未来への追憶 第四話 - 05

* * *


 曲がり角の先の廊下に出ると、血の臭いはさらにきつくなった。劉が体の近くで銃を構えてゆっくりと進み、健二はその背中に貼りつくほどにぴったりとついて歩く。呼吸はほとんどしていなかった。体中に微弱な電流が走っているように神経がぴりぴりとし、何度も背後を振り返る。
 こちらの通路にも部屋が並んでおり、一番手前の部屋のドアは開きっぱなしになっていた。物音は聞こえない。そろそろとその部屋に近づいていくと、劉は銃口を部屋の中に向け、そっと中をうかがい見た。彼はそのまましばらく固まって動かず、健二は募る緊張に耐え切れなくなり、小声でたずねた。

「どうしたんですか? 誰かいますか?」
「いや……」

 その部屋を覗き込んだ途端、思わず健二の口からひ、と引きつった短い悲鳴がもれた。
 部屋の中央辺りの床には、男が仰向けで倒れていた。彼が着ている警備員の制服のような上着は血で染まり、黒く色を変えている。少し離れているためよくは見えないが、腹部には大きな穴が開いているようで、そこからあふれ出した血が男の体の周りに真っ赤な鮮血の海を作っていた。横を向いた男の顔は苦しげに歪んでいて、目は閉じられていたが、口は何かを叫んでいるかのように開いたままだ。
 強烈な血の臭いが鼻をつく。目の前の凄惨な光景と臭いに、胃からせりあがって来るものを感じ、健二は手で口元を覆った。胃と喉が内側から圧迫されるようで苦しく、目には涙が滲んだが、嘔吐することはどうにか免れた。血だまりに横たわる男から目をそらし、浅い呼吸を繰り返して吐き気の波が静まるのを待つ。
 当然ながら、警備員と思しき男は死んでいた。彼の死体がある以外は、劉の言うとおり部屋には誰もいない。小さな事務所のような部屋だが、入り口から見ても人が隠れられそうな場所も無い。
 劉は部屋の中に歩いていき、健二は入り口に立ったままそれを目で追った。無残に殺された警備員の痛ましい姿を見ないようにしようと思っても、どうしてもそちらに目が引き寄せられてしまう。どうやったら、何を使えば、人間の体にこんな穴を開けることができるのだろう。
 劉は銃を持ったまま死体のそばで少し身をかがめると、死体を観察した。その間、健二はまた後ろを振り返って、誰も近づいてきていないのを確かめる。
 SGAの職員である劉は、絶句するような残虐な事件の現場も見慣れているのか、それとも衝撃を表に出さないようにしているのか、健二とは対称的にうろたえる様子も無く、落ち着き払っている。

「まだ殺されたばっかりだな」

 彼は眉をひそめてそう言うと、引き返してきた。
 健二も何か言おうとしたが、声にならない。警備員が殺されてからそれほど時間が経っていないということは、犯人はまだ近くにいる可能性が高いということだ。もしかすると、今も十階にいるかもしれない。よく見ると、床には小さな血痕がぽつぽつと連なり、廊下の奥まで続いていた。これほどの出血量なのだ。おそらく、警備員の血が彼を殺害した犯人に付着し、それが垂れたのだろう。
 今すぐこの建物から逃げ出した方がいいのではないか? 健二は願望も含めてそう思ったが、劉は部屋から出るとまた先へ――血痕が残っている通路の奥へ――と進み、健二も後についていった。SGAは特殊な事件に立ち向かい、それを解決するのが仕事だ。危険が迫っているからといって、何もせずにただ逃げ出すわけにはいかない。そして、彼らの任務に同行するということは、健二も危機からすんなりとは逃れられない状況に身を置くということだった。
 最初の部屋以外のドアはすべて閉まっている。二人はその前を通りすぎた。次の曲がり角の手前まで来ると、劉は立ち止まった。健二を振り向く。

「中央監視室の様子を見てくるから、君はここで待ってろ」

 彼が発した信じられない言葉に、健二は自分の耳を疑った。

「だめですよ、劉さん! 危険です!」

 抑えた声ながら、必死にうったえる。この状況で二人が離れて行動するのは、とても得策とは思えなかった。

「君が一緒じゃない方が動きやすい。……それに、中央監視室の方もひどいことになってるかもしれないしな」

 それを聞き、健二はいささか怖気づいた。悪夢のような死の光景が、中央監視室にも広がっているというのか? それでも、健二は劉を説得して、彼とともに監視室へ行かねばならない。
 しかし、彼は「すぐに戻る」と言い残し、健二の制止を聞かずに曲がり角の向こうに歩いていってしまった。

「劉さん!」

 健二も彼の後を追って足を踏み出しかけたものの、その動きは逡巡するように止まった。一緒について行きたい気持ちとは裏腹に、健二の体は結局その場にとどまった。
 足ががくがくと震え、膝に力が入らない。崩れ落ちそうになるのをなんとか堪えた。すぐに逃げ出せるようにしておくためにも、座り込んでいる場合ではない。
 壁を背にし、絶えず左右を振り返って誰もいないのを確認する。今にも警備員を殺した犯人が曲がり角の向こうから飛び出してくるのではないか、もしくは一人で監視室を見に行った劉の身に何か良くないことが起こるのではないか、と思うとぞっとした。背筋を嫌な汗が流れ落ちていく。
 廊下は物音一つしない。聞こえるのは狂ったように脈を刻む、やけに速くうるさい、自分の鼓動の音だけだ。一刻も早く劉が戻ってくることを願い、不気味な静けさの中で待つ間、健二は恐怖のあまり気がおかしくなるのではないかと思った。たった今見た、惨殺された警備員の死体がまざまざと脳裏に浮かびそうになり、慌てて頭を振る。廊下にも血の臭いが充満しており、そのイメージを完璧に頭から追いやるのは無理だった。吐き気がよみがえってくる。
 それにしても、いったい誰があんなひどい殺し方を? 阿久津賢士の仲間――フランツたちだろうか? しかし、彼らは銃を使っていたのではなかったか。別の犯罪者がいるのだろうか?
 その疑問の答えは、すぐに得られることとなった。
 突然、健二の耳元で機械的な雑音が鳴り、健二は飛び上がりそうになった。その後に続いた声に、一瞬遅れて通信が繋がったのだと気づく。

「そちらの状況はどうなっている?」

 平時よりも硬く、やや早口のクレイグの声だ。
 通信――そうだ。クレイグは何かあれば通信で知らせるようにと言っていた。パニックに陥り、そのことをすっかり失念していた。
 健二は十階で起こっていることを報告しようとしたが、曲がり角の向こうからかすかな靴音がしてどきりとし、言葉を飲み込んだ。姿を見せたのは、中央監視室から戻ってきた劉だった。クレイグの通信は当然、劉にも繋がっている。健二が何か言う前に、彼は淡々と説明を始めた。

「中央監視室の警備員は全員殺害されていました」

 衝撃と恐怖で背筋が粟立ち、健二は身を震わせた。悪い予感は的中した。

「皆、腹部などに大きな穴を開けられた状態でした。別の部屋でも警備員が一人殺されているのを見ましたが、殺された警備員の中にはおそらく、建物の入り口を警備していた人間も含まれていると思います。それ以外には、今のところ人の姿は確認できません」

 態度も声も落ち着いているが、劉の顔はわずかに青ざめている。おそらく、自分はもっとひどい顔色になっているだろうと健二は思った。
 ひとまずは劉が無事に帰ってきたことにほっとするが、その安堵感は長くは続かなかった。

「メインホールにフランツが現れた」

 クレイグが放った言葉に、健二は二度目の衝撃に見舞われた。フランツが現れた。警備員を殺したのはやはり彼か、もしくは――

「こちらも中央監視室からカメラの映像で確認しました。チームのメンバーは――」
「心配ない。全員無事だ」
「監視室からの報告が必要ですか?」
「いや、ベルティエと藤原をそちらに向かわせることはできない。おそらく、敵は一人ではないだろう。最短ルートで我々に合流しろ」
「わかりました」

 劉が応えたのを最後に通信は切れ、慌しく緊迫したやり取りは途切れた。劉は再びホログラムのマップを表示させ、それを見ながら言った。

「八階からメインホールの三階席に出られる。そこからホールに入ってボスたちと合流しよう」
「はい」

 メインホールに行ったとて、そこにはフランツがいるので安心できるわけではない。しかし、今は早くこのフロアを離れたかった。

「たぶん、異変に気づいた中央監視室の警備員が、外や駐車場で警備についてた人間を通信で十階に呼んだんだろうな」

 非常階段へ戻るべく走りだしながら、劉が言った。

「警備員を殺したのって――」

 健二は言いかけたが、そのとき中央監視室がある方向からカツン、という音が響き、二人は同時に振り返った。少しの沈黙が続く。その後、今度は楽しげに弾むような声が聞こえてきた。

「おや? また誰か来たんですか?」

 その声を聞いて、健二は凍りついた。健二にはほとんど聞き覚えがない声だったが、声の主が誰であるのかはすぐにわかった。
 廊下の先にいるのは、和泉かおるだった。


* * *


 クレイグは銃を構えたまま、体当たりをするようにレイと二人でメインホールの扉を開けようとした。だが、内側から鍵がかけられているようで、厚い扉はびくともしない。他の二つの入り口も試してみたが、同じく鍵がかかっていた。
 扉の向こうでは何人もの叫び声が続き、銃声が鳴り始めている。明らかに、ホール内の混乱は刻一刻と大きくなっていた。銃声の鳴る間隔などから察するに、銃を撃っているのは二人ほどだろうか。中に入れないこの状況では、何が起こっているのかさっぱりわからない。

「くそっ、なんなんだ! どうなってんだよ!?」

 レイが焦った声を上げた。通信機はまだ誰からの報告も伝えてこない。中央監視室からは、ビル内のあらゆる通路や部屋に取りつけられた、無数のカメラの映像をすべて見ることができる。もちろん、メインホールも例外ではない。ホールで何かあったことがわかれば、劉がすぐに報告してくるはずだ。未だに連絡が無いというのはさすがにおかしい。時間をかけて確認している余裕は無いが、すばやく目を走らせた立体マップの表示によれば、健二と劉は中央監視室近くの通路にいるようだ。
 疑問と嫌な予感が胸をよぎり、クレイグは彼らに通信を繋いで状況をたずねようとした。しかし、通信機を操作しようとした直後、目の前の扉の一つから鍵の解除される電子音が鳴った。クレイグとレイは半ば反射的に、扉の前からさっと飛びのいて銃を構える。
 目の前の両開きの扉の片側が、ゆっくりと開きだす。ホール内の喧騒が廊下にあふれ出し、さえぎられることなくクレイグたちの耳に届いた。
 開いた扉の隙間から、正装をした若い男が頼りない足どりで廊下に出てくる。

「おい――」

 レイが声をかけたが、次の瞬間、男の体はどさりと床に崩れ落ちた。レイが戸惑いをあらわに、小さく声を上げる。男の上着の背には見る間に血が滲んでいった。扉の鍵を開けた瞬間、ホール内の銃を持った何者かに撃たれたのか。もしくは、すでに負傷していたところで最後の力を振り絞り、扉を開けて外へ逃れようとしたのかもしれない。
 支えを無くした重い扉は一度閉じかけたが、彼の体を挟んで止まった。今、この男の生死を確認している時間は無い。
 クレイグとレイは扉を大きく開けてメインホールへ突入し――そして、その先に現れた想像を絶する光景に、思わず呆然となった。
 様々な舞台の公演にもパーティーにも使用できるメインホールは、必要に応じて一階席の椅子の取り外しや移動が可能になっている。今、座席はすべて取り払われていた。そこを、着飾った人々が逃げ惑っている。床にはすでに何人もが倒れており、彼らの体につまずく者もいた。
 そして、ホールの中央には一際目立つ真紅の衣装に身を包んだフランツがいた。金髪が照明の光を反射してきらめいている。彼はまるでステップを踏んで踊るように、軽やかに足を運んで体を回転させ、跳ぶように移動していた。その手には二丁の拳銃。左右の手に一丁ずつ銃を握り、それぞれの銃口を逃げる人々に向けて引き金を引く。いつものように、狙った相手が倒れるのを見届けることなく、すぐに腕を振って目標を変えると、ひじをまっすぐに伸ばし、また引き金を引いた。それを繰り返し、次々に新たなターゲットに狙いを定め、仕留めていく。その俊敏な動きには一切の無駄が無く、優雅で美しかった。
 彼がたった一人で、ホールに集まったアンチ・テクニシズムのメンバーを殺していたのだ。
 ホールではまだ音楽が鳴り、大きな空間を満たしていた。舞台上では状況を察することのできないロボットが楽器を演奏し続け、ピアノやヴァイオリンが大量殺人のBGMにはふさわしくない、美しい音色を奏でている。
 クレイグは目の前で繰り広げられる現実感を失した場景に釘づけになりながら、一方ではその曲に聞き覚えがあることに気がつき、意図せず思考が記憶の糸をたどっていた。答えは、クラシック音楽に触れる機会の多かった子供の頃の思い出の中にすぐに見つかる。幼いときより何度も耳にしたことのある旋律――シューマンのピアノ四重奏曲変ホ長調。曲は第四楽章の終わりに向けて、軽やかな盛り上がりをみせていた。弦楽器が小刻みな音を連ね、ピアノが厚みのある低音を重ねて空気を震わせる。
 音楽に合わせるかのように、フランツは華麗とも言える動作で銃を撃ち、恐慌をきたした人々を殺していった。その狙いは恐ろしいほど正確で、すべてが一発で命中する。フランツは、二階席や別の扉に向かって逃げようとする者も追いかけて逃さなかった。弾が切れるとブーツに仕込んだナイフを引き抜いて投げ、その刃に刺された人間が床に倒れ伏す間に、手際よく弾を装填する。彼が動くたびに、彼の上着の燕尾服のような裾がふわりと翻った。
 我に返ったクレイグは近くにあったテーブル――その上にはたくさんの豪勢な食事やワインが並んでいたようだが、今やそのほとんどが床に落ちて皿は割れ、濃紅の液体がテーブルクロスを汚している――の陰に隠れ、レイもそれに続いた。脇には頭から血を流した女が倒れている。二人は彼女の体を踏まないように気をつけながら、身をかがめた。
 フランツは自分たちが来るずっと前から建物内に身をひそめ、襲撃のタイミングを待っていたのだろうか。だとすると、いつからいたのだろう? それも、警備員に気づかれることなく。
 今回はすでに事件が起きている現場に向かったわけではないので、武装部隊には出動の依頼をしていなかった。しかし、何かあったときにはいつでも応援に駆けつけられるよう準備していてほしい、とは伝えてある。

「武装部隊に連絡して、出動を要請しろ」
「はい!」

 クレイグが指示を出すと、レイはすぐにそれに従い、フランツの行動に注意を向けつつも通信機を操作し始めた。クレイグの方は、ゆかりとジャンにただちにメインホールへ来るよう命じ、ついで健二と劉に通信を繋いだ。
 中央監視室の警備員が全員殺されていたという報告を受け、だから自分たちがビル内に入っても誰もやって来なかったのか、と腑に落ちる。フランツがメインホールを強襲する前に、警備員も殺したのかもしれない。だが、今までもこの瞬間も、彼の武器は銃だ。体に大きな穴を開けるというのは、これまでの彼の殺害方法とは大きく異なる。敵はフランツの他にもいる可能性が高かった。
 健二と劉のことが気がかりだ。身体能力を強化されている敵を相手に、彼らだけで対処することは到底できない。それでも、今はとにかく自分たちと合流させるしか手は無く、クレイグたちは彼らができる限り早くメインホールに到着することを願うしかなかった。
 フランツはメインホールに入ってきたSGAの存在には気がついているはずだが、脇目もふらずに殺戮を続けている。前回、阿久津賢士は自分たちSGAに手を出させなかった。ただし、フランツと和泉かおるが去るのを黙って見逃せば、という条件つきではあったが。その際は、SGAに対しては致命傷になる攻撃は避けられていたが、今回はどうかわからない。
 フランツの撃った銃弾がテーブルクロスをかすめ、クレイグはレイに合図をすると、ともに二階席へと続く階段部分の、厚い壁の後ろに移動した。クレイグはそこから麻酔銃を構え、赤い服の敵を狙って何発か撃ったが、いかんせん敵の動きが速くてあと少しのところで当たらない。レイも麻酔銃での攻撃を試みるが、結果は同じだった。逃げ惑うアンチ・テクニシズムの人間をダートで負傷させてしまうことを避ける必要もあり、余計に撃ちにくい。フランツは当然、出入り口の近くにいる者から先に狙ったようで、今も生きている者は皆ホールの奥にいる。そのため、彼らを保護するために動くことも容易ではなかった。
 フランツはダートが飛んできてもなお、こちらに反応するそぶりは見せない。あっという間に、ホール内で動く人影はごく一握りとなっていた。
 一度、ゆったりと流れるように緩やかになった曲の調べは、再び勢いを増してクライマックスへと最後の一節を昇りつめていく。ピアノと弦楽器が、余韻を残す力強い音で曲を締めくくったのとほとんど同じときに、発砲音が轟いた。フランツの左手の拳銃から放たれた弾丸が最後の一人――パーティードレスに身を包んだ中年の女――の胸を貫き、被害者は近くのテーブルの上に倒れこんだ後、ずるずると床に落ちた。
 すべての音がぴたりと止み、突如としてメインホール全体が静寂に覆われる。次の曲の登録が無いのか、舞台上のロボットたちは演奏を再開しない。絶え間なく動き続けていたフランツもようやくその動きを止めたが、レイとクレイグも一瞬、微動だにできなかった。
 ホールの外から通路を走る足音が聞こえくる。それは急速に大きくなり、弾丸を受けて死亡した男の体に阻まれて半開きのまま止まっていた扉から、ジャンとゆかりがメインホールに駆け入ってきた。クレイグたちの背後で立ち止まり、短く息を呑む音が続く。レイやクレイグと同じく、メインホールの惨状に愕然としているのだろう。ジャンでさえ、言葉を失っているようだった。クレイグ自身も未だ、衝撃から立ち直れてはいない。
 フランツはわずかな時間で数十人を――ホール内にいたすべての人々を殺害した。


* * *


 劉に強く背中を押され、非常階段に駆け込む。もっと速く体が動かないことにもどかしさを覚えながら、健二は飛ぶように階段を下りていった。
 和泉かおるがすぐ近くにいる。その気になれば、超人的な身体能力を有した彼は、あっという間に自分たちに追いつけるに違いない。あるいは武器を持っていて、背後から前触れも無く攻撃してくるかもしれない。追い立てられるような恐怖と焦燥感で全身の毛が逆立ち、胸は息ができないほど苦しい。健二は、振り返りたくなる気持ちを必死で堪え、足を動かし続けた。わざわざ後ろを確認して、わずかでも階下へ進む速度が遅くなることすらはばかられる。
 荒い息遣いと、階段を駆け下りる二人分の足音が響く。ばたばたと騒々しい音を立ててしまうことを気にしている余裕など無いし、今はもうその必要も無い。

「こっちだ!」

 八階に着くとすぐさま廊下に飛び出し、劉が示す方向に走った。廊下の角を左に曲がると、劉の手首の機器が映し出すマップが、メインホールの三階席への入り口だと表している扉が見えてきた。健二は一心不乱に、通路の先の扉を目指して駆けた。まだ、かおるが追いついてきた気配は無い。扉まで行き着くと、飛びつくような勢いで取っ手を掴み、二人で強く押す。鍵はかかっていなかったようで、それは簡単に内側に開いた。
 中に入ると、途端に目の前に開けた空間が出現した。そこは、三階席に続くバルコニーのような場所だった。眼下には広いホールがあり、正面のステージも見える。
 健二と劉が中に入ったのとほぼ同時に銃声が鳴り渡り、壁に反響してホール全体に大きな音を轟かせた。ホールの一階には動いている人影がいくつか、そして、横たわるたくさんの塊――すぐに、倒れて動かない人々の姿だとわかった――がある。健二は一瞬どうするべきかわからなくなり、即座に次の行動に移れずに立ち尽くしてしまった。

「伏せろ!」

 銃声の余韻に重なって劉が叫ぶのが聞こえ、健二は言われるままに身をかがめた。しかし、バルコニーにはろくに身を隠せそうな場所も無い。手すりには隙間が空いている箇所もあるので、もし下から銃弾が飛んできたとしても、防ぎきることもできないだろう。それに、背後の廊下に続く扉からかおるが入ってきたら、それこそ一巻の終わりだ。

「あそこの座席のところに隠れるんだ」

 健二と同じように身を低くした劉が指差した先に目をやると、扇形に大きく張り出した三階席があった。その部分の手すりは弧を描いており、下に小さな空洞ができている。あそこなら、少しの間なら隠れられそうだ。かおるが来たときに、多少なりとも見つかりにくくしてくれるかもしれない。そばには下の階へ下りられる階段がある。

「タイミングを見て、階段で二階に下りろ」
「はい!」

 健二は声を絞り出すと、床に手をつき、這うようにして移動し始めた。ところが、壁の洞穴のような空間にたどり着くや否や、すさまじい轟音の嵐に襲われた。
 自分に向けて銃を発砲されるなど初めての経験で、何が起きたのかとっさには理解できなかった。遅れて、下から撃たれたのだと気づく。何発もの銃弾が飛んできて、健二は反射的に息を止め、体を縮こまらせた。
 健二の顔からほんの十センチほどしか離れていない壁に穴が開き、心臓が止まるかと思うほどの冷ややかな恐怖が体を駆け抜ける。銃弾が壁を突き破ったのだ。こんな薄い板では、身を守ることはできないのだと思い知る。いつ、弾が自分を貫くかわからない。次の瞬間には自分が死ぬかもしれないという恐怖感に体中を支配されたが、どうすればいいのかわからないし、おそらくどうすることもできないだろう。自分の感覚がおかしくなって痛みを感じないだけで、すでに体のどこかに銃弾を受けているのではないか、という気さえした。何も考えられず、健二は無防備な状態で、ただ身をすくめているしかない。
 しばらくして、銃撃は止んだ。実際はたった数秒にも満たない間だったかもしれない。またすぐに攻撃が再開されるかもしれないとも思ったが、何も起こらなかった。
 自分は生きている。怪我もしていない。心臓が鼓動を刻むたびに、収縮した血管を血液が流れ、全身が脈打っているように感じられた。ひどい耳鳴りがする。
 ホールは今、どんな状況なのだろう? クレイグたちは無事なのか? 劉は? こちらに発砲してきたのは、当然フランツだろう。健二の中に、今すぐ立ち上がって皆の安否を確認したい衝動がこみ上げてきたが、残った理性のすべてを使い、それをぐっと抑え込んだ。
 街中を移動中にジュエリー店の強盗事件が起こった際は、現場に向かったレイとゆかりのことが心配になり、後を追いかけてしまった。そして、正面からフランツに出くわす事態となった。健二は、そのときクレイグに言われたことを思い出していた。彼が言っていたように、健二が自分の判断だけで勝手な行動を起こせば、全員がさらなる危険にさらされるかもしれない。それだけは絶対にしてはならない。あのときは事なきを得たが、今回は駄目だ。
 健二は身を固くしたまま、じっと動かなかった。一秒一秒が過ぎるのが、永遠と思えるほど長く思える。
 大丈夫だ。劉もレイもゆかりたちも、みんな無事に決まっている。健二は自分自身にそう言い聞かせ、拳を握りしめてひたすら耐えた。


* * *


 青年はなんの感情も込めずに、ただ三階席のバルコニーをその冷たい碧眼に映していた。
 先ほど、三階の扉から二人の男が入ってきた。その様子は、青年の服の前後に取りつけられている小型のカメラを通して、彼の“マスター”にも見えていただろう。
 彼らは、青年がこれまでに記憶していたSGAの人間ではなかった。ここへ来る前に受けた「メインホールにいる人間は全員殺せ」という命令に従い、そちらに向けて発砲したが、耳に装着したイヤホンからの「止めろ」という声を受けて銃撃を中止した。
 青年――フランツにとっては、マスターの指示がすべてだった。彼の脳内にはマスターの言葉に従う以外の選択肢は存在せず、そうすることが当然だった。そこに疑問は存在しない。
 頭上のバルコニーにいる人物が、フランツが仕掛けた攻撃によって致命傷を負ったかどうかまではわからない。今は彼らの姿は見えないが、隠れても無駄なことは確かだ。フランツの持つ熱源感知センサーが受信した情報は、コンタクトレンズ型のディスプレイによって彼の視界に示される。マスターから与えられた機器はある程度の距離ならものともせずに探知できるので、もう少し近づきさえすれば、生きている人間がどこにいるのかはすぐにわかる。敵は逃げることも、隠れることもできない。
 ホールにいるSGAの人間が動く気配を感じ取り、フランツはそちらに目を向けた。フランツに向けて麻酔銃が放たれ、彼はそれを避けた。神経は鋭利なナイフのように研ぎ澄まされている。集中すれば、こちらに向かって銃を構える男の動きも、飛んでくるダートも、まるでスローモーションのようにゆっくりに見えるのだ。SGAの人間は殺すなと言われているので、反撃はしない。
 ホールに集まったアンチ・テクニシズムのメンバーを一人残らず殺害するという、一つめの仕事はすでに問題無くこなした。これから先どうするのかはマスターが決めることであり、フランツは次に自分が取るべき行動を伝えられるのを待っていた。



>> To be continued.



読んでくださってありがとうございます!!

今回も丸々、緊迫した場面一色でした。息が詰まりそうな感じですね…(笑)
そのせいもあるのか、もしかすると文章がいつもより堅苦しくなってしまったかもしれません。
読みづらい箇所がありましたら申し訳ないです…!

この「第四話 - 05」も大半が以前から考えていたシーンだったのですが、その割りには書くのに時間がかかりました。
詳しくはまた雑記の方で書けたらなと思っています。

ちなみに、暴力的な部分の描写はわざと控えめにしています。
もし、物足りないという方がいらっしゃいましたら(いるのか…?)申し訳ありません(笑)

いつも読んでくださる方々、拍手をくださる方々、本当にありがとうございます!とても励みになりますm(*_ _)m

読者数の参考にしたいので、小説を読んでくださった方は各記事の拍手ボタンを押していただけますと助かります。
もちろん強制ではありませんので、気が向いたらで構いません!


天宮悠惺さんより頂いたクレイグと劉

当ブログよりリンクを貼らせていただいているサイト「Aldyss」の管理人・天宮悠惺さんが、
「未来への追憶」のクレイグと劉を描いてくださいました!!
許可を頂きましたので、こちらでご紹介させていただきたいと思います(*´▽`)

未来への追憶/天宮悠惺さんより頂いたクレイグと劉

カッコイイ…!(悶死)

キリリとしたボスも、食えなさそうな笑みを浮かべている劉先輩も、二人とも素敵すぎる…(*´д`)

天宮さんのサイトにはかなり前からちょくちょくお邪魔して作品を見させていただいていたので、
そんな方に描いていただけてむちゃくちゃ嬉しかったです。
美麗な絵柄で、この二人の特徴などもちゃんと表現してくださっていて感動しました!

天宮さん、本当にありがとうございますm(*_ _)m
PCとスマホに保存して、時々眺めては癒しを頂いています(笑)

●天宮悠惺さんのサイト「Aldyss」
Aldyss/天宮悠惺 様
ファンタジーのオリジナル長編小説や漫画を連載されています。
登場人物は様々な年齢の美形揃いなので、ファンタジーや美形好きの方にはとてもオススメです!


自分の創作のキャラクターを他の方の絵で見られるって、すごく幸せですね!
みらついキャラを描いていただいたのは初めてだったので、舞い踊りたいほどテンションが上がっていました(笑)

前回の「第四話 - 04」等、小説を読んでくださった方、そして拍手を下さった方もありがとうございました!!^^*

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