未来への追憶 第二話 - 06

 壁の案内板が廊下の先は食堂だと示している。男はそちらへは向かわず、最初の角を右に曲がった。通路がまっすぐに伸びているが、その先は分厚い扉によってふさがれている。制服の男は歩を緩めることなく、行く手を阻む扉に向かって歩いていく。扉の横の壁には、外のゲートのところに設置されていたものと同じような機械が埋め込まれていた。液晶パネルの横で、扉が施錠された状態であることを意味していると思われる赤いライトが点灯している。セキュリティに相当な注意を払っていることは明らかだ。
 扉には小さなガラス窓がついていて、近くまで来ると扉に隔てられた向こうの様子が見えた。こちら側と同じような廊下が続いているが、少し先にエレベーターが二台ある。
 制服の男は機械の前に立つと、先ほどレイがしていたように液晶パネルに顔を寄せた。網膜の認証を行っているのだろう。すぐに電子音が鳴り、小さなランプが赤から緑に変わる。男は重そうな扉を手動で引き開けると、健二とレイに先に通るよう、また手振りで促した。
 扉を抜けると、奥の通路にも静寂が満ちていた。これまでのところ、案内をしてくれている男の他には一度も人の姿を見かけていない。SGAの本部とは大違いだ。

「劉さん、迎えにも来ねぇよ……」

 健二の横に並んだレイが、半ば呆れたように呟いた。

「俺よりあの人の方がここには慣れてるし、今日は健二もいるんだからよぉ、ちょっとくらい後輩を気遣ってくれてもいいんじゃねぇかと思うんだけど……」

 だが、ぼやいてはいるものの真面目に文句を言っているような調子ではない。レイは眉をひそめると、周囲を警戒するかのように見回した。「俺、ここ苦手なんだよな」
 その間に制服の男は二人を追い越し、急ぎ足でエレベーターホールまで行くとすでに上階へ向かうエレベーターを呼んでいた。目の前の扉が開いてエレベーターに乗り込むときも、上昇するエレベーターの中でも男は無言に徹していたため、健二とレイも黙っていた。どうやら、訪問者に親しげに話しかけたりすることは彼の仕事内容には含まれていないようだ。
 健二は未だに誰からも説明されないこの場所の正体についてたずねようかとも思ったが、口を開く前にエレベーターは止まった。三階だった。
 扉が開いた途端、突然騒々しい音が耳に流れ込んできた。大きな機械が動いているときのような音がくぐもって聞こえている。そして、あちこちから複数の話し声や物音がしていた。今までが異様なほど静かだったため、よりうるさく感じる。
 三階は一階とはまったく違う構造になっていた。広くとられたエレベーターホールから廊下が左右に伸び、中央の空間を取り囲む回廊のような造りになっているようだった。屈折した廊下に囲まれた広い空間は二階からの吹き抜けのようで、そちらに面した壁の上半分はガラスになっている。ガラス越しに工場にあるような巨大な機械の上部と、その隙間から向かいの廊下が見えていた。機械の音はそこから聞こえているようだ。
 制服の男はそこで初めて健二とレイを振り返り、右の通路を手で示してから先頭に立って廊下を進んだ。健二は相変わらず早足な男の後ろを歩きながら、左側に続くガラスの向こうに目をやった。歩きながらなのでわずかしか確認できなかったが、下方では同じ服を着た何人もの人間が何かの作業をしているらしい。
 反対側――通路の右手にはいくつもの部屋が並んでいる。時々開いている扉の間からは白衣の人々が動き回ったり、数人で集まってモニターや紙の資料を見ながら話し合っているのが見えた。
 そのまま少し行ったところで、吹き抜け部分に面する壁の前に二人の男が立っていた。こちらに背を向けているので最初は誰かわからなかったが、そのすらりとした立ち姿には確かに覚えがある。白衣ばかりのこの空間では黒いスーツはひどく浮いていた。一人はSGA調査部の劉俊毅だ。向かいに立つもう一人の男と話しをしているようだった。劉と向き合っているのは眼鏡をかけたくせ毛の青年で、彼も白衣を着ている。小柄な彼は何がそんなにおかしいのか、体をのけぞらせて大笑いしていた。どう見ても仕事の話をしているようには見えない。
 制服の男に率いられた健二とレイが近づいていくと、眼鏡の青年がこちらに気がついて何事かを口にしたのがわかった。劉も健二たちの方を振り返る。

「お疲れさまです」

 レイが明るく声をかけ、劉も笑みを浮かべて「お疲れ」と挨拶を返した。そして、芝居までして脅したことなどすっかり忘れたかのように、その笑顔のまま健二に話しかけてくる。

「三日ぶりだな。なんだ、思ったより元気そうじゃないか」

 劉とは最初の日に一度会っただけの上に決して良い印象とは言えなかったが、まったく馴染みのない場所ばかりで知人も友人も一人もいない今の状況では、ジャンや劉でさえ以前からの知り合いであるかのように感じるから不思議だ。
 劉は大げさな仕草でため息をついてみせた。

「こっちは調べなきゃいけないことが山積みで、しかも結局ほとんどは成果が無かったし、無駄な残業続きでヘトヘトだよ」

「もちろん、君のせいで」と健二を指差す。健二は思わず「すみません」と言ってしまい、その後ですぐに、待てよ。なんで俺が謝らなくちゃならないんだ? と思い至る。健二に関する調査が原因であることには違いないのだが。
 眼鏡の青年が健二の前に進み出た。

「はじめまして。研究員の三浦と申します」

 彼は自分の白衣の胸元についた名札を示しながら、健二を見上げた。思えば、2148年で男から見上げられたのはこれが初めてだ。まだ若い。健二と同じくらいか、健二より年下かもしれない。

「よろしくお願いします。俺は――」

 彼につられて思わず普通に名乗りかけたところで、健二ははっとして言葉を止めた。この眼鏡の青年――三浦は、レイたちと同じ犯罪捜査部の人間ではないどころか、SGAの職員ですらない可能性が大いにある。健二の名前が阿久津コーポレーションの創設者、“阿久津健二”と同姓同名だと気がつくか、そして彼がそこに疑問を感じるかどうかはさておき、この建物に入るときにレイが健二の情報を隠していたことから考えても、おそらく健二が名乗るのは得策ではないだろう。健二が動揺して言葉に詰まっていると、レイが助け舟を出した。

「えーっと、この人はなんつーか、俺らの捜査に協力――」

 ところが、三浦は最後まで聞かずにレイを手で制して黙らせた。

「ああ、わかってます。極秘事項なんですよね? SGAの方々からの依頼はそういうのばっかりですから、慣れてますよ。仕方ないことです」
「ははは、悪いな」劉が軽い調子で言う。

「警察の人たちとかは気に入らないのかもしれないですけど、僕はただの研究員ですからね。時々言われたとおりの検査などをする他は、自分の研究に従事するだけなので。別に大して関係ありません」

 三浦の言葉の途中で、健二とレイの後ろに控えていた制服の男が落ち着かなげに咳払いをしたが、それに意識を向けたのは健二だけのようだった。
 再び、健二は壁のガラスの向こうに視線を移した。今度は壁に近い位置に立っているため、下の様子がよく見える。やはり工場にしか見えない室内では、人々が機械の部品のようなものを器具を使って調べたり、小さな部品と思わしき物が入った箱を大きな機械の一つまで運んでセットしたり、タブレット端末を操作したりしている。動き続ける機械の様子を観察している者もいた。そんな彼らの様子を、健二たちを案内してくれた男と同様の制服を来た男が一人、少し離れたところから監督役のように見守っている。
 ひと時も手を休めることなく働いている人々は一様に無表情で、私語に興じている者もいない。皆、黙々と自分のやるべき仕事に没頭しているようだ。
 一見したところは見習うべき真面目な労働者にも見えるが、その光景にはどこか異常さを感じる違和感があった。彼らの動きは非常にスムーズであるにもかかわらず、瞳はどこか虚ろで生気を感じず、人間らしさがまるでないのだ。
 健二は気味の悪さを覚え、三浦に問いかけた。

「ここは何の施設なんですか? 何かを研究されてるんですよね?」
「知らないんですか?」

 三浦は目を見開いて健二を見つめた。そして、唖然とした顔でレイと劉を交互に見やる。

「何も教えないで連れてきちゃったんですか?」

 劉は肩をすくめた。「そういうことになるかな」
 健二は三浦の予想外の反応に不安をかき立てられていた。

「ボスは……順を追って少しずつ説明するほうがいいと思ったんだろうな。一度にいろいろ言うと混乱するだろうから」

 レイはそう断言したものの、その声や表情からは自分の言葉に自信が無いことが露骨に表れている。

「もしくは、無駄に警戒させないためかもしれない」

 劉が言い、レイはなるほどというように顎に手を当ててうなずく。
 彼らの曖昧な態度に、健二の不安はますます煽られた。クレイグはここでの検査などによって健二の扱いが変わることはないと言っていたが、本当だろうか?

「とにかく、検査を始めましょうか。まあ、今見た感じでも洗脳されているような様子ではないですけどね。表情もおもしろいほどコロコロ変わるし。どうぞ、こっちです。ついてきてください」

 そう言うと、三浦は健二たちがついてくることを確かめもせずに、右の壁に並ぶ扉の方へと歩いていく。さりげなく失礼な発言をされたような気もしなくもないが、そんなことを気にする余裕は彼が口にした“洗脳”という言葉によって、すべて吹き飛ばされた。
 洗脳。クローンだと疑われる前、健二は最初洗脳を施されているのではないかと思われていたようだった。それはいったい何なのだろう。言葉通りの意味なのだろうか。だが、それについて問う前に三浦の姿は部屋の一つに消えていた。健二も後に続く。一番後ろからついてきていた制服の男だけを外に残し、四人は部屋の中に入った。三浦が壁の電子パネルを操作し、扉を閉める。
 白っぽい色でまとめられた室内はどこかSGAの拠点で検査を受けた部屋に似ているが、あの部屋ほど殺風景な印象ではない。部屋の中央に、リクライニングチェアのような椅子が備えつけられた機械が一台置かれていた。

「ここに座ってください」

 三浦は健二の方を向き、その白いシートを指す。

「これは何をするためのものなんですか?」

 健二は警戒心をあらわにしながら機械に近づいた。用途のわからないものにうかつに座ることはできない。

「洗脳された状態にあるかどうか、ほぼ正確に調べられる機器ですよ」

 答えながら三浦は機械の電源を入れ、忙しなく体を動かして検査の準備を進めている。健二は仕方なく椅子に座ると、おそるおそる背もたれに体重を預けた。背もたれの上部にはデスクライトのような形のものがついていて、電気なら傘にあたる部分が頭上から健二を見下ろしている。三浦はその位置を調節すると、ヘルメットのように健二の頭にセットした。すべての作業が終わると薄いタブレットを抱えて健二の正面にやって来る。

「僕は洗脳技術について研究してるんです。……洗脳についてはわかるんですか?」

 彼は健二ではなく、傍らに立っている劉にたずねた。だが、劉はさらに健二に向かって「わかるかい?」と聞いてくる。

「いえ……詳しくは何も聞いてません。周りの方が、その……洗脳について話すのを聞いて、そういうものが存在しているんだと知ったくらいです」

 健二が話している間、三浦は手元の端末に注意深く視線を落としていた。機械で覆われている頭部などには特に何も感じないが、すでに検査は始まっているらしい。

「……偽の記憶を植えつけたりする、とか」

 健二が記憶を辿りながら言うと、三浦はうなずいた。

「そうです。でも、正確には偽の記憶自体を脳に“植えつける”ことはできません。その偽りの記憶が本当の自分の記憶だったと、脳に“錯覚させる”んです。それが洗脳です」

 得体の知れない機械に身を預けている緊張感もあり、健二はその違いをおぼろげにしか理解できなかった。三浦は健二の反応を待たずに続ける。

「他には、記憶の消去や感情の抑制……ただ、これも記憶の一部のみを消したり、こちらが望んだ感情だけを抑えたりすることはできないんです。なかなか難しいものなんですよ」

 三浦は口を動かしながらも絶えずタブレット端末に視線を走らせ、時折指で画面に触れて操作をしている。
 洗脳は、暗示やマインドコントロールとは異なると聞いたことがある。健二の中では、洗脳は思想などを変えさせるために、強制的な学習や尋問などによって行われるものという認識だった。

「あの、その洗脳というのは集団学習とか、思想の否定とかを行うものとは違うんですか?」
「全然違いますよ」

 健二がたずねると、三浦は小馬鹿にするように言った。彼のそういった態度はいささか癪に障ることを認めざるを得ない。

「昔はそうでしたけど、今は専用の装置を使用して脳に直接信号を送り、脳の一部の機能を制限したり、必要な命令に従わせたりするんです。それに、内容も目的も昔とはまったく違う別物ですよ。ごく一部の、限られた正しい目的にのみ使われてます」

 その話を聞く限りでは、健二には洗脳の正しい使い道があるとは到底思えなかったのだが、また三浦に馬鹿にされるかもしれないと思ったので何も言わなかった。国の機関が認めているのだから、違法なものではないはずである。検査が終わった後でさりげなくたずねてみる方がいいだろう。
 三浦は劉に向き直ると、持っていたタブレット端末を彼に見せた。

「やはり洗脳はされていないようですね。思考も感情も正常です」
「そうだろうなぁ」劉は腕を組んだ。
「普通、洗脳されている場合は前頭前野の働き方が特徴的になりますからね。そこら辺はご存知だとは思いますが。まったく使われないわけではないんですけど、教え込まれた命令以外への反応は著しく低下するんですよ。たとえば外から見ると思考しているように見えても、実際は違うんです。なんというか……命令を読み込んでいるだけ、とでも言えばいいですかね」

 三浦は早口に言った。健二に対して丁寧に説明を試みるつもりは端から無いようだが、どっちみち説明されたところでその仕組みを完全に理解することはできなさそうだ。

「これで検査は終了です。もういいですよ」

 三浦が機械の電源を切り、健二は巨大なデスクライトから解放された。想像していた以上に簡単な検査だった。
 クレイグは嘘をついていなかったようだ。健二が過去に存在していた阿久津コーポレーションの創設者、“阿久津健二”と同一人物であるということがわかった以上、洗脳されているなどという可能性はゼロに等しいので、本当にただの念には念を入れた確認だったのだろう。
 部屋の外に出ると、健二は吸い寄せられるように正面の壁に近づき、ガラスの向こうの部屋を見つめた。どうしても彼らのことが気になってしまう。気がつくと劉が横に立っていた。

「もしかして、彼らは洗脳されてるんですか?」

 健二は先ほど洗脳の話を聞いたことにより思いついた推測を口にしてみた。劉はあっさりとうなずく。

「ああ。なんでだと思う?」

 下方の空間に落とされていた視線が健二に向けられる。
 健二はしばし考えを巡らせた。てきぱきとした動きを除けば工場のような部屋で働いている人々の表情は、精神を病んでしまった人間などが投薬の影響で朦朧としている様子に似ているような気もした。そういった薬の代わりに洗脳という手段を用いているのだろうか。

「病気……とかですか?」

 劉は首を横に振った。

「確かに、精神的な病気やトラウマの治療にもいずれ洗脳という方法を使おうという動きはあって、研究も進めてるんですけどね」

 健二たちのすぐ後ろにいた三浦が口を挟む。

「先ほど言ったように、洗脳は難しいものなんです。今の技術ではまだ細かな調整ができなくて、洗脳を施すと別人のようになってしまうので。それでも、七十年ほど前に初めて導入されたときからはかなり進歩してますけどね。そのころはもれなく廃人になっていたようですから。今はある程度は洗脳の具合をコントロールすることができるんですよ。彼らには必要が無いのでそうしないだけで」

 そう言ってガラスの向こうを示した。健二は人権を無視しているかのようなその言い方に何か不穏なものを感じとり、思わず三浦を振り返る。

「ここは刑務所なんだよ」不意に、隣の劉が静かに言った。
「えっ?」健二は思わず聞き返してしまう。

「あそこにいるのはみんな、凶悪犯罪を犯して投獄されてる囚人たちだ」

 劉は人差し指でガラスをトントンと叩いた。

「それでも、ここにいるのはまだマシな部類の奴らだけどな」

 健二は驚きに言葉を失った。おそらく彼らは普通の状況にいる人々ではないのだろうとは思ったが、まさか犯罪者だとは露ほども思わなかった。大人しく自分の仕事に専念している様はとてもそんな風には見えない。

「驚いたか? きつい洗脳で記憶も感情もすべて消されてるんだ。あいつらは自分が犯した罪はもちろん、自分の名前さえ思い出せない」

 まるでロボトミー手術だ。そう思い、健二は身震いした。洗脳によって前頭葉の機能を鈍らせる。体に傷をつけなくとも、やっていることは昔の非人道的な手術と何ら変わらない。
 劉とは逆、健二の左横にレイがやって来た。

「死刑制度が廃止されてからの、死刑に代わる刑罰みてぇなもんだな。看守の命令とか規律には絶対従うように洗脳されてて、ああやって仕事をする。ここでは国が使うロボットの修理の仕事をしてんだ。仕事のやり方も洗脳で教え込まれてるらしい」

 そう言ったあと、「考えると恐ろしいし、なんか気持ち悪ぃよな」と怯えたような声を出す。

「そうされるにふさわしいほどのことをしでかしたんだから、同情はできないけどな」

 劉は眼下で淡々と動き続けている囚人たちを見下ろし、何の感慨も無さそうに言った。
 確かに彼らは重い罪を犯した人々だ。それは許される行為ではない。それに、洗脳されて自分が誰かもわからないまま、機械のように死ぬまで働かされることと比べて死刑の方が人道的であると言えるのかと問われても答えられない。だが、このようなことが刑の一つとしてこうして当たり前に行われていることに、健二は恐怖と嫌悪感を感じていた。
 これではすでに人間ではなく、ただのロボットだ。彼らは結局のところ死んでいるも同然だった。

「で、ここからがボスが君に一番伝えたかったことで、一番重要な話だ」

 いくらか真剣さを増した劉の声に、健二の思考は中断された。彼は冗談めかして「ここから先は秘密の話だから」などと言い、強引に三浦と制服の男を遠ざける。三浦は見るからに不満そうだった。彼らが充分離れたのを確認してから劉は口を開いた。

「阿久津賢士は洗脳の研究をしている機関が情報を管理してるシステムをハッキングして、洗脳技術に関するデータを盗んだんだ」

 声のトーンを落として言う。

「そして、その技術を悪用して無関係の人々を洗脳し、自分の仲間に引き入れてる」
「なんでそんなこと……!」

 健二はショックのあまり、声を抑えることも忘れていた。

「阿久津賢士が何のためにそんなことをしたのか、本当の目的については俺たちにもまだわかってねぇ。だけど、悪いことなんてなんもしてねぇ、ただ普通に暮らしてただけの人間が何人も被害に遭ってるのは事実だ」

 そう言ったレイの目は強い光を放っていた。

「自分の意思に反して阿久津賢士に従わされてる奴らを、阿久津賢士から救い出す。それが、俺たちがやらなくちゃならねぇことのうちの一つなんだ」

 レイの顔は苦しげに歪んでいる。必死で抑えているようだが、レイの体の内側では激しい感情が荒れ狂っているのがわかる。被害者のことを思い、阿久津賢士の行いに強い怒りを感じているのだろう。
 それまでレイは自分の足元の床を見つめていたが、顔を上げて健二を視界に映すと、その表情は心配そうなものに変わった。

「健二、大丈夫か?」

 たぶん、青ざめた顔をしているのだろう。「ああ」と答えたものの、健二の心は波打っていた。
 阿久津賢士が悪人だということはすでにわかっていたことだが、そこまで直接的に他人に危害を加えているとは思っていなかった。犯罪に手を染めた人間の凶暴性を抑える、という目的でさえ抵抗を感じるのに、その洗脳という技術を自分のためだけに使うなどとんでもないことだ。他人を自分の奴隷か物のように扱っている、非常に冷酷で身の毛がよだつ行いだった。レイたちが阿久津賢士のことを忌み嫌うのも当然だろう。自分の子孫だとされている人間がまさかそんなことをしているだなんて信じられず、健二は愕然とした。

「ボスは洗脳というものがどういうものなのか理解しやすいように、実際に洗脳された人間を見せて話を聞かせたかったらしい。洗脳について君に話すよう、僕に頼んできたときに言ってたよ」劉が言った。

 それを聞き、レイは考え込むようにゆっくりとうなずく。健二が自分以上に心を乱している様子を見たためか、彼の方は落ち着きを取り戻したようだ。

「阿久津賢士のこととか洗脳のことは、まだこれから話していかなくちゃいけねぇことがいろいろあるからな……」

 その後、健二とレイは本部へ帰るべく、再びエレベーターホールへと向かった。劉と三浦が見送ってくれる。制服の男も黙ってついてきた。

「今から俺たち車で本部に戻るんすけど、劉さんも一緒に乗って帰りますか?」

 レイが歩きながら劉にたずねた。

「いや、僕は自分の車で来てるからいいよ。まだここでやることも残ってるしな」

 健二は二人の会話をどこかぼんやりと聞いていた。先ほど受けた衝撃がまだ抜けきっていない。
 エレベーターを待っているとき、劉が「あ」と声を上げて健二の腕の辺りを指差した。

「それ、返してもらったんだな」

 初めは何のことかわからず、自分の腕を動かしておかしなところでもあるのかと確認していたが、その言葉で腕時計のことを言っているのだと気がつく。劉はニヤニヤとした笑みを浮かべて健二の腕時計を見つめた。

「それ、百年以上も前のだよな。コレクターとかに売れば高く売れるかもしれない」
「売りませんよ」

 健二が苦笑しながらも思わず時計をかばうように腕を引くと、劉は「冗談だって」と言って笑う。怖い人、というのが健二の彼に対する第一印象だったが、実際はそうでもないようだ。今のやり取りで阿久津賢士のことに関する考え事が断たれ、健二は重くなっていた心が少し楽になったのを感じた。
 まもなくエレベーターが到着し、健二とレイは劉と三浦に挨拶をすると、制服の男と共にエレベーターに乗り込んだ。二人はゲートのところまで制服の男に付き添われ、出るときも認証が必要なゲートを開けてもらうとその建物――刑務所を後にした。警察のような制服を着た男は本当の警察官だったということだ。

「ゆかりさん、来なかったな」

 駐車場に向かって歩きながら、健二はレイに言った。

「そう言えばそうだな。もしかしたらこっちに向かってるとこかもしんねぇけど、用事は終わったから本部に戻るって連絡しとかねぇと」

 レイはロングコートのポケットから小型のタブレット端末を取り出す。ところが、駐車場に着いたところでその手を止めた。
 駐車場ではアマンダが車の窓から腕を出し、向かいの列に停められた車の一台に向かって手を振っていた。その白い車のドアが開いたかと思うとゆかりが降りてくる。彼女はアマンダの方に微笑みかけていたが、すぐに健二とレイに気がついた。

「あら、もう検査は終わったの?」
「はい」お互いに歩み寄りながら健二はうなずく。
「ごめんなさい、遅くなってしまって」

 健二は「いえ」と穏やかに笑いかけた。

「じゃあ、とりあえず本部に戻ろうぜ。んで、ボスに報告して拠点に移動しよう」

 レイが少しずつ日の傾きかけた空を見上げながら言った。

「ゆかりさん、せっかく来てくれたのにまたすぐ戻ることになって悪ぃけど」
「いいのよ、ここにいてもしょうがないものね。そうしましょう」

 ゆかりはポケットにしまったばかりの車のキーを再び取り出した。
 アマンダはゆかりの車に乗り、健二はレイと共にここまで乗ってきた車で帰ることになった。今度は一人で後部座席に座る。レイはシートに置いていった銃をコートに収めてから運転席に乗り込んだ。車は緩やかに発進し、来たときと同じ道を戻り始める。
 健二は車窓から流れる景色を眺めていたが、頭の中では先ほどの刑務所で見た囚人たちの姿や洗脳についての思いが駆け巡っていた。阿久津留美と同じく健二の子孫であるはずの阿久津賢士は、何の罪も無い人間を洗脳して何をしようとしているのだろうか。
 健二の暗く沈んだ表情に気づいたのだろう。そっとしておいた方がいいと判断したのか、レイは一度も話しかけてこなかった。
 異変は街中を走っている途中で起きた。
 突如、けたたましい警報音が車内に鳴り響き、健二は心臓が止まる思いがした。車内のモニターの一つが赤い光を放っている。

「どうしたんだい!?」

 後部座席から身を乗り出してレイにたずねる。レイは車を手動運転に切り替えると速度を落とし、ハンドルを操作して道路の端に寄せた。

「事件だ。……近いな」

 警報を発するモニターに映し出されている地図に目をやりながら言う。
 周囲の街の様子は騒然としていた。十五メートルほど先の交差点の左手から、何人もの人々が歩道を走ってくるのが見える。反対にそちらに向かって駆けていく人々もいて、両者が入り乱れて混乱が起きていた。誰もが必死の形相で、何か叫んでいる者もいる。
 背後を振り返ると、フロントガラスとひと続きになったガラスの部分――従来の車ではリアガラスにあたる部分だ――から、ゆかりたちの乗った白い車が同じようにすぐ後ろに駐車しているのが見えた。

「ボス、健二を連れて本部へ戻る途中だったんですが、すぐ近くで事件が起こったみたいです」

 レイの声が聞こえ、そちらに顔を戻すと彼はタブレット端末で通話をしているようだった。

「ああ。こちらでも確認した」スピーカーからクレイグの声が聞こえる。

「今情報が入ってきている。銃を所持した強盗だ。人数は三人。人質をとっているようだな。店内の警備ロボットはすべて停止させられているらしい」
「すぐに向かいます。奴らが来るかもしれない」

 レイはダッシュボードに置いたタブレット端末でクレイグと話しながら座席の足元を探り、
そこから新たな銃を一丁取り出した。素早く弾の確認を行っていく。健二は息を詰めてその様子を見ていた。

「現場付近の一般人を非難させつつ、犯人の確保はできる限り警察に任せて周辺の様子を観察しろ。警察はすぐに到着するはずだ。万が一彼らが姿を見せた場合、隠れた場所から狙うことができるなら麻酔銃を使え。それが不可能な場合は無理せず退くんだ」

 クレイグは次々と指示を出し、レイはそれに対して緊迫した表情で「はい」と答えている。

「阿久津健二は車内に置いていけ」
「わかりました」

 レイはワイヤレスイヤホンを片耳につけると、通話の音声をスピーカーからイヤホンに切り替えたようだ。タブレット端末をポケットに入れ、銃をつかむと健二を振り向いた。

「ここにいろ。絶対外に出るんじゃねぇぞ」

 その有無を言わせぬ強い口調と深刻な表情に、健二は訳がわからないまま首を縦に振った。間髪を入れず、レイはドアを開けて車外に飛び出していく。窓から外の様子をうかがうと、前方の交差点へと全力で疾走するレイの後ろから、ゆかりも片手に銃を持って走っていくのが見えた。
 残された健二は、静かな車内で自分の心臓の鼓動が早鐘を打つのを感じていた。レイやゆかりは犯罪の捜査を行う部署に所属しているのだから、こういった場面に対応するのも当たり前なのだろう。健二はあまりに突然の事態に恐怖に震えるでもなく、ただ茫然となっていた。すぐそばで強盗事件が起こったことは理解できたが、現れるかもしれない“彼ら”とは何なのだろう。
 それから一分も経たないうちに、事件現場には変化があったようだ。爆発音、ガラスの割れる音、数発の銃声、そして悲鳴。それらが、車内にいる健二の耳にも聞こえてきた。
 健二ははっとして運転席と助手席の間から顔を突き出し、フロントガラス越しに前方の様子に目を凝らした。だが、ここからでは何も見えない。
 犯人は銃を持っていると言っていた。銃撃戦にでもなったのかもしれない。レイは、そしてゆかりは無事だろうか。
 そう思った途端、健二はいても立ってもいられなくなった。理性が働くよりも前にシートベルトを外し、後部座席のドアを手で押していた。だが、ドアはびくともしない。手動では開かないということはないだろうが、ロックでもされているのだろうか。ドアをあちこち触ってみたが、開け方がわからなかった。
 レイやゆかりは運転席の液晶パネルやボタンでドアの開け閉めなどを行っているようだった。健二は身をかがめ、後部座席から運転席へと移った。運転席の周囲には見たこともない数々のボタンが並んでいる。健二はそれらに目を走らせていく。幸い、ドアを開閉するボタンはすぐに見つかった。運転席側のドアを開けるボタンを押してみたものの、ドアは何の反応も示さない。良く見ると、ボタンのすぐ横には小さな鍵の形のライトがついていた。やはりロックされているようだ。今度はロックを解除するスイッチを探す。ほどなくしてそれは見つかり、健二はロック解除用のボタン、続けてドアの開閉用のボタンを押した。運転席の横のドアが開く。健二はすぐさま車を降りると歩道に上がり、レイたちが向かった左手の曲がり角を目指して駆け出した。こちら側へ逃げてくる人と何度もぶつかる。後ろから自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、そのときにはすでに角を曲がっていた。
 事件が起きたのは向かいの歩道沿いの、手前から二件目の大きな建物のようだった。周囲には人だかりができ、ゆかりが人々を避難させるべく誘導している。危ないから離れてくださいと声を張り上げて野次馬を下がらせ、パニックに陥った者を落ち着かせようと声をかけていた。
 レイは強盗事件の起こった建物の正面に建つ、別の建物の物陰に隠れて銃を構えていた。

「なんで来たんだ!」

 健二に気がつくと、怒りよりも驚きと焦燥が色濃く表れた顔で怒鳴る。ゆかりも健二を見て、恐怖と緊張に顔を強張らせた。
 被害に遭った建物は、歩道に面したガラス張りの入り口や壁が無残に割られていた。その割れたガラスの間を通して中の様子が見える。
 そこで目にしたものは、この四日間で健二が体験した数々の非現実的な出来事と比べても飛び抜けて現実味を欠いていた。
 床には三人の男が頭から血を流して倒れている。一目散に建物の外へと逃げ出す人々。中に残っている数人は息を呑み、目を見開いて固まっている。拘束された店員と思しき制服の女性たち。動きを止めて転がっているロボット。
 そして、それらすべての中央で、その青年は静かに佇んでいた。まるで、そこだけ時が止まっているかのようだ。これだけの騒ぎの真っ只中にいるというのに、青年は何の表情も浮かべず、何も無い宙を見据えている。
 さらに、彼の容姿がその光景の奇怪さを引き立てていた。青年は長身で、顔立ちは驚くほどに端整だ。豊かな金髪を緩く後ろに撫でつけているため、秀でた額があらわになっている。機械的な無表情とあいまって、どこか作り物めいた美しさだった。
 だが、もし彼が普通のシャツやジーンズを身につけていたならば、これほどまでに衝撃を受けることは無かっただろう。彼は中世ヨーロッパの貴族が着ていた服に似た真紅の上衣にぴったりとした白いパンツ、膝まであるロングブーツという出で立ちだった。どれもが彼の雰囲気にしっくりと馴染んでいて、未来の都会にはこれ以上無いというほど不釣合いだった。黒い手袋に包まれた手には銃が握られている。倒れている男たちは彼が殺したのだろうか。それぞれの死体のそばにも銃が一丁ずつ落ちていた。クレイグが強盗犯は三人だと言っていたが、もしかすると死んでいる男たちがその強盗犯か。では、一人で三人の強盗犯を殺害したこの青年は何者だ?
 遠くからパトカーのサイレンのような音が聞こえる。音は徐々に大きくなっていた。こちらに近づいてきているらしい。金髪の青年はそのサイレンの音に反応したのか、初めて顔を動かした。だが、表情には相変わらず変化が無い。
 健二は硬直して立ちつくしたまま、その姿から目を離せないでいた。

「おい、健二! 何してる!」

 レイに強く腕を引かれ、健二は我に返る。
 そのとき、金髪の青年がこちらに顔を向けた。まずいと思ったときにはすでに遅く、身を隠せる時間も場所も無い。
 氷のように冷たいアイスブルーの瞳は、まごうことなくまっすぐに健二を射抜いていた。



-- Episode 02 Fin. --



読んでくださってありがとうございます!!
今回は更新予定日を過ぎてしまってすみませんでしたm( >_<)m

でも、第二話も無事に完結させることができました!(*^▽^)
次からは第三話になります!また、新たなキャラクターも何人か登場します♪

たくさんの拍手もありがとうございました!とても嬉しいです!


■08/01に拍手コメントを下さった方へ
小説を読んでくださってありがとうございます!!
更新を続けていくためにも、無理はせずにやっていきたいと思います♪
お優しいお言葉、本当にありがとうございましたm(*_ _)m
コメントを頂けてすごく嬉しかったです!(*^-^)


未来への追憶 第二話 - 05

 健二が部屋から出ると、ゆかりとレイとアマンダは廊下の壁にもたれ、三人で何かを話しているところだった。声のトーンや話し方から、おそらくはただの雑談だろう。ドアの開く音に彼らの会話は中断され、健二に視線が向けられた。

「お疲れさま」ゆかりが声をかけてくる。
「思ってたより早かったな」レイが言い、アマンダが「そうだね」と同意した。

 彼らは、たった今クレイグから聞いた話の内容をすでに知っていたということだ。だから、皆で昼食を食べていたときもあそこまでリラックスした態度を見せ、健二にも親しみを込めて接していたのだろう。
 衝撃的な真実を立て続けに見せつけられ、健二の頭はその余韻でぼんやりとなっていた。ドアの前で放心したように立ちつくしていると、ゆかりがゆっくりと近づいてくる。

「すぐにすべてを受け入れることは難しいかもしれないけど、健二くんが巻き込まれた現象のことも、阿久津賢士のことも、一緒に解決していきましょう。周りの環境にも徐々に慣れてくると思うわ。今回起こったことが本当にタイムスリップなら、健二くんがちゃんと過去へ帰れるまで、私たちが協力する。私たちはあなたの味方よ」

 ゆかりは聖母を思わせるような例の微笑を湛え、落ち着いた優しい口調で言った。彼女の言葉や声、そして眼差しは、母親のぬくもりのようにそれを受けとる者に安らぎと安心感を与える。

「まあ、それまではこの時代を楽しめよ」
「そうそう! 大丈夫だよ、きっとなんとかなるって!」

 レイとアマンダも健二を励ます言葉を続けた。

「ありがとうございます。レイとアマンダも、ありがとう」

 健二の心は、まるで雲の隙間から一筋の光が差し込んできたかのように明るくなった。
 こうなってしまった以上、嘆いたって仕方がない。今の現実を受け入れるしかないのだ。それに、ゆかりたちは国の秘密機関のメンバーなのだ。健二はSGAの本部を目にし、SGAという組織についての彼らの話を完璧に信じる気になっていた。不安はまだまだあるが、彼らと協力し合い、今すべきことに一つずつ向き合っていこうと心の内で決心する。
 放心状態から抜け出した健二は、クレイグが最後に言っていたことを思い返した。

「そう言えば、クレイグさんがこれから劉さんのところへ行って話しを聞くようにって言ってましたけど……あと、簡単な検査があるとか」

 健二が言うと、ゆかりがうなずいた。

「ええ、聞いてるわ」
「ゆかりさんはこのあと別の仕事があんだよな?」

 レイがゆかりにたずねる。ゆかりは首を縦に振ると、眉を寄せてすまなそうな表情になった。

「そうなの……ちょうど、今からやらなくちゃいけないことがあって。先にレイたちと向かっててくれる? 用事はすぐに終わるから、私もあとから行くわ」
「わかりました」

 一人で行けというわけではないのだ。ゆかりがいなくともレイがいれば問題は無いだろうと思い、健二は了承した。

「あっちに直接駐車場まで下りられるエレベーターがあるから、そっちから行くぜ」

 今出てきたばかりの会議室は、T字に交差した廊下の突き当たりに位置している。レイが、来たときとは別の方向にあたる廊下――会議室を背にして左側――の先を指差した。

「途中まで一緒に行きましょう」

 ゆかりが言い、四人はまた長くて広い廊下を歩き始めた。今度は先ほどよりもゆったりとした歩調だ。ここへ向かうときは上司が待っているということで、レイもゆかりも気が急いていたのだろう。

「言い忘れてたんだけど、健二くんが拠点の庭にいるのを見つけたとき、劉先輩が警報が作動しなかったって言ってたじゃない?」

 歩きながら、ゆかりがレイに話しかけた。健二もそんな会話を聞いたような気がしなくもないが、混乱していたためかほとんど覚えていなかった。

「あれ、あの後調べてもらったみたいなんだけど、どこも壊れてなかったみたいなの」
「そうなのか。おかしいな……たまたまか?」

 レイが首をひねる。

「もしかして、健二が現代の人じゃなかったからじゃないかな?」

 アマンダが興奮をにじませた声で横から口をはさんだ。レイは笑い混じりに「なるほどな」と言ってうなずく。

「やっぱり、健二は過去から来たんだね!」

 アマンダは高揚に瞳を輝かせて健二を見上げた。確かに、先ほどのクレイグから聞いた検査の結果などを踏まえると、今となってはその可能性が一番高いのだろうと思える。
 それにしても、そのことを話すときのアマンダはとても楽しそうだ。こちらの廊下は人通りが少ない。現在は周囲に人の気配は無いものの、そんなことを大きな声で話しても大丈夫なのかと、健二はふと心配になった。しかし、アマンダの無邪気で天真爛漫な様子は可愛らしく、そのことに言及する気をそがれる。レイとゆかりも大丈夫だと判断したのか、何も言わなかった。
 しばらくすると、前方の右手の壁がガラス張りになっているのが見えてきた。この辺りに来ると、廊下を行きかう人の数もまた増えてくる。近づくと、ガラスの向こうはスポーツジムのように数々のトレーニングマシンが並んだ広い部屋になっているのが見えた。数人の人間がランニングマシンやダンベルなどを使って、各々トレーニングに励んでいる。

「ジムまであるんだな」

 健二の口から感嘆の呟きが漏れた。ガラスを隔てた光景に気をとられ、意識しないままに歩く速度が遅くなる。他の三人もそれに気がつくと歩調を合わせた。

「ここは簡単なトレーニングルームで、三階にもっと本格的なジムがあるんだぜ」

 レイが誇らしげに言う。やはり、このSGAの本部は相当な広さを持った建物らしい。

「あ、ジャンだ」

 そのとき、アマンダが声を上げた。足を止めた彼女の視線の先を辿ると、そこには確かに見覚えのある人物の姿があった。トレーニングウェアに身を包み、ウェイトトレーニング用のマシンで筋肉を鍛えている。
 健二が2148年にやって来た日の夜、拠点のダイニングルームで敵意を隠しもしない鋭い視線を終始健二に送り続け、クレイグに詰め寄っていた男――ジャン・ベルティエだ。今はぴったりとしたタンクトップを着ているため、非常に筋骨たくましい体つきなのがそのときよりもはっきりとわかる。思わず見とれてしまうような見事な筋肉だった。

「ジャンって、休みの日もいっつもここでトレーニングしてるよな」

 レイが言った。彼らSGAの職員も警察のように交代勤務なのだろうか。
 ジャンがマシンのグリップを引いて重りを持ち上げるたび、太い上腕二頭筋が収縮する。健二たちが立っているところからも、こめかみや首筋を汗が伝い落ちていく様子が見えた。ジャンはもう二、三回同じ動きを繰り返すと、一段楽したのかトレーニングを終えて立ち上がる。マシンの支え部分にかけていたタオルを取って汗を拭うと、顔を上げたところで健二たちが見ていることに気がついた。レイやゆかりの方を見やり、その後で健二と目が合うと途端に険しい顔つきになる。肩にタオルをかけたまま、ジャンはガラスの自動ドアを通って廊下に出てきた。健二たちの方へと歩いてくる。

「お疲れ」

 レイが親しげな調子で声をかけたが、ジャンは無視をした。レイの横を無言で通りすぎると、ジャンは健二に目を据えたまま、まっすぐに健二のいる場所を目指して向かってきた。健二のすぐ前――驚くほど近くまで来て、ようやく彼は足を止めた。ここまで近寄られると、健二は相当首を傾けなければ彼の顔を見ることができない。少し後ずさり、健二は体ごと傾けるようにしてジャンを見上げた。ジャンはほとんど顔を動かさず、見下すように目だけで健二を見下ろしていた。唇は不機嫌そうに引き結ばれている。相手を畏怖させようとしているのがありありと感じられる態度だ。健二は自分を臆病な方ではないと思っているが、さすがに体がすくんだ。
 他の面々も突然のジャンの行動に驚いたのか、何も言えずに固まっていた。ジャンの背後に、レイが目を丸くしてこちらを見つめているのがわずかに見える。
 皆が固唾をのんで見守る中、ジャンはしばらく黙ったまま健二を見下ろしていた。その瞳には静かな怒りと、例の敵意が渦巻いている。その状況に耐えられなくなってきた健二が「なんですか」とたずねようとしたとき、ジャンの方が先に口を開いた。

「ボスに呼ばれたのか。だからここにいんのか」

 決して怒鳴ったり大声を出しているわけではないのに、その声には相手を威圧する力があった。

「ええ、そうよ。昨日みんなで話した件で」

 両者の間の張り詰めた空気を断ち切るためだろうか。健二の代わりにゆかりが答えた。ジャンは一瞬戸惑ったようにゆかりに顔を向けたが、開きかけた口をすぐに閉じ、また健二に視線を戻す。その目にはらんだ怒気はいっそう強くなっていた。

「俺は他の奴らと違って、てめぇを信用したわけじゃねぇ」

 地を這うような低い声だった。近くにいると、運動によって体温の上がったジャンの体から発せられる熱気が感じられるほどだったが、健二は寒気がした。

「もし何か企んでやがったら、俺たちを騙したことを後悔させてやる。少しでも不審な動きを見せてみろ。そのときは俺がてめぇをぶっ殺す」

 ジャンはドスのきいた声ですごむと、間近から健二を睨みつけた。視線だけで健二を殺せるのではないかと思うほどの眼光だ。健二は何も反論できず、ただジャンの気迫に圧倒されていた。
 そのまま三秒間ほどまばたきもせずに健二を睨んでいたかと思うと、ジャンは不意に健二に背を向け、再びトレーニングルームの方へ歩いていった。その場にいた全員の緊張が解けたのがわかった。レイとゆかりは見るからにホッとしたような顔をしている。おそらく健二自身もそうだろう。

「まだトレーニングは続けるの?」

 トレーニングルームの入り口から中へ入ろうとしていたジャンに、ゆかりが声をかけた。ジャンの放つ空気や表情が、その途端うってかわって柔らかいものになった。

「ああ。ゆかりは拠点に戻るのか?」
「ううん。でも、今から本部で少し仕事をしたあとでもう一つ別の場所での仕事があるんだけど、それが終わったら今日はもう戻るつもりよ」

 意図的にか、ゆかりは健二に関する『別の場所での仕事』の内容を伏せた。

「そうか。じゃあ、またあとで」
「ええ。トレーニングがんばって」

「ゆかりも」と返したジャンは、驚くべきことに顔の筋肉を緩め、わずかに笑みのような表情を作った。出会ったときからずっと無愛想で不機嫌だった彼の、初めて見る穏やかな表情だった。
 ジャンは最後に健二を冷たい目で一瞥すると、開いた自動ドアからトレーニングルームへと戻った。

「あー、びっくりしたー!」

 ジャンが入り口から離れ、先ほどとは別のトレーニングマシンの調節を始めるのを見届けてから、アマンダが大きく息を吐いた。

「ごめんなさいね、健二くん」

 ゆかりが健二に向かって言った。彼女が謝る意味を量りかねながらも、健二は「大丈夫です」と答える。

「まあ、あんま気にすんなよ。実際、あいつの判断で勝手に健二をどうこうすることなんてできねぇんだからさ」

 レイが、今度も健二を元気づけるように言う。彼はいい意味で気楽さを人に分け与えるのが得意らしい。健二はその言葉を頭の中で噛みしめた。

「そうか……そうだよな」

 ジャンもクレイグの部下なのだ。クレイグが健二を敵と見なさない限り、ジャンも言葉で健二を攻撃する以上のことはできないはずだ。あからさまに険悪な態度を取られることはもちろん気持ちのいいものではないが、好意的に接してくれるレイやゆかりやアマンダの存在があるためか、精神的なダメージはずいぶん軽かった。
 トレーニングルームの前の廊下はちょうど通路が二手に分かれていて、ゆかりとはそこで別れた。

「それじゃあ、私もここでいったん失礼するわね。あとで合流しましょう」

 彼女は笑顔で言うと、背筋を伸ばして足早に歩き去っていく。健二は礼を言って、その小柄な背中を見送った。
 残された三人はゆかりが去ったのとは別の方向へ、再びエレベーターを目指して歩いた。廊下は三人で横一列に並んでも、まだ左右を人が通れるだけのスペースが空くほどの広さだ。そして、別の通路と交わっている箇所が頻繁にあり、まるで迷路のように入り組んでいる。一人で歩いたら迷いそうだった。

「それにしても、俺はあのジャン……さんにずいぶん嫌われてるみたいだな」

 健二は、ジャンの初めて会ったときからの自分に対する態度を思い返した。今まで、あれほど明確で激しい敵意を向けられた経験は無かった。

「あいつは誰にでもああだからなぁ」レイが苦笑する。

 そう言えば、彼は上司であるはずのクレイグにさえ乱暴な口調や態度だったことを思い出す。2015年の常識では厳しく叱責されているところだが、クレイグはそんなことを気にもしていない様子だった。この時代では部下の態度について割りと緩く考えられているのかもしれないが、それよりもクレイグの性格や懐の広さゆえであるような気もした。

「でも、ゆかりさんに対してだけは違うよな」

 健二の脳裏には先ほど目にした、ジャンとゆかりが仲睦まじげに会話を交わす光景が焼きついていた。そのことがどうしても気になり、口に出してしまう。次にアマンダから返ってきた言葉は、健二が想像だにしていなかったものだった。

「だって、ゆかりはジャンの婚約者だもん」
「そうなのかい!?」

 思わず、自分でも驚くほどの大声が出てしまった。

「健二ってば、声大きいよ」

 アマンダはケラケラと笑いながら健二の腕をバシンと叩いた。思いのほか強い力にイテテ、と腕をさする。
 そう言われてみれば、最初から二人の間には何か特別な雰囲気が感じられた。特にジャンの、ゆかりとそれ以外の人間に対する態度には不自然なほどに差がある。今から思えば二人の関係を察するのは容易だったのかもしれない。それでも、これはまったくの予想外だった。

「意外だろ? あの二人、正反対のタイプだもんな」レイが言う。

 ゆかりの左手の薬指にはまっていたあのシルバーのリングは、ジャン・ベルティエとの婚約を表すものだったのか。健二は失礼だと承知しながらも、ゆかりはなぜジャンのような男を選んだのかと思わずにはいられなかった。ゆかりのような女性なら、もっとふさわしい男――たとえば、優しげで精神的にも成熟した落ち着いた男性――をいくらでも選ぶことができるだろうに。それとも、ジャンには一見しただけではわからないすばらしい長所があるのだろうか。二人が恋仲になるに至ったまでの経緯が気になった。
 ゆかりにパートナーがいることは知っていても、彼女と過ごすごとに、健二は確かに彼女に惹かれつつあった。そのゆかりのパートナーがよりにもよって自分に嫌悪の感情を向けているあのジャンだと知り、健二は少なからずショックを受けていた。

「ゆかりさん、部署の男たちの憧れの的だったからさ、婚約したときは職場がお通夜状態だったぜ。しかも、なんでジャンなんだ! って」

 健二の気持ちを知ってか知らずか、レイが続けた。健二の想像通り、やはりゆかりの人気は高いらしい。

「すごく魅力的だもんな、ゆかりさん。美人だし、何より優しいし」
「そうだよね! 私もすっごく尊敬してるし、憧れちゃうよ」

 健二はが言うと、アマンダが強く賛同する。

「ゆかりさんはいいよなぁ。俺も好きだぜ」

 レイもうなずくと、天井を見上げてうっとりとしたような声になった。

「犯罪捜査部の中だけじゃなくて、他部署の連中にも男女問わず慕われてんだ。さっき言ってた用事っつーのも、新人に仕事を教えることなんだよ。ゆかりさん面倒見がいいからさ、よくそういうことも頼まれるみてぇだな」

 ゆかりは出会って間もない健二にもとても親切にしてくれ、丁寧に世話を焼く様は母親や姉のようでもあった。そういう包容力を感じさせるところが、異性からも同性からも好かれる部分なのだろう。
 ジャンは、そのゆかりが生涯のパートナーとして選んだ男だ。きっとジャンには、ゆかりにしかわからない良い面があるのだろう。そう考えることにし、健二は落ち込みそうになる気持ちをどうにか引っ張りあげた。
 そんなことを話しながら歩いているうちに、前方にエレベーターが見えてきた。

「駐車場に下りるっていうことは、今から行くのはこことは別の場所なんだよな?」

 今さらながらに思い至り、健二はふとたずねてみる。レイが「ああ」とうなずいた。ついで、その表情が苦いものになる。

「俺としては、あんなとこを見せるのはちょっと早すぎる気がしなくもねぇんだけどな……」

 小さな声で呟れた言葉が気にかかった。“あんなところ”ということは、これから向かうところはあまり歓迎できるような場所ではないらしい。健二は聞き出すのも怖い気がして黙っていた。
 エレベーターで地下一階の駐車場まで下りると、来たときと同じ車に乗り込んだ。今度はレイが運転席に座る。健二とアマンダは再び後部座席に収まった。レイが液晶パネルを操作する。
 車が動き出すとレイは体をひねって背後の健二を振り返り、白い歯を見せてニッと笑った。

「今度は外を通ってくぜ」

 それを聞き、健二の中の好奇心が刺激される。外の景色を見るのは初めてだ。2148年の街並みはいったいどんな眺めを造りあげているのだろうか。健二は期待に胸を高鳴らせた。
 車は地上へと通じるスロープを上っていき、徐々に車内にいてもまぶしいほどの光が視界にあふれだした。外の光だ。車がスロープを上りきって屋根の無い場所へ出ると、健二の目の前に見たこともないような街の光景が広がった。以前に見かけた、未来の都市を予想した絵などともまた違う。
 車窓から見える都市の景観はとても美しかった。2015年よりも超高層ビルの数がさらに増え、天を突くような建築物がいくつも立ち並んでいる。どれもすっきりとしたデザインで、それらのビルとビルを繋ぐ通路が空中を走っていた。建物の間を縫うようにして、かなり高い位置にゆるやかにうねる高速道路のようなものが通っているのも見える。頭上を覆う車のガラス越しに空を見上げると、はるか上方を何かが飛んでいた。目を凝らしても距離が遠いためにその形をはっきりと見てとることはできなかったが、ヘリコプターや飛行機ではなさそうだ。
 そして、街は驚くほど緑に囲まれている。街路樹や歩道の花壇はもちろん、中央分離帯にも植物が植えられ、色とりどりの花々が無機質な道路に華やかさを加えている。ビルの屋上やバルコニーから草木が覗いているのも当たり前で、壁面全体が緑で彩られた建物も珍しくないようだ。
 四車線の道路もその脇の歩道も幅が広く、車の通りも人の数も多い。通りを歩く人や信号待ちをする人々の群れを見ると、ここが本当に日本だとはにわかには信じがたかった。東洋人が多いものの、様々な人種が入り乱れている。
 健二は驚嘆に目を見開いて顔を右に左に動かし、車外に続く街並みを熱心に観察していた。レイとアマンダの二人はそんな健二の様子をにこやかな顔で見つめている。健二の反応は彼らにとっては新鮮で、見ていておもしろいのだろう。

「どうだ? 健二がいた時代とはずいぶん違うか?」レイが聞いてきた。
「ああ。びっくりしたよ」

 周囲の店や街全体の造りなど、何もかもが違うというわけではないが、それでも大きく変わっている。だが、途中で見知った鉄道業者の名前と駅名を見かけ、健二は衝撃を受けた。走っている電車は2015年のものとは違うのだろうが、133年を経たこの時代でもその会社や駅が存在するという事実に、感動にも似た気持ちが込みあげてくる。ゆっくりと街中を見て回れば、変わっていない部分をもっと見つけだすこともできるかもしれない。
 しかし、この日は壮観な街の景色を堪能できる時間はあまり長くは続かなかった。車は自動運転を続け、次々に交差点を曲がると街の中心部を離れていく。街は少し移動するごとにその雰囲気を変えた。次第に高層ビルの数が少なくなり、人通りも減ってくる。
 やがて、その建物が見えてきた。高い塀に囲まれた広い敷地に、大きく四角い建物が建っている。車はその前まで来ると左折し、隣接する屋外駐車場へと乗り入れた。どうやら目的地に到着したようだ。
 当然、健二は三人で一緒に行動するものと思っていたのだが、車が駐車場の一角で停止すると、意外なことにレイはシートベルトを外しながらアマンダを振り返って言った。

「じゃあ、アマンダはここで待っててくれ」
「うん」

 アマンダも最初からそのつもりだったのか、あっさりとうなずく。健二とレイはアマンダ一人を残して車から下りた。下りる際、レイがロングコートの内側を探り、そこから取り出した銃を運転席のシートに置くのが見えた。

「アマンダは行かないんだな」

 車のドアが自動で閉まると、健二はレイに言った。

「ああ。本来、部外者は立ち入り禁止だからな。よっぽどの理由が無いと入れねぇんだ。俺はSGAの人間だから捜査のためってことで入場を許可されるけど、アマンダはSGAの職員じゃねぇし」

 ここに来る前にレイは“あんなところ”とも言っていたが、それは危険な場所であるということを意味しているのだろうか。少なくとも、かなり特別な場所であることは間違いなさそうだった。
 レイは駐車場を出ると塀の正面へ向かって歩きだし、健二もそれに並んだ。そこには分厚い大きなゲートがあり、その横に同じような造りの小さな入り口があった。どちらも固く閉ざされている。建物の名称や種類がわかる札などはどこにも見当たらない。代わりに、ゲートの横には小さな屋根に覆われて、液晶画面やいくつかのボタンがついた機械が埋め込まれていた。レイはそちらに歩み寄るとボタンを操作する。

「はい」すぐに、スピーカーから男の声が聞こえてきた。

「SGA犯罪捜査部、特別犯罪捜査課のレイモンド・ストレイスです。詳しくは犯罪捜査課のクレイグ課長が連絡したときに話してると思いますが、こちらの関係者の検査を受けさせてもらう約束で来ました」
「ああ、SGAの。……ええ、伺ってます。ではゲートを開けますので、お二人とも個人認証カードをそちらの機械に読み取らせて、網膜のスキャンを行っていただけますか」

 ゲートの周りにいくつも取りつけられている、監視カメラと思しき機械からこちらの様子が見えているのだろう。スピーカーの向こうの声が言った。

「それなんですけど、関係者の男性は個人認証データの登録が無くて、カードが無いんですよ」

 レイが言うと、相手の声が急激に冷たさを帯びた。

「個人認証カードが無いとお入りいただくことはできません」
「知ってると思いますけど、俺たちが関わってるのは極秘の捜査なんで、今ここで事情を詳しく説明することはできません。でも、うちの課長が連絡したときにそちらの上の方にはある程度知らせているはずですし、入場の許可も下りてるはずですよ」

 レイも幾分強い調子で言い返した。しばしの沈黙が続く。

「……少しお待ちください」

 長い間のあと、相手はそう言い残すと通話を切った。

「ったく、ここはSGAの管轄じゃねぇからめんどくせぇんだよなぁ」

 レイがうんざりしたように頭をかいて嘆く。そして、傍らで様子を見守っていた健二に向き直った。

「個人認証カードっつって、身分証明とかに使うカードがあんだよ」

 そう言うと、レイはコートのポケットから一枚のクレジットカードのようなものを取り出して健二に見せた。グレーに白の線が入ったデザインで、『個人認証カード』という文字が書かれている以外は名前も顔写真も何も載っていない、非常にシンプルなものだ。

「こういうのなんだけど、これに名前とか住所とか写真とか、あと網膜のデータとかが登録されてるんだ。国民は全員持ってて、今みたいに重要な本人確認のときにはこれが必要なんだよ。たとえばこのカードに登録されてる名前とか網膜のデータと、俺本人が名乗ってる名前とか、スキャンした網膜とかが一致するかを照合するんだ」

 それを聞いてもすぐにはピンと来なかったが、免許証などで名前や顔写真を見て本人確認をしていたものがさらに複雑になり、確認がすべて機械化されたものという感じだろうか。そう考え至り、健二はなるほどと思った。
 レイはカードを裏返す。裏面に印刷されている二次元コードのようなものを指差した。

「専用の機械を使って、ここにあるコードからデータ化された情報を読み取れるんだ。どこまでの情報を見られるかは機械によって違うんだけどな」

 レイはカードをひらひらと振ってみせた。

「ちなみに、このカードを読み取らせるのは何かあったときのために国が個人の行動の証拠を残させる目的もあって、ナイフとか特殊な薬とか、そういうのを買うときにもいるんだけど、そういう店に置いてある機械じゃ名前と生年月日と写真くらいしかわかんねぇ。でも――」

 目の前の塀に取りつけられた機械を指差す。

「こういうセキュリティに厳しい特殊な場所で、本人確認のために使うとこでは網膜とか指紋のデータまで読み取れるってわけだ」
「じゃあ、すごく重要なものなんだな。そんなに個人情報が詰まってるなら、絶対に落とさないようにしないといけないじゃないか」

 健二が言うと、レイはうなずいた。

「まあ、そうだな。万が一落としたときはすぐに届け出て、古いカードに使われてるコードを無効にしてもらわなくちゃならねぇ。でも、そういうときのためにカード自体には名前も写真も載ってねぇんだよ。誰のものかわからなければ悪用されにくいからな。このカードを読み取れる機械を個人が手に入れられる方法なんてねぇから普通は大丈夫だと思うんだけど」

 再びカードの裏面を健二に見せると、レイはカードの左上を指で示した。

「ここに数字とアルファベットが並んでるだろ? これが一人ひとり違うから、自分の分はだいたい覚えといて、自分のカードかどうかはこれで見分けるって感じだな」

 健二はなんだかややこしそうだなと思った。それに、まるで一人ひとりが国に監視されているかのようなシステムだ。健二はクレイグに見せられた、自分の娘だという老女のデータが壁に映し出されていた様子を思い浮かべた。

「国のシステムにも個人の情報がいろいろ登録されてるって、クレイグさんから聞いたよ」
「そうそう、それと同じ情報がこのカードにも入ってんだ」

 レイは顔をしかめると、面倒くさそうにため息をついた。

「とにかく、これが無いと何かと不便なんだよ。健二のカードとかデータも、形だけでもなんとかして用意しねぇとな」

 そのとき、先ほどの男の「お待たせしました」という声がスピーカーから聞こえてきて、健二とレイはそちらに視線を戻した。

「同行者の方はそのまま通していいということなので、ストレイスさんだけ認証カードの読み取りと網膜の認証をお願いします。ゲートを開けますので、正面玄関を入ったところでお待ちください。担当の者が向かいます」

 そう告げる男の声からは腑に落ちない様子らしいのがはっきりと伝わってきた。
 レイはそんなことを気にも留めないそぶりでさっさと液晶画面に個人認証カードを近づけ、ピッという音が鳴ると今度は少しだけ画面に顔を近づけた。それで網膜の読み取りと照合が完了したのか、小さい方のゲートが横にスライドして開く。レイは颯爽とゲートを抜けて歩いていく。それに続き、健二も敷地内へ足を踏み入れた。
 視界を遮っていた塀が無くなり、建物全体の様子がよく見える。白く四角い建物は遠くから見ると一瞬大学病院を思わせもしたが、窓がとても少なく、どちらかというと倉庫か工場のようだった。何かの研究施設のようなところなのかもしれない。建物の壁面にも会社名などは書かれていなかった。
 少し歩くと正面の入り口に辿りつく。こんなに大きな建物の正面玄関だというのに、入り口部分はひどく殺風景だ。訪れる人々が歓迎しないだけでなく、向こうも訪問者を歓迎する雰囲気ではないことが一目見てわかる。
 入り口の自動ドアを抜けてすぐのところには、空港などにある金属探知機に似たアーチ型の機械が設置してあった。そこを通過しなければその先に進めないようになっている。よく見る金属探知機よりもずいぶんと幅が広い。

「これ、したままで大丈夫かい?」

 健二は自分の左腕についた腕時計に手をやり、レイを見上げた。

「ああ。これは武器とか爆弾だけ検知するから問題無いぜ」

 半信半疑だったが、彼の言うとおり、健二がアーチをくぐり抜けても警報が鳴ったりするようなことはなかった。通り抜ける瞬間、赤い光が左右から体に当てられたのがわかった。レイも何事も無く検知器の中を通る。
 入り口から続く廊下は照明の光が弱いのかどことなく薄暗く、辺りには誰もいなかった。不気味なほど静まりかえっていて、歩くたびに自分たちの足音が大きく響き渡る。廊下を曲がってすぐのところは病院の待合室のような空間になっていた。広さはそんなに無い。

「この辺で待っとくか」

 レイが言い、壁に背をもたせかける。健二もその横で立ったまま待つことにした。
 一分ほど経ったころ、廊下の先から足早な靴音が聞こえてきた。音がすぐ近くまで迫ってきたかと思うと、曲がり角から警官や警備員のような制服を着て、制帽を被った男が一人現れた。

「こんにちは。ストレイスさんですか?」

 男は健二たちの姿を認めると声をかけてくる。レイが「はい」と応じた。すると、男は自分が歩いてきた方向の廊下を手で示し、二人についてくるように促す。

「どうぞ、こちらへ」

 そしてその後は振り返ることもなく、また早足でどんどんと先へ進んでいく。健二はレイと共に男の背中を追った。



>> To be continued.



読んでくださってありがとうございました!
拍手もすごく嬉しいです(*^▽^)

第二話は毎回文章量がとても多くなってしまって、
読んでくださっている方が疲れていないか実はかなり不安です;

第二話も一話と同じく、次回の06で完結となります!
もう少ししたらまた物語が大きく動き始めます♪


未来への追憶 第二話 - 04

* * *


 健二はパリッとしたスーツを着てネクタイを締め、車の後部座席に座っていた。車は二車線の暗いトンネルを滑るように進んでいる。速度計に目をやると時速八十キロ近く出ていたが、車内はとても静かだ。
 本部に移動というからには玄関から建物の外へ出て、もしくは車庫で車に乗り込み、そこから太陽の光を浴びながら国道や県道を通って目的地へと向かうものだとばかり思っていたが、実際にはまるで違っていた。
 ゆかりたちと共にダイニングルームを出た後、健二はゆかりから洗濯済みのスーツを手渡され、一度留置部屋に戻って着替えるようにと言われた。健二がここに来たときに着ていた濃紺のスーツだ。本部というからには恐らく、クレイグの他にもたくさんのSGAの職員がいるのだろう。確かに、そんなところにまさかスウェットの部屋着のままで行くわけにはいくまい。
 健二は言われた通り、留置部屋で手早く着替えをすませた。糊のきいたシャツに袖を通すと洗剤の匂いがふわりと広がり、健二は清潔ないい香りを胸いっぱいに吸い込んだ。これも、洗濯からアイロンまですべてをやってくれるような高性能のロボットの仕事なのかもしれない。
 すぐに黒いコートを着たゆかりが迎えにきたが、再びエレベーターに乗り込んだ彼女が健二を連れて行った先は一階の玄関ではなく、健二の予想とはまったく違う場所――建物の地下だった。一階を通りすぎ、健二が「おや?」と思った直後にはすでに『B』の表示のランプが点灯してエレベーターは止まっていた。
 扉が開くと、そこは複数の車を収容できる広さがあるガレージのようだった。壁や床は明るい色で、いくつものスポットライトが頭上から優しい光を投げかけている。そのためか狭苦しさは感じない。二台の車が駐車されていて、そのうちの一台にレイが腕を組んでもたれかかっていた。黒いロングコートをまとった彼がそうしている様子はモデルのように絵になっている。その横にはアマンダもいて、ゆかりはそちらへまっすぐに歩いていくと、コートのポケットからキーを取り出して車のロックを解除した。
 車の姿かたちは、2015年の道路を走っていたものとはずいぶん異なっていた。黒っぽい車体に青緑のラインがデザインされ、美しい光沢を放っている。車高は低く、全体的に凹凸が少ない。ルーフからボンネット部分までは流れるような曲線を描いていて、そこに大きなフロントガラスがはめこまれていた。車の先端は薄く、ボディ全体は優美な丸みを帯びているにも関わらず、切れ長のヘッドライトと相まってシャープなイメージを作り上げている。
 車の傍らに立ったゆかりがまたキーを操作すると、ドアが自動で開いた。車は丁度四人乗りで、ゆかりは運転席に、レイは助手席に乗り込む。健二は後部座席に乗るように言われ、アマンダと並んでシートに座った。見たところ、ガレージには車ごと乗れそうな大きなエレベーターのようなものは見当たらない。この地下からいったいどのように地上に出るのだろう、などと考えながらシートベルトを締める。
 車内には地図のようなものが映し出された大きな液晶モニターと、小さめのモニターが数台あった。小さい方の画面には、車の背後と思しきガレージ内部の映像などが映っている。
 ゆかりが液晶パネルやボタンをいくつか触ると、車はすぐに発進した。運転席には小さなハンドルがついているが、ゆかりはそれに触れてすらいない。車はコンピューターで制御され、完全に自動で動いているようだ。
 だが、それくらいのことでは健二はもう驚きを感じなかった。自動運転車が普及する未来は、2015年の時点でも大いに想像できたことだ。もっとも、驚嘆することがあまりにも多すぎて感覚が麻痺してしまったせいもあるかもしれないが。
 むしろ、その後に起こった出来事の方が健二を驚かせることとなった。
 車はガレージの突き当たりまでゆっくりと進むと、そこで停車した。目の前の壁には扉があり、ゆかりがスマートフォンのような機器を取り出して扉に向け、何らかの操作をすると大きな扉が音を立てながら上へスライドした。そして、深い闇へと続く長いトンネルが現れたのだった。

「てっきり、普通に玄関から出て行くものだとばかり思ってたよ」

 目的地へ向け、単調なトンネルの中をひた走る車の中で健二は言った。

「んなことしたら、ここがSGAの拠点だってバレちまうじゃねぇか」

 レイが振り返り、さも当たり前のことのように言って笑う。言われてみれば確かにそうだ。制服を着た、ただの住人とはほど遠い人間が頻繁に出入りしていれば、想像力など働かせなくとも誰にだってすぐに気づかれてしまうだろう。それではあまりにもまぬけだ。

「SGAの本部と、その周辺にある特に重要な拠点は地下トンネルで繋がってんだよ。拠点から外へ出るときは、よっぽどの理由が無い限りはトンネルを通って本部から、もしくはトンネルが繋がってる他の場所から外へ出るんだ」

 先ほどから、何度かトンネル内の岐路を通りすぎていた。恐らく、それらの分かれ道の先が別の拠点なり別の出口なりに繋がっているのだろう。
 それにしても、これほど規模の大きい専用の地下トンネルを有しているなど、国の機関であるSGAとはどれだけ大きく力のある組織なのだろうかと健二は思った。

「一応玄関も使えるようにはなってっけど、健二も絶対に玄関から出るんじゃねぇぞ」
「ああ。気をつけるよ」

 今のところ、健二が自由に外出できる日が来るなど想像すらできなかったが、健二はレイの言葉を頭に叩き込んだ。
 時折ゆるやかなカーブを描くトンネルを十分ほど走ったころだろうか。前方にほのかな明かりが見えてきた。近づくにつれて周囲の壁や天井は明るくなり、やがて大きな地下駐車場のような場所に出た。

「着いたぜ」

 レイが言い、健二は窓から周囲の様子を観察した。たくさんの車が駐車スペースに停まっている。デザインや大きさは様々だったが、どの車も健二が見たことのない形をしていた。
 健二たちの乗る車は空いているスペースの一つに近づくと速度を落とし、コンピューターによって計算されつくした無駄の無い動きで駐車した。モテる男の条件、などという雑誌やネットの特集から、『車の運転が上手い』という項目がとっくの昔に消滅したことは間違いないだろう。
 ゆかりがエンジンを切り、ドアが再び自動で開く。レイやゆかりに続き、健二もシートベルトを外して駐車場に下り立った。ずいぶんと広い駐車場だ。柱には『B1』という表示がある。駐車場のどこかで、車の走るような音や人の話し声がかすかに響いているのが聞こえていた。

「こっちよ」

 ゆかりに促され、健二は彼女のすぐ後ろをついて歩いた。

「大きい駐車場だね」

 隣を歩くアマンダに話しかけると、アマンダは賛同するように大きくうなずく。

「地下三階まであるんだよ!」

 少し歩いたところにエレベーターが設置されており、健二たちはエレベーターが下の階から上がってくるのを待ってそれに乗り込んだ。作業着のような服を着た男とスーツ姿の男女と乗り合わせたが、エレベーターの内部は大きく作られていて、七人で乗っても充分な余裕があった。彼らもSGAの職員なのだろうか。いよいよSGAの本部にやってきたのだという実感が湧いてきて、健二はなんとなく緊張を覚えた。
 エレベーターは一階で止まり、アマンダに腕を引かれてエレベーターを降りる。途端に、自然光と間接照明の明るさに満ちた場所に出た。エレベーターを降りて廊下を進んだ先は広大なエントランスだった。ここも正面玄関側が全面ガラス張りになっていて、そこからの光がエントランスホールを明るく保っている。頭上を見上げると三階までが吹き抜けになっていた。
 前を歩くレイとゆかりは、足早にエントランスを横切って進んでいく。健二は遅れないように大股で歩きながら辺りを見回した。たくさんの人が行き来している。レイやゆかりが着ているものとは違うが、制服のようなものを身にまとっている人々。ビジネススーツの人々。そして、人間だけではなくロボットの姿もちらほらと見てとれた。拠点にいた、掃除や片づけをしてくれるというあのロボットとは違う種類のものだ。それぞれに役割が違うのだろうが、形は様々で二足歩行のものもいる。
 エントランスの中央には受付台が設けられ、その横には自動改札機のようなセキュリティゲートが並んでいる。レイは受付台に近づくと健二を手で示した。

「犯罪捜査部、犯罪捜査課のクレイグ課長の指示で通すことになってる参考人だ」

 受付台の向こうにはロボットも控えていたが、応対したのは人間だった。日本人かどうかは定かではないが、東洋人の彼女は健二に目をやり、レイがスマートフォンのような薄型の機器を彼女に向けると、ついでその画面を確認した。

「課長からの指示書だ。個人認証データの情報じゃなく、この指示の通り特例で写真での認証だけでいいってことになってる」

 レイが言うと、女はうなずいて受付台に置かれた小型のPCを操作し、しばらく液晶に目を凝らした後で健二に笑顔を向けた。

「確認が取れました。どうぞ」

 受付台のすぐ横のゲートが開き、健二はそこを通って中へ入った。レイとゆかりは自分の携帯端末のような機器をタッチしてゲートを通過する。アマンダはショートパンツのポケットから出したカードを受付に見せ、健二と同じゲートを通った。

「行くぜ」

 アマンダがゲートを通り終えると、レイとゆかりは再び歩き始める。ゲートを入ってすぐのところには大きなエスカレーターがあったが、彼らはそちらへは向かわず、右手の奥へと歩みを進めた。彼らが向かった先にはまた何台ものエレベーターが並んでいた。扉には、先ほど地下から上がってきたものよりいくらか派手な装飾が施されている。ゆかりが上階行きのボタンを押し、健二たちはエレベーターが到着するのを待った。

「この建物の七階よ」

 ゆかりが言ったが、健二は軽く相づちを打つことしかできなかった。さすが国の秘密機関の本部というだけあり、行きかう人々がまとう空気や建物のそこかしこからはどことなく特別で厳格なものが感じられ、健二はその雰囲気に圧倒されていたのだ。
 やがてエレベーターの扉が開き、数人の人間と一台のロボットが降りてきた。その後から、健二はレイたちと共にエレベーターに乗り込む。エレベーター内の階数表示を見る限り、この本部の建物は八階建てのようだった。だが、高さはそれほどではないものの、あのエントランスからも敷地面積は非常に大きいのだろうと推測できる。
 七階に着いて扉が開くと、眼前には広々としたエレベーターホールが現れ、その先に幅の広い廊下が続いているのが見えた。ゆかりとレイはエレベーターを降り、廊下の先へと進む。健二も後を追った。ここでも何人もの人々とすれ違った。下のエントランスとはずいぶん雰囲気が違い、普通のビジネススーツを着ている人間はほとんどいない。レイやゆかりと同じ黒いロングコートも多く、白衣や、調査部の劉が着ていたような黒いスーツと黒いネクタイ姿の者もいた。レイやゆかりはすれ違う度に彼らと挨拶を交わし合い、健二も軽く会釈をする。その中で、健二は幾人かからのもの珍しそうな視線を感じた。


 SGAの犯罪捜査部、特別犯罪捜査課のセクション・チーフ、マーカス・クレイグは会議室のような一室で健二を待っていた。健二以外の三人は部屋には入らず、健二一人でクレイグの話を聞くように言われた。ドア上の電子パネルには『使用中』の文字が光っている。

「私たちは部屋の外で待ってるわね」

 ゆかりに見送られ、健二は緊張しながら自動ドアを通って部屋の中へと入った。
 会議室は照明の光が抑えられていて薄暗かった。中央に、十数人が席につける大きな会議用テーブルがある。様々な映像や画像を映したたくさんのモニターが薄暗闇の中で白く浮かび上がっていた。正面の白い壁には、小さな機械によって真下から照射されるような形で何かの資料らしきものが大きく投影されている。クレイグはその壁の前――入り口から見て正面中央の席に座り、壁に背を向けてPCに向かっていた。自動ドアの開く音に顔を上げた彼は、健二の姿を認めると立ち上がり、健二に歩み寄る。

「わざわざ出向かせてすまなかった」

 いえ、と健二はかぶりを振った。健二としては、今日の昼までずっと監禁していた健二を突然本部に呼ぶなどという、無防備とも思える彼の行動の方が気がかりだった。よほどの事情があるということだろう。

「私が仕事の都合で、現在すぐに本部を離れられない状況だということもあるが、我々と君の双方の今後にとって非常に重要な用件だからな。ぜひともここで話しをしたかった」

 目の前に立ったクレイグの硬い表情を見て不安が募り、健二は落ち着かない気持ちになった。セキュリティの厳重な本部に招いて二人きりで話しをするというからには、健二に対する警戒が強まったり、健二を敵と見なしたわけではないのだろうが、彼が何を言い出すのかはまったく予想がつかなかった。何せ、ここでは2015年の常識は通用しないのだ。

「さっそく本題に入ろう」

 クレイグは踵を返すと正面の壁の前まで戻り、テーブルの上から小さなタブレット端末のようなものを取り上げた。指で液晶画面に触れ、操作する。すると、壁に投射されていた画像が変化した。クレイグはそれを手で示す。

「これを見てくれ」

 それまで映っていた文字の並んだ資料の上に、一人の女性の写真が表示されていた。白いバックで、免許証やパスポートの写真のように正面を向いて写っているバストアップの写真だ。きちんとした身なりはしているものの、たくさんのしわが刻まれた小さな顔はかなりの歳に見える。

「彼女は阿久津留美。2110年に九十二歳で死去したが、これはその二年前に撮られた写真だ。彼女は阿久津賢士の祖母にあたる人物、そして――」

 クレイグはそこで言葉を切ると健二に向き直り、一呼吸あけてから口を開いた。

「阿久津健二の一人娘だ」

 クレイグのその言葉に、健二の全身に衝撃が走った。写真に目を戻し、今度は食い入るように見つめる。この老女が、俺の娘? 写真の中の彼女は健二よりもずいぶんと年上で、娘というよりは過去の祖先だと言われる方がまだ受け入れられる。だが、血の繋がりがあると言われて改めて見てみれば、どことなく健二に似ているような気もしてくる。
 写真の老女――阿久津留美は穏やかに微笑んでいた。その微笑に、馴染みの面影をわずかに感じた。年老いた女性の柔和な表情ながらも、自らの意志を貫く力強さを感じる。だが、笑みの形に細められた目はとても優しい。大好きだった健二の祖母も、こんな風に優しい目をしていた。そのことに気がついた途端、健二はこの時代――2148年でもすでに会うことの叶わない彼女に対し、急激に親近感を覚えた。仮に彼女が本当に健二の娘だったとしても、三十歳の今の健二にとっては彼女に出会うのは未だ知らない未来のこととなる。そのため、それ以上の特別な感情は湧いてこなかったが、強い親しみのようなものを感じたのは確かだ。それは純粋な驚きの感情だけではない、ひどく奇妙な感覚だった。
 健二の動揺が少し落ち着いたころ、クレイグは話し始めた。

「現在、すべての国民の個人データは国のシステムに登録され、細心の注意のもとに管理、保管されている。テクノロジーの躍進と共に、犯罪の内容や手段も多様化したからな。それらの犯罪を防ぐため、そしてすでに起こった犯罪に関してはできるだけ速やかに犯人を特定するため、というのが、そのような制度が導入された重要な理由のうちの一つだ。まあ、いろいろ問題も無いわけではないが、今のところそれなりの効果を発揮している。名前、住所、家族構成、仕事、指紋、網膜――そして、DNA」

 彼は一つ一つの単語をゆっくりと発音しながら、手元の端末を操作した。彼の言葉に合わせて、表示されている画像が次々と切り替わる。それぞれの情報は一瞬で消えてしまったため詳しい内容まではわからなかったが、どれも登録されている阿久津留美の個人データなのだろう。

「個人認証データの登録内容にDNAが含まれるようになったのが2101年からだ。つまり、こちらで探せる範囲のところには阿久津健二自身のデータは残っていなかったが、娘である彼女のDNAの情報は登録されていた」

 クレイグの声の調子から、健二は今から彼に告げられるであろうことを初めて推測できた。先ほどまでは早く何らかの答えを知りたくて仕方がなかったが、いざその瞬間がやってくると先を聞きたい気持ちは半分で、自分でも意外なことに、残りの半分は聞きたくない気持ちが占めていた。

「阿久津留美と阿久津賢士が血縁関係にあることはすでに証明されているから、三日前に君本人から採取したDNAと、過去に登録されていた阿久津留美のデータを用いて親子鑑定を行った」

 そこで、クレイグは再び間をあけた。彼の無表情からは相変わらず感情が読みとれなかったが、瞳は複雑な色を湛えているような気がした。まっすぐに健二の目を見つめ、口を開く。

「その結果、君は彼女の父親だった」

 健二は、まるで恐怖に襲われたときのように、静かで冷たい衝撃がじわじわと体中に浸透していくのを感じた。それでは、ここは本当に133年後の未来の日本なのか。自分は本当に2148年にタイムスリップをしたのか。DNA検査の結果が証明しているのだ。これがいつまでも覚める気配の無い夢ではないのだというなら、それしかあり得ないではないか。

「私は三日前、君はオリジナルの阿久津健二のDNAから作られたクローンかもしれないとも言ったが、恐らくその可能性も考えにくい」

 クレイグはさらに続ける。壁に表示されている阿久津留美のデータを消すと、また別の情報を映し出した。それは指紋の写真だった。両手の指十本分の指紋が並んでいる。

「これは君が現れた日に採取した、君の指紋のデータだ」

 続けて、その横に何枚もの写真を次々と表示していく。すべて健二が写っている写真だ。

「そしてこれが、この時代に残っている過去の阿久津健二の写真。これらの写真から指紋のデータを取得し、君のものと照合した」

 壁に並んだ写真のうちの一枚――健二がステージの壇上で片手にマイクを持ち、もう片方の手で試作品のような、ほとんど骨組みだけのロボットを手で示している。健二には覚えの無い写真だった――の、緩く広げた手の部分が拡大されていく。かなり解像度の高い写真で、手のひらのしわなどの細かいところまでが鮮明に写っている。さらに人差し指に寄ると、コンピューターによって指紋の形が赤い線でくっきりとかたどられた。次に写真が消えて指紋の形だけが残り、それは指先の方が上になるように回転すると横にスライドし、数日前に採取した健二の指紋の一つと重なった。

「すると、このように完全に一致していることがわかった」

 クレイグの言うとおり、二つの画像の指紋はぴったりと重なり合っている。健二がクローンでないことは健二自身が一番わかっていたことなので、そのことについては何も意外には思わなかった。感じたのは、133年という時を挟んでも認証システムが正確に動作してくれたことに対する感動だけだ。

「君も知っているとは思うが、クローンの場合、通常はDNAが同じでも指紋や網膜は同じにはならない。顔立ちでさえ多少は異なることが多いが、君と“阿久津健二”の場合は顔の照合でも骨格までがほぼ完璧に同一だという結果が出ている」

 健二は生物工学には明るくないため、クローンのことはあまり詳しく知らなかったが、そのことについては口を挟まなかった。代わりに気になっていたことを質問する。

「この時代ではクローン人間が当たり前に作られているんですか?」
「いや、人間のクローン製造は違法だ」

 クレイグはすぐさま否定した。

「技術的には可能なんだが、倫理面の問題を考慮して禁じられている。だが、そんなことを意に介さない連中もいるからな。現に、それに近い生体実験的な犯罪行為は行われているし、誰かが隠れてクローンを製造したとしても不思議は無いと思ったんだ」

 ある個人のコピーを造りあげるなどという、本来人の手によって行われても許される範囲を超えているようなことが未来でも禁止されていると知り、健二は安心した。もし、そんなことが普通に許可されている未来が訪れるとわかっていたら、仮に過去に戻れたとしても怖くて仕方がないだろう。フィクションの世界でも、大抵はクローン人間が出現することによって事件と混乱が巻き起こるものだ。

「話を戻すが、指紋が一致している以上、整形を施された別の人間ということも当然あり得ない。まあ、これは阿久津留美とのDNA鑑定の結果でも証明されることだがな。もちろん、DNAの異常なども見られない。君は至って普通の人間だ」

 そこまで言い終えると、クレイグは眉を寄せた。眉間にしわが刻まれる。健二が彼と出会ってから、初めて彼の顔に困惑がはっきりと表れていた。

「正直なところ……君自身もそうだとは思うが、私もこのことをどう判断すべきかわからない。DNA鑑定や指紋照合などの結果は、まぎれもなく君は“阿久津健二”本人だと示している。これでは、君が本当に過去からタイムスリップしてきたと考えるしかない。だが、タイムスリップなどという超常現象をすんなりと信じることができないのも事実だ。ただ――」

 クレイグはタブレット端末をテーブルに置くと、体ごと健二の方を向いた。

「一つ信じられることは、君は我々の敵ではないだろうということだ。これまでの君への対応については本当に申し訳なく思っている」
「いえ、信じてもらえたのならそれでいいんです」

 ようやく、健二は彼らの信用を得たのだ。健二がSGAの敵によって造られたクローン人間でも、洗脳された“阿久津健二”の偽者でもなく、ただ突然の事態に混乱しているだけの被害者なのだと証明されたのだ。
 徐々に安堵が染みわたり、健二は深く息を吐いた。ずっと続いていた緊張が少し和らいだ気がする。

「しかし、だからといって今すぐ君を解放することはできない。タイムスリップが本当だとするなら、いきなり一人で放り出されることは君にとっても不都合だろう。阿久津賢士や、君の正体に気づいた別の誰かに目をつけられるかもしれないしな」
「そうですね……確かに、俺もそれは困ります」

 行く当てもなく、知り合いもいない。この時代のこともよくわかっていない。恐らく生きながらえることは難しいだろう。もし健二が2148年の世界で死んだら、過去や未来はいったいどうなるのだろうか。

「我々としても、なぜこのようなことが起こったのかを調査する必要がある。それに、君が本当に過去からやって来た人間なのだとしたら、君がもといた時代に帰す方法を探さなければならないだろう」

 クレイグの言葉は健二にとって、とても頼もしく響いた。

「そこで、君に頼みがある」

 一段と表情を引き締めると、クレイグは真剣な眼差しで健二を見つめた。

「タイムスリップが起こった原因はわからないが、阿久津賢士が関与している可能性もゼロでは無い。君を保護すると共に、外部からの動きが無いか様子見を続ける必要があるだろう。また、君は我々が敵として向き合っている相手――阿久津賢士の実の血縁者だと判明した。阿久津賢士の行いに歯止めをかけるのが我々の仕事だが、もしかしたら、君の話などが役に立つこともあるかもしれない。できれば君にも力を貸してもらいたいと思っている。君が過去へ戻る手段が見つかるまでの間、今後も我々と行動を共にし、必要があれば我々に協力してもらえないだろうか」

 健二はしばし、クレイグの口にした内容に思いを巡らせた。どちらにしろ、SGAに保護してもらう方がいいのは間違いない。阿久津賢士に関しても、今までは自分自身のことで精一杯で気を向ける余裕が無かったが、タイムスリップが本当だというなら彼は未来の健二のひ孫にあたる人物ということだ。その彼が何か良からぬことをしているというのなら、健二もどうにかしたいとは思う。そうすることによって、健二が2015年に戻る方法がわかる可能性が少しでもあるのなら尚更だ。クレイグの頼みに反対する理由は無かった。

「わかりました」

 健二はしっかりとうなずいた。クレイグもゆっくりとうなずき返す。

「感謝する」

 やはりその仕草はクレイグにとって、礼を表す意味も持っているようだ。

「俺にできることなら何でもします。でも、阿久津賢士という男――俺の子孫は、具体的にはいったい何をしたんですか? 悪人だと言ってましたよね」
「そうだな……阿久津賢士のことについては、後日改めて時間を取ってじっくりと話しをしたいと思っているのだが、構わないか? 事態はいろいろと複雑でな」
「わかりました。大丈夫です」

 健二の検査に関しても、少しの間待たされはしたものの、こうしてクレイグの口からきちんと説明がなされて状況は進展した。クレイグにも考えがあるのだろう。彼の判断に任せるのが一番だろうと思い、健二は承諾した。
 クレイグはふと思い出したように「そうだ」と呟くと、健二に背を向け、いっそう暗くなっている部屋の奥の方へと歩いていく。壁際に置かれた別の机の上から何かを取ると、再び健二のところへ戻ってきた。

「これは返しておこう」

 彼が差し出しているのは小さな半透明のケースだった。存在をすっかり忘れてしまっていたせいだろうか。その中に入っている物を見ても一瞬なんなのかわからなかったが、すぐに合点がいく。一枚の切符と鍵束、それに腕時計。それは、検査をされたときに劉によって没収された健二の私物だった。

「これらは君について調べる際には、ほとんど役に立たなかったようだからな。ぱっと見たところはどれもずいぶん昔の物に見えるが、経年による劣化は見られない。切符に記されている日付、時刻の電車が存在していたことは確認できたようだが、それがわかったところで特に意味は無い。偽の切符などいくらでも作ることが可能だからな。鍵に関しても、すでに存在しない、過去のどの建造物のものだったかなど調べようがないというわけだ」

 健二はケースの中からそれらの物を取り上げると、切符と鍵束をスラックスのポケットにしまった。腕時計はその場で左手首に装着する。決して高価な代物ではないが、長年使っている物なので愛着がある。これが返ってきたことは嬉しかった。時刻を確認すると、時計の針は午後三時三十七分を指している。

「時間は合っているようだな」

 クレイグも文字盤に目をやると言った。

「では、阿久津賢士について話すときはまた藤原かストレイスを通して連絡する。それまでは元いた拠点で彼らと共に過ごしていてくれ。専用の部屋を一つ用意させる」
「ありがとうございます」

 これで、健二は正式に留置部屋から解放されることとなった。ホッと胸を撫でおろす。ひとまず話はこれで終わりのようで、クレイグは健二を出口へと促した。

「この後なんだが、このまま藤原たちと一緒に劉のところへ行ってくれないか。あいつからも少しだけ説明させたいことがある。阿久津賢士にも深く関係することだ。それから、検査というほどのものではないが、君について軽く確認したいことも最後に一つだけ残っていてな。その目的も兼ねてなんだが」

 クレイグの口調は、まるで本物の部下に対するもののようだった。セクション・チーフという立場上、普段から部下たちを束ねて指示を出すことが多く、それが染みついているのだろう。

「わかりました。でも、確認したいことというのは……」
「本当に念のためのものだ。それによって先ほど話した今後の方針などが変わることはほぼあり得ないだろうから、安心してくれ。このことは藤原とストレイスにはすでに伝えてある。あとは彼らの指示に従ってくれればいい」
「はい」

 うなずくと、健二は気持ちがずいぶんと軽くなったのを感じながら会議室を後にした。



>> To be continued.



読んで下さってありがとうございます!

前回の「第二話 - 03」等に拍手を下さった方々もありがとうございました!!

長い小説を読んで下さるだけでもすごく嬉しいのに、
拍手まで頂いて毎回とてもとてもありがたく思っています><*

今回でようやく、健二は一安心という感じです(笑)
これから阿久津賢士についてもどんどん明らかになっていきます♪


未来への追憶 第二話 - 03

 目の前に開けたリビングダイニングは、数日前に目にした時とはまるで違った趣を呈していた。外に面したガラスの全面窓から暖かそうな日光が差し入り、瀟洒な部屋全体を明るく照らしている。その光景に、南の島の豪華な別荘にでも来たかのような錯覚を覚えた。
 突然の状況の変化に戸惑いながらも、ゆかりに続いて部屋の中に足を踏み入れる。開放的な空間が健二を迎えた。ダイニングの大きなテーブルの方に近づくと、すでに二人の人間が席についているのが見えた。レイと、大きな眼鏡をかけた少女――アマンダ・オルコットだ。彼らはこちらに気がつくと、馴染みの友や同僚に見せるかのような親しげな笑みを向けてきた。

「丁度よかった。今飯ができたとこだぜ」

 レイがテーブルに歩み寄る健二たちを見上げて言った。休憩中だからか、今日はレイもロングコートを羽織っていない。「やっと出られたな」と、健二を見て人好きのする笑みを浮かべる。どうやらレイとアマンダも、健二をあの窮屈な部屋から解放するというボスの決定は聞かされた後のようだ。
 ゆかりがレイの正面の椅子を引いた。

「さあ、どうぞ座って」
「すみません、ありがとうございます」

 座るように促され、礼を言いながら腰を下ろす。ゆかりは健二のすぐ隣の椅子に腰かけた。彼女の前にはにこにこと楽しそうに微笑むアマンダが座っており、テーブルを挟んで四人で向かい合わせに座る形となった。
 目の前の広いテーブルには料理が並べられ、食欲をそそる匂いを漂わせている。薄くスライスしたローストチキンを添えたグリーンサラダ、きのこが入ったクリームシチュー。テーブルの真ん中に置かれたバスケットには小さくカットされたフランスパンや、レーズンとくるみが生地に練りこまれたライ麦パンなど、数種類のパンがどっさりと盛りつけられている。その横には、紅茶が入った大きなガラスのティーポットもあった。
 健二が料理を眺めていると、ゆかりは「いただきます」と手を合わせてスプーンを手に取り、健二にも食べるように勧めた。ちらりと目をやると、向かい側の席に並んで座っているレイとアマンダはすでにサラダやパンをほおばっている。
 健二もそれにならい、箸を取って料理に手をつけた。ローストチキンのサラダを口に運ぶ。一口食べると、チキンの柔らかな食感と酸味の効いたドレッシングの味が口内に広がった。
 窓の無い狭い部屋で、これから先のことが何もわからない不安に怯えながら一人きりでする食事とはずいぶん違う。太陽の光に包まれた清潔なダイニングルームで、和やかな雰囲気の面々に囲まれて口にする食事はこの三日間で一番おいしく感じた。

「ここの食事はすごくおいしいですね」

 初めてこの場所で出された食事を食べた時から思っていた、素直な感想が口をついて出る。
 部屋を見回しても、現在テーブルについている四人以外に人の姿は無い。キッチンの方にも目をやったが、そこにも人がいる気配は感じなかった。

「皆さんが作られてるんですか?」

 不思議に思って健二がたずねると、途端にレイがおかしそうに噴き出した。

「違う違う、これはマシンを使った料理だよ。ここでの調理はほとんどが調理マシンを使ってんだ。今まで部屋に運んだのも全部そうだぜ」
「調理マシン……ですか?」

 レイが口にした言葉が何を意味しているのか汲み取れず、その言葉を反芻する。宅配やレトルトでないのは確かだ。自動で調理できる鍋のことだろうか。

「そうよね、健二くんはわからないのよね」

 健二の様子を見て、隣のゆかりがしみじみと噛みしめるかのように呟いた。からかっている調子ではなく、ある種の感動を覚えているかのような声音だ。動かしていたスプーンを止めてシチューの入った器に立てかけると、彼女は健二のために説明してくれた。

「自動調理マシンといって、事前に材料だけセットしてメニューを選んだら、自動的に料理を作ってくれる機械があるのよ」
「そんな便利なものも実用化されてるんですね」

 自動調理鍋なら健二も使ったことがあったし、自動で調理してくれるロボットの開発が進んでいることも知っていたが、この世界――SGAの人々の話やPC端末から得られた情報によると133年後の日本――では、そんな機械を使うことさえ当たり前になっているようだ。

「一般の家庭では、ここにあるものみたいに一台でここまでたくさんのメニューや機能がついた物を使ってるところはあまりないけど、オフィスとか公共の場所ではよく使われてるわ」

 健二はゆかりの話に心底驚いた。今までここで出された料理は人間が作ったものだとばかり思っていたが、味や見た目に関してだけ言えば人の手で作ったものとなんら変わらない。むしろそこそこのレベル以上のレストランやホテルで食べたかのような繊細な味で、文句のつけようがないほどにおいしかった。

「もちろん、ちゃんと自分で作る時もあるのよ。ここに来てからはマシンに頼ることが多くて、あまり作れていないんだけど……」

 驚く健二の傍らで、ゆかりがまるで弁解するかのように慌てて言った。

「俺たちは今の仕事を担当するようになってからは基本的にここで生活してんだ。仕事は本部の方に戻ってやることもあんだけどな」

 レイが言い添える。なるほど、それも彼らが家族や旧友同士のように仲が良い理由の一つなのかもしれない。まだほんの短い時間そばで見ていただけではあるが、彼らの間にはただの職場の同僚同士という以上の絆を感じた。今も信じきれずにはいるが、未来の日本などというまったく予想だにしていなかった世界にやって来てしまい、知らない人々に囲まれて不安定な状況に置かれている今の健二にさえ、そんな彼らと共にいるのは心地よく、明るくて友好的な彼らの雰囲気は健二に安心感をもたらしてくれた。
 その後、レイとアマンダとゆかりは他愛無い日常の会話を交わし、健二はそれを聞きながら、時折彼らの話に一緒になって笑みを浮かべたりしつつ食事を進めた。自分が勤めていた職場の同僚たちと最後にこんな風に昼食を共にしたのはほんの数日前のことだが、もうずいぶん昔のことのように感じる。実際、この時代からすれば133年も前のことということになるので、健二の感覚はあながち間違いではないのかもしれないが。健二は心の片隅で寂しさを覚えながらも、いっとき普通の日常に戻ったかのような気分を味わった。
 そのうち、やがて目の前の皿は空になった。

「どう? 少しは気分転換になった?」

 健二のティーカップに二杯目の紅茶を注ぎながらゆかりがたずねた。

「はい。気持ち的にだいぶ楽になりました。ありがとうございます」
「礼なんていいのよ。別に健二くんが何かしたわけではないんだし、せめてこれくらいの対応を取るのが当然なんだから。今まで嫌な思いをさせてしまってごめんなさい」

 確かに、健二は何か証拠を押さえられたりして捕らえられたのではないし、それ以前に実際に犯罪を犯したりしたわけでもない。あえて言えば、せいぜい不法侵入の疑いをかけられるくらいなら仕方が無いかもしれないが。事情はどうあれ、仮にも国の機関に相手の都合だけで一方的にあれこれ調べられ、あげく監視つきで留置されるなど通常ならあり得ないことだった。
 しかし、思えばゆかりは最初から健二に対して、犯罪者に対するものでも不審人物に対するものでもない、ごく普通の人間に対する態度で接してくれようとしていた。出会った直後こそ訝しがっていたものの、レイだってそうだろう。
 元いた2015年の世界でトラックに撥ねられ、SGAの持ち物である、この戸建ての民家のような建物の中庭で意識を取り戻した時のことを思い出した。

「でも、俺がここの庭で目を覚ました時、レイさんやゆかりさんがいてくださって本当に助かりました。お二人が親切にいろいろと気を遣ってくださったので、少しずつですけど、なんとか状況を理解していく余裕が持てました」

 そういう意味ではレイとゆかりには本当に感謝していた。

「お二人がいなかったら、きっともっとひどいパニックに陥ってうろたえていたと思います。もしかしたら、それで危険人物だと判断されて撃たれていたかもしれません」

 健二は自分で言いながら、本当にそうなっていた可能性は大いにあるなと思い苦笑した。彼らがいなかったらどうなっていたかわからない。それ以上想像するのも恐ろしかった。
 
「そのことなんだけど……」

 しかし、そこでゆかりが遠慮がちに声を発した。健二がゆかりの方に顔を向けると、彼女は言いづらそうに言葉を紡いだ。

「あのね……あの時、健二くんは本当に撃たれる心配は無かったのよ」
「えっ、どういうことですか?」

 そうは言っても、健二が少しでも疑わしい態度を取ればすぐにでも発砲されそうな雰囲気だったではないか。いったいどういうことかと、健二はその言葉に疑問を感じた。

「実は、私たちの部署――犯罪捜査部は自分たちの判断で銃を扱えるんだけど、調査部とかの他の部署は直属の上司か、自分が派遣されているチームのリーダーの指示を仰いでからじゃないと武器を使っちゃいけないの。通常は、犯罪捜査部が現場に向かう時になんらかの調査のために同行する必要がある時以外は、調査部が銃を使わなくちゃならないような場面に遭遇することってあまりないから」
「つまり、劉さんは調査部だから、あの時ボスへの確認も無しに銃は撃てなかったってことだよ。……あれ、ぜってー弾入ってなかったぜ」

 レイが言い、アマンダが高い笑い声を上げた。

「劉さんならやりそうだよね」
「そうだったんですか!」

 健二は思わず大声を上げていた。あれだけ脅されて心底怯えたというのに、ずっと騙されていたということなのか。

「だから、俺もあの時一瞬どうするつもりなのかと思ったんだよ」

 腕を組み、思い出すように眉を寄せてレイが言う。
 劉俊毅が健二に銃を向けてきた時、レイが何か言いたそうにしていたのはそのことだったのか。今になって、彼が言いたかったことがはっきりとわかった。あの時言いかけた言葉には、健二をかばう以上の複雑な気持ちが込められていたようだ。
 してやられたようななんとも言えない気持ちを健二が噛みしめていると、レイがふと苦い顔になった。

「でも俺ら、あの後ボスにすっげー怒られちまったんだよな」
「そうなんですか?」

 ゆかりが恥ずかしそうに「ええ」と応じた。

「今回のように特殊な状況――敷地内に見慣れない人物がいるとか、そういう時はまず離れた場所から相手の身元がわからないか、武器を持っていないかを確かめてから近づくのが基本なのに、ついうっかりしてしまって」
「相手がどんな見た目だろうが、どんなに良い人間に見えようが、正体のわからない相手には不用意に近づくなって」

 そういうレイの声には、反省はしているようだがどこか拗ねたような響きも混じっていた。
 一度会っただけの彼らのボス――クレイグの姿を頭に思い浮かべる。健二の前では終始冷静で落ち着いた印象を与える態度だったが、がっしりとした大きな体は迫力があり、威厳のようなものがあふれ出していた。彼が怒る様子はさぞ恐ろしいに違いない。
 決して健二が悪いわけではないのだが、健二に関する事柄で、彼に柔らかい対応をしてくれたレイとゆかりが注意を受けたことについつい申し訳無さを感じてしまう。
 だが同時に、クレイグの言うことはもっともだとも思った。どんなに害の無さそうな普通の人間に見えても、少しでも不審な点があれば警戒心を緩めるのは危険だ。今までその点について考えたことは無かったが、クレイグの言った通り、そういう意味ではレイとゆかりの対応は間違っていたと言える。
 その時、かすかなモーター音のようなものが聞こえて健二の意識は会話の内容からそれた。視線を動かすと、丸みのあるグレーのロボットが部屋の中を進んでくるところが見えた。ここに来てからすでに二度見かけているあのロボットだった。
 ロボットは丸い頭を左右に動かして部屋を見回し、カメラの照準を健二たちのいるテーブルに合わせたかと思うとまっすぐにこちらへ向かってきた。テーブルのすぐ脇までやってくるとロボットのボディの腹部が縦に開き、大きくて丈夫そうなトレイが現れた。新幹線などで、前の座席から折りたたみ式のテーブルを下ろした時のようだ。三本の指がついた腕を器用に動かし、テーブルの上の空いた皿やカップを次々にトレイの上に載せていく。

「すごいですね」

 その様子に、またしても考えるより先に口が動いていた。純粋な感動が込み上げてくる。少し迷うようなそぶりを見せたあと、ゆかりが口を開いた。

「あれも、阿久津コーポレーションが開発した製品なのよ」
「そうなんですか!」

 ここに来てから驚くのはもう何度目か数え切れない。健二は、キッチンの方へ遠ざかっていくロボットの後ろ姿を信じられない面持ちでまじまじと見つめた。

「ちょっとした掃除や片づけをしてくれるの。ゴミが落ちていたら吸って、汚れた食器は食器洗浄機へ。最初のモデルはもうだいぶ昔に作られたみたいなんだけど、改良型が度々発売されてて、あれも何代か前の機種よ。今ではどんどん値段も下がってすごく安価で手に入るようになってるから、重宝してる人は多いと思う。ここでも三台使ってるわ」

 ゆかりの説明を聞きながら、健二はロボットに魅入っていた。一度では食器を運びきれず、ロボットはキッチンとテーブルの間を二往復してすべての食器を片づけた。

「ねえ、健二は本当に過去から来たの?」

 健二が動き回るロボットを一心に観察していると、それまで黙っていたアマンダが唐突に聞いてきた。振り返ると、彼女はテーブルの向こうから健二の方にわずかに身を乗り出している。その表情は真剣そのもので、眼鏡の奥の大きな瞳は好奇心でキラキラと輝いていた。
 健二は何と答えたものか迷った。健二にもタイムスリップの自覚があるわけでもなく、自分の身に何が起こったのかはさっぱりわからない。今目にしている現実をどう受け止めるべきか、未だ決めかねているのだ。

「わからない……正直、俺自身はまだ夢を見ているのかもしれないとも思ってるんです。皆さんのお話を聞いたり、貸していただいたパソコンに入っていた本を読む限りでは、確かにここは未来の――2148年の日本に思えます。でも、タイムスリップだなんて……そんな映画みたいなこと、とても信じられなくて」
「そうよね」

 ゆかりが静かに言った。隣に座っているゆかりの方を向くと、ゆかりは落ち着いた微笑を浮かべていた。

「でも、これは夢じゃないわ」

 彼女の優しい声がすぐ近くで響き、鼓膜を震わせる。

「私たちは生きている人間よ」

 そう言ったゆかりの瞳は太陽の光を受けて宝石のようにきらめいていた。彼女は健二をうかがうように首を傾け、長い艶やかな黒髪が揺れる。髪も太陽の光を反射していた。健二の視覚や聴覚が、彼女は紛れもなく現実に生きている人間なのだと伝えてくる。リアルな感覚――これが夢だなんて、あり得ない。

「健二、別に敬語で喋らなくていいよ。私よりずっと年上なんだし」

 ゆかりの瞳に吸い込まれそうになっていると、再びアマンダの声が健二を現実に引き戻した。「いや、でも……」と健二がためらうと、アマンダは満面の笑みを浮かべる。

「敵じゃないんだからさ、仲良くしようよ!」

 確かに、そう言われてみれば彼女たちと健二は敵同士というわけではないのだから、別に構わないのかもしれない。もちろん、健二の方は初めから彼女らに危害を加えようなどという気は毛頭無いのだから、彼女たちがいいと言えばいいのだろう。
 
「俺も堅苦しいのはどうも苦手だし、もっと気楽に話しかけてくれて構わないぜ」

 健二が考え込んでいると、レイがアマンダに続けて言った。

「レイモンドさんとかストレイスさんって呼ばれるのってなんか変な感じだから、愛称でレイって呼んでくれ」
「私のことはアマンダって呼んでね!」

 二人の勢いに押されながらも、健二は彼らが好意的に接してくれることが純粋に嬉しかった。自然と顔がほころぶ。「ありがとうござ――」言いかけ、すぐに訂正する。「ありがとう」

「それにしても――」

 レイが端整な顔を歪め、再度考え込むように腕を組んだ。

「俺らも信じられねぇぜ。タイムスリップなんてさ……マジでそんなことがあり得んのか?」
「私は、健二が過去からやって来たんだって信じてるよ!」

 すぐさま、アマンダが興奮した声で言った。彼女はわくわくした様子を隠しもせず、健二を見つめている。

「健二が未来に来たことには何か意味があるんじゃないかな?」

「例えば?」とゆかりがたずねる。

「きっと、健二には未来を救うとか世界を変えるとか、なんらかの使命があって、それを果たすためにこの時代に飛ばされたに違いないよ!」

 そう断言するアマンダの声は高揚感に満ちていて、健二は思わず笑ってしまった。それでは本当に映画の主人公ではないか。さすがに、自分がそこまで特別な人間だとは思えない。

「今までにそういう事例とかは無かったんだよな? 自分は過去からやって来たんだって主張してる人がいたりだとか」

 今までの彼らの反応を見るに無いだろうとは思いつつも、健二は念のためレイにたずねてみた。案の定、レイは「ないない」と言って笑う。ゆかりとアマンダも首を縦に振り、レイへの同意を表していた。

「まあ、本人の妄想とかの場合は別として……少なくとも、信憑性のある話は俺らが知る限りではねぇな。タイムトラベルの研究とか実験とかやってる人はもしかしたらどっかにいるかもしんねぇけど、成功したとかそういう話ももちろん聞かねぇし。そんなもの作り話の世界でしかあり得ねぇと思ってたからな」

 いくら様々な技術が進歩した未来の世界といえど、当然ながら不可能なことというのは存在するようだ。タイムスリップもそのうちの一つだったらしい。
 しかし、否定しようとする理性を押しとどめ、健二が本当に過去から未来へタイムスリップしたのだと仮定した場合、とても気がかりなことがあるのだった。

「もし、俺がタイムスリップしたのが本当のことだとしたら、過去の世界――2015年に生きていた俺はトラックに撥ねられた時に死んだということなのかな」

 言いながら、健二は自分の声が不安に曇っていくのを感じた。今いるのが到底死後の世界だと思えないことは事実だが、タイムスリップしたにせよ何らかの幻想の世界にいるにせよ、本来の世界で生きていた自分はすでに死んでいるという可能性。それを考えるのはとても恐ろしいことだったため、今までは意図的にあまり考えないようにしてきた。
 レイは目をつぶって考え込むような表情になり、首を捻ってうーん、とうなった。健二とゆかりとアマンダの三人が黙って見守る中、レイはしばらくその格好のままで固まっていた。やがて、考えがまとまったのか目を開けると話し始める。

「でもよ、過去の健二が死んだんだったら、今――つまり、健二から見たら未来の2148年ってことだけど、現代の世界に“阿久津健二が”作った阿久津コーポレーションが存在してんのはおかしくねぇか? こっちの資料でも確認したけど、まだ会社は作ってねぇんだろ?」
「ああ。自分の会社なんて、まだまだ立ち上げられそうな気配すら無かったよ」
「結婚もまだなんだよな?」

 健二はうなずいた。
 未来に自分の子孫がいるということは、当然結婚して子供を授かったということだが、仕事に夢中でここ三年は恋人と呼べる相手もいない健二にとって、自分の子供のそのまた先の存在など到底想像できなかった。

「だったら、健二の子孫の阿久津賢士も生まれなかったってことになるぜ。でもあいつは生きてるし、阿久津コーポレーションも変わらずにある」

 レイが口にした“あいつ”という言葉からは阿久津賢士に対する嫌悪の感情が感じられ、健二は複雑な気持ちになる。だが、彼が語った内容は健二にいくらかの安堵をもたらした。

「じゃあ、とりあえず俺はまだ死んだわけじゃないってことか」
「そもそも健二くんは、この時代で健二くんが亡くなったと記録されている年より前に死ぬことはないんじゃないかしら?」

 ゆかりが言う。

「2148年という時間が今こうして存在しているということは、過去の2015年を生きていた健二くんから見たら、未来はすでに決まっている状態にあるということよね。健二くんが三十歳で死んでしまったら、阿久津賢士も阿久津コーポレーションも、そして阿久津コーポレーションがこれまでに開発した製品も無かったことになってしまうわ。でも、そうはなっていない。だから、過去の健二くんはもちろん死んでなんていないし、記録されている没年までは絶対に死ぬようなことはないんじゃないかと思うんだけど」

 彼女の言うことはとても理にかなっているような気がした。健二の心に一縷の望みが湧いてくる。

「それでいくと、俺は必ず元の時代に帰れるということですか?」
「たぶん、そういうことになるんじゃないかしら」

 ゆかりは自信なさげながらもうなずく。
 単に家へ帰るのではなく過去へ帰るのだ。いったいどうやったらそれが叶うのかなど検討もつかないが、それならばなんとしてでも2015年に戻る方法を見つけ出したいと思った。

「待てよ……つまり、過去と未来は同時に存在してるってこと?」

 レイが戸惑いの声を上げた。

「上手くは説明できないんだけど、タイムスリップが起こる場合、時間の流れは一方通行じゃなくて、過去と未来は相互に関係し合って存在しているものと受け止めることができる……といった感じかしら。その場合も、複数のパターンが考えられるわよね」

 ゆかりはそう言うと、考えを巡らせながらゆっくりと続けた。

「健二くんが未来にやって来ることは本来ならあり得ないことだったけれど、何かの異常でそれが起こってしまって、そのことによってこれから先の未来や過去に影響が出るのか……それとも、健二くんがタイムスリップすることは過去においても未来においてもすでに決まっていた必然の出来事で、今のこの時間は過去の時代で健二くんが事故に遭った時にタイムスリップした事実も含めて作り上げられた未来なのか……」
「だーっ! わかんねぇ! 頭がこんがらがってきた!」

 レイはくしゃくしゃと自分の髪の毛をかき乱して叫ぶと勢いよく椅子にもたれかかり、天井を見上げて脱力した。頭が混乱して脳が小さなパニックを起こしているのは健二も同様だった。

「ふむ、これがタイムパラドックスというやつですな」

 アマンダが神妙な面持ちを作り、声色を変えてもったいぶった調子で言う。その様子がやけにおかしくて笑いを誘った。
 ゆかりは顎に手をやると、難しい表情になってまたしばし考えるそぶりを見せた後、ぽつりと呟いた。

「もしかしたら、パラレルワールドということもあるかもしれないけど……」
「パラレルワールド?」

 アマンダが不思議そうにたずねる。

「並行世界のことよ。私たちが今いるこの世界と同じような世界が同時に存在していて、それはすごくよく似た世界なんだけど、こっちでは起こっていないことが向こうでは起こったり――と言っても、普通はフィクションの中で描かれるもので、実際にはそんなものが存在するのかどうかなんて誰にもわからないんだけど。ただ、タイムトラベルが起こり得るならその可能性もあるかもしれないとちょっと思って……」

 彼女が言った可能性から考えるとこういうことだろうか――阿久津健二が若くして事故で死亡する世界とそうでない世界が存在し、事故に遭う世界を生きていた阿久津健二、つまり今ここにいる健二はトラックに撥ねられた時点で死亡し、どういうわけか別の世界の、しかも未来へ飛ばされた。

「その可能性はあまり考えたくないですね」

 健二は引きつった笑みを浮かべて言った。
 その時、健二たちが囲む空間に鋭い電子音が響き渡り、会話が中断された。音の発生源は健二のすぐそば――隣のゆかりの腰の辺りからだった。
 彼女は黒いタイトスカートのポケットをまさぐると例の薄型のスマートフォンのような機器を取り出し、画面を確認する。画面の表示を見た途端、ゆかりの表情はわずかに引き締まった。

「ボスから電話だわ」

 そう言うと彼女は席を立ち、テーブルから少し離れたところで電話に出た。健二が振り返って彼女の様子を確認すると、ビデオ通話なのか画面に向かって語りかけるように話している。だが、片耳にワイヤレスイヤホンのようなものを装着してそれで音声を聞いているらしく、通話の相手であるクレイグの声は聞こえなかった。
 顔を前に戻したとき、ふと正面にある全面窓が目についた。窓の外を鳥の群れが飛んでいき、一瞬日光がさえぎられて影がちらついたからだ。二階、三階の吹き抜け部分も同じように全面がガラス窓になっているため、昼間はとても明るい。電話をするゆかりの声を背中で聞きながら窓の外を眺めていると、不意に疑問が湧いてきた。

「ここって組織の、言わば秘密基地みたいなところなんだよな?」
「そうだぜ。俺たちの敵、つーか犯罪者とかにはもちろん知られないように注意してるし、一般人にもただの金持ちの豪邸だと思われてるな」
「でも、この建物って窓がすごく多いじゃないか。この部屋もあんな全面がガラス張りになってて、外から見られたら困るんじゃないかい?」

 そう言って、健二はレイの背後の大きな窓を指差した。レイは振り返ることも無く、得意げにふふんと笑う。

「家の窓ガラスってのは、中からは普通のガラスと同じように外の景色が見えるけど、外から見ても真っ黒でなんにも見えないようになってるんだぜ」
「そうなのか!」

 そう言えば中庭からこの建物の窓を見た時、闇色に沈んだガラスに陽光が反射するだけで、中の様子がまったくうかがえなかったことを思い出した。

「お店とか以外は、普通はどこの家もそうなってるんだよ」

 アマンダが人差し指を立てて言った。それならば怪しまれる心配も無いだろう。

「健二くん」

 その時、ゆかりに名前を呼ばれた。振り返ると、彼女はイヤホンを外してこちらを見ている。その表情には心なしか、困惑の色がにじんでいるような気がした。
 健二はにわかに緊張した。今のクレイグからの電話の用件は、健二に関することだったのだろうか。ゆかりの表情から察すると、何か良くないことを告げられたのかもしれない。
 だが、次にゆかりが放った言葉は健二が想像していたものとは少し違った。

「ボスが、今から本部に来るようにって」



>> To be continued.



読んでくださってありがとうございます!(*´▽`)

拍手を下さった方もありがとうございましたm(*_ _)m
一人、二人でも読んでくださっている方がいると分かってとても嬉しいです!!

そう言えば、ようやく登場人物紹介を作りました。
「はじめに」にリンクを貼っている目次か、カテゴリの「登場人物紹介」から飛べます。
少しずつ画像も追加していっていますので、良ければまた見てみてください♪


未来への追憶 第二話 - 02

 それから数日間は、SGAのメンバーが留置部屋と呼ぶこの部屋で過ごす日々が続いた。食事はゆかりが運んでくることが多かったが、時々レイモンド・ストレイス――レイという愛称で呼ばれていた男がやって来ることもあった。
 レイはトレイを抱えて部屋に入ってくると部屋の中をぐるりと見回し、「いつ来てもほんっと息苦しいよなぁ、この部屋」と言って顔をしかめた。ついで、健二に向き直るとすまなそうに「悪ぃな」と言った。その表情がしおらしい大型犬のようでおかしかったが、相手は真面目に罪悪感を感じているようなので、健二はなんとか笑いを堪えた。
 一日目の昼、ゆかりは昼食と一緒に数着の服と、一台のタブレットPCのようなものを置いていった。服はスウェット地の上下とコットン地のパジャマのような上下の一組ずつだ。サイズはどれも健二の体にはいささか大きかったが、外に行くわけでもないので大して問題は無い。一日にメリハリをつけるためにも日中はスウェットを着て過ごし、夜はコットン地の衣服に着替えて眠った。代わりに、健二が着ていたスーツはゆかりの方で洗濯しておいてくれるということで、彼女が持っていった。
 タブレットPCの方は、監禁生活の長くて退屈な時間をやり過ごすのに大いに役立った。それはもちろん見たこともない種類のもので、見慣れない機能も数多くついていたが、さすがに説明書の類を一緒に置いていってくれるほどの気は利かせてもらえなかった。幸い、機械類に強い健二は触りながら操作方法を学んだ。タッチパネル式で、ボタンなどは非常にシンプルでわかりやすく、使いやすい。インターネットや電話などの外部と繋がる機能はすべて制限されているようだったが、そのPCの中には膨大な数の音楽や電子書籍などが入っていた。ゆかりたちが意図した通り、確かにこれだけ数があれば何日かは暇をつぶせそうだった。
 音楽はほとんどが聴いたことのないものばかりだったものの、中には耳に馴染みのある曲も数曲ある。絵画や音楽など、人々に愛される芸術作品の良さは何年経っても失われることはないらしい――ルベッツのシュガー・ベイビー・ラヴを繰り返し再生しながら健二は思った。明るいバックコーラスは健二の気持ちを上向かせてくれる。高性能の内臓スピーカーから溢れる臨場感のある音が部屋を満たし、健二はいくらかリラックスした時間を過ごすことができた。
 電子書籍の方はジャンルは様々だったが、小説が多いようだった。健二はその中から社会学の本を探し出し、次々にざっと目を通していった。それらの本によると、2050年以降、国が本格的に外国からの移民の受け入れを積極的に行うようになり、今では純粋な日本人以外の人口は国内の四分の一近くにも上るようだ。それならば、ここに来てから出会った日本人がゆかりだけであるのも、一つの組織を占める人種の割合が実に多様なのもうなずける。
 また、書籍の中には過去のニュースを集めたものもあった。“スラム街で発砲事件”、“副首都・大阪でテロ未遂。検知器により武器の持ち込みが発覚。首謀者の男が警察のロボットに取り押さえられる”……スラム街、副首都、警察のロボット? その他にも宇宙旅行や空陸両用車など、健二が今まで暮らしてきた2015年の普段の生活では想像もつかなかったような単語がいくつも出てきた。
 いくら健二がそういったものに心惹かれるからといって、夢の中でここまで詳細に描かれ得るものなのだろうか? 新しい社会のシステムや新技術のリアルな情報を目にする度、健二の気持ちは少しずつ、自分は本当に未来の日本にやって来てしまったのではないかと信じる方に傾きつつあった。健二は食事や入浴をしている時間以外は起きている間中ずっと、タブレットPCの書籍を読み耽って過ごした。
 不思議なことに、部屋の電気は毎晩ベッドに入る前に確実に消しているにも関わらず、朝になると必ず勝手に点いている。些細なことではあるが、気になったので一度ゆかりに聞いてみた。

「この部屋の照明は、毎朝七時になると自動的にスイッチがオンになるように設定されているの。もし必要なければ、設定を変更することもできるんだけど」

 そのことに特に不快感を感じていたわけではなかったので、健二はそのままにしておいてもらった。この部屋には窓が無いため、自然の光で時間を推測することができない。だが、電気が勝手に点く理由と法則がわかっていれば、目覚めた時に夜が明けているのかどうか即座に判断できるため便利だった。2015年でも使われていたこの程度の機能は、おそらくどこでも当たり前についているものになっているのだろう。
 そして、監禁生活は三日目となった。最初こそタブレットPCからの情報に夢中になっていたが、日が経つごとに時間の流れが遅くなっていくように感じられ、焦燥感が募った。しかし幸い、不安な時間はすぐに終わりを迎えることとなった。
 三日目の昼、部屋にやって来たゆかりは昼食の乗ったトレイを持っていなかった。

「DNA検査の結果が出たわ」

 彼女は入り口のところに立ったままそう告げ、健二はようやく部屋の外に出ることを許可された。

「本当は検査の結果自体はもっと前に出ていたんだけど、それに伴っていろいろと調べなくちゃいけないこととか、考えなくちゃいけない問題があって。遅くなってごめんなさい」

 健二と並んで廊下を歩きながらゆかりが言った。今日は黒のロングコートを着ていない。

「それで……結果はどうだったんですか?」

 健二としては、彼らがDNAから何を調べたがっていたのか、その結果からいったい何がわかったのか、良い結果だったのか悪い結果だったのか……そして何より、これから自分はどうなるのかを一刻も早く知りたかった。

「そうね……」

 ゆかりは言いよどみ、しばしの間があった。そのうちに廊下に設置されているエレベーターに辿り着き、彼女はそれに乗り込んだ。健二も後に続く。ゆかりの細い指が一階の表示のボタンを押し、エレベーターはゆるやかに下降を始めた。

「詳しくはボス――覚えているかしら? 黒人で長身の男性で、私たちの上司にあたる人なんだけど。彼の方から直接話をすると言ってたわ」

 一階でエレベーターが停止すると、また廊下を進む。健二はどこへ行くのかもわからないままゆかりについていった。

「またすぐにボスがこっちに来て話しをすると思うから、もうしばらく待ってもらえるかしら?」

 本心では今すぐに答えを聞きたくてもどかしい気持ちではあったが、そう言われればうなずくしかない。

「ただ、健二くんに対する今後の対応についてだけ簡単に言うと、健二くんに対する警戒や監視は緩めても大丈夫だろうということになったの。ここにはまだいてもらわなくちゃいけないんだけど、あの部屋からは出られるわ」

 たったそれだけの進展だったとしても、それは健二にとって喜ばしいことには違いなかった。少なくとも悪化はしていないのだ。ゆかりは先を続けた。

「それでボスから、さっそく健二くんを一旦留置部屋の外に出してあげるように言われたの。ずっと狭い部屋に閉じ込められていて気が滅入っているだろうから、気分転換にって」

 言いながらゆかりが立ち止まったのは、見覚えのある部屋の前だった。

「だから、今日はみんなと一緒にご飯を食べましょう」

 ゆかりはそう言って健二を振り返ると、にっこりと笑った。



>> To be continued.



読んでくださってありがとうございます!!
前回更新時に拍手を下さった方もありがとうございました^^*


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