未来への追憶 第五話 - 03

 皆が息を詰めて見守る中、ゲートは口を大きく開き、それにつれて塀の内側が徐々に露になった。だが、敷地内も暗闇に包まれているため、肉眼ではよく見えない。レイは目を細め、身を乗り出すようにして前方に目を凝らした。
 確かに、ゲートから少し離れたところに人影が一つあった。フランツだ。丁度、正面ゲートに一番近い建物と、ゲートの中間辺りの場所に立っている。両手は体の脇に下ろしていて、武器を構えている様子ではない。
 すばやく目線を動かして車内のディスプレイを見ると、劉が本部から送ってきている監視カメラの映像とともに、フランツの姿も映っていた。そこには、偵察用ロボットによって捉えられ、拡大されたフランツの顔の表情までもが、はっきりと映し出されている。阿久津賢士の側からすれば、敵に本拠地へと乗り込まれる寸前とも言える状況であるはずのに、焦りや恐怖を感じている様子でもなければ、怒りを湛えている風でもない。相変わらず、緊張さえをも感じさせない、作り物のような冷たい無表情だ。彼はこれまでと同じく、豊かな金髪を後ろに撫でつけ、舞台や映画の衣装のような中世風の服に身を包んでいた。

「研究所の正面ゲートが開いた。フランツの姿を確認した」

 通信機で作戦に参加する全員に向かって報せたあと、クレイグはそのまま通信を切らずに「劉」と呼びかけた。

「今、屋外に出てきたのはフランツ一人か?」
「はい。こちらで確認できる範囲ではそうです」

 わかった、と短く答えると、クレイグは一度通信の接続をオフにした。それからしばし、フロントガラス越しに小さく見えている実際の像とカメラ映像の両方とで、フランツを観察する。レイもジャンもゆかりも、おそらくはレイの後ろにいるアマンダも、全員がフランツを注視していた。車内を張り詰めた空気が流れる。
 建物の入り口のガラス戸からは、明かりの消えた屋内が見えた。闇を背にした透明の自動ドアは、陰鬱な水槽のように見える。その前に佇んでいるフランツは身動き一つしない。SGAが研究所にやって来た理由がわからないため、SGAが次の行動に出るのを待っているのだろう。ここまでは望んだ通りの展開だった。
 こちらが動かない以上、フランツも動く気配を見せないと充分に判断できた頃、クレイグが前部座席から後ろを振り返った。無言で車内にいる全員の顔を順に見回し、目を合わせていく。アイコンタクトを受けたジャンとゆかりが目で応えるのが、レイにもわかった。鋭い光を宿したクレイグのダークブラウンの瞳と視線が合ったとき、レイもその目を強く見つめ、深くうなずきを返した。

「これより、阿久津賢士への接触を開始する」

 顔を前に戻したクレイグは再び通信を繋ぐと、静かな声で告げた。車内を満たす緊張感が急激に増す。
 ついで、クレイグは車体の外側に備えつけられたスピーカーから声を発信するため、マイクのスイッチを入れた。

「SGAのマーカス・クレイグだ」

 彼はマイクに顔を近づけて簡単にそう名乗った後、「阿久津賢士に用がある」とだけ伝え、相手の返事を待った。このまま反応が無ければ先を続け、早々に自分たちがここへ来た目的を明かすしかない。しかし、そうはならなかった。
 ややあって返ってきた返答はフランツの口から発せられたものではなく、彼が身につけているであろうスピーカーを通して聞こえてくる、阿久津賢士のあの声だった。

「私は君たちと進んで敵対するつもりはない、と言ったはずだが」

 感情を知的な上品さで覆い隠し、異様なほどの落ち着きと余裕を漂わせている。テーブルを囲んで茶でも飲みながら、旧知の友のうっかりをどこかおもしろ半分に指摘している老紳士。ついそんな光景が目に浮かんでしまうような、穏やかな口調だ。
 クレイグはすぐには答えなかった。

「我々も敵対しに来たつもりはない。話をしに来た。お前に話したいことがある」

 少し間を置いてから口を開いた彼は、阿久津賢士のペースに合わせるように、ゆっくりとした声で言った。毅然としてはいるが、相手を威圧するような調子にはならないよう、余計な力は込められていない。外の音を拾って伝えてくる車内のスピーカーからも、窓ガラスの向こうからも、増幅された音声が聞こえていた。
 また無言が続いた。その無機質な無言の間は、戸惑いや逡巡といった感情から生まれたものではないことが伝わってくるようだ。阿久津賢士がクレイグの言った“話”について、訝しんでいるわけでもなければ、なんの期待も興味も持っていないことを表しているように感じられる。SGAは自分に犯罪行為を止めさせるため、説得や非難の言葉を並べ立てに来たのだろうと思っているのかもしれない。
 もし彼がそう判断した場合、どのような行動に出るだろうかと、レイはフランツとその周囲に向けた注意を保ったまま考えを巡らせた。これまでにフランツたちと対峙したときのことを思えば、SGAであるレイたちのことをいきなり殺害しようとしてくることはないだろうと思いつつも、考えの読めない相手だけに行動も予測できない。
 阿久津賢士の返事を待たず、クレイグの声が再び静寂を破った。

「そちらが手出しをしなければ、私たちも決して攻撃を仕掛けたりはしない」

 以前に阿久津賢士が投げてきた言葉をそのままを返すかのように言い切る。そして、クレイグは首をひねると再度、後部座席の方を振り向いた。その目がほんの一瞬、しかしまっすぐに、レイの目を捉える。レイに対する二度目の合図だ。今度はレイがうなずく間もなく、クレイグはボタンを押して自分の座席の横のドアを開き、車外へ降りた。レイも狭い座席の間を通って車内の一番後ろまで移動し、バックドアを開いて固い地面に降り立つ。
 外に出ると、むっとした生暖かい空気に包まれた。昼間よりはずいぶん涼しくはなっているが、空調の効いている車内と比べると不快感を感じるほどの暑さではある。
 クレイグは車の右側に立ち、レイは左側に立った。持っていた拳銃型の麻酔銃は、車の後ろを回り込む際にホルスターに収めていた。まずは、こちらに戦う意思が無いことを示すのが重要だった。それでも後ろの車では武装部隊の隊員たちが、何かあればすぐさま飛び出せるように腰を浮かせ、麻酔銃を構えて待機しているはずだ。

「すでにわかっているとは思うが、正面から対立して無駄に騒ぎを大きくするようなことは、私たちも望んではいない」

 離れた場所に立つフランツに、そしてその向こうにいる阿久津賢士に届くように、クレイグが声を張った。しん、と静まり返った夜の空気の中に、彼の低い声が響き渡る。

「お前も、阿久津コーポレーションが汚されることは本望ではないんだろう」クレイグは続けた。「それはこちらにとっても同じだ。阿久津コーポレーションを失うことは、今の日本の社会や経済全体に大きな損害を与えることになる。お前の認識している通りだ。だからこそ警察ではなく、SGAが動いている。この件はSGAと阿久津コーポレーションの間で、なるべくひそかに解決したい。とは言え、もちろんお前の行いを見て見ぬ振りをするつもりはないが……しかし、今日はお前を逮捕しにきたわけでも、説得しにきたわけでもない」

 あらかじめ用意していた台詞をとうとうと述べるクレイグの声が、レイの鼓膜を震わせる。
 フランツはまだ動かない。車の側方や背後など、周辺の監視は車に残っているチームのメンバーや武装隊員、そして本部の劉が担当してくれている。レイはフランツだけに意識を集中させた。
 やがて、フランツがゆったりとした足取りで進み出てきた。レイとクレイグは身構え、レイは腰元にある麻酔銃に手を伸ばしかけた。だが、フランツの方はレッグホルスターの拳銃を抜くそぶりも、隠し持っているであろうナイフを取り出すそぶりも見せず、ただ歩いてくる。正面ゲートを通り抜けて外へ出てきた彼は、ゲートのそばに一つある外灯の下で足を止めた。明かりの輪の中に立った彼の全身が、くっきりと浮かび上がる。艶やかな金髪や、上着の鮮やかな濃赤色が強い光に照らされ、闇に沈んだ景色の中で、彼だけが明るい色彩を放っているように見えた。

「それでは、なんのために訪ねてきた?」

 先ほどまでよりもずっと近い距離から、阿久津賢士の声が問いかけてくる。
 それに答える前に、クレイグも相手に警戒心を与えない緩慢な動きで、車の前まで歩み出た。レイもそれにならって前に出ると、クレイグから数歩下がったところで立ち止まった。両者の距離がさらに縮まる。

「まず、お前にいくつか確認したいことがある。それから、伝えるべきことだ」クレイグは話を再開した。「その上で、今後さらに話し合いたい事柄もあるが、今日のところは必要なことだけを伝えて、我々は一旦引き上げる。それ以上のアクションを起こす気は無い。それに納得してもらえるというのなら――」
「ボス!」

 そのとき、耳元から劉の声が割り込んできた。クレイグは反射的に言葉を切り、レイは劉の切迫した声にはっとした。

「どうした」クレイグの声が硬くなる。
「西の商工業地区に人影が。大通りから2ブロック先、ヤガタ電子のビルの前です」
「何だと」

 瞬時にクレイグの声色が変わった。いつもは感情の起伏があまり感じられない彼の声に、驚きの色がはっきりと表れている。

「おそらく、一般人です」

 その単語を聞いた途端、レイは頭を殴られたかのような衝撃を受けた。訳がわからず、一瞬頭が真っ白になる。レイだけでなく、通信で報告を聞いた全員がそうだっただろう。
 なぜ、一般人が今、ここにいるのだ? 五日前から通知を出し、昨夜午後十時から交通を遮断して、研究所から半径一キロの範囲を立ち入り禁止とし、誰も残っていないことも確認したはずではなかったのか。現在も研究所へ通じる道はどこも武装部隊が固めているのに、いったいどうやって――
 レイとクレイグが動けないでいたのはほんのわずかな間だったが、その短い間に目の前のフランツが動いた。影がぱっと揺らいだかと思ったときには、すでに二人の前を飛ぶような速さで離れ、レイの横をすり抜けていた。レイは慌てて振り返り、フランツの後ろ姿を目で追う。彼が向かったのは、研究所正面の大通りを越えた先にある西側の地区――ヤガタ電子も含め、オフィスビルや工場が並んでいる方面だ。

「待機三班、至急ヤガタ電子の前に向かい、一般人を保護しろ」

 即座に、ヤガタ電子に一番近いポイントで待機していた武装部隊のチームに、クレイグが通信で指示を出した。それとほぼ同時に自らも地面を蹴り、フランツの向かった方向へと駆け出す。レイもその背中を追った。レイの判断を良しとしたらしく、クレイグは何も言わなかった。
 数区画先くらいまでの距離ならば、わざわざ車に戻って移動するよりも、直接追いかけた方がいい。それに何より、全員が研究所の前を離れるわけにはいかない。

「クレイグだ。こちらでフランツを追う。ベルティエと支援班は一旦大通りまで戻れ」

 走りながら、クレイグはまた通信機を使い、激しい呼吸の合間で一息に命じた。

「わかった」
「支援班、了解」

 間を空けず、ジャンの声と、ジャンたちの後ろについている車に乗る、武装部隊の男の声が続いた。
 車の通りの無い広い道路を横切り、街灯に照らされた夜の歩道を駆け抜ける。レイとクレイグは、通り沿いのビルや工場の前を次々に通りすぎた。
 一ヶ月前、医療研究所では追いかけてくるフランツから必死に逃げていたが、今回はレイが追う側だ。今は恐怖心よりも、怒りと焦燥感の方が勝っていた。フランツは何をするつもりなのか。一般人が巻き込まれることだけはなんとしても防ぎたい。間に合ってくれ。レイはひたすらに祈りを込め、一心不乱に走った。
 フランツの背中はどんどん遠ざかり、小さくなっていく。距離が空くほどに彼の姿は闇に呑まれて見えづらくなったが、前を走るクレイグは少しの迷いも見せずに進んでいた。おそらく、頭にはこの辺りの地図がしっかりと入っており、それも頼りにしているのだろう。地図を事前に何度も確認したのはレイも同じだったが、それでもレイの方は時折、手首の通信機で表示させているマップにちらちらと目をやり、劉が知らせてきた位置を確かめた。
 ほどなくして、前方から喧騒が聞こえてきた。通りの先、二つ目の曲がり角の辺りに人が集まっている。フランツの姿もあった。先に到着した武装隊員たちがフランツの前に壁を築くように並んでおり、その後ろに五、六人ほどの若者がいる。皆、まだ十代だろうか。少女も二人いる。
 劉に報告を受けたときから、一般人と思しき人間というのは実は阿久津賢士側の囮なのではないかという疑いもあったのだが、心底から怯えきった彼らの様子は、間違いなく普通の一般市民であることを証明していた。なぜ彼らがここにいるのかはわからないが、今はそれどころではない。
 健二を乗せた車が待機している位置からもそう離れていない場所だ。レイとクレイグは、集団から七メートルほど離れたところで足を止めた。

「待機二班、北側に移動しろ。徐行で少しずつ、数十メートルほどでいい。研究所にはそれ以上近づくな」

 フランツに聞こえないよう、クレイグがトーンを落とした声で言うのが左耳のイヤホンを通して聞こえてきた。健二を連れているチームに向けた指示だ。
 フランツは武装部隊と向かい合う形で、じっと立っていた。彼にはなぜ、若者がここにいることがわかったのだろうか。劉からの通信はSGAにしか聞こえていないはずだ。仮定としても無理があるが、クレイグの発言からおよその内容を推測したのだとしても、正確な場所まではわかるはずがない。
 突如、フランツがすでに右手に持っていた拳銃を構え、武装部隊に向けて発砲した。夜空をつんざくような、若い女の悲鳴が響き渡る。一発は列の中央にいた隊員の腕に当たり、もう一発はその横にいた隊員の手から麻酔銃を弾き飛ばした。二人の隊員がよろめき、武装部隊の壁が崩れる。そこを狙い、フランツが武装隊員の後ろで身を縮こまらせている若者に銃を向けた。
 彼は罪も無い若者を殺すつもりなのだ。文芸交流センターでアンチ・テクニシズムの人々を殺したように。

「止めろ!」

 レイは思わず叫び、咄嗟に腰のホルスターから麻酔銃を抜いて構えていた。フランツの背中に照準を合わせる。しかし、引き金を引こうとしたところで指が止まった。
 今日、阿久津コーポレーションの研究所に来たのは、阿久津賢士と話し、健二の存在を彼に知らせることが目的だ。ここでフランツとSGAが戦闘になれば、その目的は果たせなくなるかもしれない。やむを得ない場合以外は、麻酔銃を撃ったり、攻撃したりすることは禁じられていた。
 目の前の状況は、まさにその“やむを得ないとき”に思えるが――

「一般人の保護を最優先にしろ」

 横目でクレイグをうかがうと、彼は言った。

「はい」

 汗ばむ手で改めて麻酔銃を構えなおしたが、レイが撃つとほぼ同時に、フランツは身を翻した。ダートは当たらなかった。
 クレイグの許可を受けた武装隊員たちも、フランツに向けてライフル型の麻酔銃を撃ち始める。フランツは、およそ人間とは思えない例の素早い身のこなしでダートをかわしていたが、数が多いためか避け切れず、何本かのダートは彼の服や靴をかすめた。
 現状の把握もままならず、パニック状態に陥った若者からまた悲鳴が上がる。何人かは堪らず通りの奥へ逃げようとした。その際、若者の一人――派手な髪色と服装をした少年の手から何かが落ち、地面を転がった。危険物ではないかと、レイは少年たちの足元を離れていく物体に注意を向けたが、どうやらそれは、発光塗料が噴射される画材道具のようだ。スラム街の近辺以外で見かける頻度はそれほど多くはないが、時には、街中の塀やシャッターなどに低俗な落書きを残すのにも使用されるものだ。
 こんな時間に出歩いていたことや外見の雰囲気からしても、普通に考えれば彼らは大方、自分たちのフラストレーションをどこかにぶつけようと企んでいた不良グループだろう。
 フランツは続けざまに放たれるSGAのダートを避けながら後退し、ヤガタ電子のビルの横の路地に身を隠した。
 レイはクレイグとともに、武装部隊と若者に走り寄った。武装部隊の隊員たちは、散り散りになりかけた若者を一ヶ所に集めようとしている。

「大丈夫か!」

 声をかけながら近づいていくと、ふと、スプレーを持っていたのとは別の少年が着ているTシャツの文字が目に入った。
“I'M AGAINST TECHNOLOGY THAT BLASPHEME NATURE.”
 書き殴ったような力強いフォントを使用して大文字で記されたその言葉は、これまでアンチ・テクニシズムのデモの際などに、人々の服やプラカードの上で何度も目にしたものだった。この少年少女たちもアンチ・テクニシズムのメンバーということなのか。
 銃声が鳴り、銃弾がレイの背後の建物の外壁を穿った。フランツが再び建物の影から躍り出てくる。

「一般人を逃がせ!」クレイグが叫んだ。

 武装部隊が若者を囲み、通りを西に向かって走るよう促そうとしたが、手を取り合っていた一組の男女が、武装部隊が誘導する方向とは逆――研究所の方に向かって逃げ出した。

「違う! そっちは――」

 言いかけたところで銃弾が肩をかすめ、レイはひやりとして息を呑んだ。フランツが二発、三発と続けて撃ってくる。弾はレイや武装隊員からわずかにそれた位置に飛んできた。牽制のつもりなのか、わざと外した場所に撃っているようではあったが、SGAは身動きが取れなくなる。
 このまま押してくるつもりかと思ったのだが、フランツはSGAの態勢が崩れた隙に攻撃を止め、研究所方面へ逃げた二人の男女を追うように駆け出した。不意を突かれた上にとても追いつけるような速さではなく、レイたちはまたもや反応できなかった。しかし、慌しい一連の動きからも、フランツにもどこか人間的な必死さがうかがえるようにも思える。

「ベルティエ」クレイグが通信機に向かって呼びかけた。「そちらに一般人二人が逃げた。若い男女だ。フランツがそれを追っている。支援班とともに対応してくれ」

 早口で命じると、次に、負傷者の怪我の具合を確認したり、若者たちを落ち着かせながらも、未だ用心深く周囲に気を配っている武装部隊に声をかける。

「車に戻って、西側の道路封鎖地点まで後退しろ。本部に応援を頼んで、負傷者と保護した一般人を本部まで搬送するんだ」
「阿久津の研究所方面へ逃げた二人は――」
「こちらで対処する」

 最後に、クレイグはレイを振り返った。

「私たちも研究所へ戻るぞ」
「はい!」

 暑さと緊張からとめどなく滲み出してくる汗が、レイのこめかみや額を伝い、滴り落ちていく。長い前髪が濡れて顔に貼りついていた。息が上がっている。レイは振り払うような動作で乱暴に、顔を流れる汗を腕でぬぐった。
 二人は、ぽつぽつと等間隔に並ぶ街頭の光だけが浮かび上がる夜の町を、たった今来たばかりの道を引き返すため、再び走り出した。


* * *


 ジャンはクレイグからの指示を受け、車の外に出て待機していた。車は武装部隊の車両とともに、大通りを塞ぐような形で停めてある。ゆかりも車から降りてくる。車内からの支援や運転を担当する者を除き、武装部隊の隊員たちも外に出てこれから待ち受けている事態に備え、体の前で麻酔銃を構えている。
 ジャンは乱暴な口調で武装部隊に指示を出した。

「一般人二人が逃げてきたら、フランツを牽制してる間に何人かでそっちの車に乗せろ」
「はい」

 ゆかりは車の横に立ち、開いたままの研究所の正面ゲートの方を見つめていた。
 今、捜査チームの車に残っているのはアマンダだけだ。今回から彼女も作戦に同行することにはなったものの、戦闘には参加できない。それなら連れてこなければいい、とジャンは思う。支援の任務もまだ満足に行えないのだし、余計なリスクが増えるだけだ。クレイグにも一度はそう意見したのだが、聞き入れられなかった。
 ジャンは武装隊員たちとともに、大通りの西側の小さな工場やオフィスビルが固まっている地区に目を向け、若者とフランツがやって来るのを待ち構えていた。
 先ほど、銃声が何発か続いてからはまた静寂が戻っていたが、いくらもしないうちに、通信が繋がる際の小さなノイズがそれを破った。そんなかすかな音が、静けさの中でやけに大きく聞こえた。

「研究所の敷地内に和泉かおるが――」
「ああ?」

 劉の早口の報告に、ジャンは彼の言葉を最後まで聞かずに遮り、研究所を振り返った。同時に、金属が何かとぶつかるような固い音がし、頭上の偵察用ロボットが空中でぐらついて大きく下降する。

「うわっ」繋がったままの通信から、劉が慌てた声を上げるのが聞こえた。

 ロボットはそのまま地面に衝突するかと思ったが、どうにか落下は免れ、バランスを取り戻すと研究所から距離を取った。

「趣味悪いですよ。一方的に覗き見するなんて」

 どうやって登ったのか、正面ゲートからいくらか右にそれた塀の上に、和泉かおるが座っていた。車と一緒に偵察用ロボットもいくらか後退させていたため、音も無く現れたかおるに、本部で監視していた劉も気がつくのが遅れたのだろう。辺りの暗さもあってか、ゲートの先に注意を向けていたゆかりも気づかなかったようだ。
 かおるは足を組み、にやにやとした笑みを浮かべてこちらを見下ろしている。彼が何かを投げ、SGAの偵察用ロボットに命中させたらしかった。

「かおる……!」
「かおる、止めるんだ」

 ゆかりが何か言いかけたが、かおるを諌める声がそれをさえぎった。阿久津賢士だ。彼の声は、今も周囲の空気を伝わり、ジャンの耳にも届いている。フランツはそばにいないので、おそらくかおるの白衣にもフランツのものと同じ、小型のスピーカーが取り付けられているのだろう。

「そのようなことは必要無い」
「ごめんなさーい、マスター」かおるはわざとらしく肩をすくめた。芝居じみた大げさな声色を作り、さも申し訳無さそうに言う。「うろちょろしてるのがうっとうしくて、つい」

 かおるを制したということは、やはり阿久津賢士はあくまで、SGAには進んで攻撃するつもりはないということか。

「なぜ、無関係な一般人を殺そうとするの?」ゆかりが声を上げた。「彼らは、あなたたちを攻撃したわけじゃないでしょう? 今すぐ、フランツに一般人を狙うのを止めさせて! 私たちはあなたに話があって来たのよ!」

 かおるを通して阿久津賢士に訴えるが、阿久津賢士は答えない。
 ジャンはかおるを気にしながら、ビルの立ち並ぶ商工業地区にちらりと視線を移した。ちょうど、ビルの合間から、通りをこちらへ向かって駆けてくる人影が見えてきた。クレイグが言っていた一般人の若者二人に間違いない。
 ジャンは思い通りに進まない状況に苛立ちが募り、舌を鳴らした。すぐに、彼らを追うフランツの姿も現れる。フランツに狙われている一般人の保護と和泉かおるの相手、両方を同時にこなせというのか。

「くそっ!」

 ジャンは毒づきながら、もう一度かおるを仰ぎ見た。彼は塀の上に腰かけたまま、傍観しているかのように、暢気な表情でこちらを眺めている。ぱっと見たところ武器を持っている様子ではないが、一つか二つは隠し持っている可能性が高い。
 彼は、フランツの応援のために出てきたのだろうか。若者たちが近づいてきたら、フランツと一緒に彼らを殺すつもりなのか。今のところ、かおるの態度は静観を決め込むつもりのようにも見えるが、突然行動を起こすことも充分に考えられるため、彼の存在を無視するわけには到底いかない。だが、今はフランツに追われている一般人の保護を最優先にしなければならない。

「三人、ここに残れ。こっちからは絶対手出しすんじゃねえぞ。向こうが攻撃してきたら、麻酔銃を使いながら退け。無理に当てようとはしなくていい」

 武装部隊にそう言うと、次にジャンはゆかりに目を向けた。

「ゆかり、頼む」

 託すように、力を込めてそれだけ言った。本当はゆかりをかおるのそばに置いていきたくはないが、仕方が無い。フランツを追わせるよりは、こちらの指揮を執ってもらった方が良い。
 そんなジャンたちのやり取りを、かおるは相変わらず楽しそうな、しかしなんとなく気だるそうな、生気の足りない笑みを浮かべて高みから見物している。
 横目でジャンに視線を向けたゆかりは、強い意志を秘めた眼差しを寄越し、しっかりとうなずいた。彼女の目と、背筋の伸びた小さな背中は、わかっているわ、とジャンに告げていた。
 それを見届けてから、ジャンは死に物狂いで走っている若者と、肉食獣のように彼らを追っているフランツの元へ向かった。武装部隊は命令通り、研究所の前に三人を残し、あとの四名がジャンについてくる。
 固く手を握り合った二人の若者はまっすぐ研究所を目指さず、左に大きくカーブを描くように大通りを移動し、研究所前の歩道を正面ゲートのある側とは反対方向へと走っていく。研究所の塀沿いに、北側へ逃げるつもりなのだろう。
 フランツは先回りをするように、大通りを挟んだ反対側の歩道を走っていた。若者との距離は見る間に縮まっていく。ジャンたちの方も、両者に迫りつつあった。
 やにわに、フランツが走る速度を落としたかと思うと、走りながら右腕を上げ、銃口を大通りの向かい側――二人の若者に向けた。少女と少年のどちらを狙っているのかはわからないが、文芸交流センターのときなどの一発必中の銃撃の様子を見るに、彼はおそらく外さないだろう。ジャンは足を止めて麻酔銃を構え、フランツに照準を合わせたが、それより早くフランツが引き金を引いていた。けたたましい銃声が空気を貫く。
 だが、少年も少女も死ななかった。フランツが引き金を引いたとき、少女が足をもつれさせて転んだのだ。それに引きずられるように、手を繋いでいた少年の方も体勢を崩して膝をついた。そのおかげで奇跡的にタイミングが合い、銃弾は彼らをそれた。
 フランツが二発目を撃つ前に、ジャンは若者との間に割り込むように、フランツの前に立ちはだかる。すかさず麻酔銃を撃ったが、当然のようにかわされた。薄いブルーの瞳がジャンを射抜く。フランツは標的を素早く若者からジャンに変え、発砲してきた。当然ジャンには防ぐことなどできず、銃弾がジャンの持つ麻酔銃に当たる。幸い手はかすらなかったが、銃は宙を飛んで離れたところに落ちた。さらに、少し地面を滑ってから止まる。
 フランツは、ジャンに続いて麻酔銃を撃ち放っていた武装隊員たちにも次々と銃口を向けた。同じように銃弾に弾かれ、彼らの手から麻酔銃が奪われる。一人は手に弾が当たったようで、短く悲鳴を上げた。
 フランツは武器を失ったSGAを置いて、うずくまったままの若者に近づいていく。
 ジャンは研究所前に残ったメンバーに応援を頼もうと振り返ったが、フランツを追っているうちに正面ゲートからだいぶ離れたところまで来ていた。遠い。今から彼らを呼んでも間に合わない。
 ジャンの視界には、すべてがスローモードで再生されている映像のように映っていた。少年が、少女をかばうように前に出る。フランツは銃を構えながら歩み寄ると、少年の眉間の辺りに狙いを定める。少年が先に撃たれる。そう思ったが、寸前で少女が飛び出した。守るように大きく手を広げて少年に抱きつきながら、フランツを見上げ、「止めて!」と悲痛な声で叫ぶ。
 そのときだった。突然、強いショックでも受けたかのように、フランツが硬直した。今度は映像が一時停止でもしたかのように、完全に固まっている。
 ジャンは自分の目がおかしくなったのかとさえ思ったが、体は考えるよりも先に動いていた。フランツに向かって猛然と走り出すと、その勢いを緩めないまま、渾身の力を込めてフランツに体当たりをした。ぶつかった衝撃がジャンの全身を襲う。
 フランツはすぐに反撃してくるだろうと思っていたが、予想に反し、彼は直前で反応することも、体勢を立て直そうとすることもなかった。拍子抜けするほど容易にふっ飛ばされたフランツの体はまともに地面に打ち当たり、地面を数度転がる。力の抜けきったようなその様は、電源の切れたアンドロイドのようだ。彼の持っていた拳銃は、彼から数メートル離れたところに落ちていた。敵から武器を遠ざけるべく、武装部隊の隊員が一人、拳銃を拾いに駆けつけるのが目の端に見えた。
 突然、どうしたというのだろうか。フランツの様子があまりにも不可解で、ジャンは戸惑った。フランツは打ち捨てられた人形のごとく、うつ伏せの状態で倒れたまま、まるで死んだようにぴくりとも動かない。どちらにせよ、今のジャンの攻撃で大きなダメージを負った可能性もある。
 何が起こったのかはわからないが、SGAにとってチャンスであることには違いなかった。ジャンは座り込んだままの男女に向きなおった。

「おい、立つんだ! さっさと逃げろ!」

 車を停めている方向を指差し、声を荒らげる。若者二人は恐怖のあまり放心したように、見開いた目で茫然とジャンを見上げていたが、やがてふらふらと立ち上がった。おぼつかない足取りながらも、ジャンが示した方向に進もうとする。急いでジャンたちに走り寄ってきた武装隊員に向かい、連れて行け、と声を張り上げようとした、そのときだった。

「邪魔だ」

 怒気をはらんだ低音が、真後ろ――後頭部の間近から聞こえ、ぞっと首筋が粟立った。慌てて体を反転させようとしたが、そのときにはすでに襟首を掴まれた後だった。そのまますさまじい力で後ろに引っ張られ、周囲の景色が後ろから前へ流れる。体が地面の上を飛んでいたかと思うと、あっという間に固いアスファルトに背中がぶつかり、一瞬呼吸が止まった。ぐっ、と呻きがもれる。反射的につぶった目を開くと、かすむ視界にフランツの背中が映っていた。彼に投げ飛ばされたのだと理解するのに、数秒の時間を要した。
 たった今まで、気絶でもしたのかと思うような状態だったのに、もう動けるようになったのか。ジャンは痛みを堪えながら上体を起こした。武装部隊の隊員たちがジャンの名前を呼んでいる。
 フランツはまた二人の若者に接近していた。右手には拳銃ではなく、ナイフが握られている。しかし、よく見ると彼の動きはいつもよりぎこちない。やはりダメージは負っているようだ。
 そばにいた二人の隊員が少年と少女の肩を押してフランツから遠ざけようとしたが、フランツはさっと間合いを詰めて一人目の隊員を蹴り飛ばすと、もう一人の隊員が突き出した拳を難なく避け、彼の服を掴んで地面に叩きつけた。一度若者に背を向けたフランツは、背後で麻酔銃を構えていた三人目の隊員に数歩で迫り、その手をナイフで切り裂いた。麻酔銃が隊員の手からこぼれ落ち、直前に撃たれたダートはまったく見当違いの方向に飛んでいく。反撃もままならず、片手でフランツに放り投げられた隊員の体は、地面に落ちた麻酔銃を拾おうとしていた別の隊員にぶつかる。わずか十秒にも満たない間にそれらの行動をやってのけたフランツは、再び若者に向きなおった。
 ジャンは立ち上がろうとしたが、体を動かした途端、全身を強い痛みが襲った。手足は麻痺でもしたように力が入らない。逃げろ! とジャンは声にならない叫びを上げたが、若者二人は怯えきった様子でじりじりと後ずさるだけで、踵を返して走り出そうとさえしない。フランツの冷たい瞳に捕らえられ、足がすくんでしまって動けないのだ。
 フランツを麻酔銃で狙おうにも、その麻酔銃はジャンの手から遠く離れた場所に転がったままだ。今、手元にある武器はショルダーホルスターに収められた、通常の弾丸が込められた拳銃だけだった。この銃を使うしかないか。そんな思いが脳裏を過ったが、それが許されないことくらいは、ジャンもよく理解していた。
 威嚇射撃だけなら大丈夫かもしれない。だが、今の焦点の定まらない視界では、射撃の腕に自信のあるジャンでも、狙った場所に正確に弾を撃てるかわからない。
 フランツがナイフを振り上げる。駄目だ、もう成す術が無い。悔しさで噛みしめた歯が、ギリリと鳴る。今度こそ、彼らはフランツに殺される。ジャンは目の前が暗くなるように感じた。


* * *


 暗い部屋の中、正面の壁の前には壁一面を覆い尽くすほどの数多のディスプレイが並び、それぞれが研究所の周囲の様子を映し出している。彼は、ゆったりとした座り心地の良い椅子に腰を下ろし、様々な大きさをしたディスプレイを眺めていた。
 部屋の電気は消えているが、ディスプレイが発する青みがかった光が彼の座る椅子の辺りまであふれ、まるで淡いスポットライトにでも照らされているかのようだ。暑苦しくまとわりつくような間接照明の明かりなどよりも、彼にとってはこの光の方がよほど心が落ち着く。
 ディスプレイに映る光景は目まぐるしく変わり、激しい動きを見せていた。部下として使っている者の一人であるフランツが、研究所の方へ逃げてきた若者二人を追い詰めている。ところが、銃を構えたところで突然、フランツが硬直したように動きを止めた。すかさず、SGAの大柄な男――ジャン・ベルティエが体当たりを仕掛けるのが監視カメラのレンズ越しに見えたが、フランツはそれを避けようともしなかった。フランツの服に装着したカメラと繋がっている二台のディスプレイの映像が大きく乱れた。
 思わず舌打ちが出た。あの男はまたミスを犯した。やはり調整が上手くいっていないのだ。

「役立たずが」

 低い、ぼそりとした呟きがもれる。椅子の肘掛けを包む指に力が入る。一時、苛立ちに心を支配されたが、荒れた海が凪いで潮がすっと引いていくように、感情の波はすぐに静まった。
 そんなことはすべて些細なことだ。ただの若者を何人か始末し損ねたところで、今さらたいした問題にはならない。もともと計画に含まれていたことでもないのだ。
 しかし、どんな策略を思いついたのかは知らないが、研究所まで出向いてきたSGAについてはそうはいかなかった。今まで自分が積み上げてきたすべてが、こんなところで無に帰すような自体になることだけは避けねばならない。
 椅子の傍らには少女が立っている。先ほどから何も言わない彼女が、自分を見守っているのが感じられた。彼女が黙ってじっとしていたなら、他の人間には、たとえそばにいても彼女の気配を感じることはできないだろうが、彼にだけはわかる。姿を見ずとも、彼には彼女の鼓動の音までもが聞こえてくるようだった。
 彼はふう、と静かに息を吐き出した。仕方が無い。どのみち、遅かれ早かれ実行しようと思っていたことだ。多少、最初の計画とは異なってしまったが、小さな予定の狂いはすでに何度も生じている。行き着くところが同じならばそれで構わない。それに、フランツとかおるだけに頼るのもそろそろ限界ということなのだろう。
 彼の背後、椅子から幾分離れた暗がりの中に、二つの人影が並んでいた。彼――阿久津賢士は前を向いたまま、人形のようにずっと身じろぎさえせず控えていた男と女に指示を出した。


* * *


「アマンダ、駄目だ!」

 レイとクレイグが大通りまで辿り着いたのと、イヤホンから劉の叫ぶ声が聞こえてきたのはほぼ同時だった。真っ先に視界に飛び込んできたのは、車で待機していたはずのアマンダが大通りを走っている姿だ。
 予想外の光景に、レイは動揺を禁じ得なかった。彼女がまっすぐ向かう先に視線を転じると、そこにはフランツと、ヤガタ電子のビルの前から逃げてきた二人の若者がいる。その周囲に倒れているのはSGAの人間だ。
 アマンダは正面ゲートとフランツたちのいる場所までの間の、ちょうど中程で立ち止まった。

「止めろー!」

 ただただ必死であることが窺える叫びを上げながら麻酔銃を構え、アマンダは通りの先で背を向けているフランツに向けてダートを撃ち放つ。しかし、まだ射撃訓練の経験すら少ないアマンダの撃ったダートは、狙ったはずのフランツから大きく外れて飛んでいった。
 今にも若者に振り下ろそうとするように、高く右腕を上げていたフランツはその手を下ろし、アマンダの方に体を向けた。次の瞬間、彼は右手に持っていたらしきナイフを彼女に投げつけた。街灯の光を反射して閃きながら、ナイフが闇を切り裂くように飛んでいく。その様子を目の当たりにしていたレイが、危ない! と声を上げる間もなく、金属音が耳を突き刺した。
 ナイフがアマンダの持つ麻酔銃に命中したのだ。アマンダがよろめく。頭上に投げ出された銃が空中で回転しながら、アマンダの数メートル後方に落下した。

「アマンダ!」

 レイは心臓が凍りつくような心地だった。クレイグとともにアマンダのもとへ駆けつけるべく、あまりの衝撃に止まってしまっていた足を再び動かす。
 フランツの投げたナイフの方は、硬い音を響かせて二度ほど弾んでから、アマンダの足元からそう離れていない位置に転がっていた。唯一の武器が手元に無くなって焦ったのか、周りを見回したアマンダは、そのナイフを拾った。
 それを見たフランツがさっと身をかがめたかと思うと、自らの左足のブーツに隠し持っていたもう一本のナイフを引き抜く。

「止めるんだ、アマンダ!」

 通信の向こうで、劉が珍しく冷静さを欠いた声で叫び続けている。
 フランツが動いたと思うと、一気にアマンダの前まで移動していた。おそらくほとんど反射的に、アマンダがナイフを突き出す。それを、フランツも自分の持つナイフで受ける。一歩下がりながら、アマンダが前方の空気を薙ぐように、またナイフを振るった。フランツは今度もそれを軽々と受けながら、前へ踏み出す。アマンダがさらに後ずさる。
 フランツはアマンダの決死の攻撃をものともせず、涼しい顔で容易く防いではいるが、彼から殺気は感じられない。SGAは本気で攻撃しないという阿久津賢士の意向は変わっていないようだ。しかし、このままやり合っていればどうなるかわからない。現に、アマンダが三度目の攻撃を繰り出したとき、フランツの目に力がこもった気がした。
 レイとクレイグは程よい距離まで近づけたところで、フランツにダートを浴びせ始めた。体の向きを変えながら、フランツはナイフでダートの一本を打ち落とし、飛び退って続けざまに飛んでくるダートから逃れた。
 先ほどまで倒れていた武装隊員の一人も加勢に加わる。フランツは少しずつアマンダから離れていった。ここで攻勢をかけたいところだったが、レイやクレイグの麻酔銃に装填されたダートはもう残り少ないため、慎重に撃つ必要がある。
 そこで、右側――正面ゲートのある方向からもダートが飛んできた。小さな矢はナイフを持ったフランツの手をかすめ、大きく退いたフランツはそのまま正面ゲートの方へ戻っていく。
 フランツと入れ替わるように、武装隊員を一人連れたゆかりが、アマンダの名を呼びながら駆けてきた。ダートを撃ったのはゆかりだった。正面ゲートのそばに姿を見せたかおるに動く様子が無いため、こちらの援護に回った方が良いと思ってやって来たらしい。彼女は、恐怖からか足元のふらついているアマンダの肩を支えた。

「アマンダ、大丈夫か!」レイもアマンダに走り寄る。
「う、うん」アマンダはもともと大きな目をさらに丸くして、呆けたようにレイを見上げながら、やけに力強くうなずいた。

「怪我は?」

 ゆかりがたずね、アマンダはまたうなずく。

「うん、大丈夫」

 クレイグも何か言いかけるように口を開いたが、その唇はなんの音も発さずに再びきつく引き結ばれた。代わりに周囲に目を配り、状況の確認を始める。今はアマンダの行動を叱責するよりも、この場への対処が先決だと判断したのだろう。
 先ほどレイたちに加勢してくれたのとは別の武装隊員が、負傷したらしく仰向けに倒れていたジャンを助け起こしたところだった。そして、残りの二人の隊員は、フランツがアマンダを相手にしていた間に若者を連れてレイたちの後ろを回り込み、武装部隊の車両に向かって移動していた。クレイグの指示で、レイたちも彼らを追って、再度正面ゲートの方へ向かう。
 自分たちの車を停めてある位置まで戻ってきたとき、先にヤガタ電子のビル前で一般人を保護していた武装部隊からの報告が入った。

「待機三班、道路封鎖地点までの移動、及び本部への応援要請、完了しました」
「よっしゃ!」

 レイは、数人の隊員に連れられて武装部隊の車に乗り込む若者の背中を見送りながら、無意識にそう声に出していた。胸中を満たしていく喜びと達成感を表すように、自然と右の拳を腰の辺りで握りしめている。
 アマンダの行動は危険極まりない無謀なものではあったが、幸い彼女は無事だったし、結果的に二人の若者を助けられた。怪我を負った仲間もいるが、命に関わるような重症ではない。巻き込まれた一般人も、全員救うことができた。上手くいったのは、作戦に参加する人員が増加したことも大きいだろう。
 文芸交流センターのときとは違う。これで、SGAは阿久津賢士に対抗できる。風向きが変わったのだ。そんな希望が、手を伸ばせばつかめそうな存在感を持って湧き上がってきた。
 レイは高揚しそうになる気持ちを一度抑えようと努めながら、気を引き締めなおして研究所を振り返った。まだ終わってはいないのだ。むしろ、本当の任務はこれからとも言えた。
 フランツは正面ゲートの前に戻り、最初に研究所から出てきたときと同じように、こちらを向いて立っている。そのときと異なるのは、彼の右手にナイフが握られていることだ。

「残念でしたねえ、フランツ」

 いつの間にかその横に立っていたかおるがからかうように声をかけたが、フランツはまっすぐ前を向いたまま、反応を示さなかった。だが、その顔つきは幾分険しいようにも、そしてこちらを見つめる瞳の鋭さは怒っているようにも見える。
 クレイグが研究所に近づいていき、フランツとかおるからは距離を置いて、ゲートの正面で立ち止まった。レイもそちらへ向かって歩を進めると、クレイグの横に並ぶ。それに続き、ゆかりとアマンダ、そして武装隊員の支えを振り払ったジャンも、同様にクレイグの周りに集まってきた。皆が、阿久津コーポレーションの研究所と向かい合って立つ。保護した若者と一緒に車へ戻った二人はいないが、その他の武装隊員たちも、捜査チームの後ろに集合する気配がした。レイのそばには偵察用ロボットも浮かんでいる。
 しばし、フランツとかおる、そしてSGAが真っ向から睨み合う形となった。

「どういうつもりだ」

 クレイグが静かに問いかけた。緊張感を増した彼の声は、今夜初めてフランツと顔を合わせたときよりもさらに低く、怒りが含まれているようにも聞こえる。

「先に手出しをしたのはそちらだろう」阿久津賢士の悠然とした声が答える。
「目の前で一般人が殺されそうになっていれば、見過ごすことはできない」

 そう返したあと、クレイグは探るように続けた。

「我々の前で一般人を攻撃するということは、進んで我々に敵対するということだ。SGAの方から攻撃せざるを得ない状況を作り、戦闘になるよう仕向けたのか?」
「違う」

 阿久津賢士は即座に否定した。

「私にも見過ごせないものはある、というだけのことだ」

 彼がそう言い終えたとき、なんの前触れもなく前方で無数の照明が灯り、夜空に白い光が広がった。正面ゲートのすぐ先にある建物の室内照明や、研究所の敷地内を照らす外灯が一斉に点いたのだ。正面ゲートの周りだけが、昼間のような明るさになる。暗闇に慣れた目を突き刺す強烈な光に、レイはまぶたを細めた。そうやって相手の目をくらませ、その隙に攻撃を仕掛けるのが狙いなのかと、レイは無理に光の中に目を凝らしたが、そうではなかった。
 フランツとかおるは依然として、正面ゲートの前から動かない。舞台に立つ役者のように目を引く立ち姿の二人の顔は、逆光で陰になっている。
 彼らの後ろにある、ついさっきまで電気の消えていた建物――その入り口の自動ドアより左側、離れた位置にあった大きな扉が、音を立てて開き始めた。そこにある扉のことなど、今までまったく気に留めていなかった。上下に開閉するタイプのそれは、荷物の搬入出を行う車両用の出入り口だろうか。
 扉の向こうもまばゆい光に溢れており、扉がゆっくりと開いていくごとに、中からこぼれ出る明かりが外の地面を照らす光と交じり合った。
 そして、建物の中には誰かがいた。扉から数歩空けて、両脚をまっすぐに伸ばして立った男が一人、そこからまた少し下がったところに女が一人立っている。
 扉が持ち上がるとともに、脚、上半身と、扉によって隠れていた二人の人間の姿が露になっていく。彼らの首の辺りまでが見えた時点ですでに、レイの心臓は頭に浮かんだ予感に早鐘を打ち始めていたが、二人の顔が完全に見えたとき、レイはとてつもない衝撃に見舞われて目をみはった。息が止まる。
 扉が完全に上がりきってから、男が一歩一歩踏みしめるような仰々しい身のこなしで進んでくる。男は古風な袴姿だった。彼の動きに合わせ、長髪がかすかに揺れる。その後ろに、付き従う影のようにひっそりと女がついていく。彼女の方はシスターが着る修道服のような丈の長いワンピースを着て、頭にはベールも被っていた。透き通るような白い肌と赤毛が、黒い衣服に映えている。
 レイの全身は寒気でもするように、小刻みに震え始めていた。見開いた目は、光の中から歩み出てくる二人の人物に釘付けになり、まばたきさえできない。
 見た瞬間、“彼ら”だと確信したのに、すぐに思考が勝手に働き、違うと思いなおした。非現実的で異様な二人の身なりは、レイの知っている彼らのイメージとは結びつかない。フランツやかおると同じく、仮装のようなその格好は滑稽ですらあるはずなのに、とても笑う気にはなれない。何より、冷ややかな目や感情の消えた表情は、本来の彼らの雰囲気とはあまりにも違いすぎていた。
 しかしそれでも、よく見知った馴染みのある顔立ちは見間違うはずがない。それは、間違いなく彼らの――レイの親友のものに他ならなかった。

「こ、虎太郎……シンディー……」

 かすれた呟きが、レイの唇からもれた。



>> To be continued.



雑記にてすごく長くなりそうと言っていた「第五話 - 03」ですが、やはりとてつもない長さになってしまいました…!
第三話辺りからの一回分の、1.5~2倍くらいの文字数です(笑)

読んでくださった方、本当にありがとうございます!!
戦闘シーンは動きが多いので、それだけでもどうしても描写が増えて長くなりがりですね。

今回はようやく虎太郎とシンディーが登場して、敵側メンバーもだいぶ出揃ってきました。
ここまでをどうしても03に入れたかったのです。
そして、初めての阿久津賢士視点のシーンもありましたが、今後、敵側の視点も少しずつ増えていくと思います。

今回は大変長らくお待たせしてしまって申し訳ありませんでした。
次回の04はこんなに長くはならないと思います(笑)

前回の記事等に拍手をくださった方もありがとうございました!

読者数の参考にしたいので、小説を読んでくださった方は各記事の拍手ボタンを押していただけますと助かります。
もちろん強制ではありませんので、気が向いたらで構いません!


未来への追憶 第五話 - 02

* * *


 狭い車内に閉じ込められてから、ずいぶん長い時間が経った。辺りは暗く、静まり返っている。エンジンをかけたまま歩道に寄せて駐車している車も、なんの音も発さずに沈黙している。聞こえてくるのは、誰かが体を動かしたときのごそごそという衣擦れの音と、片耳に装着したワイヤレスイヤホンが時折伝えてくる、通信機越しの声だけだ。
 阿久津健二はスーツの上着に包まれた左腕を軽く折り曲げると、自分の手首を見た。そこには、2015年で生活していたときから使っている腕時計が、この時代――2148年の携帯通信機とともに重ねづけされている。時刻は通信機でも確認できるため必要は無いのだが、この時計は自分が130年以上前の時代を生きていたことを証明する数少ない持ち物なので、お守り代わりとしてつけていたかったのだ。
 車内灯は点いていないので、歩道に沿って並ぶ街灯からの光と、前部座席や後部座席の周りに設置されたディスプレイの薄い明かりを頼りに、文字盤を確認する。針は一時十分を示していた。午後ではなく、午前一時過ぎ。深夜だ。
 もう数時間、こうしてじっと座っている。同じ姿勢でいるため体はひどく強張っているだろうし、精神的にも緊張が解けない状態が続いていたが、不思議と疲労感は感じなかった。
 健二の両脇には、頭や体を防護するためのヘルメットと特殊な衣服を身に着けた男たちが座っている。彼らはライフルのような武器を手にしていたが、健二が映画などで見慣れている通常のライフルとはずいぶん形状が異なっている。未来にやって来てからの一ヶ月半ほどの経験から、彼らの手にあるそれはおそらく麻酔銃ではないか、という推測は健二にもできるようになっていた。
 前の座席には健二の隣に座っている男たちと同じ、武装部隊の隊員が一人と、犯罪捜査部の職員が一人いる。全員、健二が初めて会った人物ばかりだった。誰も無駄口は叩かないし、健二に話しかけてもこない。
 車窓を見ると、明かりの消えたビルや工場が、こちらを見下ろすようにひっそりと建っていた。車を停めている場所から五十メートルほど先には、広い通りも見える。さらにその先、通りを隔てた夜の闇の向こうに目を凝らすと、守られるように塀に囲まれた建物の群れが、ぼんやりと浮かび上がっている。塀の内側には、大きな四角い建物がいくつも建っているようだ。窓が少なく、何の装飾も施されていない倉庫のような建築物が何棟も並んでいる様は殺風景で、冷たく近寄りがたい印象を受ける。その中で、塔のごとく高い建物が一棟だけ、周囲を監視するようにそびえ立っていた。

「健二くん、大丈夫?」

 不意に、左耳のイヤホンから藤原ゆかりの柔らかい声がした。突然呼びかけられて一瞬うろたえた健二は、シートの背もたれに軽く預けていた体を起こした。意味も無くイヤホンに手を添えながら、「はい、大丈夫です」と返す。周りが静かなせいで、自然と抑えた声になってしまった。
 マイクはイヤホン部分と一体になっているようだったが、あまりにも小型であるため、相手にちゃんと声が届いているのか不安になる。2015年にもこれと似たようなイヤホンマイクなどはあったが、健二は使ったことが無いので未だに慣れず、話しづらかった。

「緊張してるか?」今度はレイの声がする。その問いは健二に向けられたものだ。
「すごく緊張してるよ」
「まあ、そりゃそうだよな。作戦会議のときも言ったけど、無理だと判断したらすぐに撤退するし、あんま心配すんなよ。何かあったら、そこにいる武装部隊の奴らが逃がしてくれっから」
「ああ。みんなも気をつけて」健二は祈りを込めて言う。
「おう、サンキュ」

 レイの軽い返事を最後に、会話は途切れた。
 SGAは今まさに、重大で危険な作戦を展開しようとしているところだった。
 阿久津賢士の事件を担当する捜査チームのメンバーは今、健二の乗っている車から見える、塀に囲まれた建物の一帯――阿久津コーポレーションの研究所に向かっている。そして、健二は阿久津賢士の前に姿をさらし、自分が何者であるのかを自ら告げるべく、待機しているのだった。


 フランツによってアンチ・テクニシズムの人間が数十人も殺害されるという、残虐な事件が起こったあとも、拠点での生活は穏やかだった。現実にあんな出来事が起こったなんて、ましてや自分がそれを目撃したなど、到底信じられない。未来へのタイムスリップという非現実的な現象さえ、今では実際に起きたことだと受け止めている健二にも、あの事件だけは夢だったのではないかと思えるほどだ。
 レイから、ニュースではパーティーがアンチ・テクニシズムの集まりであったことは伏せ、犯行はテロ組織――SGAが作り上げた架空のものらしい――の一員によるものだと報道している、という話は聞いていた。だが、健二は相変わらずテレビやインターネットを見ることは許可されておらず、彼自身が直接ニュースを見たわけではないので、より実感が湧かないのかもしれない。
 拠点の廊下の窓からは、緑にあふれた中庭が見える。何日か前にひどく天気の荒れた夜があり、その際庭に出していたプランターを屋内に入れ忘れてしまっていたせいで、ゆかりの育てている花は大半が暴風で吹き飛ばされてしまった。それでも、無事だったいくつかの植物はまだ鮮やかな花を咲かせており、ゆったりとした時間の中でそれを眺めていると、この世界は平和そのもののように感じられた。
 その一方で、夜にベッドに横になって目を閉じると、あのとき目にした光景がふっとまぶたの裏に浮かび、なかなか寝つけないこともあった。惨たらしい方法で殺された男の死体や人々の悲鳴、銃声、ホールの床や壁に付着していた血。そういったものが思い出されたり、自分もあと少しで死んでいたかもしれない恐怖がよみがえってきて、時には悪夢を見て目覚めた。
 そして、何より忘れられないのは阿久津賢士の声だった。老いてはいても威厳の感じられる彼の声とその言葉だけは、夢の中の幻のようにぼやけることもなく、くっきりと健二の記憶に残っている。
 文芸交流センターで阿久津賢士の声を聞いて以来、健二は拠点で過ごす間、ほとんど彼のことを考えていた。2015年のことばかりを思い出して気持ちが沈むことは無くなった。
 拠点には常にチームのメンバーが誰か一人は必ずいたが、アマンダがSGAの一員となってからは、一人で時間を潰すことが増えた。これまで暇なときにそうしていたように、読書をしたり庭に出て外の空気を吸ったり、ストレッチをしてみたりしつつ、阿久津賢士と阿久津コーポレーションについて改めて調べた。資料は充実していなかったが、SGAから借りているPCに入っているデータや紙の冊子など、健二が確認できるものはすべて、隅々まで読み尽くした。
 だが、それらの資料を読んだところで、彼が何を考えて、あのような非道で残酷な犯罪を重ねているのかまったくわからない。
 健二、健二の両親、大好きだった祖母。そして、写真を見ただけでも、慈愛に満ちた温かい人柄が伝わってくるようだった健二の娘、阿久津留美。阿久津賢士の存在、悪意だけが、その誰とも繋がらない。なぜ、阿久津賢士は誤った道に進んでしまったのだろう。いったい何が、いつ、彼をそうさせたのか? 健二はまだ、自分のひ孫についてほとんど何も知らないままなのだと痛感する。
 レイやクレイグたちに、阿久津賢士の一個人としての人生や性格など、彼の人間的な部分についてもっと詳しく触れている資料や情報が無いか、聞いてみようと思った。
 阿久津賢士は2148年の日本を代表する大企業の、トップに立つ人間だ。それほどの地位を持つ有名人なのだから、彼の生い立ちの紹介やインタビューの記録など、きっと何かあるはずだ。そこから、彼の内面を探るヒントを得られないかと思ったのだ。
 しかし、捜査チームのメンバーは皆、事件の処理や捜査のために忙しく、なかなか話をする機会は持てなかった。健二は、一人で悶々と頭を悩ませる時間が続いた。何をどのように話せば、彼に言葉が届くのだろうか。
 その答えが出ないうちに、阿久津賢士と接触するチャンスがやってきた。
 健二は、午前中に彼を呼びに来たレイとアマンダとともに、SGAの本部に赴いた。この日に今後のための作戦会議が開かれることも、それに健二が参加する必要があることも、事前に聞かされていた。

「朗報だぜ」

 拠点の廊下を歩いているとき、レイは健二を振り返ってそう言った。このところ緊張した表情を見せることの多かった気がするレイだが、この日は見るからに生き生きとした明るい雰囲気をまとっているのが、前を歩く広い背中からも伝わってきた。
 健二がSGAの本部を訪れるのは、これで四度目だ。四度目ともなれば、車に乗って拠点から伸びる専用の地下トンネルを通るのにも、広大で活気に満ちた本部のセキュリティゲートで、身分確認のために個人認証カードを提示する行為にも、だんだん慣れてきた気がする。
 今回の会議が開かれたのは、これまで健二が入ったことのある会議室とは違う、もっと広々とした部屋だった。スクリーンやディスプレイも設置されているようだが、そこには何も映し出されていない。代わりに、部屋の中央に備えつけられた会議用のテーブルが青白い光を発していた。縦長の大きなテーブルの上には、ホログラムの画像や、文字がびっしりと書かれたデータ、3Dの地図のようなものなど、様々な資料が浮かび上がっている。
 暗い部屋に足を踏み入れた途端、健二は部屋の様子だけでなく、そこに漂う空気がいつもと違うことに気がついた。今までのようにただ張り詰めているというのではなく、どことなく陽のエネルギーが満ちているように感じる。
 会議に出席する顔ぶれは前回と同じく、レイやクレイグを初めとする犯罪捜査部の五人と調査部の劉、そして健二だ。テーブルの周りには椅子もあったが、広範囲に渡って投影されている資料を見やすいよう、全員、テーブルを囲むように立ったままだった。
 健二の側には、左腕だけ上着の袖に通さずに、肩に上着の片側をかけている格好の劉がいた。

「怪我、大丈夫ですか?」
「ああ、もう全然平気だから。もともとたいしたことなかったしな」

 数日ぶりに顔を合わせた劉に声をかけると、彼は楽天的な笑顔を見せた。その元気そうな様子に、健二はほっとする。

「上層部から、一連の事件が阿久津賢士の犯行だということを公に報道する必要性が認められた」

 会議が始まると、机を挟んで健二の正面に立っているクレイグが言った。

「だが、今すぐに公表しても、メリットはほとんど無い。被害をできるだけ抑えて阿久津賢士を逮捕するために、事件の公表を有効に活用できる時期や手順を考えなくてはいけない。今までのように受身的に事件が起こるのを待つのではなく、先手を打つような作戦を進めていくことが必要だ。その第一段階として、こちらから阿久津コーポレーションの研究所まで行く」

 健二の目が、驚きに見開かれる。

「大丈夫なんですか?」

 思わずそう口に出していた。幸い生意気な調子にはならず、純粋な心配のあまり聞いてしまった、ということが表れた声音になった。
 阿久津コーポレーションの施設は、いわば敵の本拠地のようなものだ。人間離れした身体能力を持つ阿久津賢士の“部下”も皆、そこにいるのだろうし、銃などの武器や戦闘用ロボットも豊富にそろえているかもしれない。相手はそれらを自在に扱い、万全の準備を整えてこちらを迎えられるということになる。前にクレイグ自身、研究所へ攻め入るのは難しいと言っていた。これまでSGAが彼らに対抗できなかったことから考えても、あまりにも危険ではないだろうか。

「確かに大きなリスクを伴う作戦ではあるが、事態が良くない方向へ進展している以上、何もせずにただ期を待ち続けているわけにはいかない。それに――」

 そこでクレイグの眉間に力が入り、わずかに表情が曇るのがわかった。

「テクノロジー開発を行っている企業などへのアンチ・テクニシズムの反発が、この間の事件以降、より激しくなっている。自分たちの団体のパーティーが襲われたことに刺激されたんだろう」
「いくら、被害に遭ったのがアンチ・テクニシズムのパーティーだったことを伏せて報道しても、実際に団体に所属している人たちにはわかってしまいますものね」

 悩ましさの滲んだ声で、ゆかりが言った。

「ああ。まさか、阿久津賢士の仕業であると気づいているわけではないだろうが……調査部や情報部が調べたところによれば、アンチ・テクニシズムの活動に反対する人間が企てたものではないか、とは思っているようだな」

 そう言いながら、クレイグがちらりと劉に目を向ける。劉が首を縦に振るのが、健二の視界の端に見えた。

「アンチ・テクニシズムの活動がますます過激化し、文芸交流センターのときと同じような事件が再び起こることを防ぐためにも、早めに動き始めたい」
「そうですね」

 クレイグの言葉に深く首肯しながら、ゆかりが神妙な声で言った。
 それには、健二も心の底から同感だった。過激な団体に所属していたとはいえ、罪を犯したわけでもない一般人が何十人も犠牲になるような事件など、もう二度と起こってほしくない。

「それと、今回より武装部隊を初め、作戦に参加する人員を増やしてもらえることとなった。チームメンバーではない特別犯罪捜査課などの職員にも、必要があれば、その都度臨時で作戦に加わってもらう」
「これでやっと、俺たちも攻めに出られるってことだ。今は健二っつー切り札もあるんだしよ」

 右手の親指を立て、レイが健二に笑いかけた。彼が「朗報だ」と喜んでいたのはこれが理由だったらしい。
 クレイグはレイの言葉に「ああ」と同意し、続ける。

「それに、施設の中まで入るわけではない。当然だろうが、阿久津コーポレーションの研究所は、非常に厳重な警備体制を取っているのが外から見てもわかる。以前も言ったように、そもそも簡単に入ることは不可能だ。我々が近くまでいけば、向こうはすぐに気づくだろう。阿久津賢士が、近づいてきた我々に対して何かしらの反応を示したところで、我々の方も次の行動に移る」

 そこで一息置いてから、クレイグは具体的な作戦についての説明を始めた。
 テーブルの上に小さな町を描き出している立体の地図は、都内の外れにある、小さなオフィスビルや工場が建つ地区のもののようだ。そして、その中心に、他の建物と少し離れて位置しているのが、阿久津コーポレーションの研究所だった。前にクレイグから聞いた、本部とは別に阿久津賢士が所有しているもので、一部の部下を除き、社員ですら入れないという例の施設だ。
 クレイグは研究所の場所や造りについて述べたあと、作戦当日の流れと、メンバーの配置や動きなどを、順に説明していった。
 健二は神経を集中させ、クレイグの話の一言一句に聞き入った。彼の言葉に沿って、自分が阿久津コーポレーションの研究所へ行き、SGAの指示通りに動いている様子を思い浮かべる。まるでこの瞬間、会議室の床ではなく、ホログラムによって形作られている通りに立ち、研究所を目の前にしているかのような臨場感を持って想像できた。緊張と一種の高揚感で、手のひらに汗がにじむ。

「作戦は六月二十五日に実行する。それまでは何度か会議を開き、必要があればそのときの状況に応じた細かい調整や、主に健二の動きを中心とした演習を行う」

 そう締めくくってから、クレイグは全員の顔をゆっくりと見回した。

「今回の作戦の一番の目的は、健二の存在を阿久津賢士に知らせることだ。阿久津賢士を逮捕したり、洗脳を施された彼の仲間を捕らえることではない」
「まずは、阿久津賢士の反応を見ることですね」

 ゆかりが言い、クレイグは彼女の方を見ながらうなずいた。

「そうだ。彼の出方を見ながら、こちらがより動きやすくなるように健二の存在を上手く使い、次の作戦を考える。そして、タイミングを見て事件を公表し、阿久津賢士の逮捕へと繋げる」

 クレイグの言う“健二の存在を上手く使う”とは、主に健二自身が以前に言った、健二を人質のようにして使い、相手との交渉に利用するというものだ。

「阿久津賢士に連れ去られた者のうち、公の場や我々の前に姿を現したのは和泉かおると、身元のわからない“フランツ”という名前の男だけだ。誰か一人を捕らえたとしても、別の被害者が阿久津賢士の手の届く範囲にいる状態では、それこそ人質として使われたり、危害を加えられたりするかもしれない」
「そうっすね」

 レイが相づちを打ったが、その声は以前のミーティングのときのように、暗く沈んだものではなかった。
 強制的に悪に加担させられている被害者全員を無傷で解放することも、阿久津賢士の事件の解決を目指す彼らの任務の中で、重要なポイントだ。特に、家族や友達など、近しい人間が捕らわれているレイやゆかり、アマンダにとっては尚更のことだろう。

「阿久津賢士に拉致された被害者が、今わかっている以外にもいるのかどうかは定かではないが、少なくとも現在、彼の元にいるのが確かな和泉かおる、日向虎太郎、シンディー・オルコット、そしてフランツが同時に集まる状況を作り出した上で、彼らの動きを一度に封じて保護し、阿久津賢士を逮捕するのが望ましい」

 ジャン以外の全員がうなずいて、クレイグの発言に無言で同意を示した。腕を組んで端に立っているジャンも、いつものごとく仏頂面ではあったが、別段険しい顔つきをしているわけでもなかったので、特に反論や気に入らないことがあるわけではなさそうだ。

「他に被害者がいないかどうかも、別の方面とかから、もっと調べてみた方がいいかもしれないっすね」
「東京周辺だけじゃなく、全国の行方不明者リストをもう一度調べなおすよ」

 レイの意見にはクレイグではなく、劉が答えた。
 そこで会議は一段落つき、クレイグがテーブルに設置されているらしいスイッチを操作して、室内の照明を点けた。頭上や壁に点ったオレンジがかった光が、室内にぼうっと広がっていく。テーブルの上のホログラムの資料などはそのままだったが、電気を点けただけでずいぶんと部屋の印象が変わった。室内が明るくなるとともに、どこか晴れやかな空気が会議室を覆っていくようだ。

「健二の存在を知れば、以前、健二自身が言ったように、おそらく阿久津賢士はこちらへの接触をはかってくるだろう。その場合、直接コンタクトを取ろうとしてくるか、我々を誘い出すためにわざと事件を起こす可能性が高い」

 会議の最後に、クレイグは再び口を開いた。

「もしくは、チャイムを押して訪ねてくるかっすね」

 ニヤリと笑みを浮かべながら、レイが軽口を叩く。ようやく自分たちの方から積極的に動けるときが来たことで希望が見え、朗らかな気分になっているのだろう。
 アマンダと劉はレイの冗談に笑ったが、クレイグやゆかりは緊張感のある面持ちのままだった。いつもならレイをぎろりと睨みつけるくらいのことはしそうなジャンも、テーブルの上の3Dマップから目を離さない。
 健二もやはり、不安な気持ちの方が強かった。

「ほんとに、拠点に阿久津賢士の仲間が来たりすることはないんでしょうか?」

 健二はクレイグにたずねた。あの平穏な拠点に、突如フランツやかおるが現れることを考えると、それだけで怖気立つようだった。

「無いとは言い切れない。拠点の場所が阿久津賢士に知られている可能性は限りなく低いが、念のため、本部と拠点の警戒は強くしておく必要があるだろう」

 クレイグの答えは健二を安心させるに足るものではなかったが、彼の言う通り監視や警護を強め、もしものときに備えて注意しておくしか方法は無いだろう。
 不安も、これから自分たちが挑むことへの恐怖心も消えることはない。それはおそらく、健二だけでなく皆が同じだろう。それでも、この日の会議には全体的に、活力がみなぎっているような、明るい勢いがあった。

「この作戦が上手くいけば、事件の解決にぐっと近づけるかもしれねえな」

 腰に手を当てていたレイが、片方の拳を強く握った。深い緑の瞳が輝いている。

「がんばろうね!」

 今回から他のチームメンバーとともに作戦へ参加するというアマンダが、明るい声を上げた。
 そんなレイやアマンダなど、周りの意気軒昂な雰囲気に引っ張られ、健二もわずかにではあるが前向きな気持ちと期待感を持って、会議室を後にすることができた。


 それが、健二の一週間前の記憶だ。そのとき、簡略化されて縮小された姿を、会議室のテーブルの上に浮かび上がらせていた阿久津コーポレーションの研究所。その実物が今、健二の目と鼻の先にある。
 車の後部座席の窓ガラスには、硬く心配げな表情をした健二の顔が、うっすらと映っていた。フロントガラス以外の窓は拠点の窓と同じく、車内から外の景色を見ることはできるが、反対に外からは中が見えない仕様となっている。
 周囲の通りを走る車は一台も無く、歩道を歩く人の影も無い。あらかじめ、SGAが監視システム――町の状況を常にSGAに知らせるためのカメラのことで、阿久津コーポレーションの研究所付近にも設置されているようだ――のメンテナンスを装い、この区間への夜間の立ち入りを禁止したのだ。研究所へ続く各通りでは、今も武装部隊の隊員と警備ロボットたちが、通行止めの表示を掲げて道をふさいでいる。
 クレイグが、健二の前の席に座っている武装隊員と通信で話しているのが聞こえていた。
 まず、クレイグたち捜査チームのメンバーが車で研究所に近づき、阿久津賢士に呼びかけて対話を試みる。健二が出て行って話をできそうな状況になれば、クレイグが連絡してくることになっている。連絡が来れば、健二も護衛のSGA職員や武装隊員と一緒に、車に乗ったまま研究所のすぐ前まで移動し、チームのメンバーと合流する。
 研究所の周りには健二の乗っている車以外にも、武装部隊の別チームの車が何台か、研究所を囲むように散らばっており、阿久津賢士と対するときに備えていた。

「健二、聞こえるか?」

 健二が車外の様子をうかがっていると、クレイグの声が今度は健二に呼びかけてきた。

「はい、聞こえます」
「これより、我々は正面入り口に接近する。君は私たちが連絡するまで、何があっても絶対にそこを動くな」
「はい」健二の緊張が急速に高まった。
「君が出てこられると判断した場合は、通信で指示を出す。君は、一緒にいるSGAの職員たちとともに、作戦に従え」

 いよいよ、このときがやって来た。健二のアイデア、提案をもとにした作戦を実行に移すときだ。阿久津賢士に顔を見せ、彼と――健二のひ孫と話すときだ。その作戦が成功すれば、もう隠れることはできない。

「わかりました」

 健二は気を引き締め、今一度決意を固めるように背筋を伸ばしながら、力強く答えた。


* * *


 夜空を背景にして、黒々とした影のように立ちはだかるその大きな建物が迫ってくるにつれ、レイは心臓の辺りが締まるような心地になり、麻酔銃を握る手に力がこもった。鼓動が速まり、全身の神経が研ぎ澄まされていくような感覚に襲われる。いつの間にか呼吸が浅くなっていたことに気がつく。鼻から大きく息を吸って呼吸を整えながら、レイは目の前に高くそびえる塀を睨みつけた。
 リアシートが対面となっている六人乗りの車には、レイの他にクレイグとジャン、ゆかり、アマンダの四人が乗っている。そのすぐ背後には、武装部隊の車がぴったりとついてきていた。どちらも防弾装甲仕様の車両だ。
 車は大通りを右折し、今や研究所の正面ゲートまで一直線に向かう私道に乗り入れている。一足先に研究所に接近していたSGAの偵察用ロボットが、空に浮かんでいた。車からは見ることのできない研究所内の動きを、チームメンバーに伝えるためだ。ロボットは本部からの遠隔操作が行われている。
 何者も通すまいと言わんばかりの高さと厚みを持った塀が、研究所の四方をぐるりと取り囲んでいる。偵察用ロボットなら上空を移動して中に入ることもできるのだが、さすがに今日は塀を越えることまではしない。あの高さなら、建物の死角となった範囲を除けば、敷地内もかなり先の方まで見渡せる。
 この塀のあちら側のどこかに、阿久津賢士がいるのだ。ついに、こんなにも彼に近づくときがやってきた。
 そして、あそこには――今、レイの眼前に見えている阿久津コーポレーションの研究所には――レイの親友だった虎太郎とシンディーもいるはずだった。そのことを思うと、今すぐあの塀の向こうに乗り込んで二人のもとへ駆けつけたい、という衝動が奔流のように込み上げてきて、突き動かされるままに車から飛び出しそうになる。
 一度感情があふれ出すと居ても立ってもいられなくなりそうなため、普段は意識的に抑えているが、レイの胸の中は二人の親友の無事を確認し、一刻も早く助け出したいという切実な願いでいっぱいだった。
 だが、親友も他の被害者たちも、今すぐに救うことはできない。今日、ここに来た目的はそれではない。まずは事前に立てた作戦通り、健二の存在を知らせなければ意味が無い。今、自分が無計画に飛び込んだところで、虎太郎もシンディーも助けられないことなど、最初からわかりきっていることだ。そう自分に言い聞かせ、奥歯を噛みしめて堪えた。
 レイの正面の席にはゆかりが座っている。レイは彼女に気づかれないよう、ちらりと目だけを動かしてそちらに視線をやった。彼女の小振りな顔は、半分ほどが手元の携帯機器が発する青みがかった光で照らされているだけなので、表情を読み取るのは難しかった。柳眉は苦しげにひそめられ、強張った目元や引き結ばれた口元にも悲しみが表れているようではあったが、冷静さを失っていたり、特別に取り乱したりしている風ではない。
 阿久津コーポレーションの研究所を前にして心を乱されるのは、レイだけではない。ゆかりも、そしてレイの後ろに座っているため様子はわからないが、アマンダも同じなのだ。
 自分がしっかりしなくてはいけない。そう思うと、体の奥からエネルギーが湧いてくるように感じた。
 つい先ほど、通信機で言葉を交わした健二の声を思い出す。暗くはなく、意を決したような力強さはあったものの、不安を感じていることもはっきりと伝わってくる声だった。
 レイ自身も、SGAの職員ではなく、ましてやこの時代の人間ですらない健二が、果たしてSGAとともに重大な作戦を成し遂げられるのかということについて、懸念が無いと言えば嘘になる。能力的な部分ではなく、彼の精神的な面の方を心配していた。
 だが、すべてが無事にSGAの計画と思惑通りに進んだときは、きっと立ち止まっていた事件解決への道を大きく一歩前進することとなり、そこからさらに道は開けていくだろう。そのことを思えば、暗闇に明るい光が差すようで、レイの気持ちは上向きになった。
 きっと大丈夫だ。なんとかなる。上手くいく。レイは繰り返し心の中で唱えた。
 現在、車は手動運転モードで走行しており、ハンドルを握っているのはジャンだ。ゆっくりと進んでいた車は、事前に決めていた通り、固く閉ざされているゲートの数メートル手前で停車した。後続する武装部隊の車も停まる。

「ここで、阿久津賢士が何らかのアクションを起こすまで待機する」

 前部座席に座るクレイグが、軽く後ろを振り向きながら言った。「はい」というレイとゆかりの返答が重なる。
 それからしばらくの間、何も起こらなかった。辺りには変わらず静けさが降りていて、頭上を旋回する偵察ロボットを除けば、動くものは何も無い。
 通信機からの報告や周囲のかすかな物音を聞き漏らさないよう耳を澄ませながら、全員が無言で待ち続けた。
 ジャンでさえが一言も発さず、口を閉ざし続けていた。怒っているような厳しい顔で研究所を見つめている彼に目を向けたとき、レイはふと、近頃はジャンが以前のように作戦に異を唱えたり、むやみにクレイグに噛みついたりすることがほとんど無くなったことに思い至った。健二を信頼して作戦に参加させることに関しても何も言わない。だが、それはジャン自身がチームのやり方に納得して意見を変えた結果というより、諦めからのものであるようにも思え、良い変化だとすんなり喜ぶことができない。
 思わずジャンのことに意識がそれてしまったレイは、渦巻き始めた思考を振り払うようにジャンから視線をそらし、研究所と周囲の動きに注意を戻した。ジャンのことは、また一度それとなくゆかりに聞いてみればいいだろう。一つ屋根の下で暮らしているチームメンバーにさえ心を開いていない彼も、ゆかりにだけは自分の胸中を打ち明けているかもしれない。
 緊迫した静寂が流れる。その状態で数十分が過ぎた頃、レイの中に、このまま沈黙だけが延々と続く可能性もあるのではないか? という考えが浮かんできた。緊張からずっと眉を寄せていたため、眉間が凝っている。レイは顎に手をやりつつ、再び大きく息を吐き出した。張り詰めていた神経の糸が緩みそうになる。
 ジャンが溜息をつき、わずかに腰を上げて座席に座りなおした。その顔つきは先ほどよりも険しさを増している。

「動きがありませんね」

 ゆかりが言った。ジャンが苛立ちを口にする前に先手を打って、彼のじれったさを和らげ、場の空気を無駄に悪くするのを防ぐ目的もあったのだろうか。
 言葉をかけられたクレイグは、研究所から目を離さずに「ああ」と答えただけだった。
 ゲートの両脇には二台の監視カメラが取り付けられており、侵入を企てる者を余すことなく映し出そうと、生き物のようなレンズがこちらを見下ろしているのがうかがえる。おそらく、阿久津賢士はSGAが正面ゲートのすぐ前まで来ていることには気づいているはずだ。いや、それ以前に幾筋か離れた通りで待機していたときからすでに、彼は自分の本拠地とも言うべき研究所ににじり寄ってくる敵の存在を知っていただろう。
 もしかすると、阿久津賢士はこちらの予想に反し、ここまで近づいてきた自分たちに対して無視を貫き通すのかもしれない。頭のどこかでは、そんなことはない、という予感を確かに感じていながらも、そのような憶測がレイの脳裏をよぎった。
 もちろん、数時間粘っても阿久津賢士が何の反応も示さなかった場合は、今日のところは一旦引き上げることとなっている。進展も得られないが、同時に危険な状態に陥ることも免れる。悔しがればいいのか、ほっとすればいいのか判断しがたい。
 だが、レイのそんな悩みは一瞬で吹き飛んだ。

「敷地内の一番手前の建物からフランツが出てきました」

 偵察用ロボットのカメラ映像を受信し、本部で監視の任務に就いている劉の硬い声が、通信機を通して告げてきた。その場にいる全員が息を呑み、身を固くしたのがわかった。
 クレイグが口を開いたのが見えたが、劉の報告に誰も何も問い返す間もなく、正面の重厚な金属のゲートが、ゆっくりと横にスライドして開き始めた。



>> To be continued.



読んでくださってありがとうございます!!
最近は一回の文字数が結構多くなっていますが、読んでいただけてうれしいですm(*_ _)m

第四話まで、SGAは阿久津賢士側に対してほとんど何もできない状況で、特に第四話は成す術も無く悲惨な事件も起こってしまいましたが、今回はようやくSGAが攻めに出る始まりの部分でした。
ここから今までとはだいぶ雰囲気の違う展開となり、第六話まで続いていく感じになると思います!

拍手等下さる方も、いつも本当にありがとうございます!^^*

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