未来への追憶 第五話 - 02

* * *


 狭い車内に閉じ込められてから、ずいぶん長い時間が経った。辺りは暗く、静まり返っている。エンジンをかけたまま歩道に寄せて駐車している車も、なんの音も発さずに沈黙している。聞こえてくるのは、誰かが体を動かしたときのごそごそという衣擦れの音と、片耳に装着したワイヤレスイヤホンが時折伝えてくる、通信機越しの声だけだ。
 阿久津健二はスーツの上着に包まれた左腕を軽く折り曲げると、自分の手首を見た。そこには、2015年で生活していたときから使っている腕時計が、この時代――2148年の携帯通信機とともに重ねづけされている。時刻は通信機でも確認できるため必要は無いのだが、この時計は自分が130年以上前の時代を生きていたことを証明する数少ない持ち物なので、お守り代わりとしてつけていたかったのだ。
 車内灯は点いていないので、歩道に沿って並ぶ街灯からの光と、前部座席や後部座席の周りに設置されたディスプレイの薄い明かりを頼りに、文字盤を確認する。針は一時十分を示していた。午後ではなく、午前一時過ぎ。深夜だ。
 もう数時間、こうしてじっと座っている。同じ姿勢でいるため体はひどく強張っているだろうし、精神的にも緊張が解けない状態が続いていたが、不思議と疲労感は感じなかった。
 健二の両脇には、頭や体を防護するためのヘルメットと特殊な衣服を身に着けた男たちが座っている。彼らはライフルのような武器を手にしていたが、健二が映画などで見慣れている通常のライフルとはずいぶん形状が異なっている。未来にやって来てからの一ヶ月半ほどの経験から、彼らの手にあるそれはおそらく麻酔銃ではないか、という推測は健二にもできるようになっていた。
 前の座席には健二の隣に座っている男たちと同じ、武装部隊の隊員が一人と、犯罪捜査部の職員が一人いる。全員、健二が初めて会った人物ばかりだった。誰も無駄口は叩かないし、健二に話しかけてもこない。
 車窓を見ると、明かりの消えたビルや工場が、こちらを見下ろすようにひっそりと建っていた。車を停めている場所から五十メートルほど先には、広い通りも見える。さらにその先、通りを隔てた夜の闇の向こうに目を凝らすと、守られるように塀に囲まれた建物の群れが、ぼんやりと浮かび上がっている。塀の内側には、大きな四角い建物がいくつも建っているようだ。窓が少なく、何の装飾も施されていない倉庫のような建築物が何棟も並んでいる様は殺風景で、冷たく近寄りがたい印象を受ける。その中で、塔のごとく高い建物が一棟だけ、周囲を監視するようにそびえ立っていた。

「健二くん、大丈夫?」

 不意に、左耳のイヤホンから藤原ゆかりの柔らかい声がした。突然呼びかけられて一瞬うろたえた健二は、シートの背もたれに軽く預けていた体を起こした。意味も無くイヤホンに手を添えながら、「はい、大丈夫です」と返す。周りが静かなせいで、自然と抑えた声になってしまった。
 マイクはイヤホン部分と一体になっているようだったが、あまりにも小型であるため、相手にちゃんと声が届いているのか不安になる。2015年にもこれと似たようなイヤホンマイクなどはあったが、健二は使ったことが無いので未だに慣れず、話しづらかった。

「緊張してるか?」今度はレイの声がする。その問いは健二に向けられたものだ。
「すごく緊張してるよ」
「まあ、そりゃそうだよな。作戦会議のときも言ったけど、無理だと判断したらすぐに撤退するし、あんま心配すんなよ。何かあったら、そこにいる武装部隊の奴らが逃がしてくれっから」
「ああ。みんなも気をつけて」健二は祈りを込めて言う。
「おう、サンキュ」

 レイの軽い返事を最後に、会話は途切れた。
 SGAは今まさに、重大で危険な作戦を展開しようとしているところだった。
 阿久津賢士の事件を担当する捜査チームのメンバーは今、健二の乗っている車から見える、塀に囲まれた建物の一帯――阿久津コーポレーションの研究所に向かっている。そして、健二は阿久津賢士の前に姿をさらし、自分が何者であるのかを自ら告げるべく、待機しているのだった。


 フランツによってアンチ・テクニシズムの人間が数十人も殺害されるという、残虐な事件が起こったあとも、拠点での生活は穏やかだった。現実にあんな出来事が起こったなんて、ましてや自分がそれを目撃したなど、到底信じられない。未来へのタイムスリップという非現実的な現象さえ、今では実際に起きたことだと受け止めている健二にも、あの事件だけは夢だったのではないかと思えるほどだ。
 レイから、ニュースではパーティーがアンチ・テクニシズムの集まりであったことは伏せ、犯行はテロ組織――SGAが作り上げた架空のものらしい――の一員によるものだと報道している、という話は聞いていた。だが、健二は相変わらずテレビやインターネットを見ることは許可されておらず、彼自身が直接ニュースを見たわけではないので、より実感が湧かないのかもしれない。
 拠点の廊下の窓からは、緑にあふれた中庭が見える。何日か前にひどく天気の荒れた夜があり、その際庭に出していたプランターを屋内に入れ忘れてしまっていたせいで、ゆかりの育てている花は大半が暴風で吹き飛ばされてしまった。それでも、無事だったいくつかの植物はまだ鮮やかな花を咲かせており、ゆったりとした時間の中でそれを眺めていると、この世界は平和そのもののように感じられた。
 その一方で、夜にベッドに横になって目を閉じると、あのとき目にした光景がふっとまぶたの裏に浮かび、なかなか寝つけないこともあった。惨たらしい方法で殺された男の死体や人々の悲鳴、銃声、ホールの床や壁に付着していた血。そういったものが思い出されたり、自分もあと少しで死んでいたかもしれない恐怖がよみがえってきて、時には悪夢を見て目覚めた。
 そして、何より忘れられないのは阿久津賢士の声だった。老いてはいても威厳の感じられる彼の声とその言葉だけは、夢の中の幻のようにぼやけることもなく、くっきりと健二の記憶に残っている。
 文芸交流センターで阿久津賢士の声を聞いて以来、健二は拠点で過ごす間、ほとんど彼のことを考えていた。2015年のことばかりを思い出して気持ちが沈むことは無くなった。
 拠点には常にチームのメンバーが誰か一人は必ずいたが、アマンダがSGAの一員となってからは、一人で時間を潰すことが増えた。これまで暇なときにそうしていたように、読書をしたり庭に出て外の空気を吸ったり、ストレッチをしてみたりしつつ、阿久津賢士と阿久津コーポレーションについて改めて調べた。資料は充実していなかったが、SGAから借りているPCに入っているデータや紙の冊子など、健二が確認できるものはすべて、隅々まで読み尽くした。
 だが、それらの資料を読んだところで、彼が何を考えて、あのような非道で残酷な犯罪を重ねているのかまったくわからない。
 健二、健二の両親、大好きだった祖母。そして、写真を見ただけでも、慈愛に満ちた温かい人柄が伝わってくるようだった健二の娘、阿久津留美。阿久津賢士の存在、悪意だけが、その誰とも繋がらない。なぜ、阿久津賢士は誤った道に進んでしまったのだろう。いったい何が、いつ、彼をそうさせたのか? 健二はまだ、自分のひ孫についてほとんど何も知らないままなのだと痛感する。
 レイやクレイグたちに、阿久津賢士の一個人としての人生や性格など、彼の人間的な部分についてもっと詳しく触れている資料や情報が無いか、聞いてみようと思った。
 阿久津賢士は2148年の日本を代表する大企業の、トップに立つ人間だ。それほどの地位を持つ有名人なのだから、彼の生い立ちの紹介やインタビューの記録など、きっと何かあるはずだ。そこから、彼の内面を探るヒントを得られないかと思ったのだ。
 しかし、捜査チームのメンバーは皆、事件の処理や捜査のために忙しく、なかなか話をする機会は持てなかった。健二は、一人で悶々と頭を悩ませる時間が続いた。何をどのように話せば、彼に言葉が届くのだろうか。
 その答えが出ないうちに、阿久津賢士と接触するチャンスがやってきた。
 健二は、午前中に彼を呼びに来たレイとアマンダとともに、SGAの本部に赴いた。この日に今後のための作戦会議が開かれることも、それに健二が参加する必要があることも、事前に聞かされていた。

「朗報だぜ」

 拠点の廊下を歩いているとき、レイは健二を振り返ってそう言った。このところ緊張した表情を見せることの多かった気がするレイだが、この日は見るからに生き生きとした明るい雰囲気をまとっているのが、前を歩く広い背中からも伝わってきた。
 健二がSGAの本部を訪れるのは、これで四度目だ。四度目ともなれば、車に乗って拠点から伸びる専用の地下トンネルを通るのにも、広大で活気に満ちた本部のセキュリティゲートで、身分確認のために個人認証カードを提示する行為にも、だんだん慣れてきた気がする。
 今回の会議が開かれたのは、これまで健二が入ったことのある会議室とは違う、もっと広々とした部屋だった。スクリーンやディスプレイも設置されているようだが、そこには何も映し出されていない。代わりに、部屋の中央に備えつけられた会議用のテーブルが青白い光を発していた。縦長の大きなテーブルの上には、ホログラムの画像や、文字がびっしりと書かれたデータ、3Dの地図のようなものなど、様々な資料が浮かび上がっている。
 暗い部屋に足を踏み入れた途端、健二は部屋の様子だけでなく、そこに漂う空気がいつもと違うことに気がついた。今までのようにただ張り詰めているというのではなく、どことなく陽のエネルギーが満ちているように感じる。
 会議に出席する顔ぶれは前回と同じく、レイやクレイグを初めとする犯罪捜査部の五人と調査部の劉、そして健二だ。テーブルの周りには椅子もあったが、広範囲に渡って投影されている資料を見やすいよう、全員、テーブルを囲むように立ったままだった。
 健二の側には、左腕だけ上着の袖に通さずに、肩に上着の片側をかけている格好の劉がいた。

「怪我、大丈夫ですか?」
「ああ、もう全然平気だから。もともとたいしたことなかったしな」

 数日ぶりに顔を合わせた劉に声をかけると、彼は楽天的な笑顔を見せた。その元気そうな様子に、健二はほっとする。

「上層部から、一連の事件が阿久津賢士の犯行だということを公に報道する必要性が認められた」

 会議が始まると、机を挟んで健二の正面に立っているクレイグが言った。

「だが、今すぐに公表しても、メリットはほとんど無い。被害をできるだけ抑えて阿久津賢士を逮捕するために、事件の公表を有効に活用できる時期や手順を考えなくてはいけない。今までのように受身的に事件が起こるのを待つのではなく、先手を打つような作戦を進めていくことが必要だ。その第一段階として、こちらから阿久津コーポレーションの研究所まで行く」

 健二の目が、驚きに見開かれる。

「大丈夫なんですか?」

 思わずそう口に出していた。幸い生意気な調子にはならず、純粋な心配のあまり聞いてしまった、ということが表れた声音になった。
 阿久津コーポレーションの施設は、いわば敵の本拠地のようなものだ。人間離れした身体能力を持つ阿久津賢士の“部下”も皆、そこにいるのだろうし、銃などの武器や戦闘用ロボットも豊富にそろえているかもしれない。相手はそれらを自在に扱い、万全の準備を整えてこちらを迎えられるということになる。前にクレイグ自身、研究所へ攻め入るのは難しいと言っていた。これまでSGAが彼らに対抗できなかったことから考えても、あまりにも危険ではないだろうか。

「確かに大きなリスクを伴う作戦ではあるが、事態が良くない方向へ進展している以上、何もせずにただ期を待ち続けているわけにはいかない。それに――」

 そこでクレイグの眉間に力が入り、わずかに表情が曇るのがわかった。

「テクノロジー開発を行っている企業などへのアンチ・テクニシズムの反発が、この間の事件以降、より激しくなっている。自分たちの団体のパーティーが襲われたことに刺激されたんだろう」
「いくら、被害に遭ったのがアンチ・テクニシズムのパーティーだったことを伏せて報道しても、実際に団体に所属している人たちにはわかってしまいますものね」

 悩ましさの滲んだ声で、ゆかりが言った。

「ああ。まさか、阿久津賢士の仕業であると気づいているわけではないだろうが……調査部や情報部が調べたところによれば、アンチ・テクニシズムの活動に反対する人間が企てたものではないか、とは思っているようだな」

 そう言いながら、クレイグがちらりと劉に目を向ける。劉が首を縦に振るのが、健二の視界の端に見えた。

「アンチ・テクニシズムの活動がますます過激化し、文芸交流センターのときと同じような事件が再び起こることを防ぐためにも、早めに動き始めたい」
「そうですね」

 クレイグの言葉に深く首肯しながら、ゆかりが神妙な声で言った。
 それには、健二も心の底から同感だった。過激な団体に所属していたとはいえ、罪を犯したわけでもない一般人が何十人も犠牲になるような事件など、もう二度と起こってほしくない。

「それと、今回より武装部隊を初め、作戦に参加する人員を増やしてもらえることとなった。チームメンバーではない特別犯罪捜査課などの職員にも、必要があれば、その都度臨時で作戦に加わってもらう」
「これでやっと、俺たちも攻めに出られるってことだ。今は健二っつー切り札もあるんだしよ」

 右手の親指を立て、レイが健二に笑いかけた。彼が「朗報だ」と喜んでいたのはこれが理由だったらしい。
 クレイグはレイの言葉に「ああ」と同意し、続ける。

「それに、施設の中まで入るわけではない。当然だろうが、阿久津コーポレーションの研究所は、非常に厳重な警備体制を取っているのが外から見てもわかる。以前も言ったように、そもそも簡単に入ることは不可能だ。我々が近くまでいけば、向こうはすぐに気づくだろう。阿久津賢士が、近づいてきた我々に対して何かしらの反応を示したところで、我々の方も次の行動に移る」

 そこで一息置いてから、クレイグは具体的な作戦についての説明を始めた。
 テーブルの上に小さな町を描き出している立体の地図は、都内の外れにある、小さなオフィスビルや工場が建つ地区のもののようだ。そして、その中心に、他の建物と少し離れて位置しているのが、阿久津コーポレーションの研究所だった。前にクレイグから聞いた、本部とは別に阿久津賢士が所有しているもので、一部の部下を除き、社員ですら入れないという例の施設だ。
 クレイグは研究所の場所や造りについて述べたあと、作戦当日の流れと、メンバーの配置や動きなどを、順に説明していった。
 健二は神経を集中させ、クレイグの話の一言一句に聞き入った。彼の言葉に沿って、自分が阿久津コーポレーションの研究所へ行き、SGAの指示通りに動いている様子を思い浮かべる。まるでこの瞬間、会議室の床ではなく、ホログラムによって形作られている通りに立ち、研究所を目の前にしているかのような臨場感を持って想像できた。緊張と一種の高揚感で、手のひらに汗がにじむ。

「作戦は六月二十五日に実行する。それまでは何度か会議を開き、必要があればそのときの状況に応じた細かい調整や、主に健二の動きを中心とした演習を行う」

 そう締めくくってから、クレイグは全員の顔をゆっくりと見回した。

「今回の作戦の一番の目的は、健二の存在を阿久津賢士に知らせることだ。阿久津賢士を逮捕したり、洗脳を施された彼の仲間を捕らえることではない」
「まずは、阿久津賢士の反応を見ることですね」

 ゆかりが言い、クレイグは彼女の方を見ながらうなずいた。

「そうだ。彼の出方を見ながら、こちらがより動きやすくなるように健二の存在を上手く使い、次の作戦を考える。そして、タイミングを見て事件を公表し、阿久津賢士の逮捕へと繋げる」

 クレイグの言う“健二の存在を上手く使う”とは、主に健二自身が以前に言った、健二を人質のようにして使い、相手との交渉に利用するというものだ。

「阿久津賢士に連れ去られた者のうち、公の場や我々の前に姿を現したのは和泉かおると、身元のわからない“フランツ”という名前の男だけだ。誰か一人を捕らえたとしても、別の被害者が阿久津賢士の手の届く範囲にいる状態では、それこそ人質として使われたり、危害を加えられたりするかもしれない」
「そうっすね」

 レイが相づちを打ったが、その声は以前のミーティングのときのように、暗く沈んだものではなかった。
 強制的に悪に加担させられている被害者全員を無傷で解放することも、阿久津賢士の事件の解決を目指す彼らの任務の中で、重要なポイントだ。特に、家族や友達など、近しい人間が捕らわれているレイやゆかり、アマンダにとっては尚更のことだろう。

「阿久津賢士に拉致された被害者が、今わかっている以外にもいるのかどうかは定かではないが、少なくとも現在、彼の元にいるのが確かな和泉かおる、日向虎太郎、シンディー・オルコット、そしてフランツが同時に集まる状況を作り出した上で、彼らの動きを一度に封じて保護し、阿久津賢士を逮捕するのが望ましい」

 ジャン以外の全員がうなずいて、クレイグの発言に無言で同意を示した。腕を組んで端に立っているジャンも、いつものごとく仏頂面ではあったが、別段険しい顔つきをしているわけでもなかったので、特に反論や気に入らないことがあるわけではなさそうだ。

「他に被害者がいないかどうかも、別の方面とかから、もっと調べてみた方がいいかもしれないっすね」
「東京周辺だけじゃなく、全国の行方不明者リストをもう一度調べなおすよ」

 レイの意見にはクレイグではなく、劉が答えた。
 そこで会議は一段落つき、クレイグがテーブルに設置されているらしいスイッチを操作して、室内の照明を点けた。頭上や壁に点ったオレンジがかった光が、室内にぼうっと広がっていく。テーブルの上のホログラムの資料などはそのままだったが、電気を点けただけでずいぶんと部屋の印象が変わった。室内が明るくなるとともに、どこか晴れやかな空気が会議室を覆っていくようだ。

「健二の存在を知れば、以前、健二自身が言ったように、おそらく阿久津賢士はこちらへの接触をはかってくるだろう。その場合、直接コンタクトを取ろうとしてくるか、我々を誘い出すためにわざと事件を起こす可能性が高い」

 会議の最後に、クレイグは再び口を開いた。

「もしくは、チャイムを押して訪ねてくるかっすね」

 ニヤリと笑みを浮かべながら、レイが軽口を叩く。ようやく自分たちの方から積極的に動けるときが来たことで希望が見え、朗らかな気分になっているのだろう。
 アマンダと劉はレイの冗談に笑ったが、クレイグやゆかりは緊張感のある面持ちのままだった。いつもならレイをぎろりと睨みつけるくらいのことはしそうなジャンも、テーブルの上の3Dマップから目を離さない。
 健二もやはり、不安な気持ちの方が強かった。

「ほんとに、拠点に阿久津賢士の仲間が来たりすることはないんでしょうか?」

 健二はクレイグにたずねた。あの平穏な拠点に、突如フランツやかおるが現れることを考えると、それだけで怖気立つようだった。

「無いとは言い切れない。拠点の場所が阿久津賢士に知られている可能性は限りなく低いが、念のため、本部と拠点の警戒は強くしておく必要があるだろう」

 クレイグの答えは健二を安心させるに足るものではなかったが、彼の言う通り監視や警護を強め、もしものときに備えて注意しておくしか方法は無いだろう。
 不安も、これから自分たちが挑むことへの恐怖心も消えることはない。それはおそらく、健二だけでなく皆が同じだろう。それでも、この日の会議には全体的に、活力がみなぎっているような、明るい勢いがあった。

「この作戦が上手くいけば、事件の解決にぐっと近づけるかもしれねえな」

 腰に手を当てていたレイが、片方の拳を強く握った。深い緑の瞳が輝いている。

「がんばろうね!」

 今回から他のチームメンバーとともに作戦へ参加するというアマンダが、明るい声を上げた。
 そんなレイやアマンダなど、周りの意気軒昂な雰囲気に引っ張られ、健二もわずかにではあるが前向きな気持ちと期待感を持って、会議室を後にすることができた。


 それが、健二の一週間前の記憶だ。そのとき、簡略化されて縮小された姿を、会議室のテーブルの上に浮かび上がらせていた阿久津コーポレーションの研究所。その実物が今、健二の目と鼻の先にある。
 車の後部座席の窓ガラスには、硬く心配げな表情をした健二の顔が、うっすらと映っていた。フロントガラス以外の窓は拠点の窓と同じく、車内から外の景色を見ることはできるが、反対に外からは中が見えない仕様となっている。
 周囲の通りを走る車は一台も無く、歩道を歩く人の影も無い。あらかじめ、SGAが監視システム――町の状況を常にSGAに知らせるためのカメラのことで、阿久津コーポレーションの研究所付近にも設置されているようだ――のメンテナンスを装い、この区間への夜間の立ち入りを禁止したのだ。研究所へ続く各通りでは、今も武装部隊の隊員と警備ロボットたちが、通行止めの表示を掲げて道をふさいでいる。
 クレイグが、健二の前の席に座っている武装隊員と通信で話しているのが聞こえていた。
 まず、クレイグたち捜査チームのメンバーが車で研究所に近づき、阿久津賢士に呼びかけて対話を試みる。健二が出て行って話をできそうな状況になれば、クレイグが連絡してくることになっている。連絡が来れば、健二も護衛のSGA職員や武装隊員と一緒に、車に乗ったまま研究所のすぐ前まで移動し、チームのメンバーと合流する。
 研究所の周りには健二の乗っている車以外にも、武装部隊の別チームの車が何台か、研究所を囲むように散らばっており、阿久津賢士と対するときに備えていた。

「健二、聞こえるか?」

 健二が車外の様子をうかがっていると、クレイグの声が今度は健二に呼びかけてきた。

「はい、聞こえます」
「これより、我々は正面入り口に接近する。君は私たちが連絡するまで、何があっても絶対にそこを動くな」
「はい」健二の緊張が急速に高まった。
「君が出てこられると判断した場合は、通信で指示を出す。君は、一緒にいるSGAの職員たちとともに、作戦に従え」

 いよいよ、このときがやって来た。健二のアイデア、提案をもとにした作戦を実行に移すときだ。阿久津賢士に顔を見せ、彼と――健二のひ孫と話すときだ。その作戦が成功すれば、もう隠れることはできない。

「わかりました」

 健二は気を引き締め、今一度決意を固めるように背筋を伸ばしながら、力強く答えた。


* * *


 夜空を背景にして、黒々とした影のように立ちはだかるその大きな建物が迫ってくるにつれ、レイは心臓の辺りが締まるような心地になり、麻酔銃を握る手に力がこもった。鼓動が速まり、全身の神経が研ぎ澄まされていくような感覚に襲われる。いつの間にか呼吸が浅くなっていたことに気がつく。鼻から大きく息を吸って呼吸を整えながら、レイは目の前に高くそびえる塀を睨みつけた。
 リアシートが対面となっている六人乗りの車には、レイの他にクレイグとジャン、ゆかり、アマンダの四人が乗っている。そのすぐ背後には、武装部隊の車がぴったりとついてきていた。どちらも防弾装甲仕様の車両だ。
 車は大通りを右折し、今や研究所の正面ゲートまで一直線に向かう私道に乗り入れている。一足先に研究所に接近していたSGAの偵察用ロボットが、空に浮かんでいた。車からは見ることのできない研究所内の動きを、チームメンバーに伝えるためだ。ロボットは本部からの遠隔操作が行われている。
 何者も通すまいと言わんばかりの高さと厚みを持った塀が、研究所の四方をぐるりと取り囲んでいる。偵察用ロボットなら上空を移動して中に入ることもできるのだが、さすがに今日は塀を越えることまではしない。あの高さなら、建物の死角となった範囲を除けば、敷地内もかなり先の方まで見渡せる。
 この塀のあちら側のどこかに、阿久津賢士がいるのだ。ついに、こんなにも彼に近づくときがやってきた。
 そして、あそこには――今、レイの眼前に見えている阿久津コーポレーションの研究所には――レイの親友だった虎太郎とシンディーもいるはずだった。そのことを思うと、今すぐあの塀の向こうに乗り込んで二人のもとへ駆けつけたい、という衝動が奔流のように込み上げてきて、突き動かされるままに車から飛び出しそうになる。
 一度感情があふれ出すと居ても立ってもいられなくなりそうなため、普段は意識的に抑えているが、レイの胸の中は二人の親友の無事を確認し、一刻も早く助け出したいという切実な願いでいっぱいだった。
 だが、親友も他の被害者たちも、今すぐに救うことはできない。今日、ここに来た目的はそれではない。まずは事前に立てた作戦通り、健二の存在を知らせなければ意味が無い。今、自分が無計画に飛び込んだところで、虎太郎もシンディーも助けられないことなど、最初からわかりきっていることだ。そう自分に言い聞かせ、奥歯を噛みしめて堪えた。
 レイの正面の席にはゆかりが座っている。レイは彼女に気づかれないよう、ちらりと目だけを動かしてそちらに視線をやった。彼女の小振りな顔は、半分ほどが手元の携帯機器が発する青みがかった光で照らされているだけなので、表情を読み取るのは難しかった。柳眉は苦しげにひそめられ、強張った目元や引き結ばれた口元にも悲しみが表れているようではあったが、冷静さを失っていたり、特別に取り乱したりしている風ではない。
 阿久津コーポレーションの研究所を前にして心を乱されるのは、レイだけではない。ゆかりも、そしてレイの後ろに座っているため様子はわからないが、アマンダも同じなのだ。
 自分がしっかりしなくてはいけない。そう思うと、体の奥からエネルギーが湧いてくるように感じた。
 つい先ほど、通信機で言葉を交わした健二の声を思い出す。暗くはなく、意を決したような力強さはあったものの、不安を感じていることもはっきりと伝わってくる声だった。
 レイ自身も、SGAの職員ではなく、ましてやこの時代の人間ですらない健二が、果たしてSGAとともに重大な作戦を成し遂げられるのかということについて、懸念が無いと言えば嘘になる。能力的な部分ではなく、彼の精神的な面の方を心配していた。
 だが、すべてが無事にSGAの計画と思惑通りに進んだときは、きっと立ち止まっていた事件解決への道を大きく一歩前進することとなり、そこからさらに道は開けていくだろう。そのことを思えば、暗闇に明るい光が差すようで、レイの気持ちは上向きになった。
 きっと大丈夫だ。なんとかなる。上手くいく。レイは繰り返し心の中で唱えた。
 現在、車は手動運転モードで走行しており、ハンドルを握っているのはジャンだ。ゆっくりと進んでいた車は、事前に決めていた通り、固く閉ざされているゲートの数メートル手前で停車した。後続する武装部隊の車も停まる。

「ここで、阿久津賢士が何らかのアクションを起こすまで待機する」

 前部座席に座るクレイグが、軽く後ろを振り向きながら言った。「はい」というレイとゆかりの返答が重なる。
 それからしばらくの間、何も起こらなかった。辺りには変わらず静けさが降りていて、頭上を旋回する偵察ロボットを除けば、動くものは何も無い。
 通信機からの報告や周囲のかすかな物音を聞き漏らさないよう耳を澄ませながら、全員が無言で待ち続けた。
 ジャンでさえが一言も発さず、口を閉ざし続けていた。怒っているような厳しい顔で研究所を見つめている彼に目を向けたとき、レイはふと、近頃はジャンが以前のように作戦に異を唱えたり、むやみにクレイグに噛みついたりすることがほとんど無くなったことに思い至った。健二を信頼して作戦に参加させることに関しても何も言わない。だが、それはジャン自身がチームのやり方に納得して意見を変えた結果というより、諦めからのものであるようにも思え、良い変化だとすんなり喜ぶことができない。
 思わずジャンのことに意識がそれてしまったレイは、渦巻き始めた思考を振り払うようにジャンから視線をそらし、研究所と周囲の動きに注意を戻した。ジャンのことは、また一度それとなくゆかりに聞いてみればいいだろう。一つ屋根の下で暮らしているチームメンバーにさえ心を開いていない彼も、ゆかりにだけは自分の胸中を打ち明けているかもしれない。
 緊迫した静寂が流れる。その状態で数十分が過ぎた頃、レイの中に、このまま沈黙だけが延々と続く可能性もあるのではないか? という考えが浮かんできた。緊張からずっと眉を寄せていたため、眉間が凝っている。レイは顎に手をやりつつ、再び大きく息を吐き出した。張り詰めていた神経の糸が緩みそうになる。
 ジャンが溜息をつき、わずかに腰を上げて座席に座りなおした。その顔つきは先ほどよりも険しさを増している。

「動きがありませんね」

 ゆかりが言った。ジャンが苛立ちを口にする前に先手を打って、彼のじれったさを和らげ、場の空気を無駄に悪くするのを防ぐ目的もあったのだろうか。
 言葉をかけられたクレイグは、研究所から目を離さずに「ああ」と答えただけだった。
 ゲートの両脇には二台の監視カメラが取り付けられており、侵入を企てる者を余すことなく映し出そうと、生き物のようなレンズがこちらを見下ろしているのがうかがえる。おそらく、阿久津賢士はSGAが正面ゲートのすぐ前まで来ていることには気づいているはずだ。いや、それ以前に幾筋か離れた通りで待機していたときからすでに、彼は自分の本拠地とも言うべき研究所ににじり寄ってくる敵の存在を知っていただろう。
 もしかすると、阿久津賢士はこちらの予想に反し、ここまで近づいてきた自分たちに対して無視を貫き通すのかもしれない。頭のどこかでは、そんなことはない、という予感を確かに感じていながらも、そのような憶測がレイの脳裏をよぎった。
 もちろん、数時間粘っても阿久津賢士が何の反応も示さなかった場合は、今日のところは一旦引き上げることとなっている。進展も得られないが、同時に危険な状態に陥ることも免れる。悔しがればいいのか、ほっとすればいいのか判断しがたい。
 だが、レイのそんな悩みは一瞬で吹き飛んだ。

「敷地内の一番手前の建物からフランツが出てきました」

 偵察用ロボットのカメラ映像を受信し、本部で監視の任務に就いている劉の硬い声が、通信機を通して告げてきた。その場にいる全員が息を呑み、身を固くしたのがわかった。
 クレイグが口を開いたのが見えたが、劉の報告に誰も何も問い返す間もなく、正面の重厚な金属のゲートが、ゆっくりと横にスライドして開き始めた。



>> To be continued.



読んでくださってありがとうございます!!
最近は一回の文字数が結構多くなっていますが、読んでいただけてうれしいですm(*_ _)m

第四話まで、SGAは阿久津賢士側に対してほとんど何もできない状況で、特に第四話は成す術も無く悲惨な事件も起こってしまいましたが、今回はようやくSGAが攻めに出る始まりの部分でした。
ここから今までとはだいぶ雰囲気の違う展開となり、第六話まで続いていく感じになると思います!

拍手等下さる方も、いつも本当にありがとうございます!^^*

読者数の参考にしたいので、小説を読んでくださった方は各記事の拍手ボタンを押していただけますと助かります。
もちろん強制ではありませんので、気が向いたらで構いません!


未来への追憶 第五話 - 01

「あー、あっちい」

 レイモンド・ストレイス――レイは、額から流れ落ちてくる汗を手の甲で拭った。日差しから目を守るため、眼帯で覆われていない左目の上に手をかざして頭上を見やると、立ち並ぶビルの合間には雲一つ無い青空が広がっている。降りそそぐ太陽の光は、目の前のアスファルト舗装の道路や、そこを行き交う自動車の車体、通りに並ぶ建物の窓ガラスなど、至るところに反射している。
 梅雨に差しかかったことにより、連日雨に見舞われていたことが嘘のような、久しぶりの晴天だった。それに伴って気温も上昇し、レイが身に着けているSGAの犯罪捜査部の制服――まるで防寒用のロングコートのような黒の上着――は非常に暑苦しかった。体中からじわじわと汗が噴き出し、不快感がもたらされる。
 レイの隣や背後には彼の他にも、行く手をさえぎる片側二車線道路の前で信号待ちをしている歩行者が何人かいた。

「ねえ」

 隣から声をかけられて、レイはそちらに目をやった。

「この上着って、真夏の任務中でも絶対脱いじゃ駄目なの?」

 ほんの二週間ほど前にレイの後輩となったばかりのアマンダ・オルコットが、眼鏡の奥の大きな瞳でレイを見上げていた。そう問いかけてくる彼女も暑さを感じているのか、服の内側に少しでも涼しい空気を取り込もうとするかのように、レイと同じ制服の片側をつまんでぱたぱたと動かしている。彼女の手の動きに合わせ、丈の長い制服の裾がひらひらと揺らぐ。

「ああ」

 レイは、車両用の信号が黄色に変わる気配すら無いのを確認しながら答えた。

「もう聞いてると思うけど、この制服には防弾性能があるからな。別に、寒さを和らげるためだけに着てるってわけじゃねえし。もちろん、これ着てりゃ絶対助かるなんてこともねえけど、少しでも身を守れる可能性があるなら着てる方がいいだろ?」
「うん。自分がSGAに入る前は制服にそんな役割があるなんて全然知らなかったから、ちょっとびっくりだったよ」
「あと、こういう丈の長い、内ポケットがいっぱい付いてるような服は、銃とかいろんな機器を携帯すんのにも都合がいいしな」

 現に今もレイの制服の下には、弾丸の装填された通常の拳銃と麻酔銃が、それぞれホルスターに収められて隠されている。

「そっかあ。そうだよね」

 アマンダはすんなりと納得してうなずくと、諦めたようにコートから手を離した。

「移動中とかは脱いでる奴もいるけど……どっちにしろ外歩くときは長袖の方がいいんだし、制服着てようが着てまいが、あんま変わらねえってことにしとこうぜ」
「任務中に日傘持っとくわけにはいかないもんね」
「ああ。んなもん持ってたら邪魔くさくてしょうがねえ」

 年々きつくなる紫外線を直接肌に浴び続けることは、体に重大な悪影響を及ぼす可能性があるので、なるべくなら避けたい。

「でもまあ、本音を言うと俺も脱ぎてえよ」

 レイが人に聞かれてはまずい話でもするときのように声を抑えて付け足すと、アマンダはあはは、と明るく笑った。
 街中のビルの外壁に投影された巨大なホログラフィックスクリーンには、四日前の事件についての続報を伝えるニュース映像が映し出されている。
 六月十二日。都内にある文化施設――文芸交流センターにて、数人の男たちによる銃の乱射事件が起きた。それにより、施設内でパーティーに参加していた、調和共生党の竹下議員を含む三十七名が殺害された。警察は、犯人たちがテロ組織の一員であったことから、犯行は竹下を狙ったものであった可能性も高いと推測している。テロの明確な目的は依然として不明なままではあるが、昨夜、捜査に進展があったようだ。逮捕された男の一人が、犯行には関わったものの、いまだ逮捕には至っていなかったその他の仲間の情報を明かしたと、アナウンサーの淡々とした声が告げていた。
 しかし、それを眺める人々も無関心に通り過ぎる人々も、そして事件について報じるアナウンサーでさえも、テレビやインターネットが伝えるそれらの情報が、真実を隠すための偽りのものであるということは誰も知らない。
 車両用の信号機がようやく赤色を点し、わずかに遅れて歩行者側の信号が青に切り替わると、レイとアマンダは日光を照り返す白い横断歩道に足を踏み出した。
 二人は調査のために、東京都内にあるスラム街へ向かうところだった。五月に医療研究所を襲った犯行グループの男が話した、スラム街で殺人や強盗などの依頼を行っている人物がいるという件について、さらなる手がかりが得られるような目撃情報が無いか調べることが目的だ。
 こういった聞き込み調査をする場合、本来は調査部と行動する方が何かと都合がいいのだが、レイのチームの担当である劉俊毅はこの間の事件で負った怪我のことがあり、しばらく任務での外出は控えるようにと言われているのだ。最初は念のために四、五日は仕事を休んで安静にしているようにと言われたところを、彼は家にいても暇だからと、一日休んだだけですぐに通常の職務に復帰した。本人は外での調査も問題無くこなせると主張したが、レイたちの上司であるマーカス・クレイグが許可しなかった。
 そのため、チームのメンバーとなって日が浅いアマンダを、初めての本部外での任務に連れ出したのだ。
 レイとアマンダは横断歩道を渡り終えると、ビルの間の細い通路に入っていった。ここから先、街の様相は少し歩くだけでがらりと変わる。一つ、また一つとブロックを越えるごとに道は狭まり、建物はより小さく密集したものとなっていく。
 天気は変化していないはずなのに、スラム街に近づくにつれて、周囲全体が薄暗くなっていくように感じた。ひしめく建物の薄汚れた外壁や、手入されずに生い茂っている植え込みの木々がそう思わせるのかもしれない。人通りもあまり無かった。
 車は先ほどの大通りの近くの駐車場に停めて来た。スラム街には車を駐車できるような場所もあまり無いし、治安の悪さを考えると、少し離れるだけで車が傷つけられたり、盗まれたりする危険性もある。

「こっちの方って、全然来たことなかったよ」

 アマンダが、右に左にと辺りを見回しながら、ぽつりともらした。

「そりゃそうだ。今日は俺と一緒だからいいけどよ、危ねえからプライベートとかで絶対一人で来たりはすんなよ?」
「うん」

 そう答えたアマンダの声は、いつもの元気は鳴りをひそめた小さな音だった。自分たちが暮らしているエリアとは明らかに違う空気に、少なからず緊張しているのだろう。街から感じ取れる危険の臭いは、少し触れるだけで本能的な部分が察知する類のものだ。レイとて、スラム街には今までも捜査のために何度か来たことはあるが、普段意識せず通りを歩いているときのように、自然に気を張り詰めずに歩く、というわけにはいかない。スラム街の存在自体は国内にいるほとんどの人間が知っているだろうが、足を踏み入れることなど無いのが普通だ。ましてや、やむを得ない理由も無いのに進んで来たいと思う者はごく稀に違いなかった。
 やがて高層ビルは完全に姿を消し、小さな店舗や古い戸建ての家、表示ボードを見なければそれとわからないようなホテルや集合住宅風の建物が増え始める。
 その間を歩く途中、ふと、レイは視線を感じたような気がして振り返った。

「どうしたの?」

 突然後ろを向いて固まったレイを見て、アマンダが丸い目を不思議そうに瞬かせた。

「いや……」

 背後には、少し前にすれ違った男の小さな後ろ姿があるだけで、こちらを向いている人間は一人もいない。遠くのビルの合間に、大通りを車が通っているのが見える。
 一瞬、誰かに後をつけられているのか、もしくはSGAを嫌う何者かに狙われているのかと思った。絶大な権力を持つその他の組織と同じように、SGAを快く思わない者も多いのだ。こういった場所では特にその傾向が強かった。
 しかし、首をひねって考え込むうちにきっと気のせいだと思い直したレイは、また前を向いた。久しぶりにスラム街を訪れるせいで、神経がピリピリしているのだろう。

「なんか気配を感じたような気がしたんだけど、気のせいだったみてえだ」

 アマンダを心配させないよう、わざと明るく言う。景色を見ながら歩いていると、そのことはすぐに頭から消え去った。
 通りは一段と狭くなり、ついに歩道が無くなる。通りに並ぶ店の入り口を閉ざすシャッターや、敷地を区切る塀に所狭しと描かれた下品な落書きが、警察などの監視が行き届いていないことをうかがわせる。
 電信柱の下に、中身の詰まったゴミ袋がいくつかまとめて放り出されていた。路上にも、空きビンや紙くずや、風に舞うビニール袋といったゴミが散乱している。自動的に分別を行うゴミ箱も、そこに集められたゴミを回収しに来るロボットの存在も、ここには無い。
 そして、二人は“スラム街”と呼ばれる地区に到着した。現実には、明確にここからがスラム街だという線引きがなされているわけでも、フェンスがあるわけでもない。
 それでも、ここはスラム街だった。ここが普通の街とは違うことは、一目見ればわかる。

「日本じゃないみたい……」

 アマンダが歩調を緩めながら、呆けたような声で呟いた。
 ずいぶん昔から建っていると思しき建物ばかりで、ここだけ時代から取り残されているかのようだ。異次元に迷い込んでしまったかのようにも思える感覚に、不意にレイの胸に、健二もこの時代に来たときはこんな気持ちだったのだろうか、という考えが浮かんだ。
 街は汚く陰気な雰囲気が漂っており、見るからに不衛生だった。通りの歩く人の数はそれほど多くなく、お世辞にも身なりがいいとは言い難い者がほとんどだ。時折、彼らは遠くからレイとアマンダを物珍しげに見ていた。
 街中では、ロボットや電子機器はめったに見かけなかった。スラム街には日常生活にあって当たり前の便利な家庭用機器もそろっておらず、あったとしても古いタイプの物ばかりだ。ここの人々には、最新のロボットや機器を買う金が無いのだ。
 ここは、正確にはスラム街の入り口の方だ。通常の街との境に近いところでは、まだSGAが管理しているカメラで監視できる範囲も多いので、比較的安全だった。
 二人はさっそく調査を開始することにした。今日は夕方には本部に戻らなくてはならないので、時間はあまり無い。

「今日はまず、飲食店を中心に聞き込みしていくぞ」

 人目を気にする必要はあるものの、飲食店は人が集まったり、話をしたりするのに適した場所の一つと言えるだろう。店によっては、時には違法な取引などについての会話が交わされることもある。
 この辺りの地図は充実していないので簡易なものしかなかったが、飲食店の場所を確認するのには不都合が無さそうだった。

「アマンダは自分の携帯端末の録音筆記機能を使って、相手の名前とか話の内容とか、聞いたことを記録しといてくれ」
「わかった」

 最初に訪れたのは、二階建ての建物の屋外階段を上ったところにあるレストランだ。一階部分には別の店舗が入っているようだが、シャッターが閉まっている。
 レイは店に入って事情を説明し、店のオーナーに捜査への協力を願い出たが、忙しいから無理だとすげなく断られてしまった。個人経営の小さな店で、オーナーは料理人でもあった。従業員は他に一人しかいないようで、オーナーの代わりに話をできる人間もいないらしい。店内では数組の客が料理を待っている様子だ。仕事を手伝うロボットもいないので、エプロンをつけた若い男は、たった一人で客に水を出したり注文を取ったりするため、忙しなく動き回っている。
 レイとアマンダは仕方なく店の外に出た。見たところ、レストランは至って普通の、どちらかというと明るささえ感じる雰囲気で、とても犯罪グループが集まりそうな場所ではない。扉の前で、このまま二軒目に行くかどうかを考えた。店の客が何か知っている可能性もあるので、客にも話を聞く、という手もある。ちょうどそのとき、食事を終えた客が一人、店から出てきた。色あせてよれたシャツにぼさぼさの長髪をした中年の男だ。

「すみません、よろしいですか?」

 レイはIDファイルを表示させた端末を相手に向けながら呼びかけた。

「SGA犯罪捜査部、特別犯罪捜査課のレイモンド・ストレイスです。よければ、少し捜査にご協力いただきたいのですが」

 男は驚いたように目を見開いてレイを見たあと、好奇心を隠そうともしない不躾な視線で、レイの隣に立つアマンダをじろじろと眺め回した。
 瞬時にレイの表情が曇る。やはりアマンダを連れてくるのは早すぎたんじゃないか、という思いが脳裏をよぎった。だが、SGAの一員として働くのならば、いずれは危険な現場に出ることや、一般市民とのやり取りの中で不愉快な目に遭うことは避けられず、そういったことを早くから経験して慣れておくことは重要だと、クレイグは考えている。それが正しいことは、レイもよく承知していた。

「この辺りで強盗や殺人など、犯罪の依頼が行われているという情報があるのですが、そういった話について何か聞いたり、実際に依頼が行われているところを見たりしたことはありませんか?」

 心持ちアマンダの前へ出ながら、レイは男に問いかけた。
 男はそれにはなんの反応も示さず、聞いているのかいないのかもわからないぼんやりと濁った瞳で、相変わらずアマンダを観察している。やがて興味を失ったように目をそらした彼は「知らん」とぼそりと言い残し、階段をゆったりと下りていってしまった。

「あ! ちょ、ちょっと……」

 引き止めようとしたアマンダを、レイは「いや、いい」と制した。

「あの具合じゃ、話せそうなことは無さそうだ。次に行くぞ」

 しかし、数時間粘っても同じようなことが続いた。誰に声をかけても、話を切り出す前に断られるか、無視をされたりそっけなく「知らない」と言われるばかりだ。
 ここまできっぱりと拒絶されるのは、SGAとしては珍しい体験だった。大抵の人間はSGAに対して多かれ少なかれ恐れのようなものを抱いているため、内心はどうあれ、表面的には素直に従う。スラム街の人間は、恐れるものがあまりにも多すぎるのかもしれない。
 機械修理店のシャッターの前でたむろしていた少年たちにも、身元の確認とともに話を聞いてみた。医療研究所を襲った犯人の中には、少年から青年へと変化したばかり、といった年頃の者もいたからだ。
 だが、彼らも何も知らないようで、レイに失望と安堵を同時に抱かせた。彼らは皆日本国籍を持っていて、大きな犯罪歴も無いようだ。あまり恵まれない家庭に育ち、ただ、自分の居場所を切実に探しているだけの少年たちだった。
 すでに、だいぶスラム街の中心部に近づいてきている。

「どうすっかなあ」

 レイは腰に両手を当てると、さらに奥へと続く細い路地に目をやった。

「……もう少しだけ奥に行ってみるか」

 危険だろうか? しばし考えを巡らせた末、あと一、二本奥の通りくらいまでなら大丈夫だろうと判断したレイは、自分が先頭に立ち、小径を進み始めた。左右の通りの様子を見ながら歩を進め、二つ目の角で左に曲がる。この辺りまでが、護衛ロボットも武装部隊の隊員も連れずに、捜査部が二人だけで来られる限界の範囲だろう。
 少し歩いていくと、前方に飲食店風のこぢんまりとした建物が見えてきた。男が一人店の中から出てきたかと思うと、木の扉にかけられていた札のようなものを裏返し、また扉にかけなおしている。レイは歩く速度を上げ、そちらに近づいていった。アマンダもすぐ後ろについてくる。

「すみません」

 声をかけると、男は扉を開けかけていた手を止め、振り返ってレイを見た。褐色の肌をした恰幅のいい男だ。髪と眉は濃い黒で、口の周りには同じ色のひげを生やしている。

「ここの店の人ですか?」

 レイは、今まさに男が入ろうとしている店を手で示しながらたずねた。店の外には、なんの店かを表すような看板や表示は出されていない。建物は煉瓦造りの洒落た外観をしていたが、もともとの色が失われてくすみ、ところどころ表面の削れた古びた煉瓦は建てられてから相当な年月が経っていることを示している。扉にかかっている札には、ゴシック体のフォントで『CLOSED』と印字されていた。

「ああ、そうだが……」
「少しお話をうかがいたいのですが、よろしいですか?」
「なんの話だい?」

 男の眉間にしわが寄った。まるで不審者でも見るような目つきだったが、レイは気にせず続けた。

「SGA犯罪捜査部、特別犯罪捜査課のレイモンド・ストレイスです」

 これまでと同様に自身の身分を明かし、携帯端末でそれを証明するIDファイルを見せてから本題に入る。

「事件の捜査にご協力いただきたいんです。この辺りの地域で、報酬を提示し、一般の市民や店舗を対象とした殺人や強盗などの依頼を行っている人物がいるとの情報を入手したのですが、そういった犯罪行為の依頼や取引の場面を見たことがありませんか? もしくは、それに似たものでも構わないので教えていただきたいのですが」
「いや、わからんね」

 不信感を露にした視線をレイに向けたまま、男はそっけなく答えた。警戒心の表れなのか、それとも嫌悪感からなのか、上半身を少しばかり引いている。

「では――」

 レイが質問を重ねようとしたとき、視界の隅に動くものが見えた。酒のせいで足元のおぼつかない男が一人、ふらふらとこちらに近寄って来ている。白髪交じりの痩せた男はレイたちを興味深そうに眺めているものの、少なくとも今のところは、こちらに対して攻撃的な様子ではないように思える。だが、面倒なことに発展しそうな状況はどんなものであれ、あらかじめ回避しておきたい。

「よければ、中に入れてもらえませんか?」

 店の従業員である男に視線を戻して言うと、同じく道路の酔っ払いに目を向けていた男はしばし逡巡した後、無言で扉を大きく開いてレイとアマンダを中に通した。
 中は喫茶店のようだった。ほのかにコーヒー豆の匂いがする。店内は照明が落とされており、薄暗い空間にインテリアを浮かび上がらせているのは、窓から差し込んでくる自然光だけだ。向かって右側に小さなカウンターがあり、左側にはテーブル席が並んでいる。ブラウンを基調とした内装も、丸みのあるデザインの木製テーブルやチェアも、趣のある落ち着いた雰囲気だが、すべてどこかしら傷んでいて年代を感じさせる。当然、給仕ロボットなど一体もいないし、最新の自動調理マシンなども一台も置かれていなかった。この店は、この辺りがスラム街になる以前からここに佇んでいるのかもしれない。
 ゆったりと話ができそうなスペースは奥にいくらでもあったが、男はそれ以上中に進もうとはしなかったので、レイは玄関にとどまったまま話を再開した。

「まず、差し支えなければ名前と職業を教えていただけますか?」

 男は言われた通り自分の名を名乗り、この店の店主だと言った。この男は容疑者等ではなく、ただ、捜査の手助けになる情報を知っているかどうか聞くだけだ。何かあれば後から調査部に依頼して個人データを調べることもできるので、この場では個人認証カードの確認まではしなかった。アマンダが自分の端末に情報を記録している。

「ここはカフェですか?」レイは店内を見回しながら言った。
「一応、そんなようなもんだ。朝から昼過ぎまではコーヒーや軽食を出す喫茶店で、夜はバーとしても経営してる」
「ここに来る客が、先ほどお伝えしたような犯罪の依頼や、犯罪の計画などについて話していたことはありませんでしたか?」
「俺が聞いた限りでは無いね。もっとも、狭い店とはいえ、すべての客の話を聞いてるわけじゃないが。むしろ、耳に入ってこないことの方が大半だ。どっちにしろ、ここには犯罪と関わりがありそうな奴なんてほとんど来ないよ」
「では、最近何か変わったことは?」

 レイがそう質問した途端、それまで苦虫を噛み潰したようだった店主の表情が、露骨な不快感と、幾ばくかの驚きが表れたものへと変化した。

「変わったこと?」
「はい。いつもとは違う騒動とか、ちょっとした問題などがありませんでしたか?」
「それは何を基準に判断すればいい? 変わったことというのは、暴動? 強盗? それとも、殺人のことかい?」

 店主の話しぶりは早口でまくしたてるような勢いになったため、レイとアマンダは口を挟む隙も無かった。

「“普通”の基準では、この街のことは判断できない。この間も、ここから二筋裏手にある移民の店が襲われたところだ。窓ガラスを割られ、店に押し入られ、店内を荒らされた。営業時間外だったし、幸い店主と家族はすぐに逃げて、軽い怪我ですんだらしいが……」
「犯人は逮捕されたんですか?」と、レイは聞いた。
「ごく一部の話だが、いまだに移民を日本から追い出したいと思ってるような連中もいるだろう? そういった思想を持つ過激派グループの仕業だったそうだが、まだ逮捕はされてない。ここに住んでる移民は、そんな連中の格好の餌食となってる。今の日本には、そういう奴らが好き勝手できるような場所なんてほぼ存在しないだろうが、ここは例外なんだ」

 そこまで一息に言ったあと、彼は一度息をついたが、彼の中に湧き上がった怒りは収まるどころか増幅していくようだった。

「事件が起これば警察への通報は毎回誰かがしているが、大抵は犯人は逮捕されない。誰も事件の解決に積極的じゃないからだ。信じられないかもしれんが、当の被害者でさえだよ。みんな諦めてる」

 訴えるように語り続ける店主の声音には、深い悲痛が滲んでいる。

「こういった事件が起こることは、ここでは日常茶飯事なんだ。おたくらに――」

 店主はわずかに語気を強めて言いかけたが、我に返ったように途中で言葉を飲み込んだ。木の床に視線を落とし、疲れと諦めが入り混じったような深いため息とともに、緩く首を横に振る。

「ここは、そういうとこなんだよ。普通じゃないことばっかりだ」

 独り言のような低く暗い声で言ったきり、店主は口をつぐんでしまった。レイは彼の次の言葉を待った。一人だったら店主の感情の昂りに影響されて何か言い返していたかもしれないが、今日はアマンダが隣にいたおかげで、落ち着いた心を保つことができた。調査の最中に自分の勝手な感情から口論になり、せっかくの機会を無駄にすることほど馬鹿げたことは無い。

「何が変わったこと、おかしなことかなんてわからなくなっちまうし、何かあってもすぐに忘れてしまう。……本当にひどいことだがね。俺にはこれ以上のことは何も言えんよ。おたくらが知りたいようなことは何も知らん」

 次に言葉を発したとき、店主の声は平静に戻っていた。

「それに、ほとんどが近くから聞こえてくる騒ぎの音で何かあったんだなと悟ったり、後から人に聞いたりしたことばかりで、俺が直接目にしたわけではないんだ」

 そう言ったあとで、店主は「ああ」と何かを思い出したように声をもらした。

「一度だけ、自分の目ではっきりと目撃したことがあったな。あれは忘れられん……」

 彼の頭の中にはそのときの光景がよみがえっているのか、遠くを見るような虚ろな目になった。
 阿久津賢士の事件には関係が無さそうだったが、他の事件を解決する助けとなったり、何かの役に立つこともあり得るかもしれないと思ったので、レイは彼の話を聞くことにした。

「何があったんですか?」
「ちょうど一年――いや、もっと前か? 去年の春くらいだったな」店主はゆっくりと話し始めた。「前の通りを少し行った、そこの四つ角のところだったよ」

 そう言って腕を伸ばし、右側を指差す。たしかにさっき見たとき、店の前の道はまっすぐ行った先で別の細い路地と交差していた。彼が言っている場所はそこのことだろう。

「ちょうど、俺が今日みたいに店を閉めようと外に出たとき、向こうの方から男と女が走ってきたんだ。まだ明るい時間だった」

 体をひねりながら、店主は右手の人差し指でまた別の方向を指し示した。その指先は店の奥――スラム街の奥へと向いている。

「遠目だったから定かじゃないが、男は白人で、女はアジア系だったと思う。二人ともまだ若かった。雰囲気や体つきからは二十歳過ぎくらいに見えたな。女の方は二十歳にすらなってなかったかもしれん。何事かと思って俺が近づいて行こうとしたら、すぐに厳つい体格の男が何人か、その男女を追いかけてやってきたんだ」

 店主の声のトーンは徐々に低くなっていき、そのときの彼の緊張感が感じられるようだった。

「俺は側の家の陰に隠れたよ。そしたら、大通り側の細い路地の方からも車が入ってきて、そこからさらに男たちが降りてきたんだ。そいつらは若い男女を取り囲むようにした。全員で六、七人はいたはずだ。取り囲んでる方は暴力団のような外見だったが、逃げてきた二人はどう見ても普通の若者にしか見えなかった。しばらく、お互いに激しく言い合ってた」

 店主はところどころでジェスチャーを交えながら説明した。彼の話す場面が、目の前に映像が流れてでもいるかのように、レイの脳内に鮮明に浮かんできた。

「住人はみんな家や店の中に閉じこもってたし、通行人もいなかった。俺が固まってると、そのうち、若者を取り囲んでる奴の一人が銃を構えたのが見えた。そして、銃声が鳴り……女の方が倒れた。撃たれたんだ。倒れた足を見てもぴくりとも動いてなかったから、即死だろうと思った。次に、暴力団みたいな奴らはむちゃくちゃに暴れる男を押さえつけて、女の死体と一緒に車に乗せて、どこかへ連れ去っていったんだ」
「警察には……」と、か細い声で言ったのはアマンダだった。
「もちろん、警察には連絡したよ。そのあと何日かは注意してニュースをチェックしていたが、そのことについては何も触れられてなかった。たぶん、被害者の二人は不法滞在者か何かだったんだろうと思うが……。いったい、なんのために連れ去られたのか……」

 今度レイが口を開かなかったのは、自制心が働いたからではなかった。店主の話に、思わず言葉を失ってしまったからだ。
 スラム街での生活は、レイの想像が及びもつかないようなものだということは知っていたが、それでもかなりの衝撃を受けた。実際にそれを身近なものとして感じ、日々を送っている者の口からじかに聞く話は、生々しい現実感を伴ってレイの脳に染み入ってくる。
 ここではそんな悲劇――白昼に堂々と若者が殺害されたり、拉致されたりする事件はありふれたもので、しかも被害者が社会的に弱い立場であれば、犯人が逮捕されることも無い。

「もう、いいかい? 夜まで休みたいんだ」

 レイたちが黙っていると、店主は遠慮がちではあったが、自分の希望を端的に口にした。

「夜にまた店を開けなくちゃならんからね」

 彼の黒い瞳の奥からは、切実さと恐れが伝わってくる。
 これ以上食い下がってもこちらが欲する情報は得られないと判断したレイは、おとなしく調査を切り上げることにした。

「ああ、はい。ありがとうございました」

 気を取り直し、手短に謝意を示すと、店を立ち去るべく扉を開ける。アマンダもレイにならい、「ありがとうございました」と軽く頭を下げた。
 二人が店の外に出ると、店主はこのときを心待ちにしていたとばかりに、そそくさと扉を閉めた。店の前の狭い道に、並んで立ち尽くすレイとアマンダの影が伸びている。先ほどの酔っ払いはもういなくなっていた。
 薄暗い店内を出て、再び顔に日差しを浴びたレイはまぶしさに目を細めた。西の空に目をやると、青かった空にはいつの間にか、明るいオレンジ色が混じりつつあった。

「なんか、みんなあんまり話したくないみたいだったね」
「事件にも事件の捜査にも、なるべく関わりたくねえんだろう。いつ何があるかわからねえし、危険な連中がすぐ近くをうろうろしてるわけだしな。犯罪に無関係な人間が巻き込まれるのを恐れるのは当然だ。まあ、今まで聞き込みした奴らはほんとに何も知らねえんだろうけど」
「それもあるけど、なんていうか、私たちと会話すること自体が嫌っていう感じがしたよ」
「ああ……スラム街の連中には特に、SGAは良く思われてねえからな」

 アマンダの言葉に、レイは顔をしかめながら答えた。
 SGAが一部の人間にどのように思われているのかは、ついこの間まで一般市民だったアマンダにもうっすらと察しがついているだろうが、身をもって体験しなければわからないこともある。彼女がまだ知らず、今後知っていくはずのことは多い。だが、今はその件について話すときではないと思ったレイは、それ以上何も言わなかった。

「この後はどうするの?」

 アマンダがレイを見上げ、問いかけてくる。

「ここら辺で手がかりが得られねえとなると、もっと奥まで行って聞き込みしてみるしかねえな。もちろんそれで何かわかるっつー保証もねえけど……どっちにしろ、今日は駄目だ。奥に行くにはそれなりの準備をして来なくちゃいけねえ。今日は本部に戻るぞ」
「うん」

 二人は来た道を戻り始めた。そのとき、どこか遠くで何かが割れるような音がした。ついで、数人の男の怒鳴るような声が、夕焼けに変わり始めた空に響く。アマンダが立ち止まり、そちらを振り返った。それに気づいたレイも、数歩進んだところで歩みを止める。
 声のする方角は北西――スラム街の奥、より治安の悪い地域だ。ただの喧嘩なのか、犯罪行為が行われているのかはわからないが、何かしらの騒動が起こったのは間違いない。だが、スラム街で日常的に発生する揉め事や騒ぎに対し、SGAとして自分たちにできることは無いに等しかった。今、この場では尚更だ。

「行くぞ」

 再び歩き出しながらレイが促すと、アマンダも小走りに後を追ってくる。二人は風に乗って流れてくる喧騒を背中で聞きながら、スラム街を後にした。
 結局、本当に知りたいことについては何の収穫も得られないままに、この日は引き上げることとなってしまった。だが、最後に訪れた喫茶店の店主から聞いた若い男女の話が、大通りに向かって歩いている間も、本部に帰る車の中でも、しばらく頭から離れなかった。二十歳過ぎくらいと言えば、レイともアマンダともそう変わらない年だ。苦さを含んだような何とも言えない複雑な思いが、レイの胸の辺りでもやもやと渦巻いている。
 アマンダは帰りの車中、珍しく口数が少なかった。もしかすると彼女も、助けてくれる者もいないままに、理不尽で悲劇的な運命に引きずり落とされた若者のことを考えていたのかもしれない、とレイは思った。



>> To be continued.



読んでくださってありがとうございました!

今回は、第二話からちょこちょこと話には出てきていた、スラム街についてのシーンでした。
物語に大きな進展は無いものの、結構重要な部分だったりします。

いつも読んでくださる方々、拍手等くださる方々、本当にありがとうございます!!
とてもエネルギーを頂いています!

読者数の参考にしたいので、小説を読んでくださった方は各記事の拍手ボタンを押していただけますと助かります。
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