未来への追憶 第四話 - 06

* * *


 アンチ・テクニシズムだったと思われる女性の命を奪った最後の銃声。その余韻が完全に消えかけたとき、フランツがつ、と顔を上げ、頭上の観客席の方を仰ぎ見た。クレイグも物陰からその視線を追い、三階席に動く影があるのに気がついた。
 こそこそとしたその動きからすると、敵ではないだろう。初めはからくも銃撃を逃れ、身を隠していたアンチ・テクニシズムの生き残りだろうかと思ったが、すぐに思いなおした。先ほど、メインホールで自分たちに合流するようにと指示を出した、健二と劉だ。抑えた声で何かを言う彼らの声が、かすかに聞こえる。
 クレイグはすばやくフランツに視線を戻した。彼は獲物を観察する肉食の獣のように冷たく、そして揺るぎのない機械的なまなざしで、三階席を一心に見つめている。
 一瞬のうちに、クレイグの脳内で思考が駆け巡った。
 今すぐ健二と劉のところへ行くべきだろうか? だが、もしフランツが健二たちに向かって攻撃を開始すれば、二階分の階段をどれだけ速く駆け上がったとしても間に合わないし、それで助けられるわけでもないので無意味だろう。移動中のこちらが狙われるということもあり得る。どちらにせよいつまでも隠れているわけにはいかないので、やはりここで自分たちが正面からフランツに攻撃をしかけ、彼らへの注意をそらすべきか。
 しかし、そのどちらを選択する間もなく、フランツは突然二丁の拳銃を三階席に向けると、その二つの引き金を同時に引いた。一発にとどまらず、三階席の右から左に向けて、立て続けに何発もを撃ち込んでいく。耳を聾さんばかりのすさまじい轟音が響いた。
 壁の破片が弾けるように吹き飛び、塵が空中を舞うとともに、バルコニーには銃弾に穿たれてできた無数の穴が次々と刻まれていく。一切の容赦など存在しない攻撃だった。
 レイが何事かを叫んで階段の陰から飛び出した。おそらく「やめろ!」とかそういう類のことを言ったのだろうが、銃声にかき消されて聞き取れなかった。レイを追うように、クレイグもホールの開けた空間に再び足を踏み出し、室内を煌々と照らしている明るい照明の下に身をさらした。麻酔銃を構えてフランツに狙いを定める。レイもちょうど同じようにしているのが、視界の隅に見えた。
 ところが、まさかレイが制止の声を上げたからではないだろうが、どういうわけかフランツは今度は急に銃を撃つのを止め、両腕を下ろした。途端に、鼓膜を激しく震わせていた銃声と破壊音が、残響を残してすっと退いていく。弾切れか? それとも、健二と劉を殺したと判断したのか?
 理由はなんであれ、フランツが動きを止めた隙に、クレイグは銃を構えたまま三階席に視線を走らせた。ここからでは上の様子はまったくわからない。今は健二と劉のどちらの姿も見えなかった。
 クレイグはフランツに目を戻した。気がつくと、ジャンとゆかりも麻酔銃をフランツに向けて構えている。まっさきにダートを放ったのはジャンだった。フランツは横に飛び退き、やすやすとそれをかわす。クレイグも続けて麻酔銃を撃ったが、それも避けられた。間髪入れずにレイが撃ち、またジャンが撃つ。フランツは身を翻したり後ろに下がったりしながら、跳んでくる複数のダートを、顔色も変えずに軽々とよける。彼はまだ両手に銃を持っているものの、クレイグたちに対して攻撃しようとするそぶりは見せなかった。
 クレイグたちの方は、残されたダートの数を気にしながら麻酔銃を使わなくてはならない。SGAのチームが今の態勢で普通に攻撃を仕掛けても、敵に対してはほとんど意味が無いも同然のようだった。
 ジャンとゆかりが少しずつフランツににじり寄り、同時に麻酔銃を撃つ間、レイが通信機に向かって叫んだ。

「おい、健二! 無事か? 劉さん!?」

 クレイグも一度銃を下げると、ジャンたちと敵との様子には注意を払ったままで、通信を繋ぐ。

「大丈夫か?」
「はい、なんとか……」

 まず、劉の声が応えた。その声はかすれてどことなく苦しげだったが、たった今命が脅かされたことによる緊張のせいかもしれない。

「健二は? 無事なら応答してくれ」

 数秒待っても健二からの応答が無いので、クレイグは重ねて呼びかけた。

「は、はい……大丈夫です」

 遅れて、健二の弱々しく震えた声が聞こえてきた。
 怪我を負っている可能性はあるが、二人とも生きている。声の調子から、負傷していたとしても致命傷ではなさそうだ。レイがほっとしたように、見るからに表情を和らげた。クレイグもいくらか安堵したところで、劉が新たな報告をしてきた。

「ボス、十階に和泉かおるがいました。警備員を殺したのはたぶん彼です」

 相変わらず絞り出すような声だ。
 その報告に、今度はゆかりが反応した。クレイグの視界の先にいる彼女の緊張した顔に、瞬時に動揺が走ったのがわかった。芯の強いゆかりの心がぐらぐらと揺れ始める。クレイグはそれを気にしつつ、劉に「やはりそうか」と答えた。
 フランツの他にも敵がいるという、クレイグの予想は当たっていた。だが、まずは目の前のフランツを捕らえなくてはならない。そして、阿久津賢士にこちらの言葉が間接的に伝わり、彼がなんらかの反応を返すきっかけになるよう、フランツに語りかけなくていけない。
 クレイグは健二と劉の二人に、その場を動かず身をひそめているようにと告げると、通信を切ってフランツに向きなおった。
 しかし、フランツの強さは圧倒的で、いつもこちらの予想をはるかに超えた超人的な力を見せつけてくる。武装部隊の援護も無しに真っ向から立ち向かうのは無謀すぎたし、ビル内には彼の他に和泉かおるもいるのだ。
 ここで真っ先に優先すべきはもう一つの目標である、阿久津賢士との会話を試みることだった。
 クレイグは、なんとしてもフランツの肌にダートを刺してやろうと必死の形相で銃を握り、ずいぶん相手に近づきつつあるジャンに向かって、腕を上げながら「止めろ」と声をかけた。ジャンはちらりと、戸惑いと、邪魔するなと言いたげな怒りが入り混じったような視線をクレイグに向けてきたが、今回は反論することなく、即座に上司の命令に従って銃を下ろした。
 麻酔銃の攻撃が止んだ途端、フランツも動くのを止めた。銃を構える気配は無い。正した姿勢で、クレイグたちの方を向いて静かに立っている。
 クレイグはフランツの方へ一歩を踏み出した。それをレイやゆかり、ジャンが息をのんで見守っているのが感じられる。
 床に倒れ、折り重なったたくさんのアンチ・テクニシズムの人々の体の向こうに、フランツが立っていた。彼は今や、クレイグ一人に射るような冷たい視線を留めている。
 クレイグは意を決したように背筋を伸ばすと、落ち着いた声を保ったままで、まっすぐに彼に言葉を投げかけた。

「なぜ、私たちには手を出そうとしない?」

 腹に力を込めて発音したその問いは、クレイグが思っていたよりも強くはっきりとホール内に響いた。
 フランツは無言だった。ただ、じっと身動きせずに立ちつくし、感情の無いガラス球のような瞳にクレイグを映している。

「阿久津賢士の――お前たちの“マスター”の目的はなんだ?」

 クレイグはさらにたずねた。フランツの流麗な眉がほんのわずか動き、金色にきらめく長い睫毛にふちどられた目が細められたような気がした。それでも、彼は答えなかった。
 しばらくの間、両者が向かい合ったままで沈黙が流れた。クレイグは、医療研究所で前回フランツたちと対峙したときのことを思い出していた。メンバーが異なることを除けば、あのときとほとんど同じ状況だ。
 静寂が続き、フランツはこのまま一言も発さず、この時間が永遠に続くのではないかと思えるほどだった。だが、クレイグが再び口を開きかけたとき、状況に変化が起こった。

「はい。わかりました、マスター」

 唐突に、フランツがこちらに目を据えたまま抑揚のまったく無い声で言い、自分の服の胸の辺りに手をやった。カチッという金属的な小さな音がしたかと思うと、ノイズのようなかすかな音が流れ出す。
 ついで、体に刻まれた歳月にともなってしわがれてはいるものの、独特の深みを帯びた低い声が聞こえてきた。

「SGAのマーカス・クレイグだな」

 超然としていて、温かみこそ無いが、上品で穏やかな老齢の男の声。
 それは、阿久津賢士の声に他ならなかった。阿久津賢士が、フランツが身につけているらしいスピーカーを通して、じかにクレイグに話しかけているのだ。突然、この場で阿久津賢士本人が会話に応じることがあるなどとは思っておらず、クレイグは予想外の衝撃を受けた。

「そして、レイモンド・ストレイス。その後ろにいるのはジャン・ベルティエと藤原ゆかりか」

 この場にいないはずの彼の、まるで今まさに目の前で見ているかのような言い方に背筋が凍った。おそらく、他の皆も同じ思いだったのだろう。ビリビリと肌に感じられるほど、やにわに空気が緊張感を増していくのがわかった。
 彼には本当に見えているのだろうか? クレイグは一瞬、SGAが街中の様々な建物の防犯カメラなどに接続するように、阿久津賢士はなんらかの方法でこのビルのカメラの映像を見ているのかと思った。だが、直後に別の可能性に思い至る。スピーカーやイヤホンなどと同じように、フランツの体のどこかにカメラも取りつけられているのかもしれない。

「私は君たちの敵ではない」自身に満ちた阿久津賢士の声が、続けて言った。「君たちに手を出す気は無いし、私のもとで働いてくれている部下たちもみな、仕事がすべて終われば無傷で返すと約束しよう」

 部下とは、洗脳を施して操り人形としている和泉かおるたちのことだろうと、クレイグは彼が言うのを聞きながら考えた。

「私は君たちSGAと敵対することなど、最初から望んではいない。だからどうか、このままこの場を立ち去ってはもらえないだろうか?」

 口にしている不合理な要求とは裏腹に、紳士的で、礼儀をわきまえた者の頼み方だった。

「お前がやっていることは犯罪だ。それも、とてつもない重罪だ。見過ごすわけにはいかない」

 そんなことをこの老人がわかっていないとは思えなかったが、クレイグはあえて口にした。それに対して返ってきたのは、嘲るように鼻で笑う声だった。

「それならば、今すぐにでも私を捕まえに来ればいいだけのことだ。私がどこにいるかはわかっているんだろう。なぜそうしない?」

 そう言った阿久津賢士の声は相変わらず平静だったものの、こちらを挑発するような色が滲んでいた。

「私のところにいる者の身が不安だからか? だが、先ほども言ったように、彼らは人質ではなく私の部下だ。彼らを傷つける気など、私には毛頭無い。それに、たとえ警察やSGAが自分を逮捕するためにやって来たことでパニックに陥り、追いつめられた私が思わず彼らに手を出すようなことが起こったとしても、お前たちは必要とあらば、彼らを犠牲にすることを選ぶのではないのか?」

 彼の話し方は、自らも考えを巡らしながら口にしているふうを装ってはいたが、そこには明らかにこちらを脅す意図が含まれていた。
 クレイグは何も言わなかった。

「私を逮捕したくない理由が他にあるというのか?」

 少し間を置き、賢士は探るような声で続けた。
 しかし、彼はすべてわかっているのだ。SGAが彼をすんなりと逮捕できない別の理由――阿久津コーポレーションの技術が失われるのを危惧していること――を彼はすべて知っていて、しかも、知っているのだということを、暗に自分たちに示そうとしているのが伝わってきた。
 そのときクレイグは、阿久津賢士はSGAに対して、自分の行いに完全に目をつぶってもらうことを望んでいるわけではないのだと悟った。牽制されて、それほど派手な行動には出にくいながらも、ぎりぎりのところまで手を出されないようにすることを望んでいるのだ。彼は、今のこの状況を出来る限り引き伸ばしたいのだ。
 そして、彼の声や言葉の端々から伝わってくる、不自然なまでの余裕。阿久津賢士がそのしゃべり方通り正気であるならば、彼が“何か重大なこと”を計画しているのは間違いない。おそらくそれは、いずれ自分が必ず逮捕されるという事実など、取るに足らないことだと考えられるようなものなのだ。
 これまでは主に殺人犯や強盗犯を殺害するよう命じていた阿久津賢士が、ただアンチ・テクニシズムのメンバーだったというだけで罪を犯していない人々を、一度に何十人も殺させた。エスカレートする彼の行いから考えても、“その何か”を実行するときは確実に近づいており、それまでもうしばらく逮捕から逃れようと思っているのだろう。
 この状態をこれ以上続けるわけにはいかない、とクレイグは思った。
 そのとき、不意に背後で物音と扉が開く気配がし、フランツ以外の全員がそちらを振り返った。半分ほど開いた扉を、白衣を着た男が片腕で支えている。彼はホールの中を覗きこむように、扉の隙間からにやついた顔を傾けていた。

「かおる……」

 ゆかりが消え入りそうな、震える声で弟の名を呼んだ。
 かおるはギラギラと輝く目でホール内を見渡した。この状況を心から楽しんでいるような表情や仕草は子供っぽくもあるが、口の端は邪悪に歪んでいる。彼は、まずゆかりに目を留めてじっくりと観察するように見た後で、次にジャンに視線を移した。
 クレイグは、かおるが扉を支えているのとは別のもう一方の手に、メスのような小さな刃物を持っているのに気がついた。そこに目が行ったのは、メスの鋭利な先端が光を反射したからではない。彼のその右腕が、ひじの辺りまでおぞましい赤に染まっていたからだ。血を吸ってぐっしょり濡れた白衣の赤は、すでにどす黒い色に向かって変色を始めている。
 ゆかりもそれに気づき、鋭く息をのんでよろよろと数歩後ずさった。

「手で……体に穴を開けたのか……」

 意識せずにもれてしまった呟き、といった具合の茫然とした小さな声で、レイが言った。全員が恐怖で固まっていた。
 思った通り、警備員を殺したのはかおるだった。それも、小さなメスで刺したその勢いのまま、自分の腕ごと相手の体に貫通させるという、荒々しく異常な殺し方で。

「先ほども言ったが、私たちは君たちに危害を加えるつもりはない」

 再び阿久津賢士の声が言い、クレイグはかおるの方に体を傾けたままで、肩ごしにフランツを振り向いた。

「むしろ君たちは私にとって、限りなく仲間に近い存在だと言えるのだから」
「どういう意味だ」

 クレイグは慎重に聞き返した。斜め後ろから、ジャンの呻くような声が聞こえてきた。そちらを見やると、ジャンは険しく歪んだ表情で歯を噛みしめている。銃を構えた腕が震えていた。阿久津賢士への憎しみと、彼の要領を得ない言い分から募る苛立ちを必死で抑えているようだが、それも我慢の限界に近づいているらしかった。

「私は君たちSGAの敵ではない」阿久津賢士は繰り返した。「部下にはこれまでもずっと、君たちは殺さないようにと指示を出してきた」
「では、なぜ警察官は殺した?」

 彼は、クレイグのその質問には答えなかった。
 ゆっくりと、フランツが動き始めた。一歩一歩、静かな足取りでこちらへと近づいてくる。阿久津賢士に指示されたからなのかは定かではないが、「黙って通せ」という無言の圧力をかけてきているのだ。クレイグたちの背後ではかおるが扉をふさいでいる。武装部隊はまだ来ない。
 阿久津賢士の要求を無視し、不意をついて敵を攻撃しようかという考えが、クレイグの頭をよぎった。ここまで来てしまえばもう、阿久津賢士の行いが人々に知られることも、彼のもとにいる被害者に危害が及ぶことにも構わず、この瞬間から彼を逮捕することを最優先にするべきではないかと思ったのだが、それはクレイグの一存で決められることではない。それに、ここでクレイグたちが攻撃すれば、さすがに敵も本気で反撃してくるかもしれない。その結果自分たちが全員殺されたり、事態をさらに悪化させることになりでもすれば、健二の考えた作戦は無駄になってしまう。阿久津賢士と話すことが叶ったからとはいえ、この状況で健二の存在を敵に知らせることも危険すぎた。今、無駄なリスクを負わずにできることは何も無いと言ってよかった。
 だが、せめて相手の反応から何か手がかりが得られないかと、クレイグは一か八か、賭けに出てみることにした。

「彼をこの時代に呼び寄せたのはお前か」

 フランツが横を通りすぎたとき、彼は思い切ってそれだけ言ってみた。フランツが扉の前で足を止める。

「なんのことだ?」

 しばしの間があり、阿久津賢士の静かな答えが返ってきた。わずかに怪訝そうな響きは含まれているものの、ほとんど感情のこもっていない声だ。それだけでは、しらを切っているのかどうかはわからない。クレイグが黙っていると、彼はそれ以上追求することはしなかった。
 フランツとかおるはSGAの面々が動かないことを確認しながら、ともにメインホールから去っていった。前回のように相手の要求を呑むと明言したわけではないので、クレイグは敵の姿が見えなくなるとすぐさま武装部隊へ通信を繋ぎ、文芸交流センターから逃げる敵の行方を追うようにと伝えた。


* * *


 敵が去っても、健二は硬直してしまったかのように、三階席の手すりの脇にうずくまっていた。目の前に迫る赤いカーペットの上で握りしめた、自分の両の拳が震えている。拳だけではない。フランツの銃撃を受けたときから、全身が震撼している。その震えは阿久津賢士の声を聞いたときからますます大きくなっていた。目は衝撃に見開かれたままだ。
 あれが、自分の子孫の声なのか。恐怖を感じるとともに愕然とした。紳士然とした口調で取り繕ってはいるものの、隠せない酷薄な響き。声しか聞いていないのに、彼の冷たい表情が目に浮かぶようだった。なじみの無い年老いた彼の声からは、阿久津留美の写真を見せられたときとは違い、血の繋がりも親近感も、何も感じ取ることができなかった。
 あんな相手に対して、自分にできることなど本当にあるのだろうか? 阿久津賢士は彼と健二の結びつきに関する話に、いっときでも耳を傾けようとするだろうか? 急激に自分がひどく無力な存在に思え、強烈な不安と絶望感に襲われる。
 クレイグたちが座席横の階段を上がって三階席にやって来るまで、健二は体を縮めた姿勢のまま動けずにいた。

「大丈夫か?」

 健二が頭を上げたのと、駆け寄ってきたレイが健二の肩に手を置いたのはほぼ同時だった。

「怪我してねえか?」

 彼は切羽詰まったようなひどく心配そうな顔で、健二の顔を覗きこんできた。少し遅れて駆けてきたゆかりも、健二のそばで軽く腰をかがめる。その側にはクレイグと、少し離れたところにジャンもいるのが見えた。ジャンは、珍しく感情の読めない表情で健二に視線をそそいでいるようだ。
 健二は力の入らない足でなんとか立ち上がると、「ああ、大丈夫だよ」と答えながら、腕を伸ばしたり胴体や脚を見下ろしたりし、改めて自分の全身を確かめた。痛むところも、違和感のあるところも無い。
 すぐに健二が無事だと判断したクレイグは、バルコニーの先にいる劉の方へと向かった。健二がそちらを振り向いたとき、劉はちょうどバルコニーの手すりを支えにして立ち上がったところだった。
 通信で交わされた会話から皆が無事なのはわかっていたが、自分の目で全員の姿を確認して初めて、ようやく健二の中に安心感が湧き起こってきた。
 ところが、レイたちとともに劉の方へと近づいたとき、ふと体の脇にだらりと垂らした彼の左腕が目に留まった。健二の位置からかすかに見える彼の左の手には、指の先まで伝わった幾筋かの赤い液体が付着している。

「血が出てますよ!」

 健二は驚き、反射的に彼の手を指差して叫んでいた。

「ああ」劉は間延びしたのんきな声を上げると、まるで今気がついたとでも言うように自分の左腕に目をやった。「少しかすっただけだから」

 先ほどフランツが撃った弾が当たったのだろうが、たしかに、見たところそこまで多くの出血があるわけではなさそうだった。
 ゆかりが「大丈夫ですか?」と慌てて劉の左側に回りこみ、彼の腕にそっと自分の手を添えるようにして顔を近づけ、怪我の具合を見ようとした。

「すぐに医療課で診てもらえ」

 クレイグはそう言ったが、その声はいつもの冷静さに満ちていて彼の感情はうかがえず、彼自身が心配しているのかどうなのかわからない。

「ほんとに全然たいしたことないですよ、こんなの。大丈夫です」

 劉は左手を上げて軽く振ると、笑みさえ浮かべて言った。

「いや、先に本部へ戻って手当てを受けるんだ」

 それでも、クレイグは譲らなかった。ゆかりもうんうん、とうなずいて同意を示している。どうやら、ひじの少し上辺りを銃弾がかすめ、傷を負ったらしい。傷口から流れた血が、手の先にまで垂れてきていたのだ。だが、彼の様子からすると、本人の言うとおり大きな怪我ではなさそうだった。あのすさまじい銃撃を受けて、二人ともたいした怪我を負わずに済んだのはほとんど奇跡的と言ってもよかった。

「ストレイス、武装部隊からの連絡があり、敵が建物から離れたことが確認でき次第、劉と健二をつれて先に本部へ戻れ」
「わかりました」

 指示を受けたレイは、自分もそのことに異論はまったく無いと言った調子で、素直に応じた。
 仲間の無事が確認できると、ゆかりはバルコニーの下へと目を向けた。その視線に気づいたレイが「ひどいっすね」と暗い声で呟く。
 健二も彼らの視線を辿ってホールに目をやった。しばし、全員が無言で階下を見つめていた。そこには、殺された何十人ものアンチ・テクニシズムの人々が倒れている。散乱した料理や飲み物と混ざって、至るところに血の赤が飛び散っているのも見えた。

「まさか、ほんとにあいつらが来て……しかも、全員殺すなんて……。ざっと見るだけじゃ、この中に竹下がいるのかどうかもわかんねえな」
「武装部隊から連絡が来たあと、生存者がいるかどうかなどと合わせて確認しよう。じきに、処理課の者たちも到着するだろう」

 レイの独り言のような言葉に、クレイグが答えた。
 先ほど武装部隊に連絡を取ったあと、クレイグは他にも数ヶ所に通信を繋ぎ、文芸交流センター――現場に来てほしいと伝えていた。健二にはそれぞれの通信の相手がなんの役割を担っているのかなどわからなかったが、いずれも事件の処理に必要な存在らしい。処理課というのも名前の通り、そのうちの一つだろう。

「なぜ、突然こんな……」ゆかりが言い淀み、一度口をつくんだ。「これまではほとんどが犯罪者をターゲットにしていて、アンチ・テクニシズムのメンバーだった人たちは二人だけ、それも間を空けて殺害していただけだったのに、なぜ阿久津賢士は突然、こんな一見無謀にも思えるような大量殺人を行ったのでしょうか?」

 戸惑いの表れた声で続ける。彼女自身、今そんなことを言ったって何も解決しないとわかっていながら、事態をすんなりと受け止められず、混乱を静めるためにも口にせずにはいられない、といったような様子だった。
 クレイグは「わからん」と静かに首を振った。

「しかし、敵の行動がより大胆に、派手になるということは、阿久津賢士の中の何かが、もしくは彼がひそかに行っていることが、それだけ進行していると考えていいだろう。おそらく、我々にとっては望ましくない方向にだ」

 健二は彼らの会話を聞いていたが、何も考えられなかった。体はまだ緊張と恐怖で震えているのに、頭は夢の中にいるようにぼんやりとしている。目の前の惨憺たる光景が健二の理解の範疇を超えているからなのか、そこに見えているものに現実感を抱くことができず、何も感じなかった。銃で撃たれて命を落とした罪の無い人々の姿を見ても、哀れみの感情さえ湧いてこない。

「上層部はこのような大きな事件をどう処理するんでしょうか。幸い、貸切の建物内なので目撃者はいませんが……。殺されたのは皆、一般人です。被害者が身元不明の犯罪者だったときのように、問題無く逮捕したと報道するわけにも、事件そのものを無かったことにするわけにもいきませんし……」

 ゆかりが不安げな顔をクレイグに向けた。

「一連の事件が阿久津賢士の犯行だということを世間に隠し通すことが難しくなるのは、時間の問題だろうな」クレイグは言った。「彼の犯罪による被害の大きさを考えれば、もはや、技術や経済的な面での損失など重視している場合ではない。彼の逮捕に関しても、これまでの受身的なやり方ではとても対応できない」

 腕を組んだジャンが黙ってクレイグを見つめ、話に耳を傾けているのが健二の視界の端に映っていた。

「健二の存在を活かした作戦を試みるとともに、根本的な対処の仕方を変える必要がある。……阿久津賢士の事件を一部でも公にするべきだと、上層部に話をしよう」

 クレイグの声がずしりとした重みを持って響いた。皆それぞれに考えを巡らせているかのような沈黙の中、健二は景色が遠のいていくような感覚を覚え、途方に暮れたように、どこか孤独感にも似た不安を抱えてバルコニーに立ちつくしていた。


* * *


 薄い雲がまばらに浮かんだ空が茜色に染まり始めた、春の日の夕暮れ時。閑静な住宅街にほど近い舗道で、少年が泣いていた。その周りを、これもまた小学校の中学年くらいの少年たち三、四人が取り囲んでいる。

「すぐ泣くよなあ、こいつ」
「ほんとに女みてえだよな」

 少年たちが、意地の悪さよりも、ませたあきれ口調の方が際立つ声で言うのが聞こえた。泣いている少年の正面に立っていた一人が、あふれてくる涙を両手でひっきりなしに拭っている少年の肩を、軽く小突くのも見えた。
 うつむいてすすり泣いている少年の顔は輪郭の線が柔らかく、もう少しで肩に届きそうな長い髪もあいまって、服装を除けばたしかに、一見して彼の性別を判別するのは難しくはあった。

「こら! 何やってるの!」

 通っている私立中学から帰る途中だったゆかりは、きびしい声を上げながら、道路を挟んだ向かい側の道からそちらに駆け寄った。彼女の中に、燃え上がるように急速に、怒りが込み上げてくる。
 ささやかながらも卑劣な虐めを行っていた少年たちは、ぱっと一斉にゆかりの方を見た。その目は一つ残らず、驚きに見開かれている。

「止めなさい!」

 怒りを込めてなおも叫ぶと、ゆかりが少年たちのもとにたどり着く前に、彼らは虐めていた少年を残して突然走り出した。そのまま一度も振り返らず、一目散に逃げ去っていく。ゆかりはその後ろ姿を目で追いながら立ち止まった。彼らを追いかけてまでしつこく注意をするのもはばかられたし、何よりすぐそばでまだ涙を流している少年をなぐさめ、安心させるのが先だと思ったので諦めたのだが、怒りは収まらない。たとえ子供といえど、他者を平気で傷つける行為を目の当たりにして、単に腹が立ったからというだけではない。目の前で切なげに顔を歪ませ、涙を流しているのが、ゆかりのたった一人の、大切な大切な弟だからだ。

「お姉ちゃん……」

 かおるは大きな目でゆかりを見上げた。心細そうで、ゆかりを頼りきったすがるような目だった。ふっくらとした愛らしい頬を涙がぼろぼろとこぼれ落ちるのを見たとき、ゆかりの胸は痛んだ。
 自分よりだいぶ背の低い彼と目線を合わせるためにかがみこむと、ゆかりは彼の頭にそっと手をやった。

「もう大丈夫よ」優しく言って、癖のある髪を撫でる。「みんな追い払ったわ。かおるのことは私が守ってあげるから。ね? また何かあったら、すぐに私に言うのよ」

 ゆかりがにっこりと笑顔を浮かべると、かおるは小さくうなずいた。
 おとなしく、ひ弱で優しいかおるは、小さい頃から虐められることが多かった。そんなときはいつもゆかりがかおるをかばい、彼を虐める他の子供たちを叱り飛ばした。いつだって、かおるを守るのはゆかりの役目だった。
 ゆかりは体を起こすと、かおるに向かって手を差し出した。

「行きましょう」

 その手にかおるが小さな手を重ね、ぎゅっと握りしめる。二人は夕日を背に、近くの公園へ向かって歩きだした。この日は公園で話す約束をしていたのだ。二、三歩歩くうちに、かおるはもう泣き止んでいた。
 ゆかりとかおるはほんの幼いときからずっと、お互いが世界で一番信頼できる、心を許せる理解者だった。一緒に遊び、語り合っては、気持ちや考えを共有していた。姉弟の間には誰にも入り込めない、強い絆がある。
 不仲だった両親が数年前――ゆかりもまだ小学生だったときに離婚し、ゆかりはこれまで通り父親の姓を名乗り続け、かおるは母親の旧姓を名乗るようになってからも、それは変わらなかった。毎日のように通信機器でやり取りし、休日や学校帰りに待ち合わせ、こうして外でこっそり会う。そして、他の家族や友人には言えないこともなんでも話し、相談し合うのだ。ゆかりは両親のことも好いていたが、かおるは特別だった。

「お母さんは元気?」
「うん」

 ゆっくりと歩きながらゆかりがたずねると、かおるもようやく笑顔を見せた。手のひらから、かおるの温もりが伝わってくる。過ぎ去った日の、穏やかな記憶。
 それから十年近くの月日が流れた後、やがてかおるも大人の男に成長し、虐められることも、すぐに泣くことも無くなった。それでも、彼らの関係は揺らぐことがなかった。二人は頻繁に会い続け、持病を患っていた母親のことや仕事のこと、将来のことなど、いろいろなことを話した。年齢を重ねるごとに、二人の間の絆はいっそう確かなものとなっていった。
 かおるにはゆかりが必要だったし、それを当然のことだと理解していたゆかりは、彼を精神的に守り、支え続けた。そして、ゆかり自身もまた――


 カタン、という物音と側に人が寄る気配で、遠い日の回想は霧散するように消え去った。ジャンが木造りのチェストの上に通信機を置いた音だった。シャワーを浴びていた彼は、タオルで髪を拭きながらゆかりに近づいてきた。入浴中も彼の腕につけられていた防水の通信機は、チェストの上でまだ湯の雫を光らせている。
 ベッドのふちに腰かけて写真を眺めていたゆかりは、顔を上げて彼を見つめた。

「ジャン」

 部屋の照明はほとんどが落とされており、ベッド横の間接照明だけが、室内にほの暗い光を投げかけている。ジャンが歩いてくるにつれ、その黄金色の光がジャンの顔をぼんやりと照らし出し、彼の薄青色の瞳もかすかにきらめいた。
 今ゆかりがいるこの部屋は、現在の自分の住まいでもある拠点の、ジャンの私室だった。明日は珍しく二人の休日が重なった貴重な日なので、今夜は自然と一緒に過ごす流れとなった。しかし、心に影を落とす数日前の事件のことや漠然とした不安が心を占めていたため、どこか外へ出かけようという気にもならず、特に何をするでもなく、ジャンの部屋で言葉少なに何気ない会話を交わしたり、物思いに耽ったりしていたのだ。
 もう夜の十時を回っているので、健二とアマンダはおそらく自分の部屋で思い思いに過ごしているだろう。レイとクレイグはまだ本部だった。クレイグは今日も本部に泊まるのかもしれない。

「どうした」

 薄暗い中でもゆかりの顔が悲しげに曇っているのに気づいたからか、ジャンは静かに声をかけると、濡れたタオルを無造作に近くの椅子の背にかけた。
 ゆかりは両手で持っていたフォトフレームをそっとベッドの上に置いた。一瞬、ジャンは写真に目をやった。乏しい明かりのせいで、木の枠の中で肩を並べ、こちらに笑顔を向けている姉弟――ゆかりとかおるの姿は彼には見分けられなかっただろうが、彼女がなんの写真を見ていたかは彼にもわかっているはずだ。昔ながらのフォトフレームに入れられたそれは、普段はゆかりの部屋の小さなテーブルの上で、花の鉢植えの隣に飾られていた。
 ゆかりはゆっくりと立ち上がってジャンを見上げると、まっすぐに彼と目を合わせた。ジャンの灰色がかった薄い青の瞳は、春の日の空を連想させる。ゆかりにとってその青は、優しく温かく包み込んでくれる、大きな空だった。
 話したいことはたくさんあった。先日の事件のあと、クレイグは犯罪捜査部の部長を通して、阿久津賢士の事件を公表すべきだと上層部に進言した。しかし、それから数日経った今もまだ、事態は進展の兆しを見せていない。
 現在、フランツとかおるが文芸交流センターで数十人を殺害した事件は目的不明のテロリストの犯行だと報道されているが、殺された被害者の中には国会議員の竹下も含まれていたのだ。人々の疑いや騒動は簡単には収まらないであろうことは明白だった。阿久津賢士の思わせぶりな態度も気がかりとなり、ゆかりはこれからどうなるのか、今にももっとひどいことが起こるのではないか、という不安から片時も解放されずにいた。
 そして、何よりかおるのことだ。心優しい彼が残虐な殺人を強いられ、命の危険にさらされている。変わってしまった彼を見るのは恐ろしかったが、それ以上に辛かった。かおるのことは自分が守ってやらなければならないのに、何もできない自分が歯がゆく、波のように交互に襲いくる焦燥感と悲しみで胸が押しつぶされそうなほどに苦しい。
 だが、ゆかりは何も言わず、ジャンの方も同じだった。二人はしばらくの間、無言で見つめ合っていた。言葉は無くとも、お互いがお互いの気持ちを痛いほど理解している。ゆかりにとってジャンはいつしか、弱い自分を唯一見せられる存在となっていた。
 ジャンは体が触れ合うほど近くまで来るとゆかりの背に手を回し、太い腕で彼女をしっかりと抱きしめた。その腕の力強さは、「お前のことは俺が守る」と語っているかのようだ。たくましく大きな体に包まれ、硬く緊張していたゆかりの体がわずかに弛緩する。ジャンの体温を感じながら、ゆかりは彼の厚い胸に身をゆだねた。
 窓の外では激しい風が吹きすさび、庭の木々の葉を枝からさらっては飛ばしていた。今にも雨粒を落としそうな黒々とした雲が月を覆い隠し、周囲には不安を呼び起こすようなねっとりとした闇が垂れ込めている。
 暗い空の下、軒下に並べられたプランターの花々が、中庭で渦巻く湿った風によって大きく身を揺らす。影に沈んで鮮やかさを失った花たちの間に、特別目を引く白い花が咲いていた。開花期をとうに過ぎた六月だというのに、六枚の花弁を持った小さなその花――イフェイオンは今なお、夜空に輝く星のように、闇の中に白くぼんやりと浮かび上がっていた。



-- Episode 04 Fin. --



「第四話」、無事完結いたしました!!

久しぶりに本編の更新に一ヶ月以上間が空いてしまいましたが、
もし待ってくださっていた方、楽しみにしてくださっていた方がいらっしゃいましたら、本当に本当にありがとうございます!

そして、今回も読んでくださってありがとうございましたm(*_ _)m
読んでいただけること、拍手等を頂けることが、いつもとても励みになっています。

時間はかかりましたが、完成させられてよかったです!
こちらに書くと長くなるので、また今回の内容等については雑記の方で触れたいと思います。
「第五話」以降もがんばります!!(*^▽^)

読者数の参考にしたいので、小説を読んでくださった方は各記事の拍手ボタンを押していただけますと助かります。
もちろん強制ではありませんので、気が向いたらで構いません!


未来への追憶 第四話 - 05

* * *


 曲がり角の先の廊下に出ると、血の臭いはさらにきつくなった。劉が体の近くで銃を構えてゆっくりと進み、健二はその背中に貼りつくほどにぴったりとついて歩く。呼吸はほとんどしていなかった。体中に微弱な電流が走っているように神経がぴりぴりとし、何度も背後を振り返る。
 こちらの通路にも部屋が並んでおり、一番手前の部屋のドアは開きっぱなしになっていた。物音は聞こえない。そろそろとその部屋に近づいていくと、劉は銃口を部屋の中に向け、そっと中をうかがい見た。彼はそのまましばらく固まって動かず、健二は募る緊張に耐え切れなくなり、小声でたずねた。

「どうしたんですか? 誰かいますか?」
「いや……」

 その部屋を覗き込んだ途端、思わず健二の口からひ、と引きつった短い悲鳴がもれた。
 部屋の中央辺りの床には、男が仰向けで倒れていた。彼が着ている警備員の制服のような上着は血で染まり、黒く色を変えている。少し離れているためよくは見えないが、腹部には大きな穴が開いているようで、そこからあふれ出した血が男の体の周りに真っ赤な鮮血の海を作っていた。横を向いた男の顔は苦しげに歪んでいて、目は閉じられていたが、口は何かを叫んでいるかのように開いたままだ。
 強烈な血の臭いが鼻をつく。目の前の凄惨な光景と臭いに、胃からせりあがって来るものを感じ、健二は手で口元を覆った。胃と喉が内側から圧迫されるようで苦しく、目には涙が滲んだが、嘔吐することはどうにか免れた。血だまりに横たわる男から目をそらし、浅い呼吸を繰り返して吐き気の波が静まるのを待つ。
 当然ながら、警備員と思しき男は死んでいた。彼の死体がある以外は、劉の言うとおり部屋には誰もいない。小さな事務所のような部屋だが、入り口から見ても人が隠れられそうな場所も無い。
 劉は部屋の中に歩いていき、健二は入り口に立ったままそれを目で追った。無残に殺された警備員の痛ましい姿を見ないようにしようと思っても、どうしてもそちらに目が引き寄せられてしまう。どうやったら、何を使えば、人間の体にこんな穴を開けることができるのだろう。
 劉は銃を持ったまま死体のそばで少し身をかがめると、死体を観察した。その間、健二はまた後ろを振り返って、誰も近づいてきていないのを確かめる。
 SGAの職員である劉は、絶句するような残虐な事件の現場も見慣れているのか、それとも衝撃を表に出さないようにしているのか、健二とは対称的にうろたえる様子も無く、落ち着き払っている。

「まだ殺されたばっかりだな」

 彼は眉をひそめてそう言うと、引き返してきた。
 健二も何か言おうとしたが、声にならない。警備員が殺されてからそれほど時間が経っていないということは、犯人はまだ近くにいる可能性が高いということだ。もしかすると、今も十階にいるかもしれない。よく見ると、床には小さな血痕がぽつぽつと連なり、廊下の奥まで続いていた。これほどの出血量なのだ。おそらく、警備員の血が彼を殺害した犯人に付着し、それが垂れたのだろう。
 今すぐこの建物から逃げ出した方がいいのではないか? 健二は願望も含めてそう思ったが、劉は部屋から出るとまた先へ――血痕が残っている通路の奥へ――と進み、健二も後についていった。SGAは特殊な事件に立ち向かい、それを解決するのが仕事だ。危険が迫っているからといって、何もせずにただ逃げ出すわけにはいかない。そして、彼らの任務に同行するということは、健二も危機からすんなりとは逃れられない状況に身を置くということだった。
 最初の部屋以外のドアはすべて閉まっている。二人はその前を通りすぎた。次の曲がり角の手前まで来ると、劉は立ち止まった。健二を振り向く。

「中央監視室の様子を見てくるから、君はここで待ってろ」

 彼が発した信じられない言葉に、健二は自分の耳を疑った。

「だめですよ、劉さん! 危険です!」

 抑えた声ながら、必死にうったえる。この状況で二人が離れて行動するのは、とても得策とは思えなかった。

「君が一緒じゃない方が動きやすい。……それに、中央監視室の方もひどいことになってるかもしれないしな」

 それを聞き、健二はいささか怖気づいた。悪夢のような死の光景が、中央監視室にも広がっているというのか? それでも、健二は劉を説得して、彼とともに監視室へ行かねばならない。
 しかし、彼は「すぐに戻る」と言い残し、健二の制止を聞かずに曲がり角の向こうに歩いていってしまった。

「劉さん!」

 健二も彼の後を追って足を踏み出しかけたものの、その動きは逡巡するように止まった。一緒について行きたい気持ちとは裏腹に、健二の体は結局その場にとどまった。
 足ががくがくと震え、膝に力が入らない。崩れ落ちそうになるのをなんとか堪えた。すぐに逃げ出せるようにしておくためにも、座り込んでいる場合ではない。
 壁を背にし、絶えず左右を振り返って誰もいないのを確認する。今にも警備員を殺した犯人が曲がり角の向こうから飛び出してくるのではないか、もしくは一人で監視室を見に行った劉の身に何か良くないことが起こるのではないか、と思うとぞっとした。背筋を嫌な汗が流れ落ちていく。
 廊下は物音一つしない。聞こえるのは狂ったように脈を刻む、やけに速くうるさい、自分の鼓動の音だけだ。一刻も早く劉が戻ってくることを願い、不気味な静けさの中で待つ間、健二は恐怖のあまり気がおかしくなるのではないかと思った。たった今見た、惨殺された警備員の死体がまざまざと脳裏に浮かびそうになり、慌てて頭を振る。廊下にも血の臭いが充満しており、そのイメージを完璧に頭から追いやるのは無理だった。吐き気がよみがえってくる。
 それにしても、いったい誰があんなひどい殺し方を? 阿久津賢士の仲間――フランツたちだろうか? しかし、彼らは銃を使っていたのではなかったか。別の犯罪者がいるのだろうか?
 その疑問の答えは、すぐに得られることとなった。
 突然、健二の耳元で機械的な雑音が鳴り、健二は飛び上がりそうになった。その後に続いた声に、一瞬遅れて通信が繋がったのだと気づく。

「そちらの状況はどうなっている?」

 平時よりも硬く、やや早口のクレイグの声だ。
 通信――そうだ。クレイグは何かあれば通信で知らせるようにと言っていた。パニックに陥り、そのことをすっかり失念していた。
 健二は十階で起こっていることを報告しようとしたが、曲がり角の向こうからかすかな靴音がしてどきりとし、言葉を飲み込んだ。姿を見せたのは、中央監視室から戻ってきた劉だった。クレイグの通信は当然、劉にも繋がっている。健二が何か言う前に、彼は淡々と説明を始めた。

「中央監視室の警備員は全員殺害されていました」

 衝撃と恐怖で背筋が粟立ち、健二は身を震わせた。悪い予感は的中した。

「皆、腹部などに大きな穴を開けられた状態でした。別の部屋でも警備員が一人殺されているのを見ましたが、殺された警備員の中にはおそらく、建物の入り口を警備していた人間も含まれていると思います。それ以外には、今のところ人の姿は確認できません」

 態度も声も落ち着いているが、劉の顔はわずかに青ざめている。おそらく、自分はもっとひどい顔色になっているだろうと健二は思った。
 ひとまずは劉が無事に帰ってきたことにほっとするが、その安堵感は長くは続かなかった。

「メインホールにフランツが現れた」

 クレイグが放った言葉に、健二は二度目の衝撃に見舞われた。フランツが現れた。警備員を殺したのはやはり彼か、もしくは――

「こちらも中央監視室からカメラの映像で確認しました。チームのメンバーは――」
「心配ない。全員無事だ」
「監視室からの報告が必要ですか?」
「いや、ベルティエと藤原をそちらに向かわせることはできない。おそらく、敵は一人ではないだろう。最短ルートで我々に合流しろ」
「わかりました」

 劉が応えたのを最後に通信は切れ、慌しく緊迫したやり取りは途切れた。劉は再びホログラムのマップを表示させ、それを見ながら言った。

「八階からメインホールの三階席に出られる。そこからホールに入ってボスたちと合流しよう」
「はい」

 メインホールに行ったとて、そこにはフランツがいるので安心できるわけではない。しかし、今は早くこのフロアを離れたかった。

「たぶん、異変に気づいた中央監視室の警備員が、外や駐車場で警備についてた人間を通信で十階に呼んだんだろうな」

 非常階段へ戻るべく走りだしながら、劉が言った。

「警備員を殺したのって――」

 健二は言いかけたが、そのとき中央監視室がある方向からカツン、という音が響き、二人は同時に振り返った。少しの沈黙が続く。その後、今度は楽しげに弾むような声が聞こえてきた。

「おや? また誰か来たんですか?」

 その声を聞いて、健二は凍りついた。健二にはほとんど聞き覚えがない声だったが、声の主が誰であるのかはすぐにわかった。
 廊下の先にいるのは、和泉かおるだった。


* * *


 クレイグは銃を構えたまま、体当たりをするようにレイと二人でメインホールの扉を開けようとした。だが、内側から鍵がかけられているようで、厚い扉はびくともしない。他の二つの入り口も試してみたが、同じく鍵がかかっていた。
 扉の向こうでは何人もの叫び声が続き、銃声が鳴り始めている。明らかに、ホール内の混乱は刻一刻と大きくなっていた。銃声の鳴る間隔などから察するに、銃を撃っているのは二人ほどだろうか。中に入れないこの状況では、何が起こっているのかさっぱりわからない。

「くそっ、なんなんだ! どうなってんだよ!?」

 レイが焦った声を上げた。通信機はまだ誰からの報告も伝えてこない。中央監視室からは、ビル内のあらゆる通路や部屋に取りつけられた、無数のカメラの映像をすべて見ることができる。もちろん、メインホールも例外ではない。ホールで何かあったことがわかれば、劉がすぐに報告してくるはずだ。未だに連絡が無いというのはさすがにおかしい。時間をかけて確認している余裕は無いが、すばやく目を走らせた立体マップの表示によれば、健二と劉は中央監視室近くの通路にいるようだ。
 疑問と嫌な予感が胸をよぎり、クレイグは彼らに通信を繋いで状況をたずねようとした。しかし、通信機を操作しようとした直後、目の前の扉の一つから鍵の解除される電子音が鳴った。クレイグとレイは半ば反射的に、扉の前からさっと飛びのいて銃を構える。
 目の前の両開きの扉の片側が、ゆっくりと開きだす。ホール内の喧騒が廊下にあふれ出し、さえぎられることなくクレイグたちの耳に届いた。
 開いた扉の隙間から、正装をした若い男が頼りない足どりで廊下に出てくる。

「おい――」

 レイが声をかけたが、次の瞬間、男の体はどさりと床に崩れ落ちた。レイが戸惑いをあらわに、小さく声を上げる。男の上着の背には見る間に血が滲んでいった。扉の鍵を開けた瞬間、ホール内の銃を持った何者かに撃たれたのか。もしくは、すでに負傷していたところで最後の力を振り絞り、扉を開けて外へ逃れようとしたのかもしれない。
 支えを無くした重い扉は一度閉じかけたが、彼の体を挟んで止まった。今、この男の生死を確認している時間は無い。
 クレイグとレイは扉を大きく開けてメインホールへ突入し――そして、その先に現れた想像を絶する光景に、思わず呆然となった。
 様々な舞台の公演にもパーティーにも使用できるメインホールは、必要に応じて一階席の椅子の取り外しや移動が可能になっている。今、座席はすべて取り払われていた。そこを、着飾った人々が逃げ惑っている。床にはすでに何人もが倒れており、彼らの体につまずく者もいた。
 そして、ホールの中央には一際目立つ真紅の衣装に身を包んだフランツがいた。金髪が照明の光を反射してきらめいている。彼はまるでステップを踏んで踊るように、軽やかに足を運んで体を回転させ、跳ぶように移動していた。その手には二丁の拳銃。左右の手に一丁ずつ銃を握り、それぞれの銃口を逃げる人々に向けて引き金を引く。いつものように、狙った相手が倒れるのを見届けることなく、すぐに腕を振って目標を変えると、ひじをまっすぐに伸ばし、また引き金を引いた。それを繰り返し、次々に新たなターゲットに狙いを定め、仕留めていく。その俊敏な動きには一切の無駄が無く、優雅で美しかった。
 彼がたった一人で、ホールに集まったアンチ・テクニシズムのメンバーを殺していたのだ。
 ホールではまだ音楽が鳴り、大きな空間を満たしていた。舞台上では状況を察することのできないロボットが楽器を演奏し続け、ピアノやヴァイオリンが大量殺人のBGMにはふさわしくない、美しい音色を奏でている。
 クレイグは目の前で繰り広げられる現実感を失した場景に釘づけになりながら、一方ではその曲に聞き覚えがあることに気がつき、意図せず思考が記憶の糸をたどっていた。答えは、クラシック音楽に触れる機会の多かった子供の頃の思い出の中にすぐに見つかる。幼いときより何度も耳にしたことのある旋律――シューマンのピアノ四重奏曲変ホ長調。曲は第四楽章の終わりに向けて、軽やかな盛り上がりをみせていた。弦楽器が小刻みな音を連ね、ピアノが厚みのある低音を重ねて空気を震わせる。
 音楽に合わせるかのように、フランツは華麗とも言える動作で銃を撃ち、恐慌をきたした人々を殺していった。その狙いは恐ろしいほど正確で、すべてが一発で命中する。フランツは、二階席や別の扉に向かって逃げようとする者も追いかけて逃さなかった。弾が切れるとブーツに仕込んだナイフを引き抜いて投げ、その刃に刺された人間が床に倒れ伏す間に、手際よく弾を装填する。彼が動くたびに、彼の上着の燕尾服のような裾がふわりと翻った。
 我に返ったクレイグは近くにあったテーブル――その上にはたくさんの豪勢な食事やワインが並んでいたようだが、今やそのほとんどが床に落ちて皿は割れ、濃紅の液体がテーブルクロスを汚している――の陰に隠れ、レイもそれに続いた。脇には頭から血を流した女が倒れている。二人は彼女の体を踏まないように気をつけながら、身をかがめた。
 フランツは自分たちが来るずっと前から建物内に身をひそめ、襲撃のタイミングを待っていたのだろうか。だとすると、いつからいたのだろう? それも、警備員に気づかれることなく。
 今回はすでに事件が起きている現場に向かったわけではないので、武装部隊には出動の依頼をしていなかった。しかし、何かあったときにはいつでも応援に駆けつけられるよう準備していてほしい、とは伝えてある。

「武装部隊に連絡して、出動を要請しろ」
「はい!」

 クレイグが指示を出すと、レイはすぐにそれに従い、フランツの行動に注意を向けつつも通信機を操作し始めた。クレイグの方は、ゆかりとジャンにただちにメインホールへ来るよう命じ、ついで健二と劉に通信を繋いだ。
 中央監視室の警備員が全員殺されていたという報告を受け、だから自分たちがビル内に入っても誰もやって来なかったのか、と腑に落ちる。フランツがメインホールを強襲する前に、警備員も殺したのかもしれない。だが、今までもこの瞬間も、彼の武器は銃だ。体に大きな穴を開けるというのは、これまでの彼の殺害方法とは大きく異なる。敵はフランツの他にもいる可能性が高かった。
 健二と劉のことが気がかりだ。身体能力を強化されている敵を相手に、彼らだけで対処することは到底できない。それでも、今はとにかく自分たちと合流させるしか手は無く、クレイグたちは彼らができる限り早くメインホールに到着することを願うしかなかった。
 フランツはメインホールに入ってきたSGAの存在には気がついているはずだが、脇目もふらずに殺戮を続けている。前回、阿久津賢士は自分たちSGAに手を出させなかった。ただし、フランツと和泉かおるが去るのを黙って見逃せば、という条件つきではあったが。その際は、SGAに対しては致命傷になる攻撃は避けられていたが、今回はどうかわからない。
 フランツの撃った銃弾がテーブルクロスをかすめ、クレイグはレイに合図をすると、ともに二階席へと続く階段部分の、厚い壁の後ろに移動した。クレイグはそこから麻酔銃を構え、赤い服の敵を狙って何発か撃ったが、いかんせん敵の動きが速くてあと少しのところで当たらない。レイも麻酔銃での攻撃を試みるが、結果は同じだった。逃げ惑うアンチ・テクニシズムの人間をダートで負傷させてしまうことを避ける必要もあり、余計に撃ちにくい。フランツは当然、出入り口の近くにいる者から先に狙ったようで、今も生きている者は皆ホールの奥にいる。そのため、彼らを保護するために動くことも容易ではなかった。
 フランツはダートが飛んできてもなお、こちらに反応するそぶりは見せない。あっという間に、ホール内で動く人影はごく一握りとなっていた。
 一度、ゆったりと流れるように緩やかになった曲の調べは、再び勢いを増してクライマックスへと最後の一節を昇りつめていく。ピアノと弦楽器が、余韻を残す力強い音で曲を締めくくったのとほとんど同じときに、発砲音が轟いた。フランツの左手の拳銃から放たれた弾丸が最後の一人――パーティードレスに身を包んだ中年の女――の胸を貫き、被害者は近くのテーブルの上に倒れこんだ後、ずるずると床に落ちた。
 すべての音がぴたりと止み、突如としてメインホール全体が静寂に覆われる。次の曲の登録が無いのか、舞台上のロボットたちは演奏を再開しない。絶え間なく動き続けていたフランツもようやくその動きを止めたが、レイとクレイグも一瞬、微動だにできなかった。
 ホールの外から通路を走る足音が聞こえくる。それは急速に大きくなり、弾丸を受けて死亡した男の体に阻まれて半開きのまま止まっていた扉から、ジャンとゆかりがメインホールに駆け入ってきた。クレイグたちの背後で立ち止まり、短く息を呑む音が続く。レイやクレイグと同じく、メインホールの惨状に愕然としているのだろう。ジャンでさえ、言葉を失っているようだった。クレイグ自身も未だ、衝撃から立ち直れてはいない。
 フランツはわずかな時間で数十人を――ホール内にいたすべての人々を殺害した。


* * *


 劉に強く背中を押され、非常階段に駆け込む。もっと速く体が動かないことにもどかしさを覚えながら、健二は飛ぶように階段を下りていった。
 和泉かおるがすぐ近くにいる。その気になれば、超人的な身体能力を有した彼は、あっという間に自分たちに追いつけるに違いない。あるいは武器を持っていて、背後から前触れも無く攻撃してくるかもしれない。追い立てられるような恐怖と焦燥感で全身の毛が逆立ち、胸は息ができないほど苦しい。健二は、振り返りたくなる気持ちを必死で堪え、足を動かし続けた。わざわざ後ろを確認して、わずかでも階下へ進む速度が遅くなることすらはばかられる。
 荒い息遣いと、階段を駆け下りる二人分の足音が響く。ばたばたと騒々しい音を立ててしまうことを気にしている余裕など無いし、今はもうその必要も無い。

「こっちだ!」

 八階に着くとすぐさま廊下に飛び出し、劉が示す方向に走った。廊下の角を左に曲がると、劉の手首の機器が映し出すマップが、メインホールの三階席への入り口だと表している扉が見えてきた。健二は一心不乱に、通路の先の扉を目指して駆けた。まだ、かおるが追いついてきた気配は無い。扉まで行き着くと、飛びつくような勢いで取っ手を掴み、二人で強く押す。鍵はかかっていなかったようで、それは簡単に内側に開いた。
 中に入ると、途端に目の前に開けた空間が出現した。そこは、三階席に続くバルコニーのような場所だった。眼下には広いホールがあり、正面のステージも見える。
 健二と劉が中に入ったのとほぼ同時に銃声が鳴り渡り、壁に反響してホール全体に大きな音を轟かせた。ホールの一階には動いている人影がいくつか、そして、横たわるたくさんの塊――すぐに、倒れて動かない人々の姿だとわかった――がある。健二は一瞬どうするべきかわからなくなり、即座に次の行動に移れずに立ち尽くしてしまった。

「伏せろ!」

 銃声の余韻に重なって劉が叫ぶのが聞こえ、健二は言われるままに身をかがめた。しかし、バルコニーにはろくに身を隠せそうな場所も無い。手すりには隙間が空いている箇所もあるので、もし下から銃弾が飛んできたとしても、防ぎきることもできないだろう。それに、背後の廊下に続く扉からかおるが入ってきたら、それこそ一巻の終わりだ。

「あそこの座席のところに隠れるんだ」

 健二と同じように身を低くした劉が指差した先に目をやると、扇形に大きく張り出した三階席があった。その部分の手すりは弧を描いており、下に小さな空洞ができている。あそこなら、少しの間なら隠れられそうだ。かおるが来たときに、多少なりとも見つかりにくくしてくれるかもしれない。そばには下の階へ下りられる階段がある。

「タイミングを見て、階段で二階に下りろ」
「はい!」

 健二は声を絞り出すと、床に手をつき、這うようにして移動し始めた。ところが、壁の洞穴のような空間にたどり着くや否や、すさまじい轟音の嵐に襲われた。
 自分に向けて銃を発砲されるなど初めての経験で、何が起きたのかとっさには理解できなかった。遅れて、下から撃たれたのだと気づく。何発もの銃弾が飛んできて、健二は反射的に息を止め、体を縮こまらせた。
 健二の顔からほんの十センチほどしか離れていない壁に穴が開き、心臓が止まるかと思うほどの冷ややかな恐怖が体を駆け抜ける。銃弾が壁を突き破ったのだ。こんな薄い板では、身を守ることはできないのだと思い知る。いつ、弾が自分を貫くかわからない。次の瞬間には自分が死ぬかもしれないという恐怖感に体中を支配されたが、どうすればいいのかわからないし、おそらくどうすることもできないだろう。自分の感覚がおかしくなって痛みを感じないだけで、すでに体のどこかに銃弾を受けているのではないか、という気さえした。何も考えられず、健二は無防備な状態で、ただ身をすくめているしかない。
 しばらくして、銃撃は止んだ。実際はたった数秒にも満たない間だったかもしれない。またすぐに攻撃が再開されるかもしれないとも思ったが、何も起こらなかった。
 自分は生きている。怪我もしていない。心臓が鼓動を刻むたびに、収縮した血管を血液が流れ、全身が脈打っているように感じられた。ひどい耳鳴りがする。
 ホールは今、どんな状況なのだろう? クレイグたちは無事なのか? 劉は? こちらに発砲してきたのは、当然フランツだろう。健二の中に、今すぐ立ち上がって皆の安否を確認したい衝動がこみ上げてきたが、残った理性のすべてを使い、それをぐっと抑え込んだ。
 街中を移動中にジュエリー店の強盗事件が起こった際は、現場に向かったレイとゆかりのことが心配になり、後を追いかけてしまった。そして、正面からフランツに出くわす事態となった。健二は、そのときクレイグに言われたことを思い出していた。彼が言っていたように、健二が自分の判断だけで勝手な行動を起こせば、全員がさらなる危険にさらされるかもしれない。それだけは絶対にしてはならない。あのときは事なきを得たが、今回は駄目だ。
 健二は身を固くしたまま、じっと動かなかった。一秒一秒が過ぎるのが、永遠と思えるほど長く思える。
 大丈夫だ。劉もレイもゆかりたちも、みんな無事に決まっている。健二は自分自身にそう言い聞かせ、拳を握りしめてひたすら耐えた。


* * *


 青年はなんの感情も込めずに、ただ三階席のバルコニーをその冷たい碧眼に映していた。
 先ほど、三階の扉から二人の男が入ってきた。その様子は、青年の服の前後に取りつけられている小型のカメラを通して、彼の“マスター”にも見えていただろう。
 彼らは、青年がこれまでに記憶していたSGAの人間ではなかった。ここへ来る前に受けた「メインホールにいる人間は全員殺せ」という命令に従い、そちらに向けて発砲したが、耳に装着したイヤホンからの「止めろ」という声を受けて銃撃を中止した。
 青年――フランツにとっては、マスターの指示がすべてだった。彼の脳内にはマスターの言葉に従う以外の選択肢は存在せず、そうすることが当然だった。そこに疑問は存在しない。
 頭上のバルコニーにいる人物が、フランツが仕掛けた攻撃によって致命傷を負ったかどうかまではわからない。今は彼らの姿は見えないが、隠れても無駄なことは確かだ。フランツの持つ熱源感知センサーが受信した情報は、コンタクトレンズ型のディスプレイによって彼の視界に示される。マスターから与えられた機器はある程度の距離ならものともせずに探知できるので、もう少し近づきさえすれば、生きている人間がどこにいるのかはすぐにわかる。敵は逃げることも、隠れることもできない。
 ホールにいるSGAの人間が動く気配を感じ取り、フランツはそちらに目を向けた。フランツに向けて麻酔銃が放たれ、彼はそれを避けた。神経は鋭利なナイフのように研ぎ澄まされている。集中すれば、こちらに向かって銃を構える男の動きも、飛んでくるダートも、まるでスローモーションのようにゆっくりに見えるのだ。SGAの人間は殺すなと言われているので、反撃はしない。
 ホールに集まったアンチ・テクニシズムのメンバーを一人残らず殺害するという、一つめの仕事はすでに問題無くこなした。これから先どうするのかはマスターが決めることであり、フランツは次に自分が取るべき行動を伝えられるのを待っていた。



>> To be continued.



読んでくださってありがとうございます!!

今回も丸々、緊迫した場面一色でした。息が詰まりそうな感じですね…(笑)
そのせいもあるのか、もしかすると文章がいつもより堅苦しくなってしまったかもしれません。
読みづらい箇所がありましたら申し訳ないです…!

この「第四話 - 05」も大半が以前から考えていたシーンだったのですが、その割りには書くのに時間がかかりました。
詳しくはまた雑記の方で書けたらなと思っています。

ちなみに、暴力的な部分の描写はわざと控えめにしています。
もし、物足りないという方がいらっしゃいましたら(いるのか…?)申し訳ありません(笑)

いつも読んでくださる方々、拍手をくださる方々、本当にありがとうございます!とても励みになりますm(*_ _)m

読者数の参考にしたいので、小説を読んでくださった方は各記事の拍手ボタンを押していただけますと助かります。
もちろん強制ではありませんので、気が向いたらで構いません!


未来への追憶 第四話 - 04

 文芸交流センター。外壁の一部がガラスのカーテンウォールになっているダークグレーの高層ビルは、シックな趣と、一見近寄りがたい威圧的な存在感を持っていた。
 アンチ・テクニシズムの集会が行われる六月十二日。健二とSGAのメンバーは、“パーティー”が始まる予定の十四時より少し前に、二台の車でビルの近くに到着した。健二はクレイグ、レイと同じ車に乗り、ゆかりとジャンは別の車で異なるルートを使い、ここまでやって来た。劉は先にビルの周辺で待機していたので、クレイグは途中で彼を車に乗せ、目的地に向かった。

「何も異常は無かったか?」

 後部座席に座った劉を振り返り、前の座席からクレイグがたずねた。

「事前に調査した通りで、今のところ特に変わったこともありません」

 すべての動きは、おとといの会議でクレイグが説明した作戦通りだった。
 しかし、文芸交流センターの建物に近づいてみると、状況は想定していたものとはいくらか異なっていた。建物の付近にいるはずだと思っていた警備員や警備用ロボットは、どちらも姿が見えなかったのだ。ガラス張りの大きな正面入り口の前には、休館を知らせる看板が出されている。
 車窓から周囲を観察していたレイが、不思議そうな声を上げた。

「警備員がいないっすね」
「あれ? おかしいな」

 劉もそう言うと、前に身を乗り出すようにしてフロントガラスから外に目を凝らした。
 先ほど、彼が通信を通して伝えてきたところによれば、正面入り口と裏口の前に警備員が一人ずつ、通用口には警備用ロボットが一体いたはずなのだ。劉はそれらを直接確認するために、一足早く目的のビルの近くまで赴いて最終的な調査を行っていた。
 街中にはSGAで管理している監視カメラが多数設置されているらしいが、すべての建物や通路を余すことなく映し出せるほどではない。当然、カメラに映らない場所も存在するが、この辺りもちょうどその死角に位置するようだった。
 レイは首をひねって少し考えた後、横に座るクレイグに顔を向けた。その間も、車はどんどんビルに迫っていく。

「集会が始まるから、中に引き上げたんすかね?」
「いや、それは不自然だ」クレイグがすぐさま否定した。「通常なら、集会中も外で警備にあたっているはずだろう。何らかの理由で、一時的に場を離れただけかもしれない」

 ビルの外に警備員がいたならば、自分たちが事件の捜査で訪れたことを告げ、建物内部にいる人間には知らせずに中に通すよう、命じるつもりだった。警備員がアンチ・テクニシズムの一員なのかどうかはわからない。だが、今日のパーティーがアンチ・テクニシズムのひそかな集まりであることは知っているだろう。それでも、SGAが身分を証明するIDを提示し、「捜査のために建物を調べる必要があるから通せ」と言えば、普通の人間なら黙って従うしかない。会議のときに、クレイグはそう言っていた。

「とにかく、警戒しながら当初の予定通り中に入る。中で警備員に遭遇した場合は、その際に事情を説明すればいい」

 車はビルの横の道路を通り、建物内の駐車場の入り口に向かった。警備員がいなかったときは、外で顔をさらすことなく、車に乗ったまま中へ入れる地下駐車場から潜入することになっていた。
 正面入り口の前は通行人が多いので、SGAの制服を着たクレイグたちが車から降り、休館のビルに入ろうとしている様を見られれば、それだけで人目を引いてしまうだろう。
 それに、ドアの前には防犯カメラもついている。もちろん駐車場にも建物内にもカメラはついているので、いずれにせよ遅かれ早かれ映ってしまうことは避けられないのだが、できるだけそのタイミングを遅らせたかった。SGAが来たことを知った警備員が真っ先にアンチ・テクニシズムに知らせ、自分たちを逮捕しに来たと勘違いした彼らに騒がれたりしては困るのだ。
 すべてが自分たちの想定した通り上手くいくかはわからないが、早い段階で警備員だけに接触し、捜査に協力してもらうことが理想だった。
 駐車場の入り口にも警備員の姿は無かったが、入り口はゲートが閉じられてふさがっている。しかし、クレイグはあらかじめ劉が入手していた職員の個人認証データと、網膜のデータがコピーされているという眼球の模型のような球体を使い、難なくゲートを通過した。
 車は、駐車場へと入る緩やかなスロープを下っていく。健二が背後を振り返ると、車体後部の窓ガラス越しに、ジャンとゆかりの車も後に続くのが見えた。
 がら空きの駐車場に二台の車を並べて駐車すると、健二たちは車から降りた。まばらに停まっている車は、ビルの警備員やアンチ・テクニシズムのメンバーの物だろう。
 建物への入り口に向かって歩いていくと、駐車場に面して窓の取りつけられた管理室が見えてきた。しかし、室内には人影が無いように見える。自動ドアを抜けてビル内に入ると、管理室の入り口側の窓から室内を覗いたレイが眉をひそめた。

「やっぱり、こっちにも誰もいないっすね」
「妙だな」

 クレイグが、独り言のようにぼそりと呟いた。珍しく、感情がほとんど表に出ない彼の眉根も、わずかに寄せられている気がする。
 駐車場の入り口も閉めてあったのだから、人を置くほどの警備は必要無いと思ったのだろうか? と、健二は考えた。駐車場にも、管理室の側のエレベーターの前にも防犯カメラがついているようなので、遠隔で状況を確認することもできるだろう。
 皆、何か腑に落ちないものを感じつつも、考えたところで実際の理由などわからないのでどうすることもできない。とにかく、様子をうかがいながら地上階に上がることとなった。健二も黙ってついていくしかない。
 階段を使うと遠回りになるため、一階まではエレベーターで上がった。エレベーターが上昇する間、健二は身を固くしていた。カメラが捉えた侵入者の存在に気がついた警備員が駆けつけ、すでにエレベーターの前で待ち構えているのではと思うと、胃が締めつけられて冷や汗が流れる。しかし、扉が開いた先には誰もいなかった。
 クレイグとレイが先頭に立ち、正面入り口から入ってすぐのロビーまで向かう。
 ロビーに着くと、頭上の大きなシャンデリアを初め、照明は点いていたものの、広いフロアにはやはり人の姿は見えなかった。エスカレーターも止まっている。健二は高い天井を見上げた。これだけ大きな建物のロビーに自分たちしかいないという状況は普通はなかなか経験するものではないし、妙な感じで落ち着かない。ガラスの正面入り口の方に目をやると、前の通りを行きかう人々が見えた。
 クレイグはロビーの中央で立ち止まり、他の面々もそれにならった。六人で輪を描くようにして向かい合う。

「それでは、作戦通り私とストレイスはエスカレーターを上り、パーティーの会場となっている五階のメインホールへと向かう」

 クレイグの低い声は、閑散とした空間の中で広がり、わずかに反響するように聞こえた。

「おそらく、我々が建物の中に入ったことは中央監視室の警備員には知られているはずだ。そのうち、何かしらの行動に出るだろう。藤原とベルティエはメインホールと監視室、そしてそれ以外の場所、どこで問題が起こった際にも対応しやすいよう、念のため少し時間を置いてからメインホールまで来るんだ」
「了解しました」

 返事をしたのはゆかりだけだったが、クレイグはそれには構わず、ついで劉に視線を移した。

「劉は健二を連れて十階の中央監視室に行き、その都度、施設内の状況を報告してくれ。何かあったらすぐに知らせろ」
「はい」

 劉が答えたが、クレイグは健二にも目を向けた。

「君もだ」
「わかりました」

 今日も健二の左の手首には、この間バーを訪れたときと同じ携帯通信機がついている。今回は、前日にレイからもっと詳細な使い方を教えてもらっていた。幸い、健二はもともと機械類に強いので、この機器の操作方法もすぐに頭に入った。

「くれぐれも気をつけてね」

 ビルの奥へ向かうため、踵を返してその場を離れようとした健二にゆかりが声をかけてきた。彼女の心配そうな顔は、健二を引き止めたくなるのを堪えているかのように歪んでいる。
 本当は「ゆかりさんも」と返事をしたかったのだが、ゆかりの隣で射すくめるような視線を健二に向けている彼女の婚約者の存在が気にかかり、健二は短く「はい」と応えるまでにとどめた。

「行くぞ。こっちだ」

 手首に装着した機器でホログラムの構内地図を表示し、劉が先に立って歩きだす。健二も慌てて後を追いかけた。一度肩越しに後ろを振り向くと、ホールに残った四人は健二たちを見守るように佇んでいた。
 開放感のある広々としたホールから、非常階段へと続く細い廊下に入る。こちらにも人の気配は無い。小さめの展示室や、何かの講座などを開くための教室らしき部屋が並んでいるようだ。二人は地図を見ながら廊下を進んだ。
 健二は不安げに左右を見回し、それから少し前を歩く劉に顔を向けた。

「ほんとに大丈夫なんですかね」

 集会というからには、相手は大人数なのだろう。もし、彼らにやましいところがあるのなら、SGAの登場に動転して荒っぽい行動に出ることもあり得る。その場合、こちらはたったこれだけの人数で太刀打ちできるのかと、健二は不安だった。

「アンチ・テクニシズムは犯罪者じゃない。少なくとも、通常の自分たちの活動をしてるだけならな。暴力団でもないし、普通は武器も持ってない。と言うか、持てない」

 劉は淡々と言ったが、健二は懸念を拭い去ることができなかった。

「でも、持ってるかもしれないんですよね? 秘密の集会なんて開いてるくらいだし、何か企んでるんでしょう?」
「それは噂だから、まだ本当かどうかわからないだろ?」

 スーツのジャケットの中に手を入れると、劉はその下につけていたらしいショルダーホルスターから銃を抜き取った。

「それ」

 健二は劉の手の中の銃に目をやる。少し前、拠点でレイやアマンダたちと交わした会話が頭をよぎり、いささか逡巡したが結局口に出した。

「弾は入ってるんですか?」
「当然だろ。何言ってるんだ?」
「いえ……」

 健二の問いについてそれ以上追求することなく、劉は右手に持った銃をちらりと見下ろした。

「十中八九、これを使うことにはならないだろうけどな」
「それは麻酔銃じゃないんですね」
「ああ。麻酔銃はSGAしか使えないんだけど、それもいつでも使えるってわけじゃないんだ」
「そうなんですね」

 2148年もSGAの世界も健二には知らないことだらけで、新しいことを一つ知るたびに感嘆にも似た気持ちを覚える。

「今回は仕事中にお邪魔して場所を空けてもらって、防犯カメラの映像とか建物のデータをちょっと見せてもらうだけだから、まあ、脅すために持ってるようなもんだな」

 劉は冗談のように言ってにやりと笑ったが、さすがに健二の方には、「俺を脅したときみたいにですか」などという軽口を叩く余裕は無かった。
 間もなく右手に曲がり角が現れ、その先には目指していた階段があった。

「十階まで上がるぞ」
「はい」

 殺風景な非常階段を、やや急ぎ足で上っていく。二階の踊り場に差し掛かったとき、劉が上階に続く階段を見上げたまま言った。

「危険なのはこっちじゃない。僕たちがここに来たのは阿久津賢士に洗脳された奴らが来るかもしれないからで、アンチ・テクニシズムをどうにかするためじゃないからな。阿久津賢士の仲間が来るとしたら中央監視室なんかじゃなくて、ボスたちが向かったメインホールの方だ」

 そう言われて、健二は改めて自分の役割を思い出した。そうだ、健二が今ここにいる理由も、間接的にでも阿久津賢士に接触できるチャンスが訪れるかもしれないからだ。
 階段に一段一段足をかけながら、自らが考えた阿久津賢士に対抗するためのアイデアのことが、健二の脳裏を巡っていた。


「俺を事件の現場に連れて行って、阿久津賢士に俺の正体を明かさせてください」

 健二が「話したいことがある」と言ったため、拠点までわざわざ足を運んでくれたクレイグに、健二は固い意志を秘めた声でそう告げた。その場にはレイとゆかりもいた。

「阿久津賢士に直接会うことはできなくても、彼の仲間にされている人たちに言えば、阿久津賢士に伝わるかもしれません。俺を人質のように使えれば、何かの役に立つはずです」

 クレイグ以外の二人は、目を丸くしてあからさまに驚きの表情を見せていた。真っ先に口を開いたのはレイだった。

「何言ってんだよ。んなことできるわけねえだろ?」
「そうよ、危険すぎるわ」ゆかりが同意する。

 さらに反論を重ねられる前に、健二はやや早口気味に続きを発した。

「クレイグさん、俺がこの時代にタイムスリップしたことに阿久津賢士が関係しているのかどうかは、まったくわかっていないんですよね?」
「ああ」彼は静かに肯定した。
「それなら、阿久津賢士に直接たずねてみるのも一つの手じゃないかと思ったんです」

 健二は強い声で歯切れ良く言った。2015年、会議室に集まった皆の視線が注目する中、自身が考案した製品の価値や必要性をうったえかけるようにプレゼンテーションしていた自分が重なるようだった。

「こんなことができるのかどうかはわかりませんけど、もし阿久津賢士自身が俺をこっちに呼び寄せたのなら、最初から狙いがあったということになります。俺がここにいることがわかれば、俺に接触しようとしてくるはずです。阿久津賢士がタイムスリップに無関係だった場合でも、彼は、自分と血の繋がりのある俺が、敵であるSGAのもとにいることは望まないと思うんです」

 後半はまったくの想像にすぎず、なんの根拠も無かったが、阿久津賢士の立場になって考えてみて思ったことだった。

「だから、どうにかそこを利用して、いざというときの交換条件などに俺を使えないかと」

 健二が話す間、クレイグは彼をじっと見つめていたが、やがて感情を込めない穏やかな声音で言った。

「君が危険にさらされることになる」
「それは、わかってます……」

 そこで初めて、健二の視線が床に落ちた。語尾も弱く消え入りそうなものになる。しかし、両の拳をぎゅっと握り締め、彼は再び顔を上げた。

「でも、このままだと状況は変わらないし、みんなが危険な目に遭うんじゃないですか」

 阿久津賢士の思惑によって殺されたアンチ・テクニシズムの人々や、和泉かおるたちとの交戦によって負傷したジャンのことを思いながら言った。
 レイが困ったように頭の後ろに片手をやった。

「でも、阿久津賢士が健二をタイムスリップさせたんじゃなかった場合だけどよ、健二が過去から来た自分の祖先だなんて、あいつが信じるとは思えねえぜ」
「そうかもしれない。俺自身だって、最初はまったく信じられなかったくらいだから。でも、SGAが自分を誘い出すために何か計画を進めていると思うだけでも、少しはこっちに興味を持つんじゃないかな。もしかしたら危機感も持つかもしれない。そしたら、向こうからコンタクトを取ってくることもあるんじゃないかと思ったんだ」

 健二が一息に言うと、レイとゆかりは難しい顔になり、視線を下げたまま押し黙ってしまった。ゆかりは一度、何か言いたげに健二の方を見て口を開いたが、その艶やかで魅力的な唇は何の音も発さないままに閉じられた。
 しばらく沈黙が続いた後で、クレイグがゆっくりと口を開いた。

「阿久津賢士はおそらく、DNAの解析装置くらいは所持しているだろうと思うが、そうでなくとも、DNAのデータを調べさせるだけならたやすいことだ。君が姿を見せ、君の血液などをその場で採取して相手に渡せば、彼にもそのデータが本物だとわかるはずだ。それを調べるように言えば、いずれ、君が本物の自分の祖先であるという事実にたどり着くかもしれない」

 阿久津賢士に健二の存在を信じさせるためには、データとして表れた揺るぎない証拠がいる。クレイグは健二がすべてを説明しきる前から、彼が言わんとしていたことを理解したようだった。

「それを信じるかどうか、そもそも阿久津賢士が我々の言葉に従うかどうかはわからないが、先ほど健二が言った通り、私も彼の興味を引くことはできるだろうと思う」

 同意されて内心うれしかったが、健二はそれを態度に出さないように気を配った。

「以前、健二くんと話していたんですけど」

 ゆかりが自分の上司を見上げ、ためらいがちに話し始めた。

「健二くんがタイムスリップする前の世界と、今のこの世界が繋がっているのなら――つまり、私たちのいる2148年が、健二くんがいた2015年と同じ時間の流れの先にあるのなら、過去の健二くんが事故に遭った際に命を落としていた場合、阿久津コーポレーションがこの時代に存在しているのはおかしいのでは、と思ったんです」

 話の途中でレイが額に手をやり、必死で考え込むような表情になってしまった。眉間には深いしわが刻まれ、苦悶しているのかと思うほどの面持ちだ。

「そのことについては答えを出せないままですが、過去と未来は相互に影響し合う、という前提で考えるとすると――」
「今、ここにいる阿久津健二に何かが起きた場合も、この時代に変化が現れる可能性が無いとは言い切れない、ということか」クレイグがゆかりの言葉を引き取った。
「そうです」

 腕を下ろしたレイが、「なるほど」と呟くように小さくもらしたのが聞こえた。

「俺の身に何かあれば、俺の子孫である阿久津賢士にもなんらかの影響が及ぶかもしれません。彼にそう言った上で、俺を人質に取っている振りをしてこちらの要求を伝え、それを呑まなければ俺を殺すと脅してください」

 健二が重ねて言うと、クレイグは少し目を細めた。

「君を人質のように使うという方法は私も考えなかったわけではないが、あまりにもリスクが大きすぎると思っていた。まさか、君が自分から言いだすとは思わなかった」
「突然大胆なこと言いだすから、びっくりしたぜ」と、レイも苦笑する。
「それを実行したとき、果たして阿久津賢士がどんな行動に出るのか、予測しようとも実際のところはわからない。健二だけでなく、我々にもさらなる危険が及ぶかもしれない」

 そう述べた後で、「しかし――」とクレイグは続けた。

「現時点でも、危険な状況を歩んでいることに変わりはない。正直なところ、前回の事件のときはベルティエの命が危なかった。そのための手段さえあるのならば、今後、阿久津賢士の行いがますますエスカレートする前にそれを止めたいというのが、我々の切実な願いだ」

 まだ迷っているような表情ながらも、レイとゆかりも賛同するように大きくうなずいた。
 大きな窓から入り込んでくる午後の温かな日差しが、リビングダイニングで話す健二たちを包んでいた。クレイグは一度目を伏せ、思案するように口をつぐんだ。健二もレイもゆかりも、黙って彼の次の言葉を待った。
 少しの間の後、顎を上げたクレイグの顔は、窓を通り抜けてきらめく明るい陽光に照らされていた。

「君の案を実行に移せないか、検討してみよう」

 その光を受けながら、クレイグは健二を見てそう言ったのだった。


 踊り場から続く階段の先の壁に、『9』の表示が見えてきた。

「ああ、息が切れてきた」

 劉が、いくら調査部と言えども、特殊な任務にあたる国の最高機関の一員とは思えないような情けないことを言う。だが、荒い息遣いからすると冗談でもないようだった。健二は顔をしかめた。

「ちょっと、大丈夫なんですか?」

 つい、非難めいたふうにも聞こえる台詞が口をついて出てしまうが、そう言う健二の声にも苦しげな呼吸音が混ざっている。

「やっぱり、日頃のトレーニングはやっとくべきだな」
「やってないんですか?」
「調査部は強制されてないからな。護身術の訓練とかも、入って何年か経ったら受講は任意なんだよ」

 なるべく足音を立てないようにして、最後の階段を上がる。健二の不安を煽るような弱音を吐いていたものの、十階の床を最初に踏んだのは劉の方だった。
 健二もそれに続いたが、そのとき、かすかな異臭が鼻先をかすめた。この臭いはなんだろう? 何かに似ている――そう、鉄だ。金属的で、それでいて喉を圧迫するような甘ったるさのある、独特の臭い。
 頭の片隅で警告の鐘が鳴り始めていたが、健二は思考が麻痺したかのように歩き続けた。劉が立ち止まったことにも気づかず、引き寄せられるようにふらふらと交差する通路に向かう。
 しかし、健二が曲がり角の先に足を踏み出すことはなかった。

「ちょっと待て!」

 ささやくようながらも強い声とともに、劉の腕に行く手をさえぎられる。健二はつんのめるようになりつつ足を止めた。戸惑いながら振り向くと、彼は階段を上りきる前とは打って変わって、緊張した面持ちでじっと前を見据えていた。初めて目にする劉の張り詰めた表情に、健二の動揺が増す。
 そこまで来ると、辺りに漂う臭いははっきりと認識できるほど濃くなっていた。息苦しくなり、胃がむかむかしてくる。

「この臭いって……」

 呟くように言った健二の声はひどくかすれていた。その臭いの正体が何なのか、本当はすでに本能的な部分で感づいていたのだが、その可能性を否定したい気持ちもあったのかもしれない。
 それに対して、劉は普段の彼には似つかわしくない、低く冷えた声でぼそりと答えた。

「たぶん、血の臭いだ」

 健二は、全身の血が冷えたように感じた。この角の向こうでは、こんなに強く香るほど大量の血が流れているのか? 腹の辺りが強張り、内臓を強く掴まれているような心地になる。恐怖に息ができなくなった。
 この先に待ち受けているものを思うと今すぐにこの場を逃げ出したい衝動に駆られるが、健二の体は硬直したように動かなくなり、それも適わなかった。


* * *


「おい」

 健二と劉の姿が見えなくなってから、クレイグもエスカレーターに向かって歩き出そうとしたが、背後から鋭い声が飛んできて再び足を止めた。そちらに向きなおると、ジャンが腕を組んでこちらを睨みつけるようにしている。

「なんだ」
「あいつらを二人で行かせてよかったのかよ」

“あいつら”とはもちろん、健二と劉のことだろう。ジャンがどういう真意で今さらそんなことを言い出したのか探ろうと、クレイグはすぐにはその問いに答えなかった。ジャンはクレイグの方に一歩踏み出し、さらに続けた。

「俺はまだ、あの阿久津健二とかいう男が敵のスパイじゃないと認めたわけじゃねえ。今のところはおとなしくしてるみてえだから、何も言わなかっただけだ。だけど、あいつにはあまりにも怪しいところが多すぎるだろうが」

 話すごとに、彼の声音は荒々しさを増していった。

「ジャン」ゆかりが諌めるような強い声で彼の名を呼んだ。「今は目の前の作戦に集中して」

 ゆかりにたしなめられると、いつもはたじろぎつつも言うことを聞くことの多いジャンだったが、このときは違った。彼はゆかりの方を見もしなかった。

「そんな奴を信用して作戦にまで参加させて、しかも調査部とたった二人で行動させるなんて、無用心にもほどがある。俺もあいつらについて十階に行く」
「今、お前を中央監視室に向かわせるわけにはいかない」
「なんでだ!」

 クレイグがきっぱりと言い切ると、ジャンはクレイグを突き刺す眼差しをますます険しくし、凄むような声を出した。

「お前の任務は、阿久津賢士の仲間が現れた際にすぐに対処できるよう、集会が行われているメインホールの側で待機することだ。中央監視室やその他の場所で何かあったときにはそちらに駆けつけられるよう、お前と藤原はここでしばらく待機し、様子を見てから動く。それで充分だ」

 クレイグは淡々と答える。ジャンは異を唱えようと口を開いたが、クレイグはその隙を与えなかった。

「このチームのリーダーはお前ではなく、私だ。命令には従え」

 声に威圧する調子を込め、あえて冷たく言い放つ。彼の言葉の迫力に圧されたかのように、一瞬その場がしん、と静まり返った。
 ジャンはまだ何か言いたげに、怒りに満ちた燃えるような瞳をクレイグに向けていたが、クレイグはその視線を振り払うように背中を向け、今度こそエスカレーターに向かった。レイも黙ってそれに従う。
 銃を手に、停止したままのエスカレーターを素早く、しかし慎重に上っていった。上階を含め、周囲の様子に注意深く目を凝らすが、どの階にも人がいる様子は無い。中央監視室にいる警備員は、本来ならいるはずのないSGAの姿をカメラが捉えていることにとっくに気づいているはずだ。

「ジャンにはほんと、困りましたね。悪いやつではないと思うんすけど」

 ふと、クレイグの顔色を伺うようにこちらにちらりと目をやり、レイが言った。
 クレイグ自身、ジャンの言い分も分かる。しかし、先ほどは火に油を注ぐことになると思ったので本人には伝えなかったが、彼に単独で行動させるわけにはいかないのだ。それに、中央監視室に行かせた結果、いつものように阿久津健二に突っかかり、かえって面倒なことにならないとも限らない。彼が前回の事件のときのように命令に背いた行動を取ろうとした際、止められる人間が側にいなくては困る。そして、ジャンの場合、それは自分かゆかりだけだとクレイグは思っていた。
 これまでは、協調性に欠けるジャンの短所を理解しつつも、彼の能力を任務に活かすことができればと考えてきた。だが、それが不可能ならば致し方ない。指示を受け入れる必要がある時とその理由は彼にもわかるだろうと期待した、自分の判断が間違っていたと諦めるしかない。前回、彼は勝手な行動を取り、それが原因で死にかけたのだから。

「今度、また命令を無視した行動を取るようなことがあれば、彼はチームから外すしかない」
「そうっすね」

 レイも暗い声で同意した。その表情も声と同じく曇っている。
 一度も人と出くわさないまま、メインホールのある五階の廊下に到着した。通路の先には、ホールの出入り口である大きな扉が三つ並んでいる。いつでも銃を構えられるよう、クレイグは銃把をしっかりと握り締め、向かい側の壁に背中をつけるようにして移動した。
 劉からはまだ連絡が無い。まだ、中央監視室まで辿り着けていないのかもしれない。そう思って立体マップを確認すると、彼らの位置を表す表示は、ちょうど非常階段の十階を示していた。もうじき、通信で何かしらの報告をしてくるだろう。ゆかりとジャンは今もメインホールにいる。
 扉の一つに近づいていくと、中からかすかに音楽が聞こえてきた。ピアノと弦楽器の優雅な音色。クラシック楽曲のようだ。表向きはパーティーを装っているから、そのような場にふさわしい演出でカモフラージュをしているのか、それとも本当にただのパーティーなのか。ホール内の話し声までは聞こえないので、外からは判断がつかなかった。
 二人は入り口を挟んで、その扉の両脇に立った。クレイグが扉の横の壁に身を寄せた、そのとき。扉の向こうから静寂を切り裂くような悲鳴が響いたのを耳にし、クレイグの身体に戦慄が走った。



>> To be continued.



読んでくださってありがとうございました!!
拍手を下さった方々もありがとうございます!とても励みになります(*´`)

いろいろ書きたいことはあるのですが、それはまた明日以降、雑記の方で書かせていただきますね!

読者数の参考にしたいので、小説を読んでくださった方は各記事の拍手ボタンを押していただけますと助かります。
もちろん強制ではありませんので、気が向いたらで構いません!


未来への追憶 第四話 - 03

 ほとんど考えもせず反射的にそちらに顔を向けると、そこには一人の男が立っていた。

「いいですか?」

 彼は右隣のバースツールの背に手をやり、健二に向かって言った。健二に、隣に座ってもいいかとたずねているのだ。

「あ、は、はい」

 ここで拒否するのもおかしいと思ったので、健二は相手の容貌をろくに確認する余裕も無く、どもりながらもうなずくしかない。
 男が隣の席に座った。健二の心臓の鼓動が一気に速くなる。じろじろと見るわけにもいかないので、健二は横目で盗み見るように、ちらりと隣に視線をやった。だが、真横なのでそれだと相手の顔は見えない。せいぜい、カウンターに置かれたほっそりした手が見えるくらいだった。
 この男は何者だ? ただの客なのか? 席は他にもたくさん空いているというのに、なぜわざわざ自分の隣に座ってくる? まさか、自分の正体がばれたのか? いくつもの疑問が、健二の頭の中をぐるぐると駆け巡った。助けを求めるような気持ちでカウンターの向こうの白髪交じりのマスターを見ても、彼は未だ一人で来ているらしい別の客と話しこんでいる。
 健二は、レイが早く戻って来ないかと後ろを振り返って確認したい気持ちを必死で堪えた。代わりに、左手首にそっと手をやる。今日、そこにつけられているのは健二が2015年で使っていた腕時計ではなく、SGAのメンバーがつけているような携帯通信機だった。未来に馴染むためでもあるが、もう一つ、何より重要な理由がある。外で何かが起こった際にレイが側にいないという事態が起こったとき、SGAの本部にいるクレイグに知らせるためだ。ボタン一つで、クレイグと店の外で見張りについているSGAの職員、そしてレイに連絡が行くように設定してある。
 しかし、と健二は考えた。もし、隣にいる人物が阿久津賢士と関係のある敵や、邪な目的を持った者なら、他の人間がすぐ近くにいるところで堂々と近づいてくるだろうか? 本当に普通の客である可能性もあるので、早とちりで騒ぎを起こすのはまずい。
 それでも念のためにと、健二が緊急連絡用の小さなボタンに触れたとき、隣から声をかけられた。

「飲まないんですか?」
「えっ?」

 思わず、異様なほど勢いよく振り返ってしまう。男は目の前のメニューを手で示した。

「あ、はい……俺は、その……」

 そこまで言って、何と言えばいいのだろうと思う。嘘をつくのは苦手だった。

「さっきまで、あの、隣のクラブの方で飲んでたので……ちょっと休憩してから飲もうかなあ、と」

 健二はつかえながら言うと、ははは、と無理やり笑った。対して、男の方はにこりともせずに「そうですか」と言っただけで、自分が聞いたくせに興味が無さそうだ。
 そこで初めて、健二は男をちゃんと見た。彼はちょうどカウンターの向こうに視線を投げていたので、まじまじと眺めることができる。一重まぶたの涼しげな目元をした東洋人の男は、六月だというのに黒のタートルネックを着ていた。顔立ちには大きな特徴は無く、どちらかというと地味で、目立たないタイプに思える。全体的に近づきがたいような、冷ややかな空気をまとっていた。
 男は健二の視線に気がついたのか、こちらに顔を向けた。なんとなく気まずくなって視線をそらすと、カウンターに置かれた男のグラスが視界に入る。タンブラーグラスに入っている透明な液体は、どう見てもただの水だった。

「あ、あなたは飲まないんですか? それ、水……ですよね?」

 不審がられないためにも自分も何か言わなければならない、という思いにとらわれ、健二は意味も無くたずね返した。

「私はアルコールは飲めないので」

 ほんの少しだけ口角を上げて微笑みの表情を形作ると、男は水の入ったグラスを持ち上げてみせた。
 男の年齢はおそらく二十代か三十代だろう、という漠然としたことしかわからなかった。外見が老けているというのではないが、その落ち着いた雰囲気から、健二よりずっと年上にも思える。だが同時に、健二と同じくらいのような気もした。バーの薄暗い照明のせいもあるかもしれない。

「ここにはよく来るんですか?」水で喉を潤したあと、彼はさらにたずねてきた。
「いえ、今日初めて来ました。その、友達に連れてきてもらって」
「人と一緒なんですか」
「あ、はい。今は用事に――というか、トイレです」

 いつ答えに詰まってしまうかと気が気でなく、健二の心臓は激しく脈打っていた。

「そうだったんですね。私も初めて来たんです。すごくいい店だからと知人に勧められて。今からその知人と会う約束をしてるんですが、待ち合わせまで時間があったので、せっかくなので来てみました。たしかに、素敵な店ですね」

 状況的にも内容的にも親しげに話しかけているふうであるのに、男の話し方は淡々としていて、ひどく冷めた印象を健二に与えた。クレイグも一見冷たく見えるタイプだが、そのクレイグとも全然違う。クレイグは感情をほとんど表に出さないが、接していると内には温かさを持っていることがわかる。この男の場合は逆だ。言うなれば、冷え切った芯にうわべだけの偽物の温もりを申し訳程度にまとっている、という感じだった。

「この近くに住んでらっしゃるんですか?」
「いえ……あの、一緒に来てる友達は近くに住んでるんですけど」
「そうなんですね。私も家は少し遠いのですが、職場がこの近くなんですよ」

 彼の声は小さくて、静かなBGMの中ですら聞き取りづらい。しかし、温かみこそまったくないが、その声にはどことなく色気があった。

「今日は仕事の帰りですか?」
「あ、はい」
「この辺りはこういった店がたくさんあるのでいいですね」
「そうですね」

 男は、この周囲にあるらしいナイトスポットについて話した。健二はなるべく最低限の相づちだけで適当に話を合わせる。
 ゆったりとした心地よいピアノの音色と、バーの独特のムードのせいだろうか。酒も飲んでいないのに、話しているうちに徐々に緊張感が緩んでいきそうだった。

「もしかしたら、今後もここで会うことがあるかもしれませんね。今日はあまりゆっくり話せませんでしたが、今度お会いしたときは、よかったらまた話し相手になってください」

 しばらくして話に一区切りがついたとき、男が言った。
 健二はうなずこうとしたが、ふと、ジャズのメロディーに不協和音が重なったのがわかった。クラブのダンスミュージックがかすかに聞こえてくる。クラブとバーを繋ぐ扉が開いたのだ。レイが戻ってきたのかと思い、健二はつい扉の方を振り返ってしまった。だが期待は外れ、店内に入ってきたのは二人連れの見知らぬ男女だった。そして、一瞬そちらに気がそれてしまったせいで、健二は隣にいる男の次の言葉に反応することができなかった。

「私は――といいます」
「え?」

 聞き返したあとで、前後の単語から男が自分の名を名乗ったのだと気がつく。だが、肝心の名前の部分は聞き逃してしまった。健二が聞き取れなかったことに気づいていないのか、男は言い直そうとはしない。「何て言いました?」としつこく聞くのもはばかられる上、今後も関わる相手ではないので、失礼ではあるがここはこのまま流すことにした。
 相手が名乗ったのに自分だけ名乗らないわけにもいかず、健二の方も偽の名前を男に伝える。

「あ、俺は……安達、です。安達健一」

「なるほど」と彼は言った。人の名前を聞いて「なるほど」とは、どこか不自然な返事ではないだろうか? 少し引っかかるものを感じたが、男が続けて話しだしたため、そんな疑問はすぐに頭から消えた。

「それでは、私は行かなくては。そろそろ待ち合わせの時間なので」

 壁のアナログ時計で時間を確認すると、男は立ちあがった。そこで、健二は男の格好が上半身から靴まで、黒一色で固められていることに気づく。

「ありがとうございました、話していただいて」
「いえ、こちらこそ」

 男は健二に会釈をすると、愛想笑いさえ見せずに去っていった。健二も挨拶を返し、男の後ろ姿が茶色い扉の向こうに消えるのを見送る。男が扉を開けたときには、やはりクラブの賑やかさがバーの中にまで入り込んできた。
 それからまもなくして、今度こそレイが戻ってきた。

「いったいどうしたんだ? どこに行ってたんだよ」

 健二が小声で問い詰めると、レイもささやくように「わりぃ」と言って、健二の隣――先ほどまで、あの黒ずくめの男が座っていた席――に腰かけた。

「ちょっと、仕事のことで気になることがあってな……俺がいねぇ間、何も無かったか?」
「いや、他の客に話しかけられたよ」

 途端に、レイの表情が硬直する。

「……他の客に? マジか。何を言われた?」
「話自体はまあ、普通の内容だし、特に問題があったわけじゃないけど――」

 レイはさりげなくバーのマスターを一瞥した。彼は今度は別の客の注文を取っている最中で、こちらは見ていない。

「席を変えよう」

 その隙にと思ったのか、レイはそっと席を立ち、二人は店の中で一番奥まった場所にあるテーブル席に移動した。バーテンダー代わりのロボットを呼び、ドリンクを一杯ずつ注文する。こちらのバーにはノンアルコールのメニューが無かったので、アルコール度数の低いカクテルを選んだ。
 注文をカウンターまで伝えるためにロボットがテーブルを離れるのを見届けてから、健二は先ほどの男のことと、彼との会話をレイに説明した。

「怪しいな、そいつ」

 健二の話を聞くと、レイは腕を組んで難しい顔をした。

「当然、その男はもうこの中にはいねえんだよな?」

 レイは腕を組んだまま健二に顔を寄せると、周囲を探るように目だけを左右に動かした。その眼差しのキツさから、彼の神経が張りつめていることがわかる。

「ああ。いないよ」

 レイの緊張を受け、健二は自分も体に力が入るのを感じながら小声で答えた。
 男が隣に座ったときには、まさか話しかけられるなどとは思っていなかったのでひどく驚いたが、そうは言っても実際はただ少し言葉を交わしたというだけだ。レイにそこまで深刻になられると、健二は逆に自分の感じたことが本当に正しいのか不安になってきた。

「でも、今から考えるとやっぱり普通の客だったのかなって気もするよ。あの時は話しかけられたことにびっくりしてたから、実際より変に思えたのかもしれない」
「まあ、それはあるかもしれねえけど……酒も飲めねえのにわざわざバーに来たっつーのは変じゃねえか?」

 向かい合って座った二人はテーブルの上に少し身を乗り出すようにして、ひそひそとしゃべった。

「そうか、確かにそうだよな。あ、でも、この店は知人に紹介されたって言ってたよ。それで来たんじゃないのかな」
「それはわかんねえけど……それでもやっぱり怪しいぜ」レイは言い張った。「名前を聞かれたんだろ?」
「ああ。でも、それ以外は当たり障りのない普通の会話だったし、名前を聞かれたって言っても、そんなに不自然な聞かれ方じゃなかった」
「なんか、その男をかばってるみてえな言い方だな?」レイが不可解そうな顔になった。ついで、その表情が険しくなり、健二を見つめる目が探るように細められた。「……まさか、脅されたとかじゃねえよな」
「そうじゃないよ! ただ、自分が大げさにとらえすぎて、普通の人を疑ってるんじゃないかと心配になっただけで……」

 慌てて言ったとき、不意に健二の頭を、ジャズと混ざって不協和音を作り出すダンスミュージックの音がかすめた。クラブでかかっていた曲は、初めにスーツの男二人とレイが出ていったとき、そして途中で見知らぬ男女が入ってきたとき、最後に黒づくめの男が出て行ったときに聞こえてきた。つまり、注意さえ向いていれば、バーにいる人間には扉の方を見ずとも人が出入りするのがわかるということだ。健二の記憶が確かならば、男に話しかけられる前――健二が一人でカウンターに座っていたときには、クラブの音楽は一度も聞いていない。

「それに、たぶん……その人は俺たちが来る前からバーにいたはずなんだ。あそこの扉って、開くと隣のクラブの音楽がちょっと聞こえてくるだろ?」

 健二は体をひねり、背後にある扉の方を指差した。

「緊張して周りのことが気になってたから覚えてるんだけど、レイが出て行ってからその人に話しかけられるまでは一回も聞かなかったんだ。だから、その間は誰も出入りしてないってことだと思うんだけど、もし俺が一人になる隙を狙ってたなら、普通は俺たちを追って後からバーに入ってくるんじゃないかな?」
「いや、初めから健二を狙ってたんならそうかもしれねえけど、その……ほら、今、俺らが担当してる事件とはなんの関係も無くて、たまたま健二が一人でいたから近づいたってんならわかんねえぞ?」
「あ、そうか……」

 もちろん、その場合はいくら阿久津賢士とは無関係であれ、無害とは言えない。考えれば考えるほど、怪しいのか怪しくないのかわからなくなってきた。

「まあいいや。とにかく、帰ったらボスに報告しよう。しばらくは店に入店者の履歴が全部残ってるはずだから、それを調べて怪しいデータの奴がいねえか確認すればいい。ここの店員に履歴を調べてもらって、変なデータの奴がいなかったかどうか聞くことくらいは、俺たちにも簡単にできるからな。そのデータを直接見たり、一人一人を詳しく調べるとなると調査部にしかできねえし、なんかいろいろめんどくせえ手続きがあるみたいだから、よっぽどの理由がねえとすぐにはできねえんだけどな」

 言葉の最後にいくにつれてわずらわしげな声になり、レイは頭を掻いた。
 そこで、ドリンクが届けられた。先ほど注文を伝えたロボットの手によって、テーブルにそっとグラスが並べられる。

「これ飲んだら今日は帰るか」レイがグラスを持ち上げて言った。「どうだ? 短い時間だったけど、楽しめたか?」
「ああ。気分転換になったし、すごく楽しかったよ」
「そりゃよかった。んじゃ、今後のことが何もかも上手くいくことを願って――」

 そう言うとレイは歯を見せて笑い、グラスを健二の方に差し出す。健二も自分のグラスを持ち上げた。二人は「乾杯」と声をそろえ、グラスとグラスを打ち合わせた。


 レイと一緒に「ラ・スパツィオ」に出かけた日以来、健二の元気はいくぶん回復した。健二を外に連れ出して気分転換をさせようという、レイとゆかりの作戦は功を奏したようだ。
 バーで健二に話しかけてきた男については、レイと二人でクレイグに報告した。クレイグは念のためにその日の入店者記録を調べさせると言ったが、相手に重要な情報を話したりしたわけではないので、今は過剰に心配する必要は無いだろう、とも言った。現に、あれ以降特に変わったことも起きていない。
 そして、外出から四日が経った六月十日。健二は初めて、SGA本部での本格的な作戦会議に出席することとなった。

「明日、本部で会議があるんだけど、健二くんにもその会議に出席してもらいたいの」

 前日にゆかりからそう告げられ、この日はゆかりに伴われて午後からSGAの本部へと向かった。会議が開かれたのは、健二が以前にクレイグからDNA検査の結果を聞かされた部屋だった。部屋の照明は落とされ、前方の壁に投影された資料や周囲のモニターが暗闇に映えている。その光に照らされて、クレイグはいつものように正面の壁の前に立っていた。
 会議に出席したのは健二の他に、クレイグを初めとした阿久津賢士に対するチームのメンバーと、そこにアマンダと劉を加えた六人だ。中央の会議用テーブルの片側にはアマンダ、レイ、そしてその隣に健二が座り、反対側に劉、ゆかり、ジャンが座った。
 これだけの人数がそろっているというのに、いつものように陽気な雑談を交わすものはおらず、室内はほのかな緊張感に包まれていた。

「本題に入る前に、伝えておきたいことがある」

 会議が始まると、クレイグはまずそう言ってアマンダを前に呼んだ。クレイグの横に並んだアマンダは、私服の上にレイやゆかりたちと同じ、犯罪捜査部の制服である黒いロングコートをはおっていた。そのアマンダの姿は、急に彼女が健二から遠い存在になったかのように感じさせた。

「すでに皆知っているとは思うが、先日SGAの入職試験に合格し、アマンダ・オルコットも正式な犯罪捜査課の職員となった。今は訓練中のため現場にはまだ出ないが、今後は我々のチームの一員として働いてもらう」
「よろしくお願いします!」

 アマンダは皆に向かい、はきはきとした声を上げた。彼女の顔には、喜びと期待に満ちた笑顔が浮かんでいる。クレイグが席に戻るように手振りで示すと、アマンダは再びレイの隣の席についた。それを待ってから、クレイグは全員の顔を順に見回した。

「そして、これも健二以外にはすでに話したことだが、彼もいる場で改めて報告しておこう」そこで、クレイグは健二に目を留めた。「医療研究所を襲った犯人が、数日前、ようやく事件について話をした」

 先月、六人の仲間とともに医療研究所のスタッフ数名を殺害し、SGAによって勾留され、尋問を受けていた男のことだ。他の六人は、洗脳されて阿久津賢士の仲間となっているフランツという男と、ゆかりの弟である和泉かおるの二人によって殺されたが、彼だけは運良く死を免れた。

「彼のグループは、研究所襲撃の依頼を受けて犯行に及んだらしい。目的などは一切明かされなかったようだが、ただ、報酬の大金目当てに従ったそうだ。殺害する人間や、襲撃の日時は当然だが、一人一人を殺害する時刻や、現場を立ち去る時間なども細かく指示されていたということだ。指定の時刻になったら地下の倉庫まで来るように言われていたが、その時間まではずいぶん余裕があったと言っていた」

 医療研究所での事件については、事件の翌日に開かれたミーティングで詳しい説明を聞いていたので、健二もそこで起こったことはあらかた理解していた。犯行グループは研究員の男二人を射殺したあと、さらに殺人を続けるわけでも何かを盗むわけでもなく、部屋にいた残りの研究員を人質に取ったような状態で動かなかったそうだ。その不可解な行動の理由は、受けた依頼の内容に忠実に従おうとしていたから、というわけか。だがその結果、彼らは阿久津賢士の仲間によって殺された。
 健二はクレイグの説明を頭の中で反芻し、犯行グループが受けたという奇妙な指示に眉をひそめた。

「その指示にはなんの意味があったんでしょうか。いったい、誰がそんな依頼を……」
「それは、犯人の男にもわからないそうだ」
「わからない?」
「ああ。依頼は複数の人間を通して伝えられたらしい。最後に犯罪グループのリーダーに話を持ちかけてきた人物によれば、依頼主は顔も名前も明かさなかったようだ。その人物も直接会ったわけではないが、別の人間から聞いた話によれば、依頼内容の記されたデータを渡されたが、顔はマスクで覆われていたと。声もスピーカーを通していたから、正体を隠すためにおそらく声も変えているのだろう、ということらしい」

 寄せた眉によって刻まれた健二の眉間のしわが、さらに深くなった。
 スラム街――以前に貸し出されたタブレットの書籍で読んだときにも思ったことだが、そんなものがこの日本に存在するなど、にわかには信じられない。ましてや、ここは健二がいた時代から133年も未来の日本なのだ。健二には、そこに住む人々の生活をリアルに思い描くことはできなかった。彼らには、どこの誰からのものかもわからないような依頼を受け、犯罪に手を染めなければならないほどの事情があるのだろうか。

「男の話では、少し前からスラム街で、彼らのような犯罪グループや前科のある者、不法滞在の外国人などにそのような依頼をしている人間がいたようだ。私は、その不審な依頼には阿久津賢士が関係していると――いや、はっきり言おう。その依頼をしているのは、阿久津賢士だろうと推測している」

 静まり返っていた部屋の気温が、すっと冷えたように感じた。

「わざと事件を起こさせて、その犯人を自分の仲間に殺させてるっていうことですか?」

 健二は言った。衝撃に、声がかすかに震えてしまった。クレイグは以前、「阿久津賢士は見る者に英雄的な印象を植えつけるため、洗脳を施した自分の部下に犯罪者を始末させているのだろう」と言った。阿久津賢士は、その状況を意図的に作り出しているということか。

「ああ、その通りだ。まだ私の予測に過ぎないが、それならば、不自然な依頼の内容にも、事件が起こっている現場に阿久津賢士の仲間がすぐに現れる理由にも説明がつく。今までは犯罪者がすべて殺されていたから、そんな依頼があったのかどうかなどわからなかったがな。……しかし、そうだとすると、今回我々が事件の犯人を生きたまま捕らえたことは、阿久津賢士にとっては大きな失態となったはずだ。このことが原因で、今後、新たな動きに出ることも考えられる。充分に注意しておく必要があるだろう」

 最後の言葉は、室内にいる全員に向けられていた。

「この件については、直接スラム街にも赴いて調査を進めていく。何かわかればまた会議を開くから、そこで君にも伝えよう」
「はい」

 健二は首を縦に振った。クレイグの言うことは正しいのではないか、という気がしたが、今はどうすることもできない。もし、本当に殺人や強盗などの依頼がなされているのならば、予定されている犯罪について事前に知るためにも、そしてクレイグの推察が事実かどうかを調べるためにも、彼の言う“スラム街”で情報を掴むしかないだろう。
 クレイグは少し間を置いてから、再び口を開いた。

「現時点では、この話については以上だ。次に、あさってのことだが――」

 言いながら視線をレイに移し、健二の方を手で指し示す。

「ストレイス、彼に説明してもらえないか?」

 レイは「はい」と応じると、座ったままで体ごと健二の方を向いた。

「この間『ラ・スパツィオ』ってバーに行ったとき、俺が途中で一度、健二のそばを離れただろ?」
「ああ」
「あのときはマジで悪かった。ちょうど俺らがバーに入ったときに、スーツ着た男が二人、話しながらドアの方に歩いてきたじゃねえか。そいつらがしゃべってた内容に引っかかるところがあってさ、もしかすると阿久津賢士に近づくのに役立つような情報を得られるんじゃねえかと思って、追いかけて話を聞きに行ってたんだ」

 やはりそうだったのか、と健二は思った。SGAの仕事のことなので突っ込んで聞いていいものかもわからず、健二はそのときのことをレイにたずねられないでいた。レイの方からも何も言わなかったので、健二を一人で放置している間、彼がいったい何をしていたのか気になりつつもわからないままだった。

「すれ違ったとき、そいつらがアンチ・テクニシズムとかいうもんについて話してたのを覚えてねえか?」
「ええっと……ごめん、その、あんまり……」

 記憶を探ったものの、レイの言った“アンチ・テクニシズム”というワードには思い至らず、健二はそのままを伝えた。

「あのときは、あの人たちの話がそんなに重要だなんて思ってなかったから……」

 きまりの悪さから声が尻すぼみになってしまう。しかし、レイにも他の面々にも、そのことを咎める様子は無いようだった。

「いや、それはいいんだ。とにかく、アンチ・テクニシズムって団体があんだよ。なんでもかんでもテクノロジーで解決したり、人体に過剰に手を加えたりすることに反対してる人たちの団体で、“自然の”……なんだっけな」
「“本来の、ありのままの自然なもの”よ」

 ゆかりが言った。健二は前にも一度、ゆかりからそのフレーズを聞かされたことを思い出す。何の話をしているときだったか。これまでのゆかりとの会話をさかのぼろうとしたが、その前に、クレイグが壁に投影された資料の間に一枚の写真を表示させた。
 昔ながらの旗やプラカードや、もっと未来的な――ホログラムで形作られた――メッセージさえ掲げ、デモ活動を行っている集団の写真だ。写真が拡大され、最前列にいる人々の顔が大写しになった。必死に抗議の叫びをあげているらしき人々の間には、洗脳される以前の和泉かおるの姿が写っていた。

「これは……」
「かおるが――私の弟が所属していた団体っていうのも、そのアンチ・テクニシズムなの」

 写真が発する光によって照らされたゆかりの表情は、硬く強張っている。

「自分たちを“自然至上主義者”と称し、行きすぎたテクノロジーを疑問視することを人々に呼びかけているが、実際はその傍ら、かなり過激なデモ活動なども行う団体だ」

 クレイグが言い、手に持った小型の端末を操作した。アンチ・テクニシズムのデモ活動の写真が消え、もともと小さく表示されていた資料の一つが拡大される。タワービルとまではいかないが、そこそこの大きさの――2015年の基準で言えばだが――建築物の画像だ。

「そのアンチ・テクニシズムが、ある民間の文化施設内のホールで、十二日に集会を開くことがわかった」
「集会……」

 健二は呟いた。そう言えば、バーにいたスーツ姿の男のどちらかが、“秘密の集会”という言葉を口にしていたことは覚えている。非現実的でどこか時代にそぐわないような、古くさい印象も受ける妙な響きゆえに、耳に残っていたようだ。

「バーにいた二人の男の共通の知り合いが、アンチ・テクニシズムのメンバーだったらしくてさ。そいつが、周囲の人間に自慢げに言いふらしてたらしいぜ。その集会には政治家も来るんだ、ってよ。関係無い人間にそんなこと言っちゃあ、自分らにとって不都合なことになるかもしれねえのにな」

 レイは苦笑交じりに言ったあとで眉をひそめ、少し声のトーンを落とした。

「ヤクをやってるような感じもあったって言ってたな。もともとちょっと不安定なやつだったらしいんだけど、アンチ・テクニシズムに入ってからますますおかしくなっちまったらしい」
「アンチ・テクニシズムには政治家や芸能界関係者、作家なども所属している」

 クレイグが続けた。文化施設の画像の横に、中年の男の写真と個人データが並ぶ。

「国会に議席を持つ、調和共生党という保守派の政党に竹下という議員がいるんだが、彼もアンチ・テクニシズムに資金の援助などを行っているという噂がある人物だ。噂の真偽は定かではないが、今回の集会の場所に指定されている文化施設は、竹下の親族が運営している」
「集会が開かれる日は、個人主催のプライベートなパーティーが行われる、という名目で休館になっているんでしたね」

 ゆかりが確かめるように言った。

「ああ。調べたところ、十二日はメインホール以外の劇場や展示室はすべて休みで、施設内には立ち入り禁止となっていた。パーティーの主催者などは当然伏せられているが、いくら大金を払ったとしても、通常は施設の持ち主と無関係の人間が、施設を貸切にするような個人的なパーティーを開くことを許可されるとは考えにくい。毎日様々なイベントが行われている文化施設を、アンチ・テクニシズムがわざわざ集会の場所に選んだのも妙だ。おそらく、竹下の親族はアンチ・テクニシズムと関係していると見て間違いないだろう。そうなれば、竹下自身の噂も真実の可能性が高い」
「もし、その場に竹下がいれば――」劉が言った。
「竹下は黒、ってことっすね」レイが応じる。
「警察は過激な抗議団体を支援してる政治家も、麻薬常習者も、法に触れるような集会をやってるアンチ・テクニシズムの連中も、まとめて逮捕できるってことだな」

 皆が話す間、ジャンはじっと腕を組んだまま、発言している人間や前に映し出された資料に厳しい視線を向けていた。これまでのミーティングのときのように余計な口を挟むこともなく、交わされる言葉に真剣に耳を傾けている様子だ。

「そして、ここからが我々にとってもっとも重要なところだが」クレイグが言い、健二に目を向けた。「以前のミーティングで、阿久津賢士はこれまでに犯罪者だけでなく、自分の事業計画に反対する者も二人ほど殺している、と言っただろう」
「はい」

 そのことは健二もはっきりと覚えていた。

「そのときの被害者はどちらもアンチ・テクニシズムのメンバーだった」
「ということは――」

 健二が言うと、クレイグは「ああ」とうなずく。

「その集会の場に、阿久津賢士の仲間が現れる可能性がある」

 彼の言葉が意味するものに、健二の全身に緊張が走った。レイが、バーで健二のそばを離れてまで二人の男から話を聞きだそうとした理由も、今日の会議の目的もわかった。

「だが、あくまで可能性の話だ」クレイグはわずかに声を和らげた。「それでも、たとえ一パーセントでも阿久津賢士の逮捕に繋がる可能性がある以上、我々は情報収集のためにも様子を探りに行く。SGAは通常の犯罪には関与しないことになっているが、先ほどストレイスと劉も言っていたように、アンチ・テクニシズムが不穏な計画を立てていたりした場合は、警察に報告して事件を未然に防ぐこともできるからな」

 クレイグは一度言葉を切ると、一呼吸置いて表情を引き締めなおし、健二を見据えた。

「そこで、君にも同行してもらいたい」

 よく通る厚みのある低音が、会議室に響いた。

「はい」

 その強い視線を受け、健二も椅子の上で背筋を伸ばし、姿勢を正す。

「君の案を実行に移すとしても、突然、君を犯罪が起こっている現場へ連れて行くわけにはいかない。もちろん、どちらにせよ君が出て行くのは場が安全だと確認できてからだが、まずは我々と行動することにも慣れてもらう必要がある。今回は敵が姿を見せると決まったわけではないから、君は事前演習のようなものだと思ってくれればいい。仮に敵が現れたとしても、危険だと判断した場合はすぐに退く」
「わかりました」

 健二はしっかりとうなずいた。

「今回潜入する施設内のカメラには、SGAの方では接続できない。全体の状況の把握や建物のデータなどを現場で直接調べて報告してもらうため、劉にも一緒に来てもらう」

 その言葉に、健二は劉に目を動かした。クレイグも彼に視線をやり、たずねる。

「施設の鍵の入手の方は問題無いな?」
「はい。準備できています」

 劉の返事を聞くと、クレイグは健二に目を戻した。

「君は基本的には、劉と行動してくれ。万が一、アンチ・テクニシズムが何かやっていたとしても、その場で逮捕するわけではない。彼らと銃撃戦になったりすることはまずないだろう」
「はい」

 緊張から、頼りなげなか細い声になってしまう。

「大丈夫大丈夫、様子を見に行くだけだから、たぶん何も起こらないって」

 斜め向かいから、劉が健二に向けていつもの軽い調子で言った。クレイグも首肯する。それを見て、SGAの任務に初めて同行することによる健二の不安や恐れは、少しばかり薄らいだ。
 クレイグは端末を操作し、街や建物内の地図と思しき資料を新たにいくつか表示させると、正面に向きなおった。

「それでは、詳しい作戦を説明する」



>> To be continued.



今回も読んでくださってありがとうございます!!
四話も折り返し点、いよいよ健二もSGAの任務に参加するところまでやってきました…!

内容についてはまた後ほど雑記の方にて、ちょこっとだけ書こうかなと思っています。

いつも読んでくださる方々、拍手を下さる方々、本当にありがとうございます!
おととい更新した絵を見てくださった方もありがとうございました^^*

読者数の参考にしたいので、小説を読んでくださった方は各記事の拍手ボタンを押していただけますと助かります。
もちろん強制ではありませんので、気が向いたらで構いません!


未来への追憶 第四話 - 02

* * *


 SGA本部に呼び寄せた健二と話をしたあと、クレイグが特別犯罪捜査課の部下から連絡を受けて向かった部屋で、男は後ろ手に拘束された状態で椅子に座らされていた。そこは尋問を行うための小さな部屋で、室内には机と、机を挟んで置かれた二脚の椅子があるだけだ。男はその一つに扉の方を向いて座っていた。男のすぐ背後には犯罪捜査課の職員が二人、麻酔銃を持って立っている。
 男がこれ以上無いほど疲れきっていることが、クレイグには一目見てわかった。医療研究所で捕らえた時は顔も体もひどく汚れていたので老けて見えたが、シャワーを浴びて小綺麗になった彼は、誰が見てもまだ二十代前半だとわかるような少年の面影を残す顔立ちをしていた。浅黒い肌にも若々しさが満ちている。だが、瞳だけは暗く濁り、実際の年齢以上の重みを持つ苦悩を湛えていた。

「事件について、話す気になったそうだな」

 すべてが白で統一された無機質な部屋に入り、背後の扉がほとんど音も立てずに閉まったあとで、クレイグは静かに言った。
 長い間があった。男はまるでふてくされたようにそっぽを向いていたが、やがてぼそりと呟くように言った。

「俺たちは騙されたんだよ……あいつに」
「あいつとは誰だ?」
「知らねえよ」男は憎々しげに吐き捨てた。「顔も、名前もさっぱりわからねえ。やっぱり、あんな胡散臭い奴なんかに従うべきじゃなかったんだ。くそ! なんでこんな……俺たちは……ちくしょうっ!」

 男の声は話すうちにどんどん大きくなり、最後は叫ぶような調子になった。急に感情的になった男に、男の後ろに控えた二人の職員は身を硬くした。いざとなればすぐさま麻酔で大人しくさせられるようにと、手に持った銃を軽く構える。クレイグは彼らが不必要に割って入りはしないかと注意を向けつつ、男が落ち着くのを辛抱強く待った。
 先ほど、たった今男に銃を向けている職員のうちの一人が、「医療研究所を襲った犯行グループの男が、『あんたらのボスにすべてを話す』と言っている」と報告してきた。それで、男は勾留されていた部屋からここへ連れてこられたというわけだ。せっかく口を割ろうとしている人間を無駄に脅しつけたりして、その気を損なわせてはならない。

「お前たちは誰の指示を受けて動いていた?」

 興奮して荒くなった男の呼吸が静まってきたところで、クレイグはもう何度も繰り返してきた問いを、再度男に投げかけた。

「今の言葉からすると、自分たちの意思だけで犯行に及んだわけではないようだが」
「ああ、違う」
「医療研究所では“はめられた”とも言っていたな」

 短い間のあと、男は顔を上げてクレイグの目をまっすぐに見つめ、語り始めた。

「……俺たちは、依頼を受けたんだ」


* * *


 目がくらむような色鮮やかな光線が駆け巡り、ひしめき合う人々を照らし出す。四方には星々がきらめき、その間を大きな惑星がゆったりと移動していた。ほの暗い空間に様々な光が飛び交っていて、直前まで明るい場所にいた健二はそのコントラストの激しさに目を細めた。
 ラ・スパツィオ――そこは名前の通り、まさに美しさと混沌を兼ね備えた宇宙だった。
 店内は熱気と音の渦に包まれている。派手なエレクトロミュージックに合わせて体を動かす人たちの中で、健二はただただ圧倒され、その場に立ち尽くしていた。店に足を踏み入れた瞬間、思い描いていたものとはあまりにもかけ離れた光景に茫然となってしまったが、徐々に裏切られたことに対するささやかな不満が沸きあがってくる。

「バーみたいなところだって言ったじゃないか」

 隣で店内を見渡しているレイを見上げて言ってみるも、その声は鳴り響く重低音にかき消されて相手には届かない。「え?」と身をかがめて聞き返してくるレイに向かって再び声を張り上げる気にはなれず、健二は首を横に振って視線を前に戻すと、小さく呟いた。

「これはクラブだろ……」


 それより一時間ほど前。二十時が近づくにつれて健二は落ち着きを無くし、拠点のリビングでそわそわしながら、一人でレイが迎えに来るのを待っていた。アマンダは出かけていていなかったので、拠点には休日だったジャンと健二の二人だけという、珍しく、且つ健二にとっては非常にありがたくない状況だった。だが、健二の心配とは裏腹に、ジャンは自分の部屋にこもっていて姿を見せなかった。
 レイは予定通り、二十時ちょっと前に拠点に戻ってきた。一度、自室に着替えに行ったレイは、薄手のトレーナーとジーンズに足元はスニーカーというラフな格好になって再び現れた。健二の方はタイムスリップした時に着ていたスーツだったが、仕事帰りに遊びに繰り出した会社員を装うことになっている。
 出かける準備と外出中の行動についての最終確認を済ませ、八時二十分頃、二人は出発した。移動に使ったのは、これまで健二が本部と拠点を行き来する際に乗っていた車よりも小型の黒い車だ。拠点から直接外に出ることはできないので、二人は一度SGAの本部まで行き、そこから街に出るという手間を踏んだ。
 車が目的地を目指して進む間、健二はまたもや車窓に広がる景色に目を奪われっぱなしだった。夜の闇に包まれた2148年の東京の街並みは、昼間とはまた違った様相を呈していた。人通りは昼間に通った時よりも少ないが、その時よりさらに賑わった印象を受ける。車道を挟んで並ぶ街路樹や高層ビル群はライトアップされ、さながら、街中がイルミネーションで飾りつけされるクリスマスシーズンのごとき華やかさだ。照明は道路を走る車や歩道を歩くロボットに反射し、どこもかしこも温かな光で溢れていた。
 頭上の高い位置では、高架橋の上を新幹線のような物がかなりのスピードで走り去っていった。以前見かけた時に高速道路だと思っていたその橋は、鉄道が通る線路だったらしい。車体の側面に取りつけられたブルーの帯状のライトが暗い空の中に浮かび上がり、細長い光の線だけが移動していくようにも見える。
 やがて、前方に健二たちを待ち構えるように建っている、一際大きなビルが見えてきた。下からは最上階が見えないほど高いが、敷地面積もかなりのもののようで、外観は従来の高層ビルのように天に向かって細く伸びているという風ではなく、重厚感のあるどっしりとした佇まいをしている。
 車は敷地内に続く道へと入っていった。そこで、レイは後部座席の健二を振り返って言った。

「ここが俺んちなんだ。今は拠点に寝泊りしてっから、たまに掃除したり必要なもん取りに来るくらいでほとんど使ってねえけど、いつ戻ってくるかもわかんねえからそのまま残してあんだよ」
「レイの家? これは……マンションなのかい?」

 その言葉に、健二は車の窓に顔を貼りつけるようにして、改めて眼前にそびえ立つ巨大な建造物を見上げた。
 そう言えば、SGAの本部でどこへ行くのかについて話していた時も、レイは「自分の家の下にある店」と言っていなかったか。その時も違和感は感じたものの、聞き流してしまっていた。

「ああ、そっか。時々、健二にはわかんねえ物があるっつーことを忘れちまうんだよな。この中には家もあるけど、店とか、遊べるような場所も入ってんだよ。他にも、病院とかいろんな施設とかな。2015年にはそういう建物は無かったか?」
「マンションの一階が店になってるような建物とかはあったけど、これとは全然違うよ。こんなに大きな建物自体ほとんど無かったし、こんな形の物は見たことが無い……」

 健二が呆けたように建物に見入っている間に、車は吸い込まれるようにして広大な地下駐車場へのスロープを降りていった。
 建物内には膨大な数のエレベーターがあり、各階に停まるものとそうでないものがある、とレイが教えてくれた。エレベーターごとにそれぞれ停まる階と停まらない階が決まっているため、自分の行きたい階によって乗るエレベーターが異なり、場合によっては途中で乗り換えなくてはならないこともあるらしい。
 健二とレイは目的の店――ラ・スパツィオがある三十二階で降りた。フロアにいる人の数は特別多いというわけではないが、それでも決して閑散としているわけではない。レイは「夕方頃まではもっと賑わってるんだぜ」と言っていたが、この時間はすでに閉まっている店も多かった。まだ開いているのは、年中無休らしい食料品を取り扱う店やドラッグストアなどが中心だ。
 深夜まで営業している飲食店や二十四時間営業のスーパーを横目に通路を歩いていくと、いよいよその扉が見えてきた。ガラス窓のついた洒落た赤色の扉には金の取っ手がついている。自動ドアではなく、馴染み深い両開きの扉だ。扉の横の壁には、上品な書体で『La Spazio』と書かれている。
 入り口付近には見張り役のSGA職員が目立たないように待機しているはずだが、健二には誰がそうなのかわからなかった。彼らは怪しまれないための私服姿で、上手く周囲に溶け込んでいた。
 レイが一つ目の扉を引き開け、健二は二つの扉の間にある受付で、偽の個人認証カードを使って入店のための手続きを済ませた。レイの話によれば、それを行わないと奥の扉の鍵が開かないということだ。建物自体には居住区以外なら誰でも入れるが、店――特にこういった酒が飲めるような店は、身分の証明されている者しか絶対に入れないようになっている。それが、レイがここを選んだことに、クレイグも賛同した理由だった。
 ドキドキしながら手続きが終わるのを待っていた健二を、受付の男は笑顔で店へと送り出した。しかし、二つ目の扉を抜けた先に広がっていたのは、健二にとって思いもよらない世界だったというわけだ。レイと劉の言葉から勝手に想像していたものとはまったく違う。どうやら、健二が彼らの好みやテンションについていくことはなかなか難しいようだ。人の趣味を否定しようという気はまったくないが、二人との感覚のずれにはさすがに苦笑せざるを得なかった。
 衝撃から立ち直ると、健二はレイに続いて店の奥へと進んでいった。仕組みはわからないが、天井や壁には宇宙の映像か何かが映し出されているようだ。木星や土星の縮小版は手を伸ばせば触れられそうな、そこに実在しているかのようなリアルさで、周りには本物の宇宙が広がっているかのようだった。
 ダンスをする人々の間を縫って歩いていくと、どこからか光を受けてわずかにきらめく丸いものが、いくつも空中を漂ってきた。シャボン玉だ。シャボン玉は左方向からゆっくり、ふわふわと流れてくる。出所を探ろうと、首を傾けて側にいる人間の肩越しにそちらに視線をやると、そこには白人の男が一人、踊りもせずに立っている。
 シャボン玉はその男の口から放たれていた。小さく開いた唇の間からたくさんの泡が連続して出てきたかと思うと、一呼吸置いて、また同じくらいの量がふうっと吐き出される。いったい、どうやっているのだろう? 健二は興味を引かれ、男に目が釘づけになった。瞼の伏せられた横顔はとても端正に見える。吸い寄せられるように近くに寄っていくと、顔を上げた男と目が合った。やはり、その顔は人形のようにいっそ不自然と言えるほど整っており、頭上のライトに照らされたガラス玉のような瞳は薄い金色をしていた。
 健二はドキリとした。その生気の無い冷たい目に、阿久津賢士に洗脳されている敵の青年――フランツを思い出したのだ。思わず数歩後退ってしまい、肩が何かにぶつかる。今度はそちらに驚いて振り向くと、そこにいたのはレイだった。

「パフォーマー・アンドロイドだよ」レイが言った。
「あ、アンドロイド!? この人が?」

 驚愕のあまり上擦った声をあげてしまうが、幸い、室内を満たしている爆音ともいえる音楽のおかげで大声も目立たない。こちらを気にしている人間は一人もいなかった。

「ああ。いろんな芸をしてくれんだ。まあ、ショーはいつももっと遅い時間になってからだから、今夜は見られねえと思うけどな」
「そうだったのか。人間だとばかり思ってたからびっくりしたよ」
「だろ? ぱっと見じゃあ、一瞬ほんとの人間かどうかわかんねえようなアンドロイドも多いんだぜ」
「すごいな」

 健二はもう一度アンドロイドに目をやった。彼――という表現でいいだろう――は、今も小さな泡の玉を噴き出し続けている。ロボットだとわかった上でまじまじと見ても、外見や動作は生きている人間とほとんど見分けがつかない。もっと見ていたかったが、レイは「行くぜ」と健二に声をかけると、また歩きだした。後ろ髪を引かれる思いで何度もアンドロイドを振り返りながら、健二もその場を後にした。

「なんか飲むか」

 小さなバーカウンターの前まで来ると、レイが言った。その周囲は比較的人が少なく、空間に余裕がある。

「さすがに、俺は仕事中だから酒は飲めねえけど、健二は気にせず好きなもん頼んでいいぜ」
「いや、俺は普段から酒はあまり飲まないんだ」

 健二がそう言うと、レイはちょっと大げさではないかと思うほど目を丸くした。

「そうなのか?」
「ああ。だから、今日は俺も止めとくよ。ノンアルコールのドリンクがあればそれを頼もうかな」
「マジか。てっきり普通に飲めるもんだとばっかり思ってたぜ」

 レイはしまった、という気持ちを表現するように顔をしかめ、額に手をあてた。

「別に、まったく飲めないってわけじゃないんだけどな。っていうか、そういうことは行き先を決める前に確認するものじゃないのか?」

 健二が苦笑しながら言うと、レイは「確かにそうだよな」と素直に認めながら、カウンターに向きなおる。

「ソフトドリンクのメニューある?」

 彼がカウンターの向こうにいる女にたずねると、彼女はカウンター席の上に“浮かんでいる”メニューの一つを手で示した。紫の髪をした女は愛想のいい笑みを顔に貼りつけてはいたが、その動作はどこか機械じみていてぎこちなかった。
 カウンターの上にはホログラムのメニューがいくつも並んでいる。レイはライムとジンジャーエールを使用したノンアルコールカクテルを、健二はオレンジがメインの物をそれぞれメニューから注文し、二人は壁際の小さなテーブルについてドリンクを味わった。健二が頼んだカクテルはジュースのような味だったが、甘すぎず、柑橘系の爽やかな口当たりが心地良い。自覚は無かったが喉が渇いていたようで、一気に三分の一ほどを飲み干してしまった。
 椅子に体を預け、踊る人々と光の洪水をぼんやりと見つめる。一息つくと、健二はバーテンダーをしていた女のことを思い返した。

「さっきのカウンターにいたのも」

 健二が言うと、レイはうなずいた。

「ああ、アンドロイドだぜ」
「やっぱりそうか。こんな店の店員までできるんだな」
「注文してからカウンターを離れてても、ちゃんと店の中を探して届けてくれるんだ。コンピューターで客の顔を識別してるから、うっかり間違えるなんてことは絶対ねえしな。しかも、料理や酒を届けたら一度保存した客のデータは完全に消去、誰かに客の情報を話すなんてこともねえ」
「完璧な店員だ」

 健二は関心して言った。様々なロボットが人間の間に混じり、日常的に活躍している姿を見ると心が躍る。
 そのあと、健二もレイとともに店の隅で軽く踊ってみた。クラブなど十年近く前に来たきりで、その上、普段ダンスをする機会も無いので、最初は気恥ずかしさも相まってなかなか上手く踊れなかった。だが、見よう見まねでリズムに乗っているうちに自然と体が動くようになり、そのうち自分を取り囲む非現実的な空間と音楽の波に身を任せるかのように、無心で踊っていた。しばらくすると、シャツの下には汗がにじんできた。

「でも、まさかこんな店に来ることになるとは思いもしなかったよ。スーツなんかで来ちゃったし」

 音楽が切り替わったところで、健二はレイに言った。

「動きにくかったよな、わりぃ。こういうとこは健二がいた時代にもあったんだよな?」
「ああ。でも、バーじゃなくてクラブって呼び方だったけどな」
「いや、バーっていうのは俺の言い方が悪かったかもしれねえ。この時代でもそうだよ。もともとはバーだけの店だったから、その印象が強くて、ついな」

 話しながら、どちらからともなく先ほどのテーブルと椅子が置かれていた辺りに戻った。

「健二はクラブにはあんまり来たことねえのか?」
「そうだな、二十代前半の頃に友達に誘われて何度か行ったくらいだな。だから、なんて言うか……今日はびっくりしたというか、ちょっと戸惑ったよ」

 正直に言うと、レイは笑った。

「でも、こうやって体動かしてると、悩みごとも何もかも吹き飛んじまうだろ?」 
「確かに、ストレス解消にはなるな。楽しいよ」

 気がつくと、気分はここに来る前よりずいぶんとすっきりしていた。

「ちょっと休憩するか?」
「ああ。また少し喉も渇いてきたしな」

 レイがたずねてきたので、健二はうなずいて近くにあった椅子に腰かけた。しかし、なぜかレイは椅子には座らずに、「じゃあ、こっちだ」と右方向を指差して歩きだす。訳がわからないまま、健二も立ち上がると後について行った。
 向かって左の壁に突き当たると、そこには小さめの茶色いドアが一つあった。店の入り口と同じようにガラス窓と金の取っ手がついている。レイがドアを開けた瞬間、健二はここに来て二度目の衝撃に見舞われた。
 ドアで繋がっていた部屋は、ブラウンを貴重にした上品な内装のバーだった。間接照明の光が、幾重にも重なる複雑な影を作り出している。健二は驚きに目を見張りながら、ダークブラウンの絨毯が敷かれた室内に入った。

「ほんとにバーだったのか……」
「そう、最初は向こうも同じようなバーだったんだけど、いつからかクラブに変わったんだ」

 レイが、親指でクラブの方を指しながら言う。
 防音がしっかりされているようで、扉を閉めると背後の部屋の騒々しい電子音はほとんど聞こえなくなった。こちらは隣の部屋とは対照的に、落ち着いたジャズが流れている。それほど広くはない。暗いので一人一人の顔ははっきりとは見えないが、店内にいる客は十人に満たなかった。小さなテーブル席が五席ほどで、左手にバーカウンターがある。客に酒や料理を届けているのはアンドロイドではなく床を滑るように移動するロボットで、どれもアンティークのようなデザインだった。
 レイが得意げに言った。

「クラブかバーか、自分の好きな方を選べるし、一度にどっちも堪能することだってできる。踊ってて疲れてきたなと思ったら、すぐに静かなバーに移って休めるってわけだ。便利だろ?」

 二人がどの席に座ろうかとテーブル席の方を見回していると、スーツ姿の男二人がこちらに歩いてきた。二人とも三十代くらいだろうか。隣のクラブとは違って周りが静かなので、彼らの会話が健二にも聞こえてくる。

「あいつ、本当にヤバイな」
「ああ。もう何を言っても無駄だ。関わらないようにするしかない」
「その、今度の集まり……議院の竹下も来るって言ってたんだろ?」

 男の一人は人に聞かれたくない話をするように声を低くしたが、かろうじて内容は聞き取れた。それにつられてか、もう一人の声のトーンも少し抑えたものになる。

「ああ……まあ、あいつの言うことだから真実かどうかはわからないけどな」
「そりゃそうだ。しっかし、秘密の集会とはなあ。やることが完全に悪役みたいになってるじゃないか。何かやらかすつもりなのかな。なんにしろ、面倒なことにならなければいいけど」

 二人の男は健二とレイの横を通り、クラブに続く扉を開けた。その途端、賑やかなエレクトロミュージックがジャズと混ざり合うようになだれ込んでくる。

「そうやって脅威を滅ぼそうとして、今度は自分たちが知らずに社会にとっての脅威になっていくんだな。本人はそのことに気づいてないんだよ。いろんな反対運動とかデモとかやってる、中でも過激派の団体はな。アンチ・テクニシズムだって同じだ」

 入り混じる音とともに二人組の片方が最後に言うのが聞こえ、やがて静かになった。

「ちょっと待っててくれ」

 突然、レイが硬い声で言った。小さな声だったが、その硬さのせいで鼓膜に突き刺さるような鋭さを持って健二の耳に届いた。

「え?」

 驚いてレイを見ると、その視線は扉のガラス越しに、たった今すれ違った二人組の背中に留められている。ついさっきまでにこやかに緩んでいた表情は一気に深刻さを帯び、眉間にはしわが寄っていた。彼は険しい目つきのままカウンターを指差すと、早口で言った。

「あそこのカウンターの中にじいさんがいるだろ? こっちのマスターは人間なんだ。俺もここに来た時はいつも話をしてて、親しくしてもらってる人だからあの人は安全だ。他の人間の側にいたら、変な奴が近づいてくることもねえだろう。すぐに戻るから、先にカウンターの席に座って待っててくれ」
「え、でも……」

 健二はうろたえた。外出についての説明や注意を受けた際に、レイ自身から「外では絶対に俺の側を離れるな」と言われていたのだ。

「俺の友達の振りをして、話しかけられたら適当にごまかしながら答えればいいから。何かあったら教えた通り、ボスに連絡しろ」

 そう言い残すと、レイは扉の向こうに消えた。健二は数秒間、ぽかん、と口を開けたままその場を動けなかった。咄嗟に後を追いかけようかとも思ったが、“レイの側を離れるな”と同時に、クレイグには“レイの指示には絶対に従え”とも言われていたことを思い出す。不自然な行動を取って注目を浴びても困るので、ここはレイの言う通りにすることにした。
 カウンターに近づくと、レイの言っていたマスター――日本人と思しき六十がらみの男――が「いらっしゃいませ」と声をかけてくる。健二も軽く頭を下げて、カウンターの真ん中辺りの席についた。カウンターには両端に数人が座っているだけで、健二の隣はどちらも空席だ。2148年で初めて訪れた場所で、しかも自分の正体を隠している状況で一人きり、ということにひどく緊張し、落ち着かなかった。手のひらに汗がにじんでくる。
 隣のクラブのバーと同じようなホログラムのメニューが、健二の目の前に現れた。注文を聞かれるが、「もうちょっと考えて、決まったら言います」と伝える。マスターは微笑み、他の客と話しに行った。少し緊張が解ける。
 それにしても、レイはなぜ急に健二の側を離れて行ってしまったのだろう? それも、健二に何の説明も無いまま。彼の様子からすると、どうやら、先ほどのスーツ姿の男二人を追おうとしていたようだ。彼らの会話か、もしくは別の何かによっぽど気になることがあったのだろうか。健二が心許ない思いで考えを巡らせていると、隣に人が近づく気配がした。



>> To be continued.



読んでくださってありがとうございます!
雑記の方で今月中に更新すると言ったのに、2月は28日までだということをうっかり忘れていて危なかった(笑)

四話のこのバー(クラブ)のところはかなり前から考えていたシーンだったので、ようやく本編の中で描けて嬉しいです。
こういう、ちょっと楽しそうな場面って久々な感じがしますね!

いつも拍手を下さる方々、本当にありがとうございます!!とても励みになっています!

小説を読んでくださった方は、もしよろしければ各記事の拍手ボタンを押していただけますと幸いです。
読者数の参考にさせていただきます(もちろん強制ではありません)

Pagination