊の隊員も連れずに、捜査部が二人だけで来られる限界の範囲だろう。
 少し歩いていくと、前方に飲食店風のこぢんまりとした建物が見えてきた。男が一人店の中から出てきたかと思うと、木の扉にかけられていた札のようなものを裏返し、また扉にかけなおしている。レイは歩く速度を上げ、そちらに近づいていった。アマンダもすぐ後ろについてくる。

「すみません」

 声をかけると、男は扉を開けかけていた手を止め、振り返ってレイを見た。褐色の肌をした恰幅のいい男だ。髪と眉は濃い黒で、口の周りには同じ色のひげを生やしている。

「ここの店の人ですか?」

 レイは、今まさに男が入ろうとしている店を手で示しながらたずねた。店の外には、なんの店かを表すような看板や表示は出されていない。建物は煉瓦造りの洒落た外観をしていたが、もともとの色が失われてくすみ、ところどころ表面の削れた古びた煉瓦は建てられてから相当な年月が経っていることを示している。扉にかかっている札には、ゴシック体のフォントで『CLOSED』と印字されていた。

「ああ、そうだが……」
「少しお話をうかがいたいのですが、よろしいですか?」
「なんの話だい?」

 男の眉間にしわが寄った。まるで不審者でも見るような目つきだったが、レイは気にせず続けた。

「SGA犯罪捜査部、特別犯罪捜査課のレイモンド・ストレイスです」

 これまでと同様に自身の身分を明かし、携帯端末でそれを証明するIDファイルを見せてから本題に入る。

「事件の捜査にご協力いただきたいんです。この辺りの地域で、報酬を提示し、一般の市民や店舗を対象とした殺人や強盗などの依頼を行っている人物がいるとの情報を入手したのですが、そういった犯罪行為の依頼や取引の場面を見たことがありませんか? もしくは、それに似たものでも構わないので教えていただきたいのですが」
「いや、わからんね」

 不信感を露にした視線をレイに向けたまま、男はそっけなく答えた。警戒心の表れなのか、それとも嫌悪感からなのか、上半身を少しばかり引いている。

「では――」

 レイが質問を重ねようとしたとき、視界の隅に動くものが見えた。酒のせいで足元のおぼつかない男が一人、ふらふらとこちらに近寄って来ている。白髪交じりの痩せた男はレイたちを興味深そうに眺めているものの、少なくとも今のところは、こちらに対して攻撃的な様子ではないように思える。だが、面倒なことに発展しそうな状況はどんなものであれ、あらかじめ回避しておきたい。

「よければ、中に入れてもらえませんか?」

 店の従業員である男に視線を戻して言うと、同じく道路の酔っ払いに目を向けていた男はしばし逡巡した後、無言で扉を大きく開いてレイとアマンダを中に通した。
 中は喫茶店のようだった。ほのかにコーヒー豆の匂いがする。店内は照明が落とされており、薄暗い空間にインテリアを浮かび上がらせているのは、窓から差し込んでくる自然光だけだ。向かって右側に小さなカウンターがあり、左側にはテーブル席が並んでいる。ブラウンを基調とした内装も、丸みのあるデザインの木製テーブルやチェアも、趣のある落ち着いた雰囲気だが、すべてどこかしら傷んでいて年代を感じさせる。当然、給仕ロボットなど一体もいないし、最新の自動調理マシンなども一台も置かれていなかった。この店は、この辺りがスラム街になる以前からここに佇んでいるのかもしれない。
 ゆったりと話ができそうなスペースは奥にいくらでもあったが、男はそれ以上中に進もうとはしなかったので、レイは玄関にとどまったまま話を再開した。

「まず、差し支えなければ名前と職業を教えていただけますか?」

 男は言われた通り自分の名を名乗り、この店の店主だと言った。この男は容疑者等ではなく、ただ、捜査の手助けになる情報を知っているかどうか聞くだけだ。何かあれば後から調査部に依頼して個人データを調べることもできるので、この場では個人認証カードの確認まではしなかった。アマンダが自分の端末に情報を記録している。

「ここはカフェですか?」レイは店内を見回しながら言った。
「一応、そんなようなもんだ。朝から昼過ぎまではコーヒーや軽食を出す喫茶店で、夜はバーとしても経営してる」
「ここに来る客が、先ほどお伝えしたような犯罪の依頼や、犯罪の計画などについて話していたことはありませんでしたか?」
「俺が聞いた限りでは無いね。もっとも、狭い店とはいえ、すべての客の話を聞いてるわけじゃないが。むしろ、耳に入ってこないことの方が大半だ。どっちにしろ、ここには犯罪と関わりがありそうな奴なんてほとんど来ないよ」
「では、最近何か変わったことは?」

 レイがそう質問した途端、それまで苦虫を噛み潰したようだった店主の表情が、露骨な不快感と、幾ばくかの驚きが表れたものへと変化した。

「変わったこと?」
「はい。いつもとは違う騒動とか、ちょっとした問題などがありませんでしたか?」
「それは何を基準に判断すればいい? 変わったことというのは、暴動? 強盗? それとも、殺人のことかい?」

 店主の話しぶりは早口でまくしたてるような勢いになったため、レイとアマンダは口を挟む隙も無かった。

「“普通”の基準では、この街のことは判断できない。この間も、ここから二筋裏手にある移民の店が襲われたところだ。窓ガラスを割られ、店に押し入られ、店内を荒らされた。営業時間外だったし、幸い店主と家族はすぐに逃げて、軽い怪我ですんだらしいが……」
「犯人は逮捕されたんですか?」と、レイは聞いた。
「ごく一部の話だが、いまだに移民を日本から追い出したいと思ってるような連中もいるだろう? そういった思想を持つ過激派グループの仕業だったそうだが、まだ逮捕はされてない。ここに住んでる移民は、そんな連中の格好の餌食となってる。今の日本には、そういう奴らが好き勝手できるような場所なんてほぼ存在しないだろうが、ここは例外なんだ」

 そこまで一息に言ったあと、彼は一度息をついたが、彼の中に湧き上がった怒りは収まるどころか増幅していくようだった。

「事件が起これば警察への通報は毎回誰かがしているが、大抵は犯人は逮捕されない。誰も事件の解決に積極的じゃないからだ。信じられないかもしれんが、当の被害者でさえだよ。みんな諦めてる」

 訴えるように語り続ける店主の声音には、深い悲痛が滲んでいる。

「こういった事件が起こることは、ここでは日常茶飯事なんだ。おたくらに――」

 店主はわずかに語気を強めて言いかけたが、我に返ったように途中で言葉を飲み込んだ。木の床に視線を落とし、疲れと諦めが入り混じったような深いため息とともに、緩く首を横に振る。

「ここは、そういうとこなんだよ。普通じゃないことばっかりだ」

 独り言のような低く暗い声で言ったきり、店主は口をつぐんでしまった。レイは彼の次の言葉を待った。一人だったら店主の感情の昂りに影響されて何か言い返していたかもしれないが、今日はアマンダが隣にいたおかげで、落ち着いた心を保つことができた。調査の最中に自分の勝手な感情から口論になり、せっかくの機会を無駄にすることほど馬鹿げたことは無い。

「何が変わったこと、おかしなことかなんてわからなくなっちまうし、何かあってもすぐに忘れてしまう。……本当にひどいことだがね。俺にはこれ以上のことは何も言えんよ。おたくらが知りたいようなことは何も知らん」

 次に言葉を発したとき、店主の声は平静に戻っていた。

「それに、ほとんどが近くから聞こえてくる騒ぎの音で何かあったんだなと悟ったり、後から人に聞いたりしたことばかりで、俺が直接目にしたわけではないんだ」

 そう言ったあとで、店主は「ああ」と何かを思い出したように声をもらした。

「一度だけ、自分の目ではっきりと目撃したことがあったな。あれは忘れられん……」

 彼の頭の中にはそのときの光景がよみがえっているのか、遠くを見るような虚ろな目になった。
 阿久津賢士の事件には関係が無さそうだったが、他の事件を解決する助けとなったり、何かの役に立つこともあり得るかもしれないと思ったので、レイは彼の話を聞くことにした。

「何があったんですか?」
「ちょうど一年――いや、もっと前か? 去年の春くらいだったな」店主はゆっくりと話し始めた。「前の通りを少し行った、そこの四つ角のところだったよ」

 そう言って腕を伸ばし、右側を指差す。たしかにさっき見たとき、店の前の道はまっすぐ行った先で別の細い路地と交差していた。彼が言っている場所はそこのことだろう。

「ちょうど、俺が今日みたいに店を閉めようと外に出たとき、向こうの方から男と女が走ってきたんだ。まだ明るい時間だった」

 体をひねりながら、店主は右手の人差し指でまた別の方向を指し示した。その指先は店の奥――スラム街の奥へと向いている。

「遠目だったから定かじゃないが、男は白人で、女はアジア系だったと思う。二人ともまだ若かった。雰囲気や体つきからは二十歳過ぎくらいに見えたな。女の方は二十歳にすらなってなかったかもしれん。何事かと思って俺が近づいて行こうとしたら、すぐに厳つい体格の男が何人か、その男女を追いかけてやってきたんだ」

 店主の声のトーンは徐々に低くなっていき、そのときの彼の緊張感が感じられるようだった。

「俺は側の家の陰に隠れたよ。そしたら、大通り側の細い路地の方からも車が入ってきて、そこからさらに男たちが降りてきたんだ。そいつらは若い男女を取り囲むようにした。全員で六、七人はいたはずだ。取り囲んでる方は暴力団のような外見だったが、逃げてきた二人はどう見ても普通の若者にしか見えなかった。しばらく、お互いに激しく言い合ってた」

 店主はところどころでジェスチャーを交えながら説明した。彼の話す場面が、目の前に映像が流れてでもいるかのように、レイの脳内に鮮明に浮かんできた。

「住人はみんな家や店の中に閉じこもってたし、通行人もいなかった。俺が固まってると、そのうち、若者を取り囲んでる奴の一人が銃を構えたのが見えた。そして、銃声が鳴り……女の方が倒れた。撃たれたんだ。倒れた足を見てもぴくりとも動いてなかったから、即死だろうと思った。次に、暴力団みたいな奴らはむちゃくちゃに暴れる男を押さえつけて、女の死体と一緒に車に乗せて、どこかへ連れ去っていったんだ」
「警察には……」と、か細い声で言ったのはアマンダだった。
「もちろん、警察には連絡したよ。そのあと何日かは注意してニュースをチェックしていたが、そのことについては何も触れられてなかった。たぶん、被害者の二人は不法滞在者か何かだったんだろうと思うが……。いったい、なんのために連れ去られたのか……」

 今度レイが口を開かなかったのは、自制心が働いたからではなかった。店主の話に、思わず言葉を失ってしまったからだ。
 スラム街での生活は、レイの想像が及びもつかないようなものだということは知っていたが、それでもかなりの衝撃を受けた。実際にそれを身近なものとして感じ、日々を送っている者の口からじかに聞く話は、生々しい現実感を伴ってレイの脳に染み入ってくる。
 ここではそんな悲劇――白昼に堂々と若者が殺害されたり、拉致されたりする事件はありふれたもので、しかも被害者が社会的に弱い立場であれば、犯人が逮捕されることも無い。

「もう、いいかい? 夜まで休みたいんだ」

 レイたちが黙っていると、店主は遠慮がちではあったが、自分の希望を端的に口にした。

「夜にまた店を開けなくちゃならんからね」

 彼の黒い瞳の奥からは、切実さと恐れが伝わってくる。
 これ以上食い下がってもこちらが欲する情報は得られないと判断したレイは、おとなしく調査を切り上げることにした。

「ああ、はい。ありがとうございました」

 気を取り直し、手短に謝意を示すと、店を立ち去るべく扉を開ける。アマンダもレイにならい、「ありがとうございました」と軽く頭を下げた。
 二人が店の外に出ると、店主はこのときを心待ちにしていたとばかりに、そそくさと扉を閉めた。店の前の狭い道に、並んで立ち尽くすレイとアマンダの影が伸びている。先ほどの酔っ払いはもういなくなっていた。
 薄暗い店内を出て、再び顔に日差しを浴びたレイはまぶしさに目を細めた。西の空に目をやると、青かった空にはいつの間にか、明るいオレンジ色が混じりつつあった。

「なんか、みんなあんまり話したくないみたいだったね」
「事件にも事件の捜査にも、なるべく関わりたくねえんだろう。いつ何があるかわからねえし、危険な連中がすぐ近くをうろうろしてるわけだしな。犯罪に無関係な人間が巻き込まれるのを恐れるのは当然だ。まあ、今まで聞き込みした奴らはほんとに何も知らねえんだろうけど」
「それもあるけど、なんていうか、私たちと会話すること自体が嫌っていう感じがしたよ」
「ああ……スラム街の連中には特に、SGAは良く思われてねえからな」

 アマンダの言葉に、レイは顔をしかめながら答えた。
 SGAが一部の人間にどのように思われているのかは、ついこの間まで一般市民だったアマンダにもうっすらと察しがついているだろうが、身をもって体験しなければわからないこともある。彼女がまだ知らず、今後知っていくはずのことは多い。だが、今はその件について話すときではないと思ったレイは、それ以上何も言わなかった。

「この後はどうするの?」

 アマンダがレイを見上げ、問いかけてくる。

「ここら辺で手がかりが得られねえとなると、もっと奥まで行って聞き込みしてみるしかねえな。もちろんそれで何かわかるっつー保証もねえけど……どっちにしろ、今日は駄目だ。奥に行くにはそれなりの準備をして来なくちゃいけねえ。今日は本部に戻るぞ」
「うん」

 二人は来た道を戻り始めた。そのとき、どこか遠くで何かが割れるような音がした。ついで、数人の男の怒鳴るような声が、夕焼けに変わり始めた空に響く。アマンダが立ち止まり、そちらを振り返った。それに気づいたレイも、数歩進んだところで歩みを止める。
 声のする方角は北西――スラム街の奥、より治安の悪い地域だ。ただの喧嘩なのか、犯罪行為が行われているのかはわからないが、何かしらの騒動が起こったのは間違いない。だが、スラム街で日常的に発生する揉め事や騒ぎに対し、SGAとして自分たちにできることは無いに等しかった。今、この場では尚更だ。

「行くぞ」

 再び歩き出しながらレイが促すと、アマンダも小走りに後を追ってくる。二人は風に乗って流れてくる喧騒を背中で聞きながら、スラム街を後にした。
 結局、本当に知りたいことについては何の収穫も得られないままに、この日は引き上げることとなってしまった。だが、最後に訪れた喫茶店の店主から聞いた若い男女の話が、大通りに向かって歩いている間も、本部に帰る車の中でも、しばらく頭から離れなかった。二十歳過ぎくらいと言えば、レイともアマンダともそう変わらない年だ。苦さを含んだような何とも言えない複雑な思いが、レイの胸の辺りでもやもやと渦巻いている。
 アマンダは帰りの車中、珍しく口数が少なかった。もしかすると彼女も、助けてくれる者もいないままに、理不尽で悲劇的な運命に引きずり落とされた若者のことを考えていたのかもしれない、とレイは思った。



>> To be continued.



読んでくださってありがとうございました!

今回は、第二話からちょこちょこと話には出てきていた、スラム街についてのシーンでした。
物語に大きな進展は無いものの、結構重要な部分だったりします。

いつも読んでくださる方々、拍手等くださる方々、本当にありがとうございます!!
とてもエネルギーを頂いています!

読者数の参考にしたいので、小説を読んでくださった方は各記事の拍手ボタンを押していただけますと助かります。
もちろん強制ではありませんので、気が向いたらで構いません!


劉俊毅 - Liu Junyi

未来への追憶/劉俊毅

個人的に描くのがかなり難しい劉。
練習と絵のリハビリ(最近描けてなかったので)も兼ねて描いてみました。

みらついは普段スーツを着ているキャラが健二と劉の二人いますが、
ジャケットのボタンは健二はいつも一つ留めていて、劉の方は全部開けて着ているのが標準です。


背景無い方が良いかも…?とも思ったので、背景無しVer.も一緒に置いておきます!

未来への追憶/劉俊毅

未来への追憶 第四話 - 06

* * *


 アンチ・テクニシズムだったと思われる女性の命を奪った最後の銃声。その余韻が完全に消えかけたとき、フランツがつ、と顔を上げ、頭上の観客席の方を仰ぎ見た。クレイグも物陰からその視線を追い、三階席に動く影があるのに気がついた。
 こそこそとしたその動きからすると、敵ではないだろう。初めはからくも銃撃を逃れ、身を隠していたアンチ・テクニシズムの生き残りだろうかと思ったが、すぐに思いなおした。先ほど、メインホールで自分たちに合流するようにと指示を出した、健二と劉だ。抑えた声で何かを言う彼らの声が、かすかに聞こえる。
 クレイグはすばやくフランツに視線を戻した。彼は獲物を観察する肉食の獣のように冷たく、そして揺るぎのない機械的なまなざしで、三階席を一心に見つめている。
 一瞬のうちに、クレイグの脳内で思考が駆け巡った。
 今すぐ健二と劉のところへ行くべきだろうか? だが、もしフランツが健二たちに向かって攻撃を開始すれば、二階分の階段をどれだけ速く駆け上がったとしても間に合わないし、それで助けられるわけでもないので無意味だろう。移動中のこちらが狙われるということもあり得る。どちらにせよいつまでも隠れているわけにはいかないので、やはりここで自分たちが正面からフランツに攻撃をしかけ、彼らへの注意をそらすべきか。
 しかし、そのどちらを選択する間もなく、フランツは突然二丁の拳銃を三階席に向けると、その二つの引き金を同時に引いた。一発にとどまらず、三階席の右から左に向けて、立て続けに何発もを撃ち込んでいく。耳を聾さんばかりのすさまじい轟音が響いた。
 壁の破片が弾けるように吹き飛び、塵が空中を舞うとともに、バルコニーには銃弾に穿たれてできた無数の穴が次々と刻まれていく。一切の容赦など存在しない攻撃だった。
 レイが何事かを叫んで階段の陰から飛び出した。おそらく「やめろ!」とかそういう類のことを言ったのだろうが、銃声にかき消されて聞き取れなかった。レイを追うように、クレイグもホールの開けた空間に再び足を踏み出し、室内を煌々と照らしている明るい照明の下に身をさらした。麻酔銃を構えてフランツに狙いを定める。レイもちょうど同じようにしているのが、視界の隅に見えた。
 ところが、まさかレイが制止の声を上げたからではないだろうが、どういうわけかフランツは今度は急に銃を撃つのを止め、両腕を下ろした。途端に、鼓膜を激しく震わせていた銃声と破壊音が、残響を残してすっと退いていく。弾切れか? それとも、健二と劉を殺したと判断したのか?
 理由はなんであれ、フランツが動きを止めた隙に、クレイグは銃を構えたまま三階席に視線を走らせた。ここからでは上の様子はまったくわからない。今は健二と劉のどちらの姿も見えなかった。
 クレイグはフランツに目を戻した。気がつくと、ジャンとゆかりも麻酔銃をフランツに向けて構えている。まっさきにダートを放ったのはジャンだった。フランツは横に飛び退き、やすやすとそれをかわす。クレイグも続けて麻酔銃を撃ったが、それも避けられた。間髪入れずにレイが撃ち、またジャンが撃つ。フランツは身を翻したり後ろに下がったりしながら、跳んでくる複数のダートを、顔色も変えずに軽々とよける。彼はまだ両手に銃を持っているものの、クレイグたちに対して攻撃しようとするそぶりは見せなかった。
 クレイグたちの方は、残されたダートの数を気にしながら麻酔銃を使わなくてはならない。SGAのチームが今の態勢で普通に攻撃を仕掛けても、敵に対してはほとんど意味が無いも同然のようだった。
 ジャンとゆかりが少しずつフランツににじり寄り、同時に麻酔銃を撃つ間、レイが通信機に向かって叫んだ。

「おい、健二! 無事か? 劉さん!?」

 クレイグも一度銃を下げると、ジャンたちと敵との様子には注意を払ったままで、通信を繋ぐ。

「大丈夫か?」
「はい、なんとか……」

 まず、劉の声が応えた。その声はかすれてどことなく苦しげだったが、たった今命が脅かされたことによる緊張のせいかもしれない。

「健二は? 無事なら応答してくれ」

 数秒待っても健二からの応答が無いので、クレイグは重ねて呼びかけた。

「は、はい……大丈夫です」

 遅れて、健二の弱々しく震えた声が聞こえてきた。
 怪我を負っている可能性はあるが、二人とも生きている。声の調子から、負傷していたとしても致命傷ではなさそうだ。レイがほっとしたように、見るからに表情を和らげた。クレイグもいくらか安堵したところで、劉が新たな報告をしてきた。

「ボス、十階に和泉かおるがいました。警備員を殺したのはたぶん彼です」

 相変わらず絞り出すような声だ。
 その報告に、今度はゆかりが反応した。クレイグの視界の先にいる彼女の緊張した顔に、瞬時に動揺が走ったのがわかった。芯の強いゆかりの心がぐらぐらと揺れ始める。クレイグはそれを気にしつつ、劉に「やはりそうか」と答えた。
 フランツの他にも敵がいるという、クレイグの予想は当たっていた。だが、まずは目の前のフランツを捕らえなくてはならない。そして、阿久津賢士にこちらの言葉が間接的に伝わり、彼がなんらかの反応を返すきっかけになるよう、フランツに語りかけなくていけない。
 クレイグは健二と劉の二人に、その場を動かず身をひそめているようにと告げると、通信を切ってフランツに向きなおった。
 しかし、フランツの強さは圧倒的で、いつもこちらの予想をはるかに超えた超人的な力を見せつけてくる。武装部隊の援護も無しに真っ向から立ち向かうのは無謀すぎたし、ビル内には彼の他に和泉かおるもいるのだ。
 ここで真っ先に優先すべきはもう一つの目標である、阿久津賢士との会話を試みることだった。
 クレイグは、なんとしてもフランツの肌にダートを刺してやろうと必死の形相で銃を握り、ずいぶん相手に近づきつつあるジャンに向かって、腕を上げながら「止めろ」と声をかけた。ジャンはちらりと、戸惑いと、邪魔するなと言いたげな怒りが入り混じったような視線をクレイグに向けてきたが、今回は反論することなく、即座に上司の命令に従って銃を下ろした。
 麻酔銃の攻撃が止んだ途端、フランツも動くのを止めた。銃を構える気配は無い。正した姿勢で、クレイグたちの方を向いて静かに立っている。
 クレイグはフランツの方へ一歩を踏み出した。それをレイやゆかり、ジャンが息をのんで見守っているのが感じられる。
 床に倒れ、折り重なったたくさんのアンチ・テクニシズムの人々の体の向こうに、フランツが立っていた。彼は今や、クレイグ一人に射るような冷たい視線を留めている。
 クレイグは意を決したように背筋を伸ばすと、落ち着いた声を保ったままで、まっすぐに彼に言葉を投げかけた。

「なぜ、私たちには手を出そうとしない?」

 腹に力を込めて発音したその問いは、クレイグが思っていたよりも強くはっきりとホール内に響いた。
 フランツは無言だった。ただ、じっと身動きせずに立ちつくし、感情の無いガラス球のような瞳にクレイグを映している。

「阿久津賢士の――お前たちの“マスター”の目的はなんだ?」

 クレイグはさらにたずねた。フランツの流麗な眉がほんのわずか動き、金色にきらめく長い睫毛にふちどられた目が細められたような気がした。それでも、彼は答えなかった。
 しばらくの間、両者が向かい合ったままで沈黙が流れた。クレイグは、医療研究所で前回フランツたちと対峙したときのことを思い出していた。メンバーが異なることを除けば、あのときとほとんど同じ状況だ。
 静寂が続き、フランツはこのまま一言も発さず、この時間が永遠に続くのではないかと思えるほどだった。だが、クレイグが再び口を開きかけたとき、状況に変化が起こった。

「はい。わかりました、マスター」

 唐突に、フランツがこちらに目を据えたまま抑揚のまったく無い声で言い、自分の服の胸の辺りに手をやった。カチッという金属的な小さな音がしたかと思うと、ノイズのようなかすかな音が流れ出す。
 ついで、体に刻まれた歳月にともなってしわがれてはいるものの、独特の深みを帯びた低い声が聞こえてきた。

「SGAのマーカス・クレイグだな」

 超然としていて、温かみこそ無いが、上品で穏やかな老齢の男の声。
 それは、阿久津賢士の声に他ならなかった。阿久津賢士が、フランツが身につけているらしいスピーカーを通して、じかにクレイグに話しかけているのだ。突然、この場で阿久津賢士本人が会話に応じることがあるなどとは思っておらず、クレイグは予想外の衝撃を受けた。

「そして、レイモンド・ストレイス。その後ろにいるのはジャン・ベルティエと藤原ゆかりか」

 この場にいないはずの彼の、まるで今まさに目の前で見ているかのような言い方に背筋が凍った。おそらく、他の皆も同じ思いだったのだろう。ビリビリと肌に感じられるほど、やにわに空気が緊張感を増していくのがわかった。
 彼には本当に見えているのだろうか? クレイグは一瞬、SGAが街中の様々な建物の防犯カメラなどに接続するように、阿久津賢士はなんらかの方法でこのビルのカメラの映像を見ているのかと思った。だが、直後に別の可能性に思い至る。スピーカーやイヤホンなどと同じように、フランツの体のどこかにカメラも取りつけられているのかもしれない。

「私は君たちの敵ではない」自身に満ちた阿久津賢士の声が、続けて言った。「君たちに手を出す気は無いし、私のもとで働いてくれている部下たちもみな、仕事がすべて終われば無傷で返すと約束しよう」

 部下とは、洗脳を施して操り人形としている和泉かおるたちのことだろうと、クレイグは彼が言うのを聞きながら考えた。

「私は君たちSGAと敵対することなど、最初から望んではいない。だからどうか、このままこの場を立ち去ってはもらえないだろうか?」

 口にしている不合理な要求とは裏腹に、紳士的で、礼儀をわきまえた者の頼み方だった。

「お前がやっていることは犯罪だ。それも、とてつもない重罪だ。見過ごすわけにはいかない」

 そんなことをこの老人がわかっていないとは思えなかったが、クレイグはあえて口にした。それに対して返ってきたのは、嘲るように鼻で笑う声だった。

「それならば、今すぐにでも私を捕まえに来ればいいだけのことだ。私がどこにいるかはわかっているんだろう。なぜそうしない?」

 そう言った阿久津賢士の声は相変わらず平静だったものの、こちらを挑発するような色が滲んでいた。

「私のところにいる者の身が不安だからか? だが、先ほども言ったように、彼らは人質ではなく私の部下だ。彼らを傷つける気など、私には毛頭無い。それに、たとえ警察やSGAが自分を逮捕するためにやって来たことでパニックに陥り、追いつめられた私が思わず彼らに手を出すようなことが起こったとしても、お前たちは必要とあらば、彼らを犠牲にすることを選ぶのではないのか?」

 彼の話し方は、自らも考えを巡らしながら口にしているふうを装ってはいたが、そこには明らかにこちらを脅す意図が含まれていた。
 クレイグは何も言わなかった。

「私を逮捕したくない理由が他にあるというのか?」

 少し間を置き、賢士は探るような声で続けた。
 しかし、彼はすべてわかっているのだ。SGAが彼をすんなりと逮捕できない別の理由――阿久津コーポレーションの技術が失われるのを危惧していること――を彼はすべて知っていて、しかも、知っているのだということを、暗に自分たちに示そうとしているのが伝わってきた。
 そのときクレイグは、阿久津賢士はSGAに対して、自分の行いに完全に目をつぶってもらうことを望んでいるわけではないのだと悟った。牽制されて、それほど派手な行動には出にくいながらも、ぎりぎりのところまで手を出されないようにすることを望んでいるのだ。彼は、今のこの状況を出来る限り引き伸ばしたいのだ。
 そして、彼の声や言葉の端々から伝わってくる、不自然なまでの余裕。阿久津賢士がそのしゃべり方通り正気であるならば、彼が“何か重大なこと”を計画しているのは間違いない。おそらくそれは、いずれ自分が必ず逮捕されるという事実など、取るに足らないことだと考えられるようなものなのだ。
 これまでは主に殺人犯や強盗犯を殺害するよう命じていた阿久津賢士が、ただアンチ・テクニシズムのメンバーだったというだけで罪を犯していない人々を、一度に何十人も殺させた。エスカレートする彼の行いから考えても、“その何か”を実行するときは確実に近づいており、それまでもうしばらく逮捕から逃れようと思っているのだろう。
 この状態をこれ以上続けるわけにはいかない、とクレイグは思った。
 そのとき、不意に背後で物音と扉が開く気配がし、フランツ以外の全員がそちらを振り返った。半分ほど開いた扉を、白衣を着た男が片腕で支えている。彼はホールの中を覗きこむように、扉の隙間からにやついた顔を傾けていた。

「かおる……」

 ゆかりが消え入りそうな、震える声で弟の名を呼んだ。
 かおるはギラギラと輝く目でホール内を見渡した。この状況を心から楽しんでいるような表情や仕草は子供っぽくもあるが、口の端は邪悪に歪んでいる。彼は、まずゆかりに目を留めてじっくりと観察するように見た後で、次にジャンに視線を移した。
 クレイグは、かおるが扉を支えているのとは別のもう一方の手に、メスのような小さな刃物を持っているのに気がついた。そこに目が行ったのは、メスの鋭利な先端が光を反射したからではない。彼のその右腕が、ひじの辺りまでおぞましい赤に染まっていたからだ。血を吸ってぐっしょり濡れた白衣の赤は、すでにどす黒い色に向かって変色を始めている。
 ゆかりもそれに気づき、鋭く息をのんでよろよろと数歩後ずさった。

「手で……体に穴を開けたのか……」

 意識せずにもれてしまった呟き、といった具合の茫然とした小さな声で、レイが言った。全員が恐怖で固まっていた。
 思った通り、警備員を殺したのはかおるだった。それも、小さなメスで刺したその勢いのまま、自分の腕ごと相手の体に貫通させるという、荒々しく異常な殺し方で。

「先ほども言ったが、私たちは君たちに危害を加えるつもりはない」

 再び阿久津賢士の声が言い、クレイグはかおるの方に体を傾けたままで、肩ごしにフランツを振り向いた。

「むしろ君たちは私にとって、限りなく仲間に近い存在だと言えるのだから」
「どういう意味だ」

 クレイグは慎重に聞き返した。斜め後ろから、ジャンの呻くような声が聞こえてきた。そちらを見やると、ジャンは険しく歪んだ表情で歯を噛みしめている。銃を構えた腕が震えていた。阿久津賢士への憎しみと、彼の要領を得ない言い分から募る苛立ちを必死で抑えているようだが、それも我慢の限界に近づいているらしかった。

「私は君たちSGAの敵ではない」阿久津賢士は繰り返した。「部下にはこれまでもずっと、君たちは殺さないようにと指示を出してきた」
「では、なぜ警察官は殺した?」

 彼は、クレイグのその質問には答えなかった。
 ゆっくりと、フランツが動き始めた。一歩一歩、静かな足取りでこちらへと近づいてくる。阿久津賢士に指示されたからなのかは定かではないが、「黙って通せ」という無言の圧力をかけてきているのだ。クレイグたちの背後ではかおるが扉をふさいでいる。武装部隊はまだ来ない。
 阿久津賢士の要求を無視し、不意をついて敵を攻撃しようかという考えが、クレイグの頭をよぎった。ここまで来てしまえばもう、阿久津賢士の行いが人々に知られることも、彼のもとにいる被害者に危害が及ぶことにも構わず、この瞬間から彼を逮捕することを最優先にするべきではないかと思ったのだが、それはクレイグの一存で決められることではない。それに、ここでクレイグたちが攻撃すれば、さすがに敵も本気で反撃してくるかもしれない。その結果自分たちが全員殺されたり、事態をさらに悪化させることになりでもすれば、健二の考えた作戦は無駄になってしまう。阿久津賢士と話すことが叶ったからとはいえ、この状況で健二の存在を敵に知らせることも危険すぎた。今、無駄なリスクを負わずにできることは何も無いと言ってよかった。
 だが、せめて相手の反応から何か手がかりが得られないかと、クレイグは一か八か、賭けに出てみることにした。

「彼をこの時代に呼び寄せたのはお前か」

 フランツが横を通りすぎたとき、彼は思い切ってそれだけ言ってみた。フランツが扉の前で足を止める。

「なんのことだ?」

 しばしの間があり、阿久津賢士の静かな答えが返ってきた。わずかに怪訝そうな響きは含まれているものの、ほとんど感情のこもっていない声だ。それだけでは、しらを切っているのかどうかはわからない。クレイグが黙っていると、彼はそれ以上追求することはしなかった。
 フランツとかおるはSGAの面々が動かないことを確認しながら、ともにメインホールから去っていった。前回のように相手の要求を呑むと明言したわけではないので、クレイグは敵の姿が見えなくなるとすぐさま武装部隊へ通信を繋ぎ、文芸交流センターから逃げる敵の行方を追うようにと伝えた。


* * *


 敵が去っても、健二は硬直してしまったかのように、三階席の手すりの脇にうずくまっていた。目の前に迫る赤いカーペットの上で握りしめた、自分の両の拳が震えている。拳だけではない。フランツの銃撃を受けたときから、全身が震撼している。その震えは阿久津賢士の声を聞いたときからますます大きくなっていた。目は衝撃に見開かれたままだ。
 あれが、自分の子孫の声なのか。恐怖を感じるとともに愕然とした。紳士然とした口調で取り繕ってはいるものの、隠せない酷薄な響き。声しか聞いていないのに、彼の冷たい表情が目に浮かぶようだった。なじみの無い年老いた彼の声からは、阿久津留美の写真を見せられたときとは違い、血の繋がりも親近感も、何も感じ取ることができなかった。
 あんな相手に対して、自分にできることなど本当にあるのだろうか? 阿久津賢士は彼と健二の結びつきに関する話に、いっときでも耳を傾けようとするだろうか? 急激に自分がひどく無力な存在に思え、強烈な不安と絶望感に襲われる。
 クレイグたちが座席横の階段を上がって三階席にやって来るまで、健二は体を縮めた姿勢のまま動けずにいた。

「大丈夫か?」

 健二が頭を上げたのと、駆け寄ってきたレイが健二の肩に手を置いたのはほぼ同時だった。

「怪我してねえか?」

 彼は切羽詰まったようなひどく心配そうな顔で、健二の顔を覗きこんできた。少し遅れて駆けてきたゆかりも、健二のそばで軽く腰をかがめる。その側にはクレイグと、少し離れたところにジャンもいるのが見えた。ジャンは、珍しく感情の読めない表情で健二に視線をそそいでいるようだ。
 健二は力の入らない足でなんとか立ち上がると、「ああ、大丈夫だよ」と答えながら、腕を伸ばしたり胴体や脚を見下ろしたりし、改めて自分の全身を確かめた。痛むところも、違和感のあるところも無い。
 すぐに健二が無事だと判断したクレイグは、バルコニーの先にいる劉の方へと向かった。健二がそちらを振り向いたとき、劉はちょうどバルコニーの手すりを支えにして立ち上がったところだった。
 通信で交わされた会話から皆が無事なのはわかっていたが、自分の目で全員の姿を確認して初めて、ようやく健二の中に安心感が湧き起こってきた。
 ところが、レイたちとともに劉の方へと近づいたとき、ふと体の脇にだらりと垂らした彼の左腕が目に留まった。健二の位置からかすかに見える彼の左の手には、指の先まで伝わった幾筋かの赤い液体が付着している。

「血が出てますよ!」

 健二は驚き、反射的に彼の手を指差して叫んでいた。

「ああ」劉は間延びしたのんきな声を上げると、まるで今気がついたとでも言うように自分の左腕に目をやった。「少しかすっただけだから」

 先ほどフランツが撃った弾が当たったのだろうが、たしかに、見たところそこまで多くの出血があるわけではなさそうだった。
 ゆかりが「大丈夫ですか?」と慌てて劉の左側に回りこみ、彼の腕にそっと自分の手を添えるようにして顔を近づけ、怪我の具合を見ようとした。

「すぐに医療課で診てもらえ」

 クレイグはそう言ったが、その声はいつもの冷静さに満ちていて彼の感情はうかがえず、彼自身が心配しているのかどうなのかわからない。

「ほんとに全然たいしたことないですよ、こんなの。大丈夫です」

 劉は左手を上げて軽く振ると、笑みさえ浮かべて言った。

「いや、先に本部へ戻って手当てを受けるんだ」

 それでも、クレイグは譲らなかった。ゆかりもうんうん、とうなずいて同意を示している。どうやら、ひじの少し上辺りを銃弾がかすめ、傷を負ったらしい。傷口から流れた血が、手の先にまで垂れてきていたのだ。だが、彼の様子からすると、本人の言うとおり大きな怪我ではなさそうだった。あのすさまじい銃撃を受けて、二人ともたいした怪我を負わずに済んだのはほとんど奇跡的と言ってもよかった。

「ストレイス、武装部隊からの連絡があり、敵が建物から離れたことが確認でき次第、劉と健二をつれて先に本部へ戻れ」
「わかりました」

 指示を受けたレイは、自分もそのことに異論はまったく無いと言った調子で、素直に応じた。
 仲間の無事が確認できると、ゆかりはバルコニーの下へと目を向けた。その視線に気づいたレイが「ひどいっすね」と暗い声で呟く。
 健二も彼らの視線を辿ってホールに目をやった。しばし、全員が無言で階下を見つめていた。そこには、殺された何十人ものアンチ・テクニシズムの人々が倒れている。散乱した料理や飲み物と混ざって、至るところに血の赤が飛び散っているのも見えた。

「まさか、ほんとにあいつらが来て……しかも、全員殺すなんて……。ざっと見るだけじゃ、この中に竹下がいるのかどうかもわかんねえな」
「武装部隊から連絡が来たあと、生存者がいるかどうかなどと合わせて確認しよう。じきに、処理課の者たちも到着するだろう」

 レイの独り言のような言葉に、クレイグが答えた。
 先ほど武装部隊に連絡を取ったあと、クレイグは他にも数ヶ所に通信を繋ぎ、文芸交流センター――現場に来てほしいと伝えていた。健二にはそれぞれの通信の相手がなんの役割を担っているのかなどわからなかったが、いずれも事件の処理に必要な存在らしい。処理課というのも名前の通り、そのうちの一つだろう。

「なぜ、突然こんな……」ゆかりが言い淀み、一度口をつくんだ。「これまではほとんどが犯罪者をターゲットにしていて、アンチ・テクニシズムのメンバーだった人たちは二人だけ、それも間を空けて殺害していただけだったのに、なぜ阿久津賢士は突然、こんな一見無謀にも思えるような大量殺人を行ったのでしょうか?」

 戸惑いの表れた声で続ける。彼女自身、今そんなことを言ったって何も解決しないとわかっていながら、事態をすんなりと受け止められず、混乱を静めるためにも口にせずにはいられない、といったような様子だった。
 クレイグは「わからん」と静かに首を振った。

「しかし、敵の行動がより大胆に、派手になるということは、阿久津賢士の中の何かが、もしくは彼がひそかに行っていることが、それだけ進行していると考えていいだろう。おそらく、我々にとっては望ましくない方向にだ」

 健二は彼らの会話を聞いていたが、何も考えられなかった。体はまだ緊張と恐怖で震えているのに、頭は夢の中にいるようにぼんやりとしている。目の前の惨憺たる光景が健二の理解の範疇を超えているからなのか、そこに見えているものに現実感を抱くことができず、何も感じなかった。銃で撃たれて命を落とした罪の無い人々の姿を見ても、哀れみの感情さえ湧いてこない。

「上層部はこのような大きな事件をどう処理するんでしょうか。幸い、貸切の建物内なので目撃者はいませんが……。殺されたのは皆、一般人です。被害者が身元不明の犯罪者だったときのように、問題無く逮捕したと報道するわけにも、事件そのものを無かったことにするわけにもいきませんし……」

 ゆかりが不安げな顔をクレイグに向けた。

「一連の事件が阿久津賢士の犯行だということを世間に隠し通すことが難しくなるのは、時間の問題だろうな」クレイグは言った。「彼の犯罪による被害の大きさを考えれば、もはや、技術や経済的な面での損失など重視している場合ではない。彼の逮捕に関しても、これまでの受身的なやり方ではとても対応できない」

 腕を組んだジャンが黙ってクレイグを見つめ、話に耳を傾けているのが健二の視界の端に映っていた。

「健二の存在を活かした作戦を試みるとともに、根本的な対処の仕方を変える必要がある。……阿久津賢士の事件を一部でも公にするべきだと、上層部に話をしよう」

 クレイグの声がずしりとした重みを持って響いた。皆それぞれに考えを巡らせているかのような沈黙の中、健二は景色が遠のいていくような感覚を覚え、途方に暮れたように、どこか孤独感にも似た不安を抱えてバルコニーに立ちつくしていた。


* * *


 薄い雲がまばらに浮かんだ空が茜色に染まり始めた、春の日の夕暮れ時。閑静な住宅街にほど近い舗道で、少年が泣いていた。その周りを、これもまた小学校の中学年くらいの少年たち三、四人が取り囲んでいる。

「すぐ泣くよなあ、こいつ」
「ほんとに女みてえだよな」

 少年たちが、意地の悪さよりも、ませたあきれ口調の方が際立つ声で言うのが聞こえた。泣いている少年の正面に立っていた一人が、あふれてくる涙を両手でひっきりなしに拭っている少年の肩を、軽く小突くのも見えた。
 うつむいてすすり泣いている少年の顔は輪郭の線が柔らかく、もう少しで肩に届きそうな長い髪もあいまって、服装を除けばたしかに、一見して彼の性別を判別するのは難しくはあった。

「こら! 何やってるの!」

 通っている私立中学から帰る途中だったゆかりは、きびしい声を上げながら、道路を挟んだ向かい側の道からそちらに駆け寄った。彼女の中に、燃え上がるように急速に、怒りが込み上げてくる。
 ささやかながらも卑劣な虐めを行っていた少年たちは、ぱっと一斉にゆかりの方を見た。その目は一つ残らず、驚きに見開かれている。

「止めなさい!」

 怒りを込めてなおも叫ぶと、ゆかりが少年たちのもとにたどり着く前に、彼らは虐めていた少年を残して突然走り出した。そのまま一度も振り返らず、一目散に逃げ去っていく。ゆかりはその後ろ姿を目で追いながら立ち止まった。彼らを追いかけてまでしつこく注意をするのもはばかられたし、何よりすぐそばでまだ涙を流している少年をなぐさめ、安心させるのが先だと思ったので諦めたのだが、怒りは収まらない。たとえ子供といえど、他者を平気で傷つける行為を目の当たりにして、単に腹が立ったからというだけではない。目の前で切なげに顔を歪ませ、涙を流しているのが、ゆかりのたった一人の、大切な大切な弟だからだ。

「お姉ちゃん……」

 かおるは大きな目でゆかりを見上げた。心細そうで、ゆかりを頼りきったすがるような目だった。ふっくらとした愛らしい頬を涙がぼろぼろとこぼれ落ちるのを見たとき、ゆかりの胸は痛んだ。
 自分よりだいぶ背の低い彼と目線を合わせるためにかがみこむと、ゆかりは彼の頭にそっと手をやった。

「もう大丈夫よ」優しく言って、癖のある髪を撫でる。「みんな追い払ったわ。かおるのことは私が守ってあげるから。ね? また何かあったら、すぐに私に言うのよ」

 ゆかりがにっこりと笑顔を浮かべると、かおるは小さくうなずいた。
 おとなしく、ひ弱で優しいかおるは、小さい頃から虐められることが多かった。そんなときはいつもゆかりがかおるをかばい、彼を虐める他の子供たちを叱り飛ばした。いつだって、かおるを守るのはゆかりの役目だった。
 ゆかりは体を起こすと、かおるに向かって手を差し出した。

「行きましょう」

 その手にかおるが小さな手を重ね、ぎゅっと握りしめる。二人は夕日を背に、近くの公園へ向かって歩きだした。この日は公園で話す約束をしていたのだ。二、三歩歩くうちに、かおるはもう泣き止んでいた。
 ゆかりとかおるはほんの幼いときからずっと、お互いが世界で一番信頼できる、心を許せる理解者だった。一緒に遊び、語り合っては、気持ちや考えを共有していた。姉弟の間には誰にも入り込めない、強い絆がある。
 不仲だった両親が数年前――ゆかりもまだ小学生だったときに離婚し、ゆかりはこれまで通り父親の姓を名乗り続け、かおるは母親の旧姓を名乗るようになってからも、それは変わらなかった。毎日のように通信機器でやり取りし、休日や学校帰りに待ち合わせ、こうして外でこっそり会う。そして、他の家族や友人には言えないこともなんでも話し、相談し合うのだ。ゆかりは両親のことも好いていたが、かおるは特別だった。

「お母さんは元気?」
「うん」

 ゆっくりと歩きながらゆかりがたずねると、かおるもようやく笑顔を見せた。手のひらから、かおるの温もりが伝わってくる。過ぎ去った日の、穏やかな記憶。
 それから十年近くの月日が流れた後、やがてかおるも大人の男に成長し、虐められることも、すぐに泣くことも無くなった。それでも、彼らの関係は揺らぐことがなかった。二人は頻繁に会い続け、持病を患っていた母親のことや仕事のこと、将来のことなど、いろいろなことを話した。年齢を重ねるごとに、二人の間の絆はいっそう確かなものとなっていった。
 かおるにはゆかりが必要だったし、それを当然のことだと理解していたゆかりは、彼を精神的に守り、支え続けた。そして、ゆかり自身もまた――


 カタン、という物音と側に人が寄る気配で、遠い日の回想は霧散するように消え去った。ジャンが木造りのチェストの上に通信機を置いた音だった。シャワーを浴びていた彼は、タオルで髪を拭きながらゆかりに近づいてきた。入浴中も彼の腕につけられていた防水の通信機は、チェストの上でまだ湯の雫を光らせている。
 ベッドのふちに腰かけて写真を眺めていたゆかりは、顔を上げて彼を見つめた。

「ジャン」

 部屋の照明はほとんどが落とされており、ベッド横の間接照明だけが、室内にほの暗い光を投げかけている。ジャンが歩いてくるにつれ、その黄金色の光がジャンの顔をぼんやりと照らし出し、彼の薄青色の瞳もかすかにきらめいた。
 今ゆかりがいるこの部屋は、現在の自分の住まいでもある拠点の、ジャンの私室だった。明日は珍しく二人の休日が重なった貴重な日なので、今夜は自然と一緒に過ごす流れとなった。しかし、心に影を落とす数日前の事件のことや漠然とした不安が心を占めていたため、どこか外へ出かけようという気にもならず、特に何をするでもなく、ジャンの部屋で言葉少なに何気ない会話を交わしたり、物思いに耽ったりしていたのだ。
 もう夜の十時を回っているので、健二とアマンダはおそらく自分の部屋で思い思いに過ごしているだろう。レイとクレイグはまだ本部だった。クレイグは今日も本部に泊まるのかもしれない。

「どうした」

 薄暗い中でもゆかりの顔が悲しげに曇っているのに気づいたからか、ジャンは静かに声をかけると、濡れたタオルを無造作に近くの椅子の背にかけた。
 ゆかりは両手で持っていたフォトフレームをそっとベッドの上に置いた。一瞬、ジャンは写真に目をやった。乏しい明かりのせいで、木の枠の中で肩を並べ、こちらに笑顔を向けている姉弟――ゆかりとかおるの姿は彼には見分けられなかっただろうが、彼女がなんの写真を見ていたかは彼にもわかっているはずだ。昔ながらのフォトフレームに入れられたそれは、普段はゆかりの部屋の小さなテーブルの上で、花の鉢植えの隣に飾られていた。
 ゆかりはゆっくりと立ち上がってジャンを見上げると、まっすぐに彼と目を合わせた。ジャンの灰色がかった薄い青の瞳は、春の日の空を連想させる。ゆかりにとってその青は、優しく温かく包み込んでくれる、大きな空だった。
 話したいことはたくさんあった。先日の事件のあと、クレイグは犯罪捜査部の部長を通して、阿久津賢士の事件を公表すべきだと上層部に進言した。しかし、それから数日経った今もまだ、事態は進展の兆しを見せていない。
 現在、フランツとかおるが文芸交流センターで数十人を殺害した事件は目的不明のテロリストの犯行だと報道されているが、殺された被害者の中には国会議員の竹下も含まれていたのだ。人々の疑いや騒動は簡単には収まらないであろうことは明白だった。阿久津賢士の思わせぶりな態度も気がかりとなり、ゆかりはこれからどうなるのか、今にももっとひどいことが起こるのではないか、という不安から片時も解放されずにいた。
 そして、何よりかおるのことだ。心優しい彼が残虐な殺人を強いられ、命の危険にさらされている。変わってしまった彼を見るのは恐ろしかったが、それ以上に辛かった。かおるのことは自分が守ってやらなければならないのに、何もできない自分が歯がゆく、波のように交互に襲いくる焦燥感と悲しみで胸が押しつぶされそうなほどに苦しい。
 だが、ゆかりは何も言わず、ジャンの方も同じだった。二人はしばらくの間、無言で見つめ合っていた。言葉は無くとも、お互いがお互いの気持ちを痛いほど理解している。ゆかりにとってジャンはいつしか、弱い自分を唯一見せられる存在となっていた。
 ジャンは体が触れ合うほど近くまで来るとゆかりの背に手を回し、太い腕で彼女をしっかりと抱きしめた。その腕の力強さは、「お前のことは俺が守る」と語っているかのようだ。たくましく大きな体に包まれ、硬く緊張していたゆかりの体がわずかに弛緩する。ジャンの体温を感じながら、ゆかりは彼の厚い胸に身をゆだねた。
 窓の外では激しい風が吹きすさび、庭の木々の葉を枝からさらっては飛ばしていた。今にも雨粒を落としそうな黒々とした雲が月を覆い隠し、周囲には不安を呼び起こすようなねっとりとした闇が垂れ込めている。
 暗い空の下、軒下に並べられたプランターの花々が、中庭で渦巻く湿った風によって大きく身を揺らす。影に沈んで鮮やかさを失った花たちの間に、特別目を引く白い花が咲いていた。開花期をとうに過ぎた六月だというのに、六枚の花弁を持った小さなその花――イフェイオンは今なお、夜空に輝く星のように、闇の中に白くぼんやりと浮かび上がっていた。



-- Episode 04 Fin. --



「第四話」、無事完結いたしました!!

久しぶりに本編の更新に一ヶ月以上間が空いてしまいましたが、
もし待ってくださっていた方、楽しみにしてくださっていた方がいらっしゃいましたら、本当に本当にありがとうございます!

そして、今回も読んでくださってありがとうございましたm(*_ _)m
読んでいただけること、拍手等を頂けることが、いつもとても励みになっています。

時間はかかりましたが、完成させられてよかったです!
こちらに書くと長くなるので、また今回の内容等については雑記の方で触れたいと思います。
「第五話」以降もがんばります!!(*^▽^)

読者数の参考にしたいので、小説を読んでくださった方は各記事の拍手ボタンを押していただけますと助かります。
もちろん強制ではありませんので、気が向いたらで構いません!


未来への追憶 第四話 - 05

* * *


 曲がり角の先の廊下に出ると、血の臭いはさらにきつくなった。劉が体の近くで銃を構えてゆっくりと進み、健二はその背中に貼りつくほどにぴったりとついて歩く。呼吸はほとんどしていなかった。体中に微弱な電流が走っているように神経がぴりぴりとし、何度も背後を振り返る。
 こちらの通路にも部屋が並んでおり、一番手前の部屋のドアは開きっぱなしになっていた。物音は聞こえない。そろそろとその部屋に近づいていくと、劉は銃口を部屋の中に向け、そっと中をうかがい見た。彼はそのまましばらく固まって動かず、健二は募る緊張に耐え切れなくなり、小声でたずねた。

「どうしたんですか? 誰かいますか?」
「いや……」

 その部屋を覗き込んだ途端、思わず健二の口からひ、と引きつった短い悲鳴がもれた。
 部屋の中央辺りの床には、男が仰向けで倒れていた。彼が着ている警備員の制服のような上着は血で染まり、黒く色を変えている。少し離れているためよくは見えないが、腹部には大きな穴が開いているようで、そこからあふれ出した血が男の体の周りに真っ赤な鮮血の海を作っていた。横を向いた男の顔は苦しげに歪んでいて、目は閉じられていたが、口は何かを叫んでいるかのように開いたままだ。
 強烈な血の臭いが鼻をつく。目の前の凄惨な光景と臭いに、胃からせりあがって来るものを感じ、健二は手で口元を覆った。胃と喉が内側から圧迫されるようで苦しく、目には涙が滲んだが、嘔吐することはどうにか免れた。血だまりに横たわる男から目をそらし、浅い呼吸を繰り返して吐き気の波が静まるのを待つ。
 当然ながら、警備員と思しき男は死んでいた。彼の死体がある以外は、劉の言うとおり部屋には誰もいない。小さな事務所のような部屋だが、入り口から見ても人が隠れられそうな場所も無い。
 劉は部屋の中に歩いていき、健二は入り口に立ったままそれを目で追った。無残に殺された警備員の痛ましい姿を見ないようにしようと思っても、どうしてもそちらに目が引き寄せられてしまう。どうやったら、何を使えば、人間の体にこんな穴を開けることができるのだろう。
 劉は銃を持ったまま死体のそばで少し身をかがめると、死体を観察した。その間、健二はまた後ろを振り返って、誰も近づいてきていないのを確かめる。
 SGAの職員である劉は、絶句するような残虐な事件の現場も見慣れているのか、それとも衝撃を表に出さないようにしているのか、健二とは対称的にうろたえる様子も無く、落ち着き払っている。

「まだ殺されたばっかりだな」

 彼は眉をひそめてそう言うと、引き返してきた。
 健二も何か言おうとしたが、声にならない。警備員が殺されてからそれほど時間が経っていないということは、犯人はまだ近くにいる可能性が高いということだ。もしかすると、今も十階にいるかもしれない。よく見ると、床には小さな血痕がぽつぽつと連なり、廊下の奥まで続いていた。これほどの出血量なのだ。おそらく、警備員の血が彼を殺害した犯人に付着し、それが垂れたのだろう。
 今すぐこの建物から逃げ出した方がいいのではないか? 健二は願望も含めてそう思ったが、劉は部屋から出るとまた先へ――血痕が残っている通路の奥へ――と進み、健二も後についていった。SGAは特殊な事件に立ち向かい、それを解決するのが仕事だ。危険が迫っているからといって、何もせずにただ逃げ出すわけにはいかない。そして、彼らの任務に同行するということは、健二も危機からすんなりとは逃れられない状況に身を置くということだった。
 最初の部屋以外のドアはすべて閉まっている。二人はその前を通りすぎた。次の曲がり角の手前まで来ると、劉は立ち止まった。健二を振り向く。

「中央監視室の様子を見てくるから、君はここで待ってろ」

 彼が発した信じられない言葉に、健二は自分の耳を疑った。

「だめですよ、劉さん! 危険です!」

 抑えた声ながら、必死にうったえる。この状況で二人が離れて行動するのは、とても得策とは思えなかった。

「君が一緒じゃない方が動きやすい。……それに、中央監視室の方もひどいことになってるかもしれないしな」

 それを聞き、健二はいささか怖気づいた。悪夢のような死の光景が、中央監視室にも広がっているというのか? それでも、健二は劉を説得して、彼とともに監視室へ行かねばならない。
 しかし、彼は「すぐに戻る」と言い残し、健二の制止を聞かずに曲がり角の向こうに歩いていってしまった。

「劉さん!」

 健二も彼の後を追って足を踏み出しかけたものの、その動きは逡巡するように止まった。一緒について行きたい気持ちとは裏腹に、健二の体は結局その場にとどまった。
 足ががくがくと震え、膝に力が入らない。崩れ落ちそうになるのをなんとか堪えた。すぐに逃げ出せるようにしておくためにも、座り込んでいる場合ではない。
 壁を背にし、絶えず左右を振り返って誰もいないのを確認する。今にも警備員を殺した犯人が曲がり角の向こうから飛び出してくるのではないか、もしくは一人で監視室を見に行った劉の身に何か良くないことが起こるのではないか、と思うとぞっとした。背筋を嫌な汗が流れ落ちていく。
 廊下は物音一つしない。聞こえるのは狂ったように脈を刻む、やけに速くうるさい、自分の鼓動の音だけだ。一刻も早く劉が戻ってくることを願い、不気味な静けさの中で待つ間、健二は恐怖のあまり気がおかしくなるのではないかと思った。たった今見た、惨殺された警備員の死体がまざまざと脳裏に浮かびそうになり、慌てて頭を振る。廊下にも血の臭いが充満しており、そのイメージを完璧に頭から追いやるのは無理だった。吐き気がよみがえってくる。
 それにしても、いったい誰があんなひどい殺し方を? 阿久津賢士の仲間――フランツたちだろうか? しかし、彼らは銃を使っていたのではなかったか。別の犯罪者がいるのだろうか?
 その疑問の答えは、すぐに得られることとなった。
 突然、健二の耳元で機械的な雑音が鳴り、健二は飛び上がりそうになった。その後に続いた声に、一瞬遅れて通信が繋がったのだと気づく。

「そちらの状況はどうなっている?」

 平時よりも硬く、やや早口のクレイグの声だ。
 通信――そうだ。クレイグは何かあれば通信で知らせるようにと言っていた。パニックに陥り、そのことをすっかり失念していた。
 健二は十階で起こっていることを報告しようとしたが、曲がり角の向こうからかすかな靴音がしてどきりとし、言葉を飲み込んだ。姿を見せたのは、中央監視室から戻ってきた劉だった。クレイグの通信は当然、劉にも繋がっている。健二が何か言う前に、彼は淡々と説明を始めた。

「中央監視室の警備員は全員殺害されていました」

 衝撃と恐怖で背筋が粟立ち、健二は身を震わせた。悪い予感は的中した。

「皆、腹部などに大きな穴を開けられた状態でした。別の部屋でも警備員が一人殺されているのを見ましたが、殺された警備員の中にはおそらく、建物の入り口を警備していた人間も含まれていると思います。それ以外には、今のところ人の姿は確認できません」

 態度も声も落ち着いているが、劉の顔はわずかに青ざめている。おそらく、自分はもっとひどい顔色になっているだろうと健二は思った。
 ひとまずは劉が無事に帰ってきたことにほっとするが、その安堵感は長くは続かなかった。

「メインホールにフランツが現れた」

 クレイグが放った言葉に、健二は二度目の衝撃に見舞われた。フランツが現れた。警備員を殺したのはやはり彼か、もしくは――

「こちらも中央監視室からカメラの映像で確認しました。チームのメンバーは――」
「心配ない。全員無事だ」
「監視室からの報告が必要ですか?」
「いや、ベルティエと藤原をそちらに向かわせることはできない。おそらく、敵は一人ではないだろう。最短ルートで我々に合流しろ」
「わかりました」

 劉が応えたのを最後に通信は切れ、慌しく緊迫したやり取りは途切れた。劉は再びホログラムのマップを表示させ、それを見ながら言った。

「八階からメインホールの三階席に出られる。そこからホールに入ってボスたちと合流しよう」
「はい」

 メインホールに行ったとて、そこにはフランツがいるので安心できるわけではない。しかし、今は早くこのフロアを離れたかった。

「たぶん、異変に気づいた中央監視室の警備員が、外や駐車場で警備についてた人間を通信で十階に呼んだんだろうな」

 非常階段へ戻るべく走りだしながら、劉が言った。

「警備員を殺したのって――」

 健二は言いかけたが、そのとき中央監視室がある方向からカツン、という音が響き、二人は同時に振り返った。少しの沈黙が続く。その後、今度は楽しげに弾むような声が聞こえてきた。

「おや? また誰か来たんですか?」

 その声を聞いて、健二は凍りついた。健二にはほとんど聞き覚えがない声だったが、声の主が誰であるのかはすぐにわかった。
 廊下の先にいるのは、和泉かおるだった。


* * *


 クレイグは銃を構えたまま、体当たりをするようにレイと二人でメインホールの扉を開けようとした。だが、内側から鍵がかけられているようで、厚い扉はびくともしない。他の二つの入り口も試してみたが、同じく鍵がかかっていた。
 扉の向こうでは何人もの叫び声が続き、銃声が鳴り始めている。明らかに、ホール内の混乱は刻一刻と大きくなっていた。銃声の鳴る間隔などから察するに、銃を撃っているのは二人ほどだろうか。中に入れないこの状況では、何が起こっているのかさっぱりわからない。

「くそっ、なんなんだ! どうなってんだよ!?」

 レイが焦った声を上げた。通信機はまだ誰からの報告も伝えてこない。中央監視室からは、ビル内のあらゆる通路や部屋に取りつけられた、無数のカメラの映像をすべて見ることができる。もちろん、メインホールも例外ではない。ホールで何かあったことがわかれば、劉がすぐに報告してくるはずだ。未だに連絡が無いというのはさすがにおかしい。時間をかけて確認している余裕は無いが、すばやく目を走らせた立体マップの表示によれば、健二と劉は中央監視室近くの通路にいるようだ。
 疑問と嫌な予感が胸をよぎり、クレイグは彼らに通信を繋いで状況をたずねようとした。しかし、通信機を操作しようとした直後、目の前の扉の一つから鍵の解除される電子音が鳴った。クレイグとレイは半ば反射的に、扉の前からさっと飛びのいて銃を構える。
 目の前の両開きの扉の片側が、ゆっくりと開きだす。ホール内の喧騒が廊下にあふれ出し、さえぎられることなくクレイグたちの耳に届いた。
 開いた扉の隙間から、正装をした若い男が頼りない足どりで廊下に出てくる。

「おい――」

 レイが声をかけたが、次の瞬間、男の体はどさりと床に崩れ落ちた。レイが戸惑いをあらわに、小さく声を上げる。男の上着の背には見る間に血が滲んでいった。扉の鍵を開けた瞬間、ホール内の銃を持った何者かに撃たれたのか。もしくは、すでに負傷していたところで最後の力を振り絞り、扉を開けて外へ逃れようとしたのかもしれない。
 支えを無くした重い扉は一度閉じかけたが、彼の体を挟んで止まった。今、この男の生死を確認している時間は無い。
 クレイグとレイは扉を大きく開けてメインホールへ突入し――そして、その先に現れた想像を絶する光景に、思わず呆然となった。
 様々な舞台の公演にもパーティーにも使用できるメインホールは、必要に応じて一階席の椅子の取り外しや移動が可能になっている。今、座席はすべて取り払われていた。そこを、着飾った人々が逃げ惑っている。床にはすでに何人もが倒れており、彼らの体につまずく者もいた。
 そして、ホールの中央には一際目立つ真紅の衣装に身を包んだフランツがいた。金髪が照明の光を反射してきらめいている。彼はまるでステップを踏んで踊るように、軽やかに足を運んで体を回転させ、跳ぶように移動していた。その手には二丁の拳銃。左右の手に一丁ずつ銃を握り、それぞれの銃口を逃げる人々に向けて引き金を引く。いつものように、狙った相手が倒れるのを見届けることなく、すぐに腕を振って目標を変えると、ひじをまっすぐに伸ばし、また引き金を引いた。それを繰り返し、次々に新たなターゲットに狙いを定め、仕留めていく。その俊敏な動きには一切の無駄が無く、優雅で美しかった。
 彼がたった一人で、ホールに集まったアンチ・テクニシズムのメンバーを殺していたのだ。
 ホールではまだ音楽が鳴り、大きな空間を満たしていた。舞台上では状況を察することのできないロボットが楽器を演奏し続け、ピアノやヴァイオリンが大量殺人のBGMにはふさわしくない、美しい音色を奏でている。
 クレイグは目の前で繰り広げられる現実感を失した場景に釘づけになりながら、一方ではその曲に聞き覚えがあることに気がつき、意図せず思考が記憶の糸をたどっていた。答えは、クラシック音楽に触れる機会の多かった子供の頃の思い出の中にすぐに見つかる。幼いときより何度も耳にしたことのある旋律――シューマンのピアノ四重奏曲変ホ長調。曲は第四楽章の終わりに向けて、軽やかな盛り上がりをみせていた。弦楽器が小刻みな音を連ね、ピアノが厚みのある低音を重ねて空気を震わせる。
 音楽に合わせるかのように、フランツは華麗とも言える動作で銃を撃ち、恐慌をきたした人々を殺していった。その狙いは恐ろしいほど正確で、すべてが一発で命中する。フランツは、二階席や別の扉に向かって逃げようとする者も追いかけて逃さなかった。弾が切れるとブーツに仕込んだナイフを引き抜いて投げ、その刃に刺された人間が床に倒れ伏す間に、手際よく弾を装填する。彼が動くたびに、彼の上着の燕尾服のような裾がふわりと翻った。
 我に返ったクレイグは近くにあったテーブル――その上にはたくさんの豪勢な食事やワインが並んでいたようだが、今やそのほとんどが床に落ちて皿は割れ、濃紅の液体がテーブルクロスを汚している――の陰に隠れ、レイもそれに続いた。脇には頭から血を流した女が倒れている。二人は彼女の体を踏まないように気をつけながら、身をかがめた。
 フランツは自分たちが来るずっと前から建物内に身をひそめ、襲撃のタイミングを待っていたのだろうか。だとすると、いつからいたのだろう? それも、警備員に気づかれることなく。
 今回はすでに事件が起きている現場に向かったわけではないので、武装部隊には出動の依頼をしていなかった。しかし、何かあったときにはいつでも応援に駆けつけられるよう準備していてほしい、とは伝えてある。

「武装部隊に連絡して、出動を要請しろ」
「はい!」

 クレイグが指示を出すと、レイはすぐにそれに従い、フランツの行動に注意を向けつつも通信機を操作し始めた。クレイグの方は、ゆかりとジャンにただちにメインホールへ来るよう命じ、ついで健二と劉に通信を繋いだ。
 中央監視室の警備員が全員殺されていたという報告を受け、だから自分たちがビル内に入っても誰もやって来なかったのか、と腑に落ちる。フランツがメインホールを強襲する前に、警備員も殺したのかもしれない。だが、今までもこの瞬間も、彼の武器は銃だ。体に大きな穴を開けるというのは、これまでの彼の殺害方法とは大きく異なる。敵はフランツの他にもいる可能性が高かった。
 健二と劉のことが気がかりだ。身体能力を強化されている敵を相手に、彼らだけで対処することは到底できない。それでも、今はとにかく自分たちと合流させるしか手は無く、クレイグたちは彼らができる限り早くメインホールに到着することを願うしかなかった。
 フランツはメインホールに入ってきたSGAの存在には気がついているはずだが、脇目もふらずに殺戮を続けている。前回、阿久津賢士は自分たちSGAに手を出させなかった。ただし、フランツと和泉かおるが去るのを黙って見逃せば、という条件つきではあったが。その際は、SGAに対しては致命傷になる攻撃は避けられていたが、今回はどうかわからない。
 フランツの撃った銃弾がテーブルクロスをかすめ、クレイグはレイに合図をすると、ともに二階席へと続く階段部分の、厚い壁の後ろに移動した。クレイグはそこから麻酔銃を構え、赤い服の敵を狙って何発か撃ったが、いかんせん敵の動きが速くてあと少しのところで当たらない。レイも麻酔銃での攻撃を試みるが、結果は同じだった。逃げ惑うアンチ・テクニシズムの人間をダートで負傷させてしまうことを避ける必要もあり、余計に撃ちにくい。フランツは当然、出入り口の近くにいる者から先に狙ったようで、今も生きている者は皆ホールの奥にいる。そのため、彼らを保護するために動くことも容易ではなかった。
 フランツはダートが飛んできてもなお、こちらに反応するそぶりは見せない。あっという間に、ホール内で動く人影はごく一握りとなっていた。
 一度、ゆったりと流れるように緩やかになった曲の調べは、再び勢いを増してクライマックスへと最後の一節を昇りつめていく。ピアノと弦楽器が、余韻を残す力強い音で曲を締めくくったのとほとんど同じときに、発砲音が轟いた。フランツの左手の拳銃から放たれた弾丸が最後の一人――パーティードレスに身を包んだ中年の女――の胸を貫き、被害者は近くのテーブルの上に倒れこんだ後、ずるずると床に落ちた。
 すべての音がぴたりと止み、突如としてメインホール全体が静寂に覆われる。次の曲の登録が無いのか、舞台上のロボットたちは演奏を再開しない。絶え間なく動き続けていたフランツもようやくその動きを止めたが、レイとクレイグも一瞬、微動だにできなかった。
 ホールの外から通路を走る足音が聞こえくる。それは急速に大きくなり、弾丸を受けて死亡した男の体に阻まれて半開きのまま止まっていた扉から、ジャンとゆかりがメインホールに駆け入ってきた。クレイグたちの背後で立ち止まり、短く息を呑む音が続く。レイやクレイグと同じく、メインホールの惨状に愕然としているのだろう。ジャンでさえ、言葉を失っているようだった。クレイグ自身も未だ、衝撃から立ち直れてはいない。
 フランツはわずかな時間で数十人を――ホール内にいたすべての人々を殺害した。


* * *


 劉に強く背中を押され、非常階段に駆け込む。もっと速く体が動かないことにもどかしさを覚えながら、健二は飛ぶように階段を下りていった。
 和泉かおるがすぐ近くにいる。その気になれば、超人的な身体能力を有した彼は、あっという間に自分たちに追いつけるに違いない。あるいは武器を持っていて、背後から前触れも無く攻撃してくるかもしれない。追い立てられるような恐怖と焦燥感で全身の毛が逆立ち、胸は息ができないほど苦しい。健二は、振り返りたくなる気持ちを必死で堪え、足を動かし続けた。わざわざ後ろを確認して、わずかでも階下へ進む速度が遅くなることすらはばかられる。
 荒い息遣いと、階段を駆け下りる二人分の足音が響く。ばたばたと騒々しい音を立ててしまうことを気にしている余裕など無いし、今はもうその必要も無い。

「こっちだ!」

 八階に着くとすぐさま廊下に飛び出し、劉が示す方向に走った。廊下の角を左に曲がると、劉の手首の機器が映し出すマップが、メインホールの三階席への入り口だと表している扉が見えてきた。健二は一心不乱に、通路の先の扉を目指して駆けた。まだ、かおるが追いついてきた気配は無い。扉まで行き着くと、飛びつくような勢いで取っ手を掴み、二人で強く押す。鍵はかかっていなかったようで、それは簡単に内側に開いた。
 中に入ると、途端に目の前に開けた空間が出現した。そこは、三階席に続くバルコニーのような場所だった。眼下には広いホールがあり、正面のステージも見える。
 健二と劉が中に入ったのとほぼ同時に銃声が鳴り渡り、壁に反響してホール全体に大きな音を轟かせた。ホールの一階には動いている人影がいくつか、そして、横たわるたくさんの塊――すぐに、倒れて動かない人々の姿だとわかった――がある。健二は一瞬どうするべきかわからなくなり、即座に次の行動に移れずに立ち尽くしてしまった。

「伏せろ!」

 銃声の余韻に重なって劉が叫ぶのが聞こえ、健二は言われるままに身をかがめた。しかし、バルコニーにはろくに身を隠せそうな場所も無い。手すりには隙間が空いている箇所もあるので、もし下から銃弾が飛んできたとしても、防ぎきることもできないだろう。それに、背後の廊下に続く扉からかおるが入ってきたら、それこそ一巻の終わりだ。

「あそこの座席のところに隠れるんだ」

 健二と同じように身を低くした劉が指差した先に目をやると、扇形に大きく張り出した三階席があった。その部分の手すりは弧を描いており、下に小さな空洞ができている。あそこなら、少しの間なら隠れられそうだ。かおるが来たときに、多少なりとも見つかりにくくしてくれるかもしれない。そばには下の階へ下りられる階段がある。

「タイミングを見て、階段で二階に下りろ」
「はい!」

 健二は声を絞り出すと、床に手をつき、這うようにして移動し始めた。ところが、壁の洞穴のような空間にたどり着くや否や、すさまじい轟音の嵐に襲われた。
 自分に向けて銃を発砲されるなど初めての経験で、何が起きたのかとっさには理解できなかった。遅れて、下から撃たれたのだと気づく。何発もの銃弾が飛んできて、健二は反射的に息を止め、体を縮こまらせた。
 健二の顔からほんの十センチほどしか離れていない壁に穴が開き、心臓が止まるかと思うほどの冷ややかな恐怖が体を駆け抜ける。銃弾が壁を突き破ったのだ。こんな薄い板では、身を守ることはできないのだと思い知る。いつ、弾が自分を貫くかわからない。次の瞬間には自分が死ぬかもしれないという恐怖感に体中を支配されたが、どうすればいいのかわからないし、おそらくどうすることもできないだろう。自分の感覚がおかしくなって痛みを感じないだけで、すでに体のどこかに銃弾を受けているのではないか、という気さえした。何も考えられず、健二は無防備な状態で、ただ身をすくめているしかない。
 しばらくして、銃撃は止んだ。実際はたった数秒にも満たない間だったかもしれない。またすぐに攻撃が再開されるかもしれないとも思ったが、何も起こらなかった。
 自分は生きている。怪我もしていない。心臓が鼓動を刻むたびに、収縮した血管を血液が流れ、全身が脈打っているように感じられた。ひどい耳鳴りがする。
 ホールは今、どんな状況なのだろう? クレイグたちは無事なのか? 劉は? こちらに発砲してきたのは、当然フランツだろう。健二の中に、今すぐ立ち上がって皆の安否を確認したい衝動がこみ上げてきたが、残った理性のすべてを使い、それをぐっと抑え込んだ。
 街中を移動中にジュエリー店の強盗事件が起こった際は、現場に向かったレイとゆかりのことが心配になり、後を追いかけてしまった。そして、正面からフランツに出くわす事態となった。健二は、そのときクレイグに言われたことを思い出していた。彼が言っていたように、健二が自分の判断だけで勝手な行動を起こせば、全員がさらなる危険にさらされるかもしれない。それだけは絶対にしてはならない。あのときは事なきを得たが、今回は駄目だ。
 健二は身を固くしたまま、じっと動かなかった。一秒一秒が過ぎるのが、永遠と思えるほど長く思える。
 大丈夫だ。劉もレイもゆかりたちも、みんな無事に決まっている。健二は自分自身にそう言い聞かせ、拳を握りしめてひたすら耐えた。


* * *


 青年はなんの感情も込めずに、ただ三階席のバルコニーをその冷たい碧眼に映していた。
 先ほど、三階の扉から二人の男が入ってきた。その様子は、青年の服の前後に取りつけられている小型のカメラを通して、彼の“マスター”にも見えていただろう。
 彼らは、青年がこれまでに記憶していたSGAの人間ではなかった。ここへ来る前に受けた「メインホールにいる人間は全員殺せ」という命令に従い、そちらに向けて発砲したが、耳に装着したイヤホンからの「止めろ」という声を受けて銃撃を中止した。
 青年――フランツにとっては、マスターの指示がすべてだった。彼の脳内にはマスターの言葉に従う以外の選択肢は存在せず、そうすることが当然だった。そこに疑問は存在しない。
 頭上のバルコニーにいる人物が、フランツが仕掛けた攻撃によって致命傷を負ったかどうかまではわからない。今は彼らの姿は見えないが、隠れても無駄なことは確かだ。フランツの持つ熱源感知センサーが受信した情報は、コンタクトレンズ型のディスプレイによって彼の視界に示される。マスターから与えられた機器はある程度の距離ならものともせずに探知できるので、もう少し近づきさえすれば、生きている人間がどこにいるのかはすぐにわかる。敵は逃げることも、隠れることもできない。
 ホールにいるSGAの人間が動く気配を感じ取り、フランツはそちらに目を向けた。フランツに向けて麻酔銃が放たれ、彼はそれを避けた。神経は鋭利なナイフのように研ぎ澄まされている。集中すれば、こちらに向かって銃を構える男の動きも、飛んでくるダートも、まるでスローモーションのようにゆっくりに見えるのだ。SGAの人間は殺すなと言われているので、反撃はしない。
 ホールに集まったアンチ・テクニシズムのメンバーを一人残らず殺害するという、一つめの仕事はすでに問題無くこなした。これから先どうするのかはマスターが決めることであり、フランツは次に自分が取るべき行動を伝えられるのを待っていた。



>> To be continued.



読んでくださってありがとうございます!!

今回も丸々、緊迫した場面一色でした。息が詰まりそうな感じですね…(笑)
そのせいもあるのか、もしかすると文章がいつもより堅苦しくなってしまったかもしれません。
読みづらい箇所がありましたら申し訳ないです…!

この「第四話 - 05」も大半が以前から考えていたシーンだったのですが、その割りには書くのに時間がかかりました。
詳しくはまた雑記の方で書けたらなと思っています。

ちなみに、暴力的な部分の描写はわざと控えめにしています。
もし、物足りないという方がいらっしゃいましたら(いるのか…?)申し訳ありません(笑)

いつも読んでくださる方々、拍手をくださる方々、本当にありがとうございます!とても励みになりますm(*_ _)m

読者数の参考にしたいので、小説を読んでくださった方は各記事の拍手ボタンを押していただけますと助かります。
もちろん強制ではありませんので、気が向いたらで構いません!


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