未来への追憶 第四話 - 06

* * *


 アンチ・テクニシズムだったと思われる女性の命を奪った最後の銃声。その余韻が完全に消えかけたとき、フランツがつ、と顔を上げ、頭上の観客席の方を仰ぎ見た。クレイグも物陰からその視線を追い、三階席に動く影があるのに気がついた。
 こそこそとしたその動きからすると、敵ではないだろう。初めはからくも銃撃を逃れ、身を隠していたアンチ・テクニシズムの生き残りだろうかと思ったが、すぐに思いなおした。先ほど、メインホールで自分たちに合流するようにと指示を出した、健二と劉だ。抑えた声で何かを言う彼らの声が、かすかに聞こえる。
 クレイグはすばやくフランツに視線を戻した。彼は獲物を観察する肉食の獣のように冷たく、そして揺るぎのない機械的なまなざしで、三階席を一心に見つめている。
 一瞬のうちに、クレイグの脳内で思考が駆け巡った。
 今すぐ健二と劉のところへ行くべきだろうか? だが、もしフランツが健二たちに向かって攻撃を開始すれば、二階分の階段をどれだけ速く駆け上がったとしても間に合わないし、それで助けられるわけでもないので無意味だろう。移動中のこちらが狙われるということもあり得る。どちらにせよいつまでも隠れているわけにはいかないので、やはりここで自分たちが正面からフランツに攻撃をしかけ、彼らへの注意をそらすべきか。
 しかし、そのどちらを選択する間もなく、フランツは突然二丁の拳銃を三階席に向けると、その二つの引き金を同時に引いた。一発にとどまらず、三階席の右から左に向けて、立て続けに何発もを撃ち込んでいく。耳を聾さんばかりのすさまじい轟音が響いた。
 壁の破片が弾けるように吹き飛び、塵が空中を舞うとともに、バルコニーには銃弾に穿たれてできた無数の穴が次々と刻まれていく。一切の容赦など存在しない攻撃だった。
 レイが何事かを叫んで階段の陰から飛び出した。おそらく「やめろ!」とかそういう類のことを言ったのだろうが、銃声にかき消されて聞き取れなかった。レイを追うように、クレイグもホールの開けた空間に再び足を踏み出し、室内を煌々と照らしている明るい照明の下に身をさらした。麻酔銃を構えてフランツに狙いを定める。レイもちょうど同じようにしているのが、視界の隅に見えた。
 ところが、まさかレイが制止の声を上げたからではないだろうが、どういうわけかフランツは今度は急に銃を撃つのを止め、両腕を下ろした。途端に、鼓膜を激しく震わせていた銃声と破壊音が、残響を残してすっと退いていく。弾切れか? それとも、健二と劉を殺したと判断したのか?
 理由はなんであれ、フランツが動きを止めた隙に、クレイグは銃を構えたまま三階席に視線を走らせた。ここからでは上の様子はまったくわからない。今は健二と劉のどちらの姿も見えなかった。
 クレイグはフランツに目を戻した。気がつくと、ジャンとゆかりも麻酔銃をフランツに向けて構えている。まっさきにダートを放ったのはジャンだった。フランツは横に飛び退き、やすやすとそれをかわす。クレイグも続けて麻酔銃を撃ったが、それも避けられた。間髪入れずにレイが撃ち、またジャンが撃つ。フランツは身を翻したり後ろに下がったりしながら、跳んでくる複数のダートを、顔色も変えずに軽々とよける。彼はまだ両手に銃を持っているものの、クレイグたちに対して攻撃しようとするそぶりは見せなかった。
 クレイグたちの方は、残されたダートの数を気にしながら麻酔銃を使わなくてはならない。SGAのチームが今の態勢で普通に攻撃を仕掛けても、敵に対してはほとんど意味が無いも同然のようだった。
 ジャンとゆかりが少しずつフランツににじり寄り、同時に麻酔銃を撃つ間、レイが通信機に向かって叫んだ。

「おい、健二! 無事か? 劉さん!?」

 クレイグも一度銃を下げると、ジャンたちと敵との様子には注意を払ったままで、通信を繋ぐ。

「大丈夫か?」
「はい、なんとか……」

 まず、劉の声が応えた。その声はかすれてどことなく苦しげだったが、たった今命が脅かされたことによる緊張のせいかもしれない。

「健二は? 無事なら応答してくれ」

 数秒待っても健二からの応答が無いので、クレイグは重ねて呼びかけた。

「は、はい……大丈夫です」

 遅れて、健二の弱々しく震えた声が聞こえてきた。
 怪我を負っている可能性はあるが、二人とも生きている。声の調子から、負傷していたとしても致命傷ではなさそうだ。レイがほっとしたように、見るからに表情を和らげた。クレイグもいくらか安堵したところで、劉が新たな報告をしてきた。

「ボス、十階に和泉かおるがいました。警備員を殺したのはたぶん彼です」

 相変わらず絞り出すような声だ。
 その報告に、今度はゆかりが反応した。クレイグの視界の先にいる彼女の緊張した顔に、瞬時に動揺が走ったのがわかった。芯の強いゆかりの心がぐらぐらと揺れ始める。クレイグはそれを気にしつつ、劉に「やはりそうか」と答えた。
 フランツの他にも敵がいるという、クレイグの予想は当たっていた。だが、まずは目の前のフランツを捕らえなくてはならない。そして、阿久津賢士にこちらの言葉が間接的に伝わり、彼がなんらかの反応を返すきっかけになるよう、フランツに語りかけなくていけない。
 クレイグは健二と劉の二人に、その場を動かず身をひそめているようにと告げると、通信を切ってフランツに向きなおった。
 しかし、フランツの強さは圧倒的で、いつもこちらの予想をはるかに超えた超人的な力を見せつけてくる。武装部隊の援護も無しに真っ向から立ち向かうのは無謀すぎたし、ビル内には彼の他に和泉かおるもいるのだ。
 ここで真っ先に優先すべきはもう一つの目標である、阿久津賢士との会話を試みることだった。
 クレイグは、なんとしてもフランツの肌にダートを刺してやろうと必死の形相で銃を握り、ずいぶん相手に近づきつつあるジャンに向かって、腕を上げながら「止めろ」と声をかけた。ジャンはちらりと、戸惑いと、邪魔するなと言いたげな怒りが入り混じったような視線をクレイグに向けてきたが、今回は反論することなく、即座に上司の命令に従って銃を下ろした。
 麻酔銃の攻撃が止んだ途端、フランツも動くのを止めた。銃を構える気配は無い。正した姿勢で、クレイグたちの方を向いて静かに立っている。
 クレイグはフランツの方へ一歩を踏み出した。それをレイやゆかり、ジャンが息をのんで見守っているのが感じられる。
 床に倒れ、折り重なったたくさんのアンチ・テクニシズムの人々の体の向こうに、フランツが立っていた。彼は今や、クレイグ一人に射るような冷たい視線を留めている。
 クレイグは意を決したように背筋を伸ばすと、落ち着いた声を保ったままで、まっすぐに彼に言葉を投げかけた。

「なぜ、私たちには手を出そうとしない?」

 腹に力を込めて発音したその問いは、クレイグが思っていたよりも強くはっきりとホール内に響いた。
 フランツは無言だった。ただ、じっと身動きせずに立ちつくし、感情の無いガラス球のような瞳にクレイグを映している。

「阿久津賢士の――お前たちの“マスター”の目的はなんだ?」

 クレイグはさらにたずねた。フランツの流麗な眉がほんのわずか動き、金色にきらめく長い睫毛にふちどられた目が細められたような気がした。それでも、彼は答えなかった。
 しばらくの間、両者が向かい合ったままで沈黙が流れた。クレイグは、医療研究所で前回フランツたちと対峙したときのことを思い出していた。メンバーが異なることを除けば、あのときとほとんど同じ状況だ。
 静寂が続き、フランツはこのまま一言も発さず、この時間が永遠に続くのではないかと思えるほどだった。だが、クレイグが再び口を開きかけたとき、状況に変化が起こった。

「はい。わかりました、マスター」

 唐突に、フランツがこちらに目を据えたまま抑揚のまったく無い声で言い、自分の服の胸の辺りに手をやった。カチッという金属的な小さな音がしたかと思うと、ノイズのようなかすかな音が流れ出す。
 ついで、体に刻まれた歳月にともなってしわがれてはいるものの、独特の深みを帯びた低い声が聞こえてきた。

「SGAのマーカス・クレイグだな」

 超然としていて、温かみこそ無いが、上品で穏やかな老齢の男の声。
 それは、阿久津賢士の声に他ならなかった。阿久津賢士が、フランツが身につけているらしいスピーカーを通して、じかにクレイグに話しかけているのだ。突然、この場で阿久津賢士本人が会話に応じることがあるなどとは思っておらず、クレイグは予想外の衝撃を受けた。

「そして、レイモンド・ストレイス。その後ろにいるのはジャン・ベルティエと藤原ゆかりか」

 この場にいないはずの彼の、まるで今まさに目の前で見ているかのような言い方に背筋が凍った。おそらく、他の皆も同じ思いだったのだろう。ビリビリと肌に感じられるほど、やにわに空気が緊張感を増していくのがわかった。
 彼には本当に見えているのだろうか? クレイグは一瞬、SGAが街中の様々な建物の防犯カメラなどに接続するように、阿久津賢士はなんらかの方法でこのビルのカメラの映像を見ているのかと思った。だが、直後に別の可能性に思い至る。スピーカーやイヤホンなどと同じように、フランツの体のどこかにカメラも取りつけられているのかもしれない。

「私は君たちの敵ではない」自身に満ちた阿久津賢士の声が、続けて言った。「君たちに手を出す気は無いし、私のもとで働いてくれている部下たちもみな、仕事がすべて終われば無傷で返すと約束しよう」

 部下とは、洗脳を施して操り人形としている和泉かおるたちのことだろうと、クレイグは彼が言うのを聞きながら考えた。

「私は君たちSGAと敵対することなど、最初から望んではいない。だからどうか、このままこの場を立ち去ってはもらえないだろうか?」

 口にしている不合理な要求とは裏腹に、紳士的で、礼儀をわきまえた者の頼み方だった。

「お前がやっていることは犯罪だ。それも、とてつもない重罪だ。見過ごすわけにはいかない」

 そんなことをこの老人がわかっていないとは思えなかったが、クレイグはあえて口にした。それに対して返ってきたのは、嘲るように鼻で笑う声だった。

「それならば、今すぐにでも私を捕まえに来ればいいだけのことだ。私がどこにいるかはわかっているんだろう。なぜそうしない?」

 そう言った阿久津賢士の声は相変わらず平静だったものの、こちらを挑発するような色が滲んでいた。

「私のところにいる者の身が不安だからか? だが、先ほども言ったように、彼らは人質ではなく私の部下だ。彼らを傷つける気など、私には毛頭無い。それに、たとえ警察やSGAが自分を逮捕するためにやって来たことでパニックに陥り、追いつめられた私が思わず彼らに手を出すようなことが起こったとしても、お前たちは必要とあらば、彼らを犠牲にすることを選ぶのではないのか?」

 彼の話し方は、自らも考えを巡らしながら口にしているふうを装ってはいたが、そこには明らかにこちらを脅す意図が含まれていた。
 クレイグは何も言わなかった。

「私を逮捕したくない理由が他にあるというのか?」

 少し間を置き、賢士は探るような声で続けた。
 しかし、彼はすべてわかっているのだ。SGAが彼をすんなりと逮捕できない別の理由――阿久津コーポレーションの技術が失われるのを危惧していること――を彼はすべて知っていて、しかも、知っているのだということを、暗に自分たちに示そうとしているのが伝わってきた。
 そのときクレイグは、阿久津賢士はSGAに対して、自分の行いに完全に目をつぶってもらうことを望んでいるわけではないのだと悟った。牽制されて、それほど派手な行動には出にくいながらも、ぎりぎりのところまで手を出されないようにすることを望んでいるのだ。彼は、今のこの状況を出来る限り引き伸ばしたいのだ。
 そして、彼の声や言葉の端々から伝わってくる、不自然なまでの余裕。阿久津賢士がそのしゃべり方通り正気であるならば、彼が“何か重大なこと”を計画しているのは間違いない。おそらくそれは、いずれ自分が必ず逮捕されるという事実など、取るに足らないことだと考えられるようなものなのだ。
 これまでは主に殺人犯や強盗犯を殺害するよう命じていた阿久津賢士が、ただアンチ・テクニシズムのメンバーだったというだけで罪を犯していない人々を、一度に何十人も殺させた。エスカレートする彼の行いから考えても、“その何か”を実行するときは確実に近づいており、それまでもうしばらく逮捕から逃れようと思っているのだろう。
 この状態をこれ以上続けるわけにはいかない、とクレイグは思った。
 そのとき、不意に背後で物音と扉が開く気配がし、フランツ以外の全員がそちらを振り返った。半分ほど開いた扉を、白衣を着た男が片腕で支えている。彼はホールの中を覗きこむように、扉の隙間からにやついた顔を傾けていた。

「かおる……」

 ゆかりが消え入りそうな、震える声で弟の名を呼んだ。
 かおるはギラギラと輝く目でホール内を見渡した。この状況を心から楽しんでいるような表情や仕草は子供っぽくもあるが、口の端は邪悪に歪んでいる。彼は、まずゆかりに目を留めてじっくりと観察するように見た後で、次にジャンに視線を移した。
 クレイグは、かおるが扉を支えているのとは別のもう一方の手に、メスのような小さな刃物を持っているのに気がついた。そこに目が行ったのは、メスの鋭利な先端が光を反射したからではない。彼のその右腕が、ひじの辺りまでおぞましい赤に染まっていたからだ。血を吸ってぐっしょり濡れた白衣の赤は、すでにどす黒い色に向かって変色を始めている。
 ゆかりもそれに気づき、鋭く息をのんでよろよろと数歩後ずさった。

「手で……体に穴を開けたのか……」

 意識せずにもれてしまった呟き、といった具合の茫然とした小さな声で、レイが言った。全員が恐怖で固まっていた。
 思った通り、警備員を殺したのはかおるだった。それも、小さなメスで刺したその勢いのまま、自分の腕ごと相手の体に貫通させるという、荒々しく異常な殺し方で。

「先ほども言ったが、私たちは君たちに危害を加えるつもりはない」

 再び阿久津賢士の声が言い、クレイグはかおるの方に体を傾けたままで、肩ごしにフランツを振り向いた。

「むしろ君たちは私にとって、限りなく仲間に近い存在だと言えるのだから」
「どういう意味だ」

 クレイグは慎重に聞き返した。斜め後ろから、ジャンの呻くような声が聞こえてきた。そちらを見やると、ジャンは険しく歪んだ表情で歯を噛みしめている。銃を構えた腕が震えていた。阿久津賢士への憎しみと、彼の要領を得ない言い分から募る苛立ちを必死で抑えているようだが、それも我慢の限界に近づいているらしかった。

「私は君たちSGAの敵ではない」阿久津賢士は繰り返した。「部下にはこれまでもずっと、君たちは殺さないようにと指示を出してきた」
「では、なぜ警察官は殺した?」

 彼は、クレイグのその質問には答えなかった。
 ゆっくりと、フランツが動き始めた。一歩一歩、静かな足取りでこちらへと近づいてくる。阿久津賢士に指示されたからなのかは定かではないが、「黙って通せ」という無言の圧力をかけてきているのだ。クレイグたちの背後ではかおるが扉をふさいでいる。武装部隊はまだ来ない。
 阿久津賢士の要求を無視し、不意をついて敵を攻撃しようかという考えが、クレイグの頭をよぎった。ここまで来てしまえばもう、阿久津賢士の行いが人々に知られることも、彼のもとにいる被害者に危害が及ぶことにも構わず、この瞬間から彼を逮捕することを最優先にするべきではないかと思ったのだが、それはクレイグの一存で決められることではない。それに、ここでクレイグたちが攻撃すれば、さすがに敵も本気で反撃してくるかもしれない。その結果自分たちが全員殺されたり、事態をさらに悪化させることになりでもすれば、健二の考えた作戦は無駄になってしまう。阿久津賢士と話すことが叶ったからとはいえ、この状況で健二の存在を敵に知らせることも危険すぎた。今、無駄なリスクを負わずにできることは何も無いと言ってよかった。
 だが、せめて相手の反応から何か手がかりが得られないかと、クレイグは一か八か、賭けに出てみることにした。

「彼をこの時代に呼び寄せたのはお前か」

 フランツが横を通りすぎたとき、彼は思い切ってそれだけ言ってみた。フランツが扉の前で足を止める。

「なんのことだ?」

 しばしの間があり、阿久津賢士の静かな答えが返ってきた。わずかに怪訝そうな響きは含まれているものの、ほとんど感情のこもっていない声だ。それだけでは、しらを切っているのかどうかはわからない。クレイグが黙っていると、彼はそれ以上追求することはしなかった。
 フランツとかおるはSGAの面々が動かないことを確認しながら、ともにメインホールから去っていった。前回のように相手の要求を呑むと明言したわけではないので、クレイグは敵の姿が見えなくなるとすぐさま武装部隊へ通信を繋ぎ、文芸交流センターから逃げる敵の行方を追うようにと伝えた。


* * *


 敵が去っても、健二は硬直してしまったかのように、三階席の手すりの脇にうずくまっていた。目の前に迫る赤いカーペットの上で握りしめた、自分の両の拳が震えている。拳だけではない。フランツの銃撃を受けたときから、全身が震撼している。その震えは阿久津賢士の声を聞いたときからますます大きくなっていた。目は衝撃に見開かれたままだ。
 あれが、自分の子孫の声なのか。恐怖を感じるとともに愕然とした。紳士然とした口調で取り繕ってはいるものの、隠せない酷薄な響き。声しか聞いていないのに、彼の冷たい表情が目に浮かぶようだった。なじみの無い年老いた彼の声からは、阿久津留美の写真を見せられたときとは違い、血の繋がりも親近感も、何も感じ取ることができなかった。
 あんな相手に対して、自分にできることなど本当にあるのだろうか? 阿久津賢士は彼と健二の結びつきに関する話に、いっときでも耳を傾けようとするだろうか? 急激に自分がひどく無力な存在に思え、強烈な不安と絶望感に襲われる。
 クレイグたちが座席横の階段を上がって三階席にやって来るまで、健二は体を縮めた姿勢のまま動けずにいた。

「大丈夫か?」

 健二が頭を上げたのと、駆け寄ってきたレイが健二の肩に手を置いたのはほぼ同時だった。

「怪我してねえか?」

 彼は切羽詰まったようなひどく心配そうな顔で、健二の顔を覗きこんできた。少し遅れて駆けてきたゆかりも、健二のそばで軽く腰をかがめる。その側にはクレイグと、少し離れたところにジャンもいるのが見えた。ジャンは、珍しく感情の読めない表情で健二に視線をそそいでいるようだ。
 健二は力の入らない足でなんとか立ち上がると、「ああ、大丈夫だよ」と答えながら、腕を伸ばしたり胴体や脚を見下ろしたりし、改めて自分の全身を確かめた。痛むところも、違和感のあるところも無い。
 すぐに健二が無事だと判断したクレイグは、バルコニーの先にいる劉の方へと向かった。健二がそちらを振り向いたとき、劉はちょうどバルコニーの手すりを支えにして立ち上がったところだった。
 通信で交わされた会話から皆が無事なのはわかっていたが、自分の目で全員の姿を確認して初めて、ようやく健二の中に安心感が湧き起こってきた。
 ところが、レイたちとともに劉の方へと近づいたとき、ふと体の脇にだらりと垂らした彼の左腕が目に留まった。健二の位置からかすかに見える彼の左の手には、指の先まで伝わった幾筋かの赤い液体が付着している。

「血が出てますよ!」

 健二は驚き、反射的に彼の手を指差して叫んでいた。

「ああ」劉は間延びしたのんきな声を上げると、まるで今気がついたとでも言うように自分の左腕に目をやった。「少しかすっただけだから」

 先ほどフランツが撃った弾が当たったのだろうが、たしかに、見たところそこまで多くの出血があるわけではなさそうだった。
 ゆかりが「大丈夫ですか?」と慌てて劉の左側に回りこみ、彼の腕にそっと自分の手を添えるようにして顔を近づけ、怪我の具合を見ようとした。

「すぐに医療課で診てもらえ」

 クレイグはそう言ったが、その声はいつもの冷静さに満ちていて彼の感情はうかがえず、彼自身が心配しているのかどうなのかわからない。

「ほんとに全然たいしたことないですよ、こんなの。大丈夫です」

 劉は左手を上げて軽く振ると、笑みさえ浮かべて言った。

「いや、先に本部へ戻って手当てを受けるんだ」

 それでも、クレイグは譲らなかった。ゆかりもうんうん、とうなずいて同意を示している。どうやら、ひじの少し上辺りを銃弾がかすめ、傷を負ったらしい。傷口から流れた血が、手の先にまで垂れてきていたのだ。だが、彼の様子からすると、本人の言うとおり大きな怪我ではなさそうだった。あのすさまじい銃撃を受けて、二人ともたいした怪我を負わずに済んだのはほとんど奇跡的と言ってもよかった。

「ストレイス、武装部隊からの連絡があり、敵が建物から離れたことが確認でき次第、劉と健二をつれて先に本部へ戻れ」
「わかりました」

 指示を受けたレイは、自分もそのことに異論はまったく無いと言った調子で、素直に応じた。
 仲間の無事が確認できると、ゆかりはバルコニーの下へと目を向けた。その視線に気づいたレイが「ひどいっすね」と暗い声で呟く。
 健二も彼らの視線を辿ってホールに目をやった。しばし、全員が無言で階下を見つめていた。そこには、殺された何十人ものアンチ・テクニシズムの人々が倒れている。散乱した料理や飲み物と混ざって、至るところに血の赤が飛び散っているのも見えた。

「まさか、ほんとにあいつらが来て……しかも、全員殺すなんて……。ざっと見るだけじゃ、この中に竹下がいるのかどうかもわかんねえな」
「武装部隊から連絡が来たあと、生存者がいるかどうかなどと合わせて確認しよう。じきに、処理課の者たちも到着するだろう」

 レイの独り言のような言葉に、クレイグが答えた。
 先ほど武装部隊に連絡を取ったあと、クレイグは他にも数ヶ所に通信を繋ぎ、文芸交流センター――現場に来てほしいと伝えていた。健二にはそれぞれの通信の相手がなんの役割を担っているのかなどわからなかったが、いずれも事件の処理に必要な存在らしい。処理課というのも名前の通り、そのうちの一つだろう。

「なぜ、突然こんな……」ゆかりが言い淀み、一度口をつくんだ。「これまではほとんどが犯罪者をターゲットにしていて、アンチ・テクニシズムのメンバーだった人たちは二人だけ、それも間を空けて殺害していただけだったのに、なぜ阿久津賢士は突然、こんな一見無謀にも思えるような大量殺人を行ったのでしょうか?」

 戸惑いの表れた声で続ける。彼女自身、今そんなことを言ったって何も解決しないとわかっていながら、事態をすんなりと受け止められず、混乱を静めるためにも口にせずにはいられない、といったような様子だった。
 クレイグは「わからん」と静かに首を振った。

「しかし、敵の行動がより大胆に、派手になるということは、阿久津賢士の中の何かが、もしくは彼がひそかに行っていることが、それだけ進行していると考えていいだろう。おそらく、我々にとっては望ましくない方向にだ」

 健二は彼らの会話を聞いていたが、何も考えられなかった。体はまだ緊張と恐怖で震えているのに、頭は夢の中にいるようにぼんやりとしている。目の前の惨憺たる光景が健二の理解の範疇を超えているからなのか、そこに見えているものに現実感を抱くことができず、何も感じなかった。銃で撃たれて命を落とした罪の無い人々の姿を見ても、哀れみの感情さえ湧いてこない。

「上層部はこのような大きな事件をどう処理するんでしょうか。幸い、貸切の建物内なので目撃者はいませんが……。殺されたのは皆、一般人です。被害者が身元不明の犯罪者だったときのように、問題無く逮捕したと報道するわけにも、事件そのものを無かったことにするわけにもいきませんし……」

 ゆかりが不安げな顔をクレイグに向けた。

「一連の事件が阿久津賢士の犯行だということを世間に隠し通すことが難しくなるのは、時間の問題だろうな」クレイグは言った。「彼の犯罪による被害の大きさを考えれば、もはや、技術や経済的な面での損失など重視している場合ではない。彼の逮捕に関しても、これまでの受身的なやり方ではとても対応できない」

 腕を組んだジャンが黙ってクレイグを見つめ、話に耳を傾けているのが健二の視界の端に映っていた。

「健二の存在を活かした作戦を試みるとともに、根本的な対処の仕方を変える必要がある。……阿久津賢士の事件を一部でも公にするべきだと、上層部に話をしよう」

 クレイグの声がずしりとした重みを持って響いた。皆それぞれに考えを巡らせているかのような沈黙の中、健二は景色が遠のいていくような感覚を覚え、途方に暮れたように、どこか孤独感にも似た不安を抱えてバルコニーに立ちつくしていた。


* * *


 薄い雲がまばらに浮かんだ空が茜色に染まり始めた、春の日の夕暮れ時。閑静な住宅街にほど近い舗道で、少年が泣いていた。その周りを、これもまた小学校の中学年くらいの少年たち三、四人が取り囲んでいる。

「すぐ泣くよなあ、こいつ」
「ほんとに女みてえだよな」

 少年たちが、意地の悪さよりも、ませたあきれ口調の方が際立つ声で言うのが聞こえた。泣いている少年の正面に立っていた一人が、あふれてくる涙を両手でひっきりなしに拭っている少年の肩を、軽く小突くのも見えた。
 うつむいてすすり泣いている少年の顔は輪郭の線が柔らかく、もう少しで肩に届きそうな長い髪もあいまって、服装を除けばたしかに、一見して彼の性別を判別するのは難しくはあった。

「こら! 何やってるの!」

 通っている私立中学から帰る途中だったゆかりは、きびしい声を上げながら、道路を挟んだ向かい側の道からそちらに駆け寄った。彼女の中に、燃え上がるように急速に、怒りが込み上げてくる。
 ささやかながらも卑劣な虐めを行っていた少年たちは、ぱっと一斉にゆかりの方を見た。その目は一つ残らず、驚きに見開かれている。

「止めなさい!」

 怒りを込めてなおも叫ぶと、ゆかりが少年たちのもとにたどり着く前に、彼らは虐めていた少年を残して突然走り出した。そのまま一度も振り返らず、一目散に逃げ去っていく。ゆかりはその後ろ姿を目で追いながら立ち止まった。彼らを追いかけてまでしつこく注意をするのもはばかられたし、何よりすぐそばでまだ涙を流している少年をなぐさめ、安心させるのが先だと思ったので諦めたのだが、怒りは収まらない。たとえ子供といえど、他者を平気で傷つける行為を目の当たりにして、単に腹が立ったからというだけではない。目の前で切なげに顔を歪ませ、涙を流しているのが、ゆかりのたった一人の、大切な大切な弟だからだ。

「お姉ちゃん……」

 かおるは大きな目でゆかりを見上げた。心細そうで、ゆかりを頼りきったすがるような目だった。ふっくらとした愛らしい頬を涙がぼろぼろとこぼれ落ちるのを見たとき、ゆかりの胸は痛んだ。
 自分よりだいぶ背の低い彼と目線を合わせるためにかがみこむと、ゆかりは彼の頭にそっと手をやった。

「もう大丈夫よ」優しく言って、癖のある髪を撫でる。「みんな追い払ったわ。かおるのことは私が守ってあげるから。ね? また何かあったら、すぐに私に言うのよ」

 ゆかりがにっこりと笑顔を浮かべると、かおるは小さくうなずいた。
 おとなしく、ひ弱で優しいかおるは、小さい頃から虐められることが多かった。そんなときはいつもゆかりがかおるをかばい、彼を虐める他の子供たちを叱り飛ばした。いつだって、かおるを守るのはゆかりの役目だった。
 ゆかりは体を起こすと、かおるに向かって手を差し出した。

「行きましょう」

 その手にかおるが小さな手を重ね、ぎゅっと握りしめる。二人は夕日を背に、近くの公園へ向かって歩きだした。この日は公園で話す約束をしていたのだ。二、三歩歩くうちに、かおるはもう泣き止んでいた。
 ゆかりとかおるはほんの幼いときからずっと、お互いが世界で一番信頼できる、心を許せる理解者だった。一緒に遊び、語り合っては、気持ちや考えを共有していた。姉弟の間には誰にも入り込めない、強い絆がある。
 不仲だった両親が数年前――ゆかりもまだ小学生だったときに離婚し、ゆかりはこれまで通り父親の姓を名乗り続け、かおるは母親の旧姓を名乗るようになってからも、それは変わらなかった。毎日のように通信機器でやり取りし、休日や学校帰りに待ち合わせ、こうして外でこっそり会う。そして、他の家族や友人には言えないこともなんでも話し、相談し合うのだ。ゆかりは両親のことも好いていたが、かおるは特別だった。

「お母さんは元気?」
「うん」

 ゆっくりと歩きながらゆかりがたずねると、かおるもようやく笑顔を見せた。手のひらから、かおるの温もりが伝わってくる。過ぎ去った日の、穏やかな記憶。
 それから十年近くの月日が流れた後、やがてかおるも大人の男に成長し、虐められることも、すぐに泣くことも無くなった。それでも、彼らの関係は揺らぐことがなかった。二人は頻繁に会い続け、持病を患っていた母親のことや仕事のこと、将来のことなど、いろいろなことを話した。年齢を重ねるごとに、二人の間の絆はいっそう確かなものとなっていった。
 かおるにはゆかりが必要だったし、それを当然のことだと理解していたゆかりは、彼を精神的に守り、支え続けた。そして、ゆかり自身もまた――


 カタン、という物音と側に人が寄る気配で、遠い日の回想は霧散するように消え去った。ジャンが木造りのチェストの上に通信機を置いた音だった。シャワーを浴びていた彼は、タオルで髪を拭きながらゆかりに近づいてきた。入浴中も彼の腕につけられていた防水の通信機は、チェストの上でまだ湯の雫を光らせている。
 ベッドのふちに腰かけて写真を眺めていたゆかりは、顔を上げて彼を見つめた。

「ジャン」

 部屋の照明はほとんどが落とされており、ベッド横の間接照明だけが、室内にほの暗い光を投げかけている。ジャンが歩いてくるにつれ、その黄金色の光がジャンの顔をぼんやりと照らし出し、彼の薄青色の瞳もかすかにきらめいた。
 今ゆかりがいるこの部屋は、現在の自分の住まいでもある拠点の、ジャンの私室だった。明日は珍しく二人の休日が重なった貴重な日なので、今夜は自然と一緒に過ごす流れとなった。しかし、心に影を落とす数日前の事件のことや漠然とした不安が心を占めていたため、どこか外へ出かけようという気にもならず、特に何をするでもなく、ジャンの部屋で言葉少なに何気ない会話を交わしたり、物思いに耽ったりしていたのだ。
 もう夜の十時を回っているので、健二とアマンダはおそらく自分の部屋で思い思いに過ごしているだろう。レイとクレイグはまだ本部だった。クレイグは今日も本部に泊まるのかもしれない。

「どうした」

 薄暗い中でもゆかりの顔が悲しげに曇っているのに気づいたからか、ジャンは静かに声をかけると、濡れたタオルを無造作に近くの椅子の背にかけた。
 ゆかりは両手で持っていたフォトフレームをそっとベッドの上に置いた。一瞬、ジャンは写真に目をやった。乏しい明かりのせいで、木の枠の中で肩を並べ、こちらに笑顔を向けている姉弟――ゆかりとかおるの姿は彼には見分けられなかっただろうが、彼女がなんの写真を見ていたかは彼にもわかっているはずだ。昔ながらのフォトフレームに入れられたそれは、普段はゆかりの部屋の小さなテーブルの上で、花の鉢植えの隣に飾られていた。
 ゆかりはゆっくりと立ち上がってジャンを見上げると、まっすぐに彼と目を合わせた。ジャンの灰色がかった薄い青の瞳は、春の日の空を連想させる。ゆかりにとってその青は、優しく温かく包み込んでくれる、大きな空だった。
 話したいことはたくさんあった。先日の事件のあと、クレイグは犯罪捜査部の部長を通して、阿久津賢士の事件を公表すべきだと上層部に進言した。しかし、それから数日経った今もまだ、事態は進展の兆しを見せていない。
 現在、フランツとかおるが文芸交流センターで数十人を殺害した事件は目的不明のテロリストの犯行だと報道されているが、殺された被害者の中には国会議員の竹下も含まれていたのだ。人々の疑いや騒動は簡単には収まらないであろうことは明白だった。阿久津賢士の思わせぶりな態度も気がかりとなり、ゆかりはこれからどうなるのか、今にももっとひどいことが起こるのではないか、という不安から片時も解放されずにいた。
 そして、何よりかおるのことだ。心優しい彼が残虐な殺人を強いられ、命の危険にさらされている。変わってしまった彼を見るのは恐ろしかったが、それ以上に辛かった。かおるのことは自分が守ってやらなければならないのに、何もできない自分が歯がゆく、波のように交互に襲いくる焦燥感と悲しみで胸が押しつぶされそうなほどに苦しい。
 だが、ゆかりは何も言わず、ジャンの方も同じだった。二人はしばらくの間、無言で見つめ合っていた。言葉は無くとも、お互いがお互いの気持ちを痛いほど理解している。ゆかりにとってジャンはいつしか、弱い自分を唯一見せられる存在となっていた。
 ジャンは体が触れ合うほど近くまで来るとゆかりの背に手を回し、太い腕で彼女をしっかりと抱きしめた。その腕の力強さは、「お前のことは俺が守る」と語っているかのようだ。たくましく大きな体に包まれ、硬く緊張していたゆかりの体がわずかに弛緩する。ジャンの体温を感じながら、ゆかりは彼の厚い胸に身をゆだねた。
 窓の外では激しい風が吹きすさび、庭の木々の葉を枝からさらっては飛ばしていた。今にも雨粒を落としそうな黒々とした雲が月を覆い隠し、周囲には不安を呼び起こすようなねっとりとした闇が垂れ込めている。
 暗い空の下、軒下に並べられたプランターの花々が、中庭で渦巻く湿った風によって大きく身を揺らす。影に沈んで鮮やかさを失った花たちの間に、特別目を引く白い花が咲いていた。開花期をとうに過ぎた六月だというのに、六枚の花弁を持った小さなその花――イフェイオンは今なお、夜空に輝く星のように、闇の中に白くぼんやりと浮かび上がっていた。



-- Episode 04 Fin. --



「第四話」、無事完結いたしました!!

久しぶりに本編の更新に一ヶ月以上間が空いてしまいましたが、
もし待ってくださっていた方、楽しみにしてくださっていた方がいらっしゃいましたら、本当に本当にありがとうございます!

そして、今回も読んでくださってありがとうございましたm(*_ _)m
読んでいただけること、拍手等を頂けることが、いつもとても励みになっています。

時間はかかりましたが、完成させられてよかったです!
こちらに書くと長くなるので、また今回の内容等については雑記の方で触れたいと思います。
「第五話」以降もがんばります!!(*^▽^)

読者数の参考にしたいので、小説を読んでくださった方は各記事の拍手ボタンを押していただけますと助かります。
もちろん強制ではありませんので、気が向いたらで構いません!


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